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2008年9月15日

メディアの責任を問う

 13日の本欄で、アメリカが主導する“テロとの戦争”の基礎となっている「ブッシュ・ドクトリン」について言及したが、私はこの考え方に対して早い時期から反対の意思を表明してきた。その理由をここで繰り返すつもりはないが、「9・11」の後に発想されたこの政治・外交方針の危うさについて、マイケル・ボンド氏(Michael Bond)が8月30日付のイギリスの科学誌『New Scientist』に「頭を冷やせ(Keep your head)」という題で興味ある分析を書いていた。
 
 それによると、「9・11」後の12カ月間、大勢のアメリカ人は国内の移動に航空機を使うのをやめて、長時間であっても自動車を運転することに切り替えたそうだ。その結果、この期間に交通事故で死亡した人の数が約1600人も増えたというのだ。この数は、同事件でハイジャック機に乗っていて死んだ人の数の6倍に相当するそうだ。これは、恐怖心にもとづく意思決定が正しく行われないことを有力に示しており、この事実を発見したドイツの研究者に言わせると、多くのアメリカ人は恐怖すべきハイジャックの危険を避けようとして、「フライパンの上から逃れて火の中に飛び込んだ」のだそうだ。
 
 人間は不確かな事態に遭遇したとき、大別して①理性的判断、②直感的判断のいずれかによって対処するという。いずれの方法もそれぞれ長所と短所があるが、②を行う場合、強い恐怖心が働くと、最善の策を採ることが難しくなるという。特に、めったに起らないが、起こると重大な結果を招くような状況に直面した場合、この“恐怖による危険”が生まれるという。テロリストの攻撃、ガンの脅威などが、これに当たる。前者の例はすでに触れたが、後者の例では、ガンで悲惨な闘病生活をした近親者がいる人は、自分がガンになる可能性を過大に考える傾向があり、そのため危険性の高いガン検査をすることもあるという。

 我々の意思決定を歪める要素は、恐怖心だけではないという。強い記憶--特に、強烈なイメージを思い出す場合--は、それと関連した事件が実際より頻繁に起こると考えやすくなり、正しい判断が難しくなる。航空機事故に遭ったり、テロに遭遇したり、あるいはサメに噛みつかれることなどが、この部類に入る。というのは、こういう事故や事件については、メディアが同じことを何回も報道し、現場の残酷な映像などを繰り返し伝えるからだ。その逆に、病死については、強い記憶は残りにくい。なぜなら、病人の映像や葬式などはメディアではあまり取り上げられず、その代り、統計的な数字を使って報道されることが多いからだ。
 
 ここまで書いてくると、我々の個人的判断のみならず、社会全体の意思決定に及ぼすメディアの影響が重大であることが分かるだろう。“悪”を探し、“悪”に注目して、その強いイメージを社会に発信する現在のメディアの報道姿勢は、社会全体の意思決定を間違った方向へ引っ張っていく危険性があるのである。私は本欄で、これまで何回か日本の犯罪が「増加」しておらず、「凶悪化」しておらず、「低年齢化」もしていない事実を、警察庁発表の犯罪統計を使って述べてきた。が、一般の人々の印象では、日本の犯罪は増加し、凶悪化し、低年齢化している。このことは、イギリスについても言えるようだ。
 
 同誌の記事によると、2006~2007年の調査では、イギリスに住む人の65%は犯罪が全体として増加していると信じているが、実際の統計では、1995年以降の10年間で犯罪件数は42%減少し、その後は同レベルを維持しているという。アメリカでも似たような現象が見られる。2001年のある調査では、1990年から98年の9年間で、犯罪の記録は20%減ったのに対し、テレビの犯罪報道は83%増加したという。特に顕著なのは、この期間中、殺人事件を扱った番組が473%増えたのに対し、実際の殺人事件は33%減ったという。アメリカ社会は銃規制に消極的であり、それが一つの原因となって銃犯罪がなかなか減らないという悪循環があるが、そこにはメディアの責任があると考えられる。日本社会でも、メディアが悪事の報道ばかりを続けていることと、経済や政治に明るさが出てこないこととの間には関係があるかもしれないのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

副総裁先生ありがとうございます。
確かにメディアが社会に与える影響は大きく,また責任も重大であることをその関係者は深く自覚すべきだと私も考えます。
また,メディアに関係する人たちは,教育に関しても多大な影響力をもっていることも考えてほしいと思っています。
最近,「こわくない?」「いいんじゃない?」といった形容詞や形容動詞だけを関西弁風にアクセントを変えて発音する人がいますが,これもメディアの影響かと思われます。子供たちはそれを新しい「言語文化?」と勘違いして真似をする傾向がありますが,これは良いことだとは思いません。私は一教育関係者として,子供たちには注意をしていますが,やはりメディアの責任と影響力はは大きいと思います。
メディアに関係する人たちは,自分たちが文化の担い手として大きな役割を果たしているという誇りと責任をもってその仕事に従事していただきたいと願っています。

投稿: 佐々木勇治 | 2008年9月16日 21:53

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