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2008年9月21日

イオマンテを考える

 北海道の旭川市で行われた生長の家講習会からの帰途、この文章を書き始めている。私はかつて本欄(2005年3月27日5月21日)で、北海道のアイヌの儀式である「イオマンテ」について触れたことがある。この儀式は、アイヌの村で飼っていたヒグマの子が成長すると“神”として森に送り返すものだ。こう書くと聞こえがいいが、別の表現を使えば、これは「山から生け捕りにしてきた子グマを育て、1~2年後に殺して食べるときの祭」なのである。村民は子グマを取り囲んで矢を放ち、2本の丸太で首を挟んで息の根を止める。「残酷だ」という理由で今ではほとんど行われなくなっているらしい。

 しかし、アイヌの信仰では、ヒグマはもともと山の神であるから、人間社会の中にいつまでも留めておくことはできない。それを一時村で育てた後は、本来の場所へ返さねばならない。その際、肉体から魂を分離させて、前者からは毛皮や肉などの恵みをいただく代りに、後者は“神”として尊敬申し上げ、厳かな儀式の中で送り出すことが必要なのだ。アイヌの伝統的自然観では、「自然は生命の連続であり、そのことを感じ、恐れ、感謝しながら、すべての生物を同僚とし、背後の命の流れを神として生きる」--こういう自然との一体感と信仰は、まさにマテ=ブランコのいう「対称的関係」の自覚である。

 この儀式は、本当に非難すべきものだろうか? 「毛皮と肉が必要ならば、単に殺してそれをもらえばいい」という考え方が、成り立つかもしれない。しかし、この考え方こそ、人間とクマとを「非対称的関係」として捉えるものなのだ。我々の覚醒時の論理的認識は、人間とクマとを“別物”として捉える。したがって、人間の利益とクマの利益は必ずしも一致しない。だから、人間がクマを殺して毛皮と肉を得ることは場合によっては必要である。それができるのは、人間がクマより優れているからだ。優れているものは、劣っているものを尊敬する必要はないし、ましてや“神”として扱うことは無意味である。だから、イオマンテの儀式は不要である。

 これは確かに“理性的”な考え方かもしれないが、マテ=ブランコが指摘しているように、人間は醒めた意識による理性的判断だけをしているのではなく、無意識中で顕著に働く“感情”を備えている。そして、このもう一方の人間的側面において、我々はクマに対して感情移入するのである。「残酷だ」という感情が生まれるのは、その証拠である。つまり、人間はクマを自分と同じ生き物として捉え、クマの身になって考えることができる。クマは人間と同じように、親を必要とし、食べ物を与えれば喜び、喜怒哀楽を表現し、恐怖や苦痛を感じるのである。このようにして、クマと人間を“対等”のものとして感じることが「対称的関係」である。そういう感じ方を我々の心は本来もっているのだが、それを抑圧して“理性的”にのみ考え行動することは、言葉の本来の意味からして「人間らしい」とは言えない。
 
 先に私は、我々の無意識は「非対称的関係を対称的関係として取り扱う」ことを述べた。すると、アイヌのイオマンテの儀式は、この無意識の働きを宗教的行事として結実した貴重な文化遺産だと見ることができるだろう。
 
 谷口 雅宣

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コメント

1、「毛皮と肉が必要ならば単にそれを殺してもらえばいい!」という考え方こそ人間とクマとを"非対称的関係"として捉えるものだ!
2、「クマに感情移入して、人間と同じ生き物として捉え、クマの身になって考え、クマと人間を対等のものと感じることが"対称的関係"である!
とし、1を覚醒時の論理的認識、"理性"と捉えられ、2を無意識の内に顕著に働く"感情"としてイヨマンテの儀式を無意識の働きとしての宗教行事として結実した重要な文化遺産だ!とされておられる様に思います、これはこれで良いのですが1は本当に理性的な考えなのでしょうか?私には智慧ある人間の理性とは思えません、寧ろ覚醒していない認識(酷醒、痴)、の考えではないか?つまり、本来の理性ではない!2の方こそ本当の"理性、理性的"ではないか?と考えますが、、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年9月22日 14:40

>アイヌのイオマンテの儀式は、この無意識の働きを宗教的行事として結実した貴重な文化遺産だと見ることができるだろう。

そのように考えるとイオマンテが貴重な文化遺産という意味がすんなりと受け止められました。

>この儀式は、本当に非難すべきものだろうか?

