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2008年9月30日

札幌で見た虹

 9月28日に札幌市で生長の家の講習会があり、その前日に同市入りした。千歳空港から札幌までの途上、自動車の窓から見える広大な農地や森を堪能しただけでなく、雲の美しさに見入っていた。狭い東京の空と比べると、頭上360度に広がる空の大きさに加え、その日は雲の多さと多様さに感動した。西に傾く陽光を受けて、灰青色、桃色、金色に輝く雲の存在感は、背景の空の青が濃いことも手伝って、圧倒的だった。車中、手元にデジカメを持っていなかった私は、隣席の妻のカメラを借りて2、3枚写真を撮った。

 自動車専用道路が札幌市内に入ってまもなく、行く手右側の雲間に向かって、住宅地から虹が立ち上がっているのが見えた。「へえーっ」と驚いて妻に声をかけ、彼女も感動の声を上げた。赤-橙-黄-緑-青-藍-紫と、7色のグラデーションがきちんと見える。そんな鮮やかな虹を見るのは、何年ぶりかと思った。ホテルに着くと25階の部屋へ入った。とたんに、正面の窓から見える曇り空に大きな虹がかかっているのに気づいた。幸せな夫婦は、こうして歓声とともにデジカメ撮影を始めたのだった。
 
Rainbow  虹は夏の季語である。ということは、日本では秋にはめったに見えないのだろう。夕虹と朝虹があり、夕虹は東に、朝虹は西に立つ。夕虹が立てば翌日は晴れ、朝虹は雨、と言われるらしい。
 
 美しい虹は、神話や伝説によく登場する。その形状と美しさから、よく「天と地を結ぶ通路」として考えられてきた。北アメリカ原住民のプエブロ族(プエブロ・インディアン)の間では、毎年冬になると、虹の橋をつたって祖先の精霊が降りてきて、彼らの間に滞在すると信じられてきた。だから北アメリカでは、虹は冬によく出るのだろう。また、古事記では、イザナギノミコトとイザナミノミコトが国産みをする際、アメノヌボコで下界をかき混ぜるために立った場所--天の浮橋--は、虹のことだと解釈できる。さらに、ヨーロッパには、虹の下を通り抜けると男女の性別が逆転するという言い伝えが広くあるという。これなどはロマンチックに聞こえるが、実際は虹の下を通り抜けることなどできないから、性別逆転は“見果てぬ夢”ということだろう。しかし、虹は見れば見るほど、その下を簡単に通り抜けられそうに見えるのだ。
 
 行けどゆけど大虹のしたぬけきれず (宇咲冬男)
 
 谷口 雅宣

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2008年9月29日

環境と「環世界」 (2)

 27日の本欄では、動物学者のユクスキュルが提案した「環世界」の考え方を概説した。が、彼が書いた『生物から見た世界』の面白さは、そういう観点だけでなく、動物たちが実際にどのような世界を感じているかを描いた部分にある。例えば、「ダニの環世界」を描いた文章は、我々の目を開かせてくれる。
 
 ダニは、哺乳動物の血液を吸うことで子孫を殖やすことはよく知られている。が、そのダニが哺乳動物の血液にありつく方法については、それほど知られていない。ユクスキュルによると、彼らは、木の繁みの中に隠れていて、その下を通過する動物の上に飛び降りるか、繁みが動物に触れることができれば、目的を達成できるのである。普通、何かの上に飛び降りるためには、飛び降りる側に目がなくてはならないが、ダニには視覚がないし、聴覚もない。ということは、動物が近づいて来ても見えないし、その音も聞こえない。その代り、動物の皮膚から漂ってくる汗の成分である「酪酸」をダニの嗅覚が感知して行動を起こす。

 その行動ぶりを、日高敏隆氏は次のように描いている--
 
 「運がよければ、ダニはそのけものの上に落ち、皮膚の温かさでそのことを知る。そしてなるべく毛のない場所をみつけ、皮膚に食いこむ。そしてダニはけものの温かい血液をたっぷり飲みこみ、卵を産む。ダニの一生はこれで終わる。ダニには味覚もないので、けものの血液の味はわからない。血の温かさだけがその印なのだ。(中略)茂みの枝から手を放したダニが、うまくけものの上へ落ちなかったとき、ダニはまわりの冷たさでそのことを知り、多大の努力をしてもとの茂みの枝へ這いあがる。そして、またじっと、けものの匂いを待つのである」。(岩波文庫編集部編『読書のすすめ』第12集、p.31)

 ダニは、動物の通過をどれだけ待つか……というユクスキュルの話も、人を驚かせる--
 
 「ダニのとまっている枝の下を哺乳類が通りかかるという幸運な偶然がめったにないことはいうまでもない。茂みで待ち伏せるダニの数がどんなに多くても、この不利益を十分埋め合わせて種の存続を確保することはできない。ダニが獲物に偶然出合う確率を高めるには、食物なしで長期間生きられる能力もそなえていなければならない。もちろんダニのこの能力は抜群である。ロストックの動物学研究所では、それまですでに18年間絶食をしているダニが生きたまま保存されていた。ダニはわれわれ人間には不可能な18年という歳月を待つことができる」。(『生物から見た世界』、p.23)
 
 このような記述から分かることは、ダニの環世界は、我々人間の知っている世界とまったく異なるということである。ここで注目すべきことは、ダニの世界には光も色も音もないというだけでなく、時間の感覚も、我々人間の環世界とは相当異なるということである。ユクスキュルはこのことを、次のように表現している--
 
「時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは、主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう」。(前掲書、p. 24)

 賢明な読者は、ここで聖経『甘露の法雨』の一節を思い出されるだろう--
 
 生命は時間の尺度のうちにあらず、
 老朽の尺度のうちにあらず、
 却って時間は生命の掌中にあり、
 これを握れば一点となり、
 これを開けば無窮となる。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○岩波文庫編集部編『読書のすすめ』第12集(岩波書店、2008年)

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2008年9月27日

環境と「環世界」

 本欄ではかつて「“百万の鏡”が映すもの」と題して5回にわたって現象顕現の法則について書いた。現象顕現の法則とは、一見“客観的”に存在していると思われる私たちの周りの世界(外界)は、実はそれぞれの人の“心の反映”としてある--という原則のことである。聖経『甘露の法雨』では、このことを「感覚は信念の影を見るにすぎず」などと表現している。仏教的には、「三界唯心」「唯心所現」などと言われる。この原則を言い換えれば、人間は人間の感覚でつくった世界に住み、動物や植物は、それぞれのもつ感覚に相応した世界に棲むということになる。しかし、自然科学の分野では、そういう考え方をせずに、私たちの外側には自然法則に支配された客観的で堅固な世界(外界)が存在しており、その中に個々の生物が棲んでいる、と考えることが多い。
 
