ギャオの独り言 (3)
きょうは、ウサギのぬいぐるみのデカパンのことを話す。
ミー君のつくる世界では、デカパンはいい役でボクはあく役だってことは、もう話した。それから、ボクとデカパンは友だちってことも、話した。もんだいは、友だちのデカパンを、ボクはどうしていじめるかってことだ。そのわけも、もう話したと思うけど、もっとせつめいしたい。これには、ふかいジジョーがあって、それを知ってほしいからだ。
ボクはミー君をよろこばすために、デカパンをいじめる。そんなボクは、デカパンのほんとの友だちとはいえないかもしれない。でも、デカパンもボクのジジョーをしってるから、がまんしてくれると思うんだ。それに、ずっとがまんしてなくていい。ボクがデカパンをいじめてると、すぐにカシキンマンが出てきてボクとたたかう。それまでのしんぼうだ。カシキンマンは、あぶないところでギンコーへにげこみ、パワーアップしてボクをやっつける。ミー君は、それがうれしいんだ。で、ボクはミー君がよろこぶのがうれしい。だから、友だちのデカパンがすこしのあいだ、つらい思いをすることには目をつぶる。ショーガナイから。
でも、ミー君がいなくなったとき、デカパンはときどきボクにこういう--
デカパン「ギャオは甘えんぼうで、いくじなしだ。なぜって、よくないと分かってることを、ミー君のためにするから」
ギャオ「ごめんよ、デカパン。でも、おまえもボクもミー君が好きだから、ツライことをがまんしてやってるんだ。そうだろ?」
デカパン「わたしはがまんしてないよ。ギャオがいじめてツライから、たすけてー、くるしいーって、大声だすの。するといつも、カシキンマンが出てきてたすけてくれる」
ギャオ「それは、えんぎだろう? ツライふりだろう?」
デカパン「わたしはえんぎしてない。ほんとにツライのよ」
ギャオ「でも、カシキンマンが出てくるためには、あく役がひつようなんだ。あく役のボクは、きみをいじめないといけない」
デカパン「そんなの、おかしい。ぜったいにおかしい!」
ギャオ「これはコーキューなロンリだから、きみには分からないかもしれない」
デカパン「ぜんぜんわからない。ぜったいにおかしいわ」
ボクは、このロンリをデカパンに分からせることができない。でも、デカパンもボクもミー君のことを好きだから、そこのところで、だまってしまう。ロンソーは、いつもここでおわりだ。
この世界では、悪いことをしなければいいことは出てこない--これが、世の中のふかいジジョーだ。これが、コーキューなロンリなんだ。ボクらのことに当てはめれば、ボクがデカパンをいじめなければ、カシキンマンは出てこないんだ。これはうごかせないジジツだから、ショーガナイ。でも、デカパンはちがうことをいう。ボクとかのじょがなかよくしてても、カシキンマンはきっと出てくるだろうって。そして、たたかうんじゃなくて、ボクたちといっしょにあそべるだろうって。
ボクは、そんなのは甘いロンリだと思う。みんながなかよくあそぶなんて、ミー君が好きなわけがない。ミー君は、セーギのみかたカシキンマンになりたいんだ。セーギが生まれるためには、悪がなくてはだめだ。そして、セーギは悪をくじくんだ。ボクは、そうやってミー君がよろこぶために、なみだをのんであく役をする。ボクは悪い「役」をするんだから、「悪」じゃない。ボクは恐竜だから、ぜったいカイジューじゃないんだ! 友だちのデカパンには、このふくざつでコーキューなロンリをぜひ知ってほしいと思う。
谷口 雅宣
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コメント
ギャオの高級な論理があったとしても恐竜はやっぱり怪獣でしょう、、、(笑)。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年10月24日 10:40
僕はデカパンさんのギャオ君とデカパンさんが仲良くしていてもカシキンマンさんが出てくると言う言葉が真理だったらいいなと思いました。ギャオさんもデカパン三もいいひとですね。本当にいいひと、いえ、ぬいぐるみさんだと思います。涙をのんで悪役をするギャオ君も苦しむデカパンさんもかわいそうです。そういうことのない世の中になってほしいです。
投稿: 奥田健介 | 2008年10月25日 18:24
「セーギのみかたカシキンマンになりたいんだ。」
という心の奥底には、“何としても善を実現したい!”
という強い願い(本心:神様の心といってもよい)があると思います。が、その方法は正しくないと思います。
「セーギは悪をくじくんだ。ボクは、そうやってミー君がよろこぶために、なみだをのんであく役をする。ボクは悪い「役」をするんだから、「悪」じゃない。」
という考え方に陥ることが私自身も過去にありますが
それは、人間智のはからいの心で神様の御心とはかけ離れた心で幸福を見出す心とは違うと、冷静にかえったときは思います。「セーギは悪をくじくんだ」という心で物事をなして一時的に幸福状態が現れても、それは、まぼろしであり長続きするものではないと思います。
「セーギは悪をくじくんだ」と物事を分かっているようでまったくわかっていない考え方を実行することで今まで多くの不幸なことが起きたと思います。
はからいの心を捨て、本当の神様に直結して純粋に生きることが大切と思います。今、世界が本当にそれを求めていると思います。
私は、どこまでも純粋に生きて行く所存です。
投稿: 志村宗春 | 2008年10月27日 23:21