必要以上のものを殺さない点から考えても、世界的に行われている肉食と比べるとこの儀式はいのちを大切にするという思想を感じるので、非難できないと思います。

さらにつっこんで、本当の意味で熊のいのちを大切にしているかと問われると、肉体的面での恵みをいただくという考え方自体が、利己的な面を兼ね備えていると思われるので、完全にはそのいのちを大切にはしていないと思うモヤモヤとした心もあります。

このモヤモヤはなぜだろうとさらに、イオマンテという“宗教儀式”が出来たかについて考察しました。

そうすると、必要なだけの食材を得るだけでも、アイヌの人々は無意識的に罪の意識(無意識的にその残虐性を感じた)を持ったこと。イオマンテの内容をさらに考えると、儀式にまで高めあげられていない、熊を山で殺して、食したときと比べて、さらに自身の行動に残虐性を感じた。つまり、子熊から育てると言うことはより安全に食材を確保するという面があった。山で大きくなった熊を殺すと比べると明らかに利己的要素が強く、その残虐性を無意識的に忌避するが故に、それを緩和するために、そのような信仰と宗教的な意義が後付されて、継承されてきたという意味にも読みとれました。

このように簡潔に書くとアイヌの人々は罪の自覚を避けるために、このような儀式を創作したということになり、欺瞞に満ちたものという、誤解を与えそうなのですが、それは私の意図ではありません。

現在の世界的な肉食の状況と比べると、自覚されていた、自覚されていないにかかわらず、不必要には生物を頂かない非常に清廉な心であり、さらに、感情移入できる人間的な心の現れであり、貴重な文化遺産だと思います。この儀式が非難されるとするならば、スーパー等で販売される肉とそれを購入する私たち全てがこれ以上に非難されるべきレベルのものであることを自覚する必要があると思います。

キリストが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とファリサイ派の人々に言われた場面が聖書にはありますが、私はアイヌの人たちを、そしてイオマンテを非難する資格はないです。

投稿: 齊藤義宗 | 2008年9月24日 11:59

斎藤さん、

>>この儀式が非難されるとするならば、スーパー等で販売される肉とそれを購入する私たち全てがこれ以上に非難されるべきレベルのものであることを自覚する必要があると思います。<<

 なかなか鋭いご指摘ですね。我々の非対称的論理が、食肉工場のような残酷な施設を生んでいる。この問題は、地球温暖化や生命倫理の問題とも深く関わっていると思います。その反面、我々には非対称的論理を行使できるから、今日の効率のいい生産と食糧供給体制が実現した、とも言えます。

投稿: 谷口 | 2008年9月24日 17:13

尾窪さん、

>>これはこれで良いのですが1は本当に理性的な考えなのでしょうか?私には智慧ある人間の理性とは思えません、<<

 その答えは、あなたが「理性」をどう定義するかで違ってきます。貴方の理性の定義は何ですか?

投稿: 谷口 | 2008年9月24日 17:16

谷口雅宣副総裁様
辞書には「感情に左右されず、正しく判断出来る力」とあります、ですから「毛皮と肉が必要ならば単にそれを殺してもらえばいい!」という考え方(非対称的関係)が本当に正しい判断なのか?理性なのか?と言う事です、
「餌食の中に道心なし、道心の中に餌食あり」と言う言葉がありますが只煩悩の赴く儘、餌食の為に感謝の気持ちも無く殺して肉をもらう!と言うのは五感から来る利己的な心であって仏性である本来の自己の心(理性)ではないから酷醒、痴の考えではないか?と考えた次第です。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年9月25日 00:17

尾窪さん、

 あなたの言いたいポイントは分かりました。私の言葉の使い方が分かりにくかったようです。私は「理性」という言葉をクォーテーションマークで挟んで使いました。それは9月18日のブログでマテ=ブランコの学説を紹介したときに使った「理性」という言葉の意味を受けたものです。ですから、あなたの使っている辞書の意味とは多少違うかもしれません。

 ある言葉をクォーテーションマークに挟んで使う場合、その言葉は誰かの引用であったり、あるはその言葉自体の本来の意味ではないが、仮に使っている--というような微妙なニュアンスを伝えます。この用法は、英語では当たり前に使われていますが、日本語では英語の知識のない人は使わないと思います。

 それから、あなたの辞書にある「理性」の意味の中の「感情に左右されない」という点に注目してもらえば、あなたの見解は「感情に左右されている」から「理性的ではない」と解釈することもできます。

投稿: 谷口 | 2008年9月25日 16:02

谷口雅宣副総裁様
本も読まずに短い文章からの私の単純な疑問、考えに細かなご解答有難う御座います、今後ともよろしく御願い致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年9月26日 09:18

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