対称と非対称 (5)
今日(6日)の『朝日新聞』紙上で、哲学者の梅原猛氏と分子生物学者、福岡伸一氏の対談を興味深く呼んだ。梅原氏は、「人間は自然の一員として生きている」という世界観が日本の“基層文化”である縄文文化からアイヌ社会へと引き継がれ、それがさらに鎌倉仏教の天台本覚論の思想にも流れていると言っている。天台本覚論とは「草木国土悉皆成仏」の思想で、「万物が仏性を持っていて、仏になれる」という考え方だ、と梅原氏は言う。生長の家では、この言葉を「仏になれる」ではなく「成れる仏である」と解釈するが、いずれにしてもこの思想は人間中心主義とは異質な考え方で、インド仏教にはない日本仏教独自の思想だという。
しかし梅原氏は、こういう一種の“自然中心主義”の考えは、日本独自のものではなく、古代エジプトなどの「かつて人類に共通していた文化、思想的伝統」であり、それが日本に残ったものとしてとらえている。私は、この考え方に賛成である。自然と人間との一体感を大切にする文化は、昔から日本以外にも存在していたことは明らかだからだ。それは、古くは後期旧石器時代にヨーロッパの洞窟で描かれた動物や人の絵に始まり、ヒンズー教や仏教における輪廻の思想の中にある。また、ケルト文化やドイツ神秘主義のマイスター・エックハルト、カトリック大司教だったニコラウス・クザーヌス、17世紀の啓蒙主義哲学者、バルフ・スピノザなどの思想の中にも、「神は自然の中に内在する」という考え方がある。さらにまた、南北アメリカやオーストラリアの原住民らも同様の思想をもっていたし、アメリカ人ではソローやエマーソンの哲学にも自然を愛する考えは顕著に表れている。
私は、このような事実から、自然中心主義の起源を地球上の一定の「地域」とか「民族」に対応させる考え方には、説得力も魅力も感じない。「東洋人」や「日本人」だけが自然との一体感を有し、「西洋人」や「欧米人」は自然との一体感を感じないなどという理論は、事実からほど遠いだけでなく、一種の人種的偏見だろう。それよりも、マテ=ブランコや中沢新一氏が捉えたように、人間なら誰もがもつ潜在意識の中に「対称性論理」が宿っていて、そういう“深い心”が自分を自然の一部としてとらえ、自然の中で充足する心を発現するのだと考える方が事実に則していて、説得力があり、したがって魅力的である。
対称性論理と関係が深いと思われるものに「罪」と「罰」の概念がある。我々人間は、何か不幸なことに遭遇すると、それは自分が間違ったことをした結果だと考えがちである。この考えには、何か明らかな具体的失策があって、それが原因でかくかくしかじかのことが起こり、最終的に自分にふりかかる不幸となった……などという論理性があるのではなく、自分がある日、腹痛になったら、自分が何か悪いことをしたからだと“直感”するのである。食べたものが中国製のギョーザであり、その中に毒物が混入していたために腹をこわしたとしても、「中国製の食品を食べた自分が悪い」などと思うのである。論理的に考えれば、この場合の“悪者”は、ギョーザに毒物を混入させた中国人の誰かであることは疑いがない。その人が加害者であり、自分は被害者であることは明らかだ。しかし、被害に遭ったのは自分のせいだ、と考えがちである。
これがどうして対称性論理か? それは、「誰かが自分に対して悪いことをした」ということを、潜在意識では「自分が誰かに対して悪いことをした」と置き換えて考えるからである。この場合、「誰か」と「自分」は別だと考えるのが非対称性論理であり、通常の理性的判断である。しかし、我々の潜在意識の中には同時に対称性論理が働いているから、そこでは「誰か」と「自分」とが同一のものとして捉えられる。そして、人間の心はマテ=ブランコがいう“二重論理構造”(bi-logical structure)をもっているから、腹痛を起こした本人は、覚めた意識では「毒物を入れた中国人が悪い」と思いながらも、心のどこかで「それを食べた自分も悪い」などと考えるのである。
「罪」と「罰」は宗教上の概念でもある。神を信じる人々は、昔から自分たちの不幸の原因を創造主である「神」に帰することはなく、自分たちに原因があると考えた。自分たちに罪があるから、その結果として神が罰を自分たちに下される--こういう考え方は、『創世記』の“禁断の木の実”の昔から現代にいたるまで続いている。それは「真理」というよりは、対称性論理で動く我々の潜在意識の創作なのである。
谷口 雅宣
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コメント
楽しく読ませて頂きました。『そうそう…』って思わず声を出して笑ってしまいました…とても面白いです。こういうの読めるなんて、幸せ今日も良い日だ感謝です私も中沢新一氏の著書はよく読みます。雅宣先生って面白い次回、楽しみにしています。
投稿: Y.S | 2008年10月 7日 19:42
頭の体操として何時も拝読させて頂いています、
この「二重論理構造」!面白い分析で感心しているのですが人類個々人千差万別区別不明で難解ですね、「罪」と「罰」に対しましても「創世記の禁断の木の実」の考え方、私は「そうかなー?」と考えていましたから潜在意識にも無い様に感じます、何故なら神は全ての全てに於いて慈悲と捉えていますので、、と言う事は私は対称性論理で動いていないのだろうか?神のみぞ知る!ですが、、。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年10月 8日 14:05
尾窪さん、
>>何故なら神は全ての全てに於いて慈悲と捉えていますので、、と言う事は私は対称性論理で動いていないのだろうか?<<
対称性論理という言葉を誤解していませんか? 神は全ての全て……という考え方自体が対称性論理ですヨ。
投稿: 谷口 | 2008年10月 8日 23:47
谷口雅宣副総裁様
1「神は全ての全て・・・・の考え方」はそうですが、、、
2「自分たちに罪があるから、その結果として、神が罰を自分たちに下されるーー」こういう考え方」はーーーーーー真理というよりは対象性論理で動く我々の潜在意識の創作なのである」とあります、私はその様な考え方(2)ではないので、つまり対象性論理で動いていないので潜在意識での創作は無い!と考えたのです。
それでは2の考え方は非対象性論理なのでしょうか?
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年10月 9日 00:45
尾窪さん、
多分、私の説明が分かりにくいのだと思いますが、貴方は「対称性論理」と「非対称性論理」という言葉の意味を正確につかんでおられないのではないでしょうか。それから、潜在意識(無意識)と現在意識との違いも正確に理解しておられないのでは……と思います。
さらに、単純な3段論法でご自分の考えを表明されていますが、ここでの議論は、それほど単純なことではないのです。
投稿: 谷口 | 2008年10月 9日 13:44
谷口雅宣副総裁様
ご指摘の通りです、基礎的知識が不足しているので理解出来ないのだと思います、申し訳御座いません(泣)、只疑問は疑問としてカットされても良いですから今後ともさせて下さる様にお願いいたします。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年10月 9日 16:12