 そう思っていたところ、生物学者の中には「唯心所現」に近い考え方をもつ人もいることを知った。この人は、エストニア出身のヤーコブ・フォン・ユクスキュル(Jakob von Uexkull, 1864~1944)で、ドイツで動物学や動物比較生理学の研究をして「環世界」(Umwelt)という考え方を打ち出した人だ。ユクスキュルの『生物から見た世界』(岩波文庫、2005年)を翻訳した動物行動学者の日高敏隆氏によると、この「Umwelt」というドイツ語は、もともと客観的な「環境」のことを意味していて「Umweltprobleme」といえば「環境問題」のことだという。ところが、このドイツ語はドイツで発祥したオリジナルな言葉ではなく、デンマークの詩人による1800年あたりの造語であるというから、「環境」という考え方自体が世界的に新しいものであることが分かる。なお、「環境」を意味する英語は「environment」、フランス語は「milieu」であるが、ユクスキュルのいう「Umwelt」に相当する英語は存在しないという。したがって、日高氏は「環世界」という言葉を造語して、この本の中で使っている。

 では「環境」と「環世界」とはどう違うのか? 前者は、冒頭で述べたように、自然法則に支配された客観的な世界である。ここで「客観的」という意味は、人間ならば誰でもそう感じるという意味より、もっと広い意味での「客観的」である。つまり、「どんな生物にとっても等しく感じられる世界」を仮定しているのである。しかし、この仮定が成り立つ根拠はきわめてあやふやだと言わねばならない。もちろん、人間ならば誰でも(色弱、色盲の人を除いて)「空は空色である」ことに同意するだろう。が、ほとんどの動物は人間とは異なる色覚をもっているか、あるいは色覚などもっていないので、空を空色とは感じない。また、雲を「白」や「灰色」とは感じないし、植物の葉は「緑」ではないし、「赤いバラ」も「黄色いキク」も存在しない。その場合、広義の意味での「客観性」という概念そのものの根拠が薄弱となる。その代り、各生物が種それぞれに様相の異なる世界を感覚していて、その感覚したものを自分の外側に「存在」として感じている--という事態が想定される。この事態を分かりやすいイメージとして描けば、それはちょうど、各生物が自分の周りをシャボン玉のような不可視の“膜”で覆っているような状態である。それは、自分の周りを“環”のように包み込む世界だから、「環世界」と呼べるのである。
 
 日高氏は、この2つの概念の違いを、こう述べている--
 
「客観的に記述されうる環境(中略)というものはあるかもしれないが、その中にいるそれぞれの主体にとってみれば、そこに“現実に”存在しているのは、その主体が主観的につくりあげた世界なのであり、客観的な“環境”ではないのである。(中略)それぞれの主体が環境の中の諸物に意味を与えて構築している世界のことを、ユクスキュルは Umwelt と呼んだ。それは客観的な“環境(Umgebung)”とはまったく異なるものである」(同書、pp. 163-164)。
 
 ユクスキュルは、こういう考え方にもとづいて、人間以外の生物の感覚に肉薄して、生物の環世界を人間に理解できるように再構成しようとした稀有な学者である。私は、『心でつくる世界』(1997年)などの中で、ユクスキュルと同様の考え方を生長の家が主張しているだけでなく、それと同じものが仏教にもあることを指摘した。しかし、そこからさらに一歩進んで、別種の生物の感覚を理解しようなどとは考えなかった。なぜなら、そんなことは不可能だと思ったからである。が、その不可能に挑戦して、別種の生物の感覚を我々人間の理解に近づけようと努力した生物学者がいたという事実は、驚きだった。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○ユクスキュル/クリサート著、日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』(岩波文庫、2005年)

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2008年9月25日

絵封筒を描く

 今日は、休日を利用して知人宛に絵封筒を描いた。以下に、その文面を掲げる--
 
「最近、絵封筒に描いたようなものと“同居”を始めました。妻が、ミニトマトの葉をよく食べているのを見つけて捕獲した虫ですが、絵より一回り小さいサイズのものが2匹もいます。これらを殺すのはしのびないし、はたまた放置しておけば飢え死にするのでかわいそうだし……ということで、花や実をつけていないミニトマトの枝を探して、毎日与えることになりました。
 
 図鑑を調べてみるとスズメガの幼虫のようですが、これがサナギになるとドス黒くなるものもあるらしく、今から心配しています。形がいかにもグロテスクだからです。この幼虫は、しかし腹の横の濃紺と黄色の線が美しく、私を絵を描く気にさせました。それともう一つ気がついたのは、ミニトマトの茎や葉が強い芳香を発することでした。この虫も、それを腹一杯食べるので同じ匂いを発します。
 
 トマトの葉が枯れれば、いよいよ秋は本番です。」
 
 谷口 雅宣

 Efuto080925

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2008年9月23日

人生を芸術表現に喩えて

 秋分の日の今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールにおいて布教功労物故者追悼秋季慰霊祭が執り行われた。私は斎主として奏上の詞を唱え玉串拝礼を行ったほか、ご遺族や参列者の前でご挨拶申し上げた。以下はその挨拶の概要である--

 皆さん、本日は布教功労物故者を追悼する秋の慰霊祭にお集まりくださり、誠にありがとうございました。この慰霊祭では、生長の家の運動推進に挺身・致心・献資の真心を捧げてくださった私たちの運動の先輩や仲間のうち、現世での使命を終られて霊界へ旅立たれた方々の御霊をお招きして、生前のご功績に感謝の誠を捧げるための意義あるお祭りでありました。今回、招霊された御霊の数は166柱ということですが、昨年の記録を見ると、238柱が招霊されています。今年は昨年より72人少ないのですが、そのうち41人はブラジルの幹部・信徒の方々です。割合にすると約25%で、4分の1に当たります。昨年のブラジル人の割合は16%でしたから、私たちの運動におけるブラジルの同志の方々の割合が、しだいに大きくなりつつあることが分かります。それだけ、運動は国際化していると言えるでしょう。
 
 生長の家では、人間の一生を「芸術表現」に喩えることがあります。詩を詠んだり、音楽を演奏したり、絵を描いたりするのが芸術表現ですが、その場合、自分の内部にすでにあるものが表現されて出てくるのです。しかし、自分の中に素晴らしいもの、美しいものがすでにあっても、それを自分で満足できるレベルにまで表現するためには、1回や2回の練習では足りないのが普通です。だから、ピアニストやバイオリニストは毎日何時間も練習することは、皆さんもよくご存じの通りです。人間の一生もこれと似ていて、自分で作った“曲”を何回も練習しながら生きていきます。途中で、気に入らない曲だと思ったら、自分で作曲しなおすこともできます。そうやって1つの曲を完成に近づけていくうちに、肉体は衰えていくかもしれません。しかし、これは表現の道具が古くなっていくのであって、表現者が衰えるのではない。だから、私たちは定年を過ぎても、新しいことにどんどん挑戦したくなることもあるし、子供の頃の夢を実現したいと思う人もいる。
 
