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2008年10月 3日

対称と非対称 (4)

 前回、この題で書いてから10日ほどたってしまったが、その時に立ち戻れば、私は対称性論理(対称的関係)について、それは無意識の領域だけでなく、神話や宗教の教えの中にも多く含まれることを、例を挙げて示していたところだった。対称性論理を例示すれば、それは「Aは非Aではない」というように物事を截然と切り分けずに、「A」と「非A」の間に、別の「X」という共通点を見出し、それに注目して「Aは非Aでもある」と考える論理である。簡単な例を示せば、「日本人も中国人も同じ東洋人だ」などと考えることだ。これに対し、「日本人と中国人はものの考え方がまったく違う」などと考えるのが非対称性の論理である。

 私は、この例に限定しない一般論として、いずれの考え方も必要だと思う。なぜなら、どちらの考え方もそれなりに正しいからだ。双方がそろって、初めて正解と言えるだろう。だから、どちらか一方を選ばねばならないと考えるのは、間違いだ。ただし、それぞれの論理の適用場所を誤ると、現実社会においては大事に至ることがある点に留意しなければならない。例えば、「日本人も中国人も同じ東洋人だからパスポートなどいらない」と考えて成田空港へ行ったり、その逆に「日本人と中国人はまったく別だから、目を合わせてもいけない」などと考えて国際スポーツ競技に参加すれば、問題が起こることは容易に想像できる。

 クマと人間との関係にも、このことは言える。クマは人間にとって“敵”であることもあれMtimg081003 ば、“仲間”であることもあるのである。地球温暖化を警告するのに、融けかけた氷原を行くホッキョクグマの写真が使われることがある。また最近、このクマは絶滅危惧種に指定された。これらの事実は、外見は大いに違う人間とホッキョクグマの間に共通点を見出し、それに注目して「人間も彼らと同類だ」あるいは「彼らも人間と同類だ」と考える対称性論理にもとづいている。これに対し、山菜採りやキノコ採りの際、鈴やラジオを腰に下げて山へ入るのは、「彼らは人間とは異質だ」という非対称性論理にもとづく行動である。このどちらの論理も人間にとって必要だ、と私は思う。そして、普通の人間は双方を同時並行的に使って生きている。このことを、マテ=ブランコは「二重論理」(bi-logic)と呼んだのだろう。

 ブタやウシなどの家畜の場合は、この関係が怪しくなる。私は、先進国の都会に住むほとんどの人間は、これらの家畜に対して非対称性論理のみを使っていると考える。その意味は、「ブタやウシは人間とは異質だ」という考えを徹底させて生きているということだ。彼らは、動物性蛋白質の摂取源としてしか見られていない。現代の食肉産業には、彼らも我々と同じ生き物であり、喜怒哀楽の感情を抱くという事実を無視するための配慮が随所に施されている。まず屠殺場が、一般人から隔離されている。そこへ送られる家畜たちが、どのような反応をするかは隠されている。食肉工場での解体作業も、一般社会から隔離されている。もちろん労働者は一般人であるが、そこでの解体作業は、機械的な流れ作業の中で、喜怒哀楽を感じることのないように整然と行われねばならない。

 こうしてできた肉製品は、ハム、ソーセージ、ハンバーグ、ミートボールのように、できるだけ原形を残さないように加工される。そして、ワックスで光る果物や、泥の痕跡がまるでない野菜と同じ店で売られている。我々の子供たちには、まさにそういう肉製品が与えられるから、彼らは家で飼っているイヌやネコと変わらない哺乳動物を、毎日殺して食べていることなど知らずに育つのだ。このような社会のシステムは、人間として生きるのに必要な「対称性論理」を身につける機会を、子供たちから奪ってきた、と私は考えるのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

何年か前、NHKで動物写真家の岩合光昭さんがホッキョクグマの生態を撮影したドキュメンタリー番組を見たことがあります。その中で、一頭のホッキョクグマが赤紫色の花が一面に咲くある島へ花が咲く季節にわざわざやって来て、その真ん中に座り込み花の香りを深く吸い込んで、何とも言えない微笑みを浮かべているとしか思えぬ様子を映し出したものが放映されました。何故その場所へやって来てその様な行動をとるのかは不明だとナレーションが言っていました。同じ電波上で、山菜採りをしていた人間に怪我をおわせたクマのニュースも流れます。どちらもクマです。どちらも今を生きているクマなのです。

投稿: Y.S | 2008年10月 5日 21:27

「人間として生きるのに必要な"対称性論理"を身につける機会を子供達から奪って来た」と考える、、、について
確かにご指摘の通りなのですがそれでは事実を無視する為の配慮を施さず有りの儘に見せて対称性理論を身につけさせるべきなのでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年10月 6日 20:28

尾窪さん、

>>それでは事実を無視する為の配慮を施さず有りの儘に見せて対称性理論を身につけさせるべきなのでしょうか? <<

 対称性理論ではなく対称性論理です。(笑)
 あなたは事実を無視することを“配慮”として肯定的に評価されるのですか? 私は、小学生の頃、フナの解剖をして対称性論理を養いました。また、昆虫採集や川遊びなども必要と思います。そのうえで屠場を見せるかどうかの問題ですが、見せなくとも言葉や映像で伝えることはできると思います。

投稿: 谷口 | 2008年10月 6日 23:40

谷口雅宣副総裁様
解剖や昆虫採集、川遊び等々は勿論必要だと思います、只自然界を観察していますと善悪は別としまして地中、地上、海中、空中何処でも目に見えないミクロから目に見える全ての生物に至るまで弱肉強食、一つの見方をすれば残酷な世界です、情報の発達している現在聞いたり、目にしたりしない人は殆どいないのではないでしょうか?釈尊が幼少にして悩まれたのはその事が出発点の様に思っています、食用にすべきか否か?は別にしまして現在の状況におきまして「賭場」への一定の配慮は必要と考えています(これは当然ですが人間の世界のみ)
ですから私は言葉で伝えて貰いたい!と思っています、人間なら誰でも聞けば分かると考えるからです、、それから賭殺についてどうあるべきか?をそれぞれ考えて行けば良いのではないか?と考えています。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年10月 8日 14:37

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