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2008年9月23日

人生を芸術表現に喩えて

 秋分の日の今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールにおいて布教功労物故者追悼秋季慰霊祭が執り行われた。私は斎主として奏上の詞を唱え玉串拝礼を行ったほか、ご遺族や参列者の前でご挨拶申し上げた。以下はその挨拶の概要である--

 皆さん、本日は布教功労物故者を追悼する秋の慰霊祭にお集まりくださり、誠にありがとうございました。この慰霊祭では、生長の家の運動推進に挺身・致心・献資の真心を捧げてくださった私たちの運動の先輩や仲間のうち、現世での使命を終られて霊界へ旅立たれた方々の御霊をお招きして、生前のご功績に感謝の誠を捧げるための意義あるお祭りでありました。今回、招霊された御霊の数は166柱ということですが、昨年の記録を見ると、238柱が招霊されています。今年は昨年より72人少ないのですが、そのうち41人はブラジルの幹部・信徒の方々です。割合にすると約25%で、4分の1に当たります。昨年のブラジル人の割合は16%でしたから、私たちの運動におけるブラジルの同志の方々の割合が、しだいに大きくなりつつあることが分かります。それだけ、運動は国際化していると言えるでしょう。
 
 生長の家では、人間の一生を「芸術表現」に喩えることがあります。詩を詠んだり、音楽を演奏したり、絵を描いたりするのが芸術表現ですが、その場合、自分の内部にすでにあるものが表現されて出てくるのです。しかし、自分の中に素晴らしいもの、美しいものがすでにあっても、それを自分で満足できるレベルにまで表現するためには、1回や2回の練習では足りないのが普通です。だから、ピアニストやバイオリニストは毎日何時間も練習することは、皆さんもよくご存じの通りです。人間の一生もこれと似ていて、自分で作った“曲”を何回も練習しながら生きていきます。途中で、気に入らない曲だと思ったら、自分で作曲しなおすこともできます。そうやって1つの曲を完成に近づけていくうちに、肉体は衰えていくかもしれません。しかし、これは表現の道具が古くなっていくのであって、表現者が衰えるのではない。だから、私たちは定年を過ぎても、新しいことにどんどん挑戦したくなることもあるし、子供の頃の夢を実現したいと思う人もいる。
 
 しかし結局、古くなった道具は捨てていかなければなりません。これが肉体の死ですが、死によってそれまでの人生のすべてを捨ててしまうから、「空しい」とか「寂しい」とか「意味がない」と感じる人もいるようです。しかし、この考えが生まれるのは、表現した作品そのものを自分だと考えるからです。作品は作者の表現物ではあっても、作者そのものではない。演奏した音楽は確かに演奏者の力量を表現しているけれども、演奏者そのものではない。ですから、その“作品”にとどまっている限り、さらによい演奏、さらによい曲想を表現することはできないわけです。だから、作品はむしろ捨ててしまった方が、次なる段階へ飛躍できることが多いのです。
 
 私事になりますが、今年の夏、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山で盂蘭盆供養大祭が行われた際に、私が『小閑雑感』シリーズなどの本の中で使ったスケッチ画の原画展をやらせていただきました。これは、原画をほしい人に買っていただいて、その資金を森林再生の事業などに寄付するためです。それで、大祭の最終日に私も原画展の会場へ行ってみたのですが、そこに来てくださっていた信徒の方から、「絵を手放してしまうのは寂しくありませんか?」と訊かれました。私はその時、一瞬、返答に困ったのですね。なぜなら、「絵がなくなるのは寂しい」などと考えたことがなかったからです。でも言われてみると、一抹の寂しさがないわけではない。絵の対象やそれを描いた時の自分が、1枚の絵には形になって残っているからです。しかし、私の場合はプロではありませんから、自分の絵がそんなに上等とは思っていないし、絵を描いた時の自分が今より優れているとも考えていない。むしろ、そんな絵でもほしい人がいたら、買っていただくことで社会貢献ができるなら、そちらの方がいいと考えたのです。だから、「寂しくありません」と答えました。
 
 しかし、我々の人生全体……ということになると、一枚のスケッチ画よりよほど内容がありますから、「捨てるのは惜しい」という気持はよく分かります。私だって、今いきなり“お迎え”が来たら「行くのはイヤだ!」とジタバタするかもしれない。でも、人間は必ず今の肉体を捨てていく時が来るのですから、その際に“古い作品”にしがみついてばかりいるのではなく、“新しい境涯”“別の可能性”の方向に目を向ける余裕を得ておきたいと思うのであります。その方が、ご本人のためにも、ご親族のためにも良い結果となる場合が多いからです。それには、真理の言葉と常に接していることが必要です。『甘露の法雨』には、人間の死は魂の滅亡ではなく、カイコが繭を食い破るごとく、より高い境涯へ飛躍することだ、と説かれています。また、「帰幽の神示」には、「1曲が終らんとするを悲しむな。それはなお高き1曲に進まんがためである」とあります。今日は、『日々の祈り』の中から「捨てることで自由を得る祈り」の一節を読んで、皆様の参考に供しようと思います--
 
 (「捨てることで自由を得る祈り」の一部を朗読)
 
 このように、私たちの命は生き通しであるという教えを自ら生きるとともに、多くの方々に神性・仏性を表現する人生の意義をお伝えして、これからも大いに人類光明化運動を進めてまいりましょう。本日は、お参りくださいまして誠にありがとうございました。
 
 
 谷口 雅宣

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コメント

先生、今日のお話、すごくよかったです。僕は物欲、ものすごいのです。プラモデルとゲームとおもちゃが大好きで。でも先生の今日のブログを読んで,気分が晴れ晴れしくなりました。どうもありがとうございました。

投稿: 奥田健介 | 2008年9月24日 09:08

一言で言って大変申し訳御座いませんが
非常に素晴らしい考え、教えだと思います。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年9月24日 16:25

奥田さん、

 “物欲”とおっしゃいますが、プラモデルなどの“コレクター”ということではないでしょうか? 「熱中人」と言われるほどの量を集めていられるのですか? 

投稿: 谷口 | 2008年9月26日 16:38

雅宣先生、合掌ありがとうございます。コメントのお返事、偶然、みつけて、嬉しかったです。先生のご質問にお答えします。先生、「機動戦士ガンダム」というアニメ、ご存知ですか?そのシリーズのプラモデルで部屋に飾ってあるのが、5個あります。最初からできていて、色も塗ってある、このシリーズの完成品、いわゆるフィギィアが4個、これも飾っています。あとアンパンマンシリーズのフィギィアが4個あります。母が買ってくれた大きいドラえもんのぬいぐるみも飾っています。あと「ドラゴンクエスト」というゲームにでてくるモンスター「キングスライム」の大きいぬいぐるみも飾っています。「ヤッターマン」というアニメの主役メカ「ヤッターワン」のこれは普通サイズのぬいぐるみも飾っています。あと「パトレイバー」というアニメの主役メカ「イングラム」のフィギィアも飾っています。「熱中人」という程ではないと自分だは想います。ただ、続々、新しい物がでます。だから、「あれも欲しい」がけっこうたくさんあります。生長の家で「物欲に振り回されるのはあんまりよくない」とか「欲張っている者は生命の実相を悟っていない」とか「貧欲はよくない」といいますよね。それで、いつも「あれが欲しいけど、ワガママだろうか?まずいだろうか?」と反省しています。よろしかったら、アドバイスください。

投稿: 奥田健介 | 2008年9月30日 22:20

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