 しかし結局、古くなった道具は捨てていかなければなりません。これが肉体の死ですが、死によってそれまでの人生のすべてを捨ててしまうから、「空しい」とか「寂しい」とか「意味がない」と感じる人もいるようです。しかし、この考えが生まれるのは、表現した作品そのものを自分だと考えるからです。作品は作者の表現物ではあっても、作者そのものではない。演奏した音楽は確かに演奏者の力量を表現しているけれども、演奏者そのものではない。ですから、その“作品”にとどまっている限り、さらによい演奏、さらによい曲想を表現することはできないわけです。だから、作品はむしろ捨ててしまった方が、次なる段階へ飛躍できることが多いのです。
 
 私事になりますが、今年の夏、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山で盂蘭盆供養大祭が行われた際に、私が『小閑雑感』シリーズなどの本の中で使ったスケッチ画の原画展をやらせていただきました。これは、原画をほしい人に買っていただいて、その資金を森林再生の事業などに寄付するためです。それで、大祭の最終日に私も原画展の会場へ行ってみたのですが、そこに来てくださっていた信徒の方から、「絵を手放してしまうのは寂しくありませんか?」と訊かれました。私はその時、一瞬、返答に困ったのですね。なぜなら、「絵がなくなるのは寂しい」などと考えたことがなかったからです。でも言われてみると、一抹の寂しさがないわけではない。絵の対象やそれを描いた時の自分が、1枚の絵には形になって残っているからです。しかし、私の場合はプロではありませんから、自分の絵がそんなに上等とは思っていないし、絵を描いた時の自分が今より優れているとも考えていない。むしろ、そんな絵でもほしい人がいたら、買っていただくことで社会貢献ができるなら、そちらの方がいいと考えたのです。だから、「寂しくありません」と答えました。
 
 しかし、我々の人生全体……ということになると、一枚のスケッチ画よりよほど内容がありますから、「捨てるのは惜しい」という気持はよく分かります。私だって、今いきなり“お迎え”が来たら「行くのはイヤだ!」とジタバタするかもしれない。でも、人間は必ず今の肉体を捨てていく時が来るのですから、その際に“古い作品”にしがみついてばかりいるのではなく、“新しい境涯”“別の可能性”の方向に目を向ける余裕を得ておきたいと思うのであります。その方が、ご本人のためにも、ご親族のためにも良い結果となる場合が多いからです。それには、真理の言葉と常に接していることが必要です。『甘露の法雨』には、人間の死は魂の滅亡ではなく、カイコが繭を食い破るごとく、より高い境涯へ飛躍することだ、と説かれています。また、「帰幽の神示」には、「1曲が終らんとするを悲しむな。それはなお高き1曲に進まんがためである」とあります。今日は、『日々の祈り』の中から「捨てることで自由を得る祈り」の一節を読んで、皆様の参考に供しようと思います--
 
 (「捨てることで自由を得る祈り」の一部を朗読)
 
 このように、私たちの命は生き通しであるという教えを自ら生きるとともに、多くの方々に神性・仏性を表現する人生の意義をお伝えして、これからも大いに人類光明化運動を進めてまいりましょう。本日は、お参りくださいまして誠にありがとうございました。
 
 
 谷口 雅宣

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2008年9月22日

対称と非対称 (3)

 前回、アイヌ民族のイオマンテの儀式を取り上げたのは、それが無意識の機能の1つである「非対称的関係を対称的関係として取り扱う」分かりやすい例だと思ったからである。
 
 宗教学者の中沢新一氏は、神話や宗教の教えの中には対称性論理(対称的関係)と非対称性論理(非対称的関係)とが上手に組み込んである、と指摘している。例えば、神話の世界では、対称性論理が支配的である。日本の神話に登場する数多くの神々も、ギリシャ=ローマの神話の神々も、その他の多くの神話の神々も、人間との区別がつけにくい。つまり、人間のように泣き、笑い、怒り、嫉妬し、殺し、また悲しむ。このことの裏を返せば、これらの神々は人間にとても理解しやすく、“仲間”として感じやすい。神は人間のようであり、人間は神のようなのだ。このことは、日本神話に出てくるスサノオミコトやオオクニヌシノミコト、ヤマトタケルノミコトなどの話を思い出せばわかるだろう。
 
 また、日本神話での対称性を顕著に示すものとして、私は神々の連続的関係を指摘したい。そこに登場する幾多の神々は、他の神々から截然と分離独立しているのではなく、むしろ流動的につながり合っているのである。どこかにもこのことは書いたが、イザナミノミコトが火の神であるヒノカグツチノカミを産んだことがもとで死んでしまうと、夫のイザナギノミコトは痛恨のあまり自分の子であるヒノカグツチノカミの首を刀で切って落とす。すると、その流れ出る血から次々と8柱の神が生まれてくるのである。また、切られた首や手足や胴体からも別の8柱の神が生まれてくる。これらの神々には人の生活に役立つ機能を表すような名前が、また、山や谷や山麓を表すような名前がそれぞれについている。つまり、火の破壊力を制御することで人間の生活に利便を供したり、自然の山野を(落雷や野火から)守ったりすることができるというメッセージがそこから読み取れる。

 また、これらの神々の関係は“善”と“悪”というような非対称的で、相容れないものとして描かれていない。火の破壊力は否定されるのではなく、その形を変えれば人間や自然に恩恵を与えるものとして肯定されている。そして、“火の神”から生まれるすべての神々は、それぞれの役割がゆるやかに重なり合い、どれかが抜群に秀でているのではなく、みな対等に何らかの積極的機能を果たしている。これらは互いに対称的関係にあると言っていいだろう。
 
「Aは非Aではない」という論理は、我々にとって当り前だろう。それは例えば、「人間はサルではない」ということであり、「赤はピンクではない」ということだ。しかし、人間とサルは遺伝子が98%以上共通しており、ピンクの中には赤が混ざっている。そういう共通性に注目して「人間はサルではないがサルでもある」と言ったり、「赤はピンクではないがピンクでもある」と言うことはバカげているだろうか? 後者の考え方が対称性の論理であるが、神話はこういう考え方に満ち溢れている。そして、宗教の教えの中にも、対称性の論理は数多く見出されるのである--「自他一体」「今即久遠」「相即相入」「即身成仏」「身心一如」「修証一如」「言葉は神なりき」「天国は今ここにあり」「唯心所現」……そして、「人間は神の子である」。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○中沢新一著『対称性人類学』(2004年、講談社刊)

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2008年9月21日

イオマンテを考える

 北海道の旭川市で行われた生長の家講習会からの帰途、この文章を書き始めている。私はかつて本欄(2005年3月27日5月21日)で、北海道のアイヌの儀式である「イオマンテ」について触れたことがある。この儀式は、アイヌの村で飼っていたヒグマの子が成長すると“神”として森に送り返すものだ。こう書くと聞こえがいいが、別の表現を使えば、これは「山から生け捕りにしてきた子グマを育て、1~2年後に殺して食べるときの祭」なのである。村民は子グマを取り囲んで矢を放ち、2本の丸太で首を挟んで息の根を止める。「残酷だ」という理由で今ではほとんど行われなくなっているらしい。

 しかし、アイヌの信仰では、ヒグマはもともと山の神であるから、人間社会の中にいつまでも留めておくことはできない。それを一時村で育てた後は、本来の場所へ返さねばならない。その際、肉体から魂を分離させて、前者からは毛皮や肉などの恵みをいただく代りに、後者は“神”として尊敬申し上げ、厳かな儀式の中で送り出すことが必要なのだ。アイヌの伝統的自然観では、「自然は生命の連続であり、そのことを感じ、恐れ、感謝しながら、すべての生物を同僚とし、背後の命の流れを神として生きる」--こういう自然との一体感と信仰は、まさにマテ=ブランコのいう「対称的関係」の自覚である。

 この儀式は、本当に非難すべきものだろうか? 「毛皮と肉が必要ならば、単に殺してそれをもらえばいい」という考え方が、成り立つかもしれない。しかし、この考え方こそ、人間とクマとを「非対称的関係」として捉えるものなのだ。我々の覚醒時の論理的認識は、人間とクマとを“別物”として捉える。したがって、人間の利益とクマの利益は必ずしも一致しない。だから、人間がクマを殺して毛皮と肉を得ることは場合によっては必要である。それができるのは、人間がクマより優れているからだ。優れているものは、劣っているものを尊敬する必要はないし、ましてや“神”として扱うことは無意味である。だから、イオマンテの儀式は不要である。

 これは確かに“理性的”な考え方かもしれないが、マテ=ブランコが指摘しているように、人間は醒めた意識による理性的判断だけをしているのではなく、無意識中で顕著に働く“感情”を備えている。そして、このもう一方の人間的側面において、我々はクマに対して感情移入するのである。「残酷だ」という感情が生まれるのは、その証拠である。つまり、人間はクマを自分と同じ生き物として捉え、クマの身になって考えることができる。クマは人間と同じように、親を必要とし、食べ物を与えれば喜び、喜怒哀楽を表現し、恐怖や苦痛を感じるのである。このようにして、クマと人間を“対等”のものとして感じることが「対称的関係」である。そういう感じ方を我々の心は本来もっているのだが、それを抑圧して“理性的”にのみ考え行動することは、言葉の本来の意味からして「人間らしい」とは言えない。
 
 先に私は、我々の無意識は「非対称的関係を対称的関係として取り扱う」ことを述べた。すると、アイヌのイオマンテの儀式は、この無意識の働きを宗教的行事として結実した貴重な文化遺産だと見ることができるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月19日

北極の海氷は残った

 台風13号の関東地方への接近が、生長の家講習会のために羽田を発つ日と重なりそうなので、一足先に開催場所の旭川市へ飛んだ。このような理由で講習会のための日程や旅程が変わることが、年に1回ほど起こる。想定外のことが起こると人は時に困惑するが、予定が詰まっているときには、その中のいくつかが同時に外れてしまうことがあり、却ってゆったりとした時間をもてる場合がある。今日は、どうやらそんな有り難い日のようである。講習会の旅先では、夕食は何時、入浴は何時、就寝は何時、起床は何時……などと、いつも時間を気にしながら仕事をする。が、そんなことに気を遣わない旅を、台風さんは私たちに与えてくれた。旭川地方は、好天の昨日は29℃まで気温が上がったというが、今日は曇りで最高気温は20℃。イネは刈り取り間近で、地面を黄金色に塗り替えているし、街路樹のナナカマドは小さい赤い実をいっぱいつけて秋の到来を告げている。

 地球温暖化の進行で、北極の氷が今夏には消滅するのではないか、と危惧されていた。このことは本欄を単行本化した『小閑雑感 Part 11』(世界聖典普及協会刊)の「はじめに」にも書いたが、昨年の9月に北極の海氷は過去最小になっただけでなく、この年の氷の減少率は、ここ数十年間の平均値を大幅に超えていたのである。また、今年はつい先日のことだが、北極海のロシア側とカナダ側の氷が一時すべてなくなったことが報道されていた。が、幸いなことに、今夏の北極海の氷は、昨年の同時期のレベルより多い状態のまま融解期を終えたという。18日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 それによると、コロラド州ボルダー市にあるアメリカ氷雪記録センター(National Snow and Ice Data Center)は、北極海の氷は夏の融解期を終えて拡大を始めているが、その大きさは9月12日に、今年の最小である450万平方キロにまで減り、衛星による観測を始めた1979年以来の平均値に比べて、33%も小さかったという。昨年の最小サイズは、412万平方キロだった。
 
 北極海の氷が少なくなることで、ホッキョクグマの絶滅が心配されているが、そういう感情的な問題に加えて深刻なのは、氷による熱反射が少なくなり、海への太陽熱の吸収が進むことで、極地の温暖化が加速することだろう。また、これまで氷で閉ざされていた極地への海上ルートができるから、資源開発が容易となり、それに伴って極地は誰のものかという“領土問題”が起こることだ。18日の『朝日新聞』は、ロシアの安全保障会議で、2020年までの優先課題として北極圏の大陸棚の境界画定が取り上げられ、メドベージェフ大統領が「基本的な課題は、北極を21世紀のロシアの資源基地に変えることだ」と発言したことを伝えている。北極の開発については、ロシアのほかカナダ、ノルウェー、アメリカなどの周辺国が先を争っており、そういう開発が進めば進むほど、開発優先の論理が力を増すことを私は危惧している。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月18日

対称と非対称 (2)

 我々の無意識が「非対称的関係を対称的関係として取り扱う」というのは、どういう意味だろうか。前回本欄で書いたことは、我々の覚醒時の論理的認識だった。こういう精神活動は、我々が「理性」と呼んでいるものが行うとされている。これに対して、我々の精神活動のもう一つの側面である「感情」は、必ずしも理性の束縛を受けない。このことは、我々自身の日常の中でもよく体験されることだ。例えば、我々は理性ではマズイと分かっていることも、感情に任せて言ってしまうことがある。また、理性的には不合理だと考えることも、感情的に納得してしまうこともある。そういう人間の感情的側面が無意識と関係しているとしたら、マテ=ブランコの指摘は看過できないものを含んでいるのである。
 
「非対称的関係を対称的関係として取り扱う」例として、前回の本欄で掲げた非対称的関係を逆転して対称的関係にしてみよう--
 
 彼は電話をくれる  → 電話が彼をくれる
 雨が空から降る   → 空が雨から降る
 彼女は空腹を感じる → 空腹は彼女を感じる
 あなたは生長の家の会員である  → 生長の家はあなたの会員である
 私は犬を飼っている   → 犬はあなたを飼っている
 日本は世界の一部である  → 世界は日本の一部である

 これらの表現は、一見論理的には破綻していて無意味に感じられる。しかし、何回も味わって読んでみると、何か不思議な含意があるような感覚に到達しないだろうか?
 
 例えば、こんな物語が読み取れるかもしれない--
 
 彼に恋い焦がれていた彼女は、ここ1週間というもの、彼から電話がかかって来ないことに疲れ果てていた。毎日でも彼の声を聞き、できたら彼と会って、たくさんの話がしたいと思っているのに、彼はなぜか、そんな彼女の気持に一向無頓着で、自分の好きなスポーツに熱中しているのである。そんなある日の午後、彼女の部屋の電話が鳴り、心踊らせて受話器を取った彼女の耳に、彼の弾んだ声が飛び込んできたのだった。
「今から、遊びに行ってもいい?」
 断る理由は何もなかった。でも、すぐにOKするのは口惜しかった。だから彼女は、
「えぇ……そんな突然……」
 と言葉を濁した。
 でも、心の中は幸福でいっぱいだった。部屋に電話があることが、これほど嬉しいことはなかった。電話が彼を彼女にくれたのだ。

 2番目の例は、こんな場合を暗示していないだろうか--
 
 私が“ゲリラ豪雨”というものに襲われたのは、その日が初めてだった。
 家を出たつい10分前には、青空が見えていた西の方角に、見る見るうちに積乱雲が積み上がっていった。でも、渋谷駅まではほんの少しだと高をくくっていたのが、いけなかった。雷鳴が遠くに聞こえた、と思うと、ポツリポツリと冷たいものが降ってきた。人々が小走りになり、傘を広げたり、雨宿りできる軒下を探しているのが分かった。が、私は人と会う約束があったから、立ち止まるわけにはいかなかった。私は、持っていた鞄を頭に載せて、走った。雨が直接顔に当たらないように、うつむいた姿勢で、水溜りを避けて走った。空にこんな大量の水があることが不思議だった。その雨は、まるで空全体が地上に降っているようだった。

 --私がここで言いたいことは、人間はいわゆる「理性的」に世界を理解することと併行して、それとは別の論理(あるいは仕組み)によって「感情的」にそれを理解することができるということだ。マテ=ブランコは、そのことを「二重論理」(bi-logic)という言葉で表現し、それが我々の無意識が行っている仕事だと捉えたのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○I.マテ-ブランコ著/岡達治訳『無意識の思考--心的世界の基底と臨床の空間』(新曜社、2004年)

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2008年9月17日

対称と非対称

 無意識の研究については、シグムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)やカール・ユング(Carl Gustav Jung, 1875-1961)が有名だが、チリで生まれ、イギリスで精神分析・精神医学を学び、アメリカで研究を深め、ローマでも活躍した精神分析家、イグナシオ・マテ=ブランコ(Ignacio Matte-Blanco, 1908-1995)が行った、数学や論理学を駆使した研究は、多くの示唆に富んでいる。彼はその中で、無意識には覚醒中の論理とは異なる独特なものがあるとして、13の特徴を挙げたが、その分析の基本に数学の集合論を用いた点、心の研究にフロイトやユングにない新たな地平を開いた人物として評価できるだろう。
 
 難しいことをできるだけ平易に表現してみると、マテ=ブランコによると、我々の思考は世界から2つの概念(集合)を切り出して、それらの関係性を組み立てることで行われるという。簡単な例を挙げれば、私は今、ノートパソコンを使って文章を書いている。この認識(思考の産物)を形式化すると--
 
 私(A)は  文章(B)を  ノートパソコンで書いている(C)
 
 --となる。
 
 Aという事物と、Bという事物があり、その関係はCで表される。文法的に言えば、Aが主語、Bは動詞(書く)に媒介された目的語である。この関係を逆転させると--
 
 文章(B)は  私(A)を  ノートパソコンで書いている(C)
 
 --となり、世界の実情とは違う意味不明の文章となる。
 
 このように、関係の逆転が成立しないような関係を「非対称的関係」(asymmetrical relationship)とマテ=ブランコは呼んだ。これに対して、世界を構成する2つの要素の関係Mtimg080918_2 を逆転しても意味が変わらないものもある。それは例えば、私と本欄の読者が共に日本人であるという関係である。(これには少数の例外もあるが、今はそのことを問題にしない)この認識を形式化すると--
 
 私(A)と  読者(B)は  日本人である(C)
 
 --となり、これを逆転すると、
 
 読者(B)と  私(A)は  日本人である(C)
 
 --となって、意味は変わらない。
 
 このような、関係の逆転が同じ意味であるような関係を「対称的関係」(symmetrical relationship)と彼は呼んだ。こうして、我々が周囲の世界を概念(集合)の集まりとその関係として見るならば、あらゆる認識が対称的または非対称的関係の中に収まる--
 
 彼は電話をくれる (非対称)
 雨が空から降る (非対称)
 彼女は空腹を感じる (非対称)
 あなたは生長の家の会員である (非対称)
 私は犬を飼っている (非対称)
 日本は世界の一部である (非対称)
 鳥と獣は違う (対称)
 …………
 これらの例では、「非対称」が「対称」的関係より多い。そのことから分かるように、我々の周囲の世界では、一般に対称的関係は非対称的関係ほど多く見られない。そういう認識が我々が通常--つまり、目が覚めている時に--見る世界である。ところが、マテ=ブランコによると、我々の無意識は、非対称的関係を対称的関係として取り扱うことが多いというのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○I.マテ-ブランコ著/岡達治訳『無意識の思考--心的世界の基底と臨床の空間』(新曜社、2004年)

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2008年9月16日

睡眠と思考

 人が目を閉じてじっと動かないときは、沈思黙考しているのか、それとも眠っているのか分からないことがある。当の本人も、目をとじて考えているつもりでいて、ふと眠ってしまうこともある。その一方で、人は夢の中で何かを考えることもできる。眠りと思考との間には、だから截然とした境界はなさそうに思える。
 
Mtimg080916  しかし、目を覚ましていて考えるのと睡眠中の思考とは、使っている“心の領域”が違っている--こう断言するのが不安ならば、少なくともそう言われているとしておこう。つまり、覚醒中の思考は現在意識が行い、睡眠中のそれは潜在意識あるいは無意識が行う。心理学では、よくそう考える。では、睡眠中の思考は、目覚めている時のそれと同じ論理で行われるのだろうか? 
 
 この問いに答えるためには、どうしたらいいか。睡眠中に見た夢を覚えておくことは至難の業だ。だから、夢の中の思考が目覚めている時の思考と同じかどうかなど、確かめようがない。そう思う人がいるかもしれない。が、「夢そのもの」が睡眠中の思考だと考えてみれば、夢の世界の一般的な特徴を思い出すだけで、先ほどの疑問にある程度答えることができるだろう。
 
 夢の世界の特徴は、論理性がなく、ほとんど支離滅裂である--そんな印象が圧倒的である。しかし、心理学者は、多くの人の見る夢を詳しく研究することで、一見、何の脈略もなく物事が生起し、覚醒時の論理を受け付けないように見える夢の中に、一定のパターンや独特の論理性を発見してきた。そういう夢の中の隠れた“鍵”を使って、それを見た本人とともに夢の意味を考えることで、本人の心や肉体上の病気が癒されることがあることも分かってきた。これが、精神分析による夢判断である。
 
 ということは、眠りと思考の間には“境界”がなさそうに感じられたとしても、そこでは心に何らかの“モード変換”が起こると考えられる。心が“覚醒モード”から“睡眠モード”へと切り替わり、それと同時に、思考の論理も変換する。こう考えると、夢の研究や、それを見る無意識の中の論理を探究することに、何らかの意味があることが分かってくるのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年9月15日

メディアの責任を問う

 13日の本欄で、アメリカが主導する“テロとの戦争”の基礎となっている「ブッシュ・ドクトリン」について言及したが、私はこの考え方に対して早い時期から反対の意思を表明してきた。その理由をここで繰り返すつもりはないが、「9・11」の後に発想されたこの政治・外交方針の危うさについて、マイケル・ボンド氏(Michael Bond)が8月30日付のイギリスの科学誌『New Scientist』に「頭を冷やせ(Keep your head)」という題で興味ある分析を書いていた。
 
 それによると、「9・11」後の12カ月間、大勢のアメリカ人は国内の移動に航空機を使うのをやめて、長時間であっても自動車を運転することに切り替えたそうだ。その結果、この期間に交通事故で死亡した人の数が約1600人も増えたというのだ。この数は、同事件でハイジャック機に乗っていて死んだ人の数の6倍に相当するそうだ。これは、恐怖心にもとづく意思決定が正しく行われないことを有力に示しており、この事実を発見したドイツの研究者に言わせると、多くのアメリカ人は恐怖すべきハイジャックの危険を避けようとして、「フライパンの上から逃れて火の中に飛び込んだ」のだそうだ。
 
 人間は不確かな事態に遭遇したとき、大別して①理性的判断、②直感的判断のいずれかによって対処するという。いずれの方法もそれぞれ長所と短所があるが、②を行う場合、強い恐怖心が働くと、最善の策を採ることが難しくなるという。特に、めったに起らないが、起こると重大な結果を招くような状況に直面した場合、この“恐怖による危険”が生まれるという。テロリストの攻撃、ガンの脅威などが、これに当たる。前者の例はすでに触れたが、後者の例では、ガンで悲惨な闘病生活をした近親者がいる人は、自分がガンになる可能性を過大に考える傾向があり、そのため危険性の高いガン検査をすることもあるという。

 我々の意思決定を歪める要素は、恐怖心だけではないという。強い記憶--特に、強烈なイメージを思い出す場合--は、それと関連した事件が実際より頻繁に起こると考えやすくなり、正しい判断が難しくなる。航空機事故に遭ったり、テロに遭遇したり、あるいはサメに噛みつかれることなどが、この部類に入る。というのは、こういう事故や事件については、メディアが同じことを何回も報道し、現場の残酷な映像などを繰り返し伝えるからだ。その逆に、病死については、強い記憶は残りにくい。なぜなら、病人の映像や葬式などはメディアではあまり取り上げられず、その代り、統計的な数字を使って報道されることが多いからだ。
 
 ここまで書いてくると、我々の個人的判断のみならず、社会全体の意思決定に及ぼすメディアの影響が重大であることが分かるだろう。“悪”を探し、“悪”に注目して、その強いイメージを社会に発信する現在のメディアの報道姿勢は、社会全体の意思決定を間違った方向へ引っ張っていく危険性があるのである。私は本欄で、これまで何回か日本の犯罪が「増加」しておらず、「凶悪化」しておらず、「低年齢化」もしていない事実を、警察庁発表の犯罪統計を使って述べてきた。が、一般の人々の印象では、日本の犯罪は増加し、凶悪化し、低年齢化している。このことは、イギリスについても言えるようだ。
 
 同誌の記事によると、2006~2007年の調査では、イギリスに住む人の65%は犯罪が全体として増加していると信じているが、実際の統計では、1995年以降の10年間で犯罪件数は42%減少し、その後は同レベルを維持しているという。アメリカでも似たような現象が見られる。2001年のある調査では、1990年から98年の9年間で、犯罪の記録は20%減ったのに対し、テレビの犯罪報道は83%増加したという。特に顕著なのは、この期間中、殺人事件を扱った番組が473%増えたのに対し、実際の殺人事件は33%減ったという。アメリカ社会は銃規制に消極的であり、それが一つの原因となって銃犯罪がなかなか減らないという悪循環があるが、そこにはメディアの責任があると考えられる。日本社会でも、メディアが悪事の報道ばかりを続けていることと、経済や政治に明るさが出てこないこととの間には関係があるかもしれないのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月13日

ペイリン氏の“危うさ”

 日本の自民党総裁選挙は、何となく仕組まれた感じで面白くない。最初から当選者が決まっているのに、決まっていない振りをして、メディアの注目を得たい人たちが立候補の制度を利用している……そんな気がする。そう感じる最大の理由は、本当の意味で麻生氏の“対抗馬”となれる人(谷垣氏など)が立候補していないからである。が、まぁ、そういうのが日本の政治だと思えば、次に首相となる人の外交政策も、従来とはかけ離れることはないから心配しなくてもいいのかもしれない。ところが、二大政党制をとっているアメリカの場合、政権党が交替すると、大統領府の人間だけでなく、国務省上層部の役人まで交替することになるから、外交政策が一変する可能性が生まれるのである。そういう意味で、日本の政権交替よりもアメリカの政権交替の方が、世界に及ぼす影響が格段に大きいと言える。だから、アメリカの大統領選挙は確かに文字通り“対岸の火事”ではあるが、政治・経済で密接な関係にある日本人にとっては、自国の首相の交替よりも影響が大きい場合がある。

 そんな理由から、ブッシュ大統領の“跡目”を狙う共和党の大統領・副大統領候補の資質は、少なくとも私にとっては大きな関心事なのである。多くの読者はご存じのように、これまでは民主党のオバマ上院議員が有利に進めてきた選挙戦だが、共和党がアラスカ州の女性知事、サラ・ペイリン氏(Sarah Palin)を副大統領候補に決めてからは、情勢は逆転し始めている。民主党のヒラリー・クリントン氏を支持していた女性票の多くが、ペイリン氏を擁する共和党へ流れ始めたからだ。外国人である私は、アメリカ人が自国の指導者を選択することに干渉するつもりは毛頭ない。が、ブッシュ氏の政策によって日本も大いに振り回されてきたことに加え、“一国主義”的な外交政策のため、地球全体の問題として解決すべきことが疎かにされがちだったことを思えば、少なくとも「希望」ぐらいは言わせてもらえるだろう。
 
 その希望とは、新しいアメリカ大統領府は「外交」や「国際関係」を疎かにしないでほしいということだ。13日付の新聞報道などによると、ペイリン氏はこのほど指名後初めてメディアのインタビューに答えて、外交政策について語ったという。具体的には、ペイリン氏は11日にABCテレビのアンカーマンであるチャールズ・ギブソン氏(Charles Gibson)とのインタビューに応じ、外交・安保政策について語った。13日付の『朝日新聞』によると、ギブソン氏がこの重要問題について、ペイリン氏に経験と能力があるかと単刀直入に質問したら、彼女は「あります。用意はできている」(Yes, I'm ready.)ときっぱりと答えたという。ところが、次に「外国の首脳と会った経験は?」という質問には「ありません」と答えたという。まぁ、このぐらいの経験のなさは新人候補としては仕方がないだろうが、私が驚いたのは、副大統領ともなれば核超大国であるアメリカの軍隊を指揮する可能性が出てくるのに、「ブッシュ・ドクトリン」を知らないらしいのだ。
 
 この軍事ドクトリンは、昔からの本欄の読者ならば「先制攻撃論」という名前で私が言及してきたものだから、まだ覚えている方も多いと思う。詳しくは、2002年6月11日の本欄「先制攻撃の道」を参照してほしいが、「9・11事件」の後にブッシュ大統領が“悪の枢軸”と定めた国やテロリスト集団に対して、「オマエらが攻撃をしかけなくても、攻撃の危険性が増したとオレが判断したら、自国防衛のために先制攻撃をかける」と宣言したその考え方だ。この軍事思想は、それまでのアメリカの軍事理論を覆すもので、その理論の延長としてアフガニスタン侵攻や、イラク戦争が行われたと考えられるのである。また、北朝鮮が核兵器開発に走ったのも、ブッシュ氏のこの理論が少なからず影響しているとも考えられる。そういう問題性と影響力の大きい政治・軍事理論について、副大統領候補者が知らないというのでは、同盟国に住む者としては安心できないのである。
 
 ペイリン氏は、外交・防衛政策についてマッケイン陣営の専門家からブリーフィングを受けていなかったのではない。13~14日付の『ヘラルド・トリビューン』によると、彼女はこのインタビューを前に、マッケイン陣営の何人もの政治・政策アドバイザーから想定問答の訓練を受けていたという。にもかからず、ギブソン氏から「貴女はブッシュ・ドクトリンに賛成ですか?」と訊かれた時、質問の意味が分からず「どういう面でかしら、チャーリー?」と逆に質問したという。ギブソン氏が「貴女はそれが何だと思いますか?」と訊くと、彼女は「彼の世界観かしら?」と自信なさげで、ついにギブソン氏は「そうじゃなくて、2002年9月、イラク戦争の前に発表されたブッシュ・ドクトリンです」と半分答えてあげるはめになったという。
 
 このことから考えると、アメリカ共和党の副大統領候補は、これから核問題を含めた外交・防衛政策について勉強しなければならないのだ。それに比べ、民主党の副大統領候補は上院外交委員会の委員長を務めてきた人だから、よほど安心感がある。とにかく、“対岸”にいる私としては、次期のホワイトハウスが、ブッシュ氏とは違って、国際的な協調路線を採ってくれることを切に希望するのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月12日

逆立ちした「9・11」

 2001年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロ事件から7年がたったというので、被害国・アメリカを中心に、その後の“テロとの戦争”などの諸対策の効果をめぐって様々な議論が起こっている。私はその中で、10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載ったマイケル・スラックマン記者(Michael Slackman)のカイロからのレポートを読んで驚いたと同時に、人間の心の不思議さを改めて感じた。我々日本人を含む“西側”の立場から見るこの事件と、“イスラーム側”--特に、アラブ人--から見たこの事件の意味が、あまりにも違うからである。
 
 エジプトのカイロだけでなく、ドバイ(アラブ首長国連邦)のショッピング街、アルジェ(アルジェリア)の公園、リヤド(サウジアラビア)のカフェで普通の人々が語り合う「9・11事件」は、我々の考えるものとほとんど“正反対”だ。西側では“陰謀説”と呼ばれ、ごく少数の人間が唱えているものが、彼らの間の“通説”になっている。つまり、「9・11」はアメリカ政府とイスラエルの合作であり、これをイスラーム過激派やイラクのせいにして中東に軍を送り込み、そこを支配下に置くための陰謀である--そう固く信じている人が大半だというのである。

 私はかつて本欄でも、この“陰謀説”を紹介したことがある。2年前の今ごろに書いた「大悪が大事件を起こすのか?」というブログだ。また、この説は、オサマ・ビンラディンのアメリカへの“宣戦布告文”と主旨が同じであるから、“テロとの戦争”を7年間戦ったすえに、イスラーム人口の大半がビンラディンの世界観に同調するようになったとも解釈できる。もしそうであるなら、たとえ武力によって“敵”を制圧したとしても、この戦争では“西側”が勝利しているとはとても言えないと思う。少なくとも“思想戦”の分野においては“西側”の敗北ではないだろうか。

 どこかにも書いたことがあるが、人間は基本的に「信じたいことを信じる」のである。この記事にもあるように、アラブ世界の一般民衆は、あの精密・強力な電子兵器で武装した核超大国であるアメリカが、自らの富の源泉である国際金融センターのニューヨークや国防総省の真上に旅客機が侵入することを防げないなどということはあり得ない、と考えるのである。しかも、それを指揮したのが、アフガニスタンの山奥に住むアラブ人の小グループであることなど信じられない、と彼らは言う。また、物事が起こる時間的序列は、因果関係を示すと見られがちだから、「9・11」(A)が起こった後にアメリカによる「アフガニスタン侵攻」と「イラク戦争」(B)が起こったのだから、Aの目的はBである--つまり、アメリカは原理主義イスラームを打倒するために、自分自身で「9・11」を演出した--と見なされるのである。そして、Bによって何が実現しているかというと、アフガニスタンとイラクに親米政権が樹立され、そこからの石油の(アメリカへの)輸出が保障され、さらにはイスラエルの安全が向上する。こうして、原因に始まり結果に終わる因果関係の輪はきれいに閉じて、世界はとても分かりやすくなる。だから、この“陰謀説”は、アラブの民衆の“認知の不協和”を解消する便利な道具でもあるのだ。
 
 私はもちろん、こんな安物の陰謀説にくみしない。この説の最大の難点は、「アメリカ人によって選ばれたアメリカ政府が、何千人という大勢のアメリカ人とその友好国の人々を犠牲にして、国の一部の勢力と外国(イスラエル)の利益のために行動する」という前提が、現実離れしているからである。また、もし仮に政府上層部と一部の利益団体がそのような動きをしようとしても、それを見抜き、反対できないばかりか、そういう政策に積極的に協力していくような愚か者としてアメリカ人を--いや、民主主義が機能しているどんな国の国民も--見ることができないからである。これに対して、民主主義が機能しない独裁的な政治が行われている国の人々は、自国政府の姿をアメリカ政府にごく自然に投影できる。つまり、自国がそうなのだから、アメリカもそうであるに違いないと考えるのだ。スラックマン記者は、それを次のように説明している--
 
「それ(陰謀説)は、彼らが国家の指導者を--ワシントンの指導者だけでなく、ここエジプトを初め中東全体の政治指導者を--どう見ているかを反映している。彼らは、政治指導者を信じない。国営の報道機関も信じない。だから、政府がビンラディンが事件の背後にいたと主張するのであれば、それは本当はいなかったに違いないと考えるのである」。

 このような事実を見ると、我々人間は、個人のレベルで“心でつくる世界”に棲んでいるだけでなく、国家や国際関係のレベルでも、自らの“心の投影”をつくり上げて、それと格闘するという愚を犯していることが分かる。「戦争は迷いと迷いとのぶつかり合い」と言われる所以である。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年9月10日

スケッチ原画展 (2)

 8月12日の本欄でお伝えしたスケッチ原画展の結果について、主催者である世界聖典普及協会から報告をいただいた。この展覧会は、本欄を単行本化した『小閑雑感』シリーズが10巻目を刊行したことを記念して、8月16日~18日の3日間、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山で開かれたもの。同シリーズの単行本に収録された絵の原画12点のほか、未掲載の原画52点、絵封筒34点、手帳2冊が展示され、このうち販売対象となった64点は、おかげさまで3日間で完売された。すでにお伝えしたように、これによる収益金は、森林の再生を目的とした活動に寄付されるが、その額は126万円となった。皆さまのご支援、ご協力に心から感謝申し上げます。

 絵封筒は販売の対象にしなかったが、その理由の1つは、10月13日~19日に東京・銀座で開催される第30回生光展(生長の家芸術家連盟美術展)に出品する予定にしていたからだ。この展覧会では、30回記念特別企画として「絵手紙・絵封筒展」を併行するそうだが、このために全国から絵手紙が161点、絵封筒は98点も集まったというから、私の絵封筒は原画展に出した34点すべては展示されないと思う。絵封筒がどんなものかに興味のある読者は、小関隆史氏が運営しているブログ「光のギャラリー ~アトリエTK」の絵封筒ギャラリーを覗いてほしい。その中に私のものもいくつかある。また、単行本では小関氏監修の『光のギャラリー 絵手紙はWebにのって』や拙著『太陽はいつも輝いている--私の日時計主義実験録』(ともに生長の家刊)に作例が掲載されている。
 
 普通の絵に比べ、絵手紙や絵封筒は“人とのつながり”が絵の中に表現されている点に特徴がある。つまり、これら2つのポップアートは「誰かに出す」ためのものだから、差出人(作者)と受取人との人間的つながりが表れていて、独特の温かみがある。そういう中に、雑誌やテレビのような不特定多数を対象とした媒体よりも“簡単”に制作できながら、より訴求力(訴えかける力)が強いという長所がある。こういう“手作りの媒体”も使って光明化運動を進めていくことをねらったのが、「技能や芸術的感覚を生かした誌友会」と言えるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月 9日

紙テープで絵を描く

 4日に横浜へ行ったことを書いたが、その時、みなとみらい地区の小物店で紙テープのセットを買った。5色のマスキング・テープの何とも調和した色の組み合わせに惹かれて、用途などロクに考えずに買ってしまった。一種の衝動買いだ。マスキング・テープは普通、絵画や工作で着色をする際、絵の具や塗料がついてはいけない所に貼るためのものだから、テープ自体が何色であってもあまり問題にならないはずだ。ところがこのセットは、テープ自体が美しく着色されているため、絵の具をマスクするためよりは、テープそれ自体を絵の具代わりに使って絵を描くことができるかもしれない……とっさに私の脳裏に浮かんだのは、その程度のことだった。

 世の中には、紙を千切ったものを貼って絵を作る人がいる。山下清がその方法で絵を描いたことは有名だ。また、私の家のリビングには、妻の母親が花を千切り絵で描いた暑中見舞いの葉書が飾ってある。そんな記憶が脳裏を掠めたに違いない。新しい画材としての紙テープである。
 
 今日はそれを使って2、3の実験をした。葉書大のスケッチブックを開き、最初は母の千切り絵をまねて花の形をテープで作ってみた。ところがこれが案外、むずかしい。まず、テープは和紙でできているから、千切る方向が自由にならない。つまり、縦方向には裂けやすいが横方向には千切れにくい。また、テープの裏面には糊がついているから、小さく切って細工をしようとしても、裏面同士がくっついてすこぶる扱いにくい。そんなわけで、最初の花の形はほとんど冗談っぽくなった。次には、まず鉛筆でものの輪郭を描いてから、その線と線の間の空白部分に色テープを貼ることを考えた。これで形がとりやすくなったが、細かい空間を手で千切ったテープで埋めるのは、やはり難しい。そこで、テープが描線からはみ出した部分を、カッターで切ることにした。カッターを使うと、千切った紙の柔らかさが出せないが、カッターで切る場所を最小限にすることで折り合いをつけることにしMtimg080909 た。
 
 そうやって作った絵を、ここに掲げる。まあ、実験的作品だから粗雑な部分はお許しあれ。使い古した短い鉛筆のつもりである。鉛筆の“皮”の部分の着色に紙テープが使ってある。あとは普通の水彩絵の具だ。水彩の混色によって変化をつけた背景と、単色のテープを並べて貼った鉛筆の“外皮”を対照させてみた。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月 8日

脳波計は真実を語るか?

 脳波計による犯罪捜査が実際の裁判で初めて認められ、論争を呼んでいる。とはいっても、日本のことではなくインドでの出来事だ。8日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。「機械が人間の心を読めるか」という論争は、ウソ発見器の登場以来つづいているが、今回の件は、ウソ発見器より精確で複雑な、脳波計とコンピューターを組み合わせた脳波検査が、殺人事件での証拠の1つとして採用されたということだ。今後の犯罪捜査などで世界的な影響が広がるかどうか、「心の問題」に関心のある私としては興味あるところだ。
 
 同紙の記事によると、今年6月、インドのマハラシトラ州での刑事事件で下された判決では、裁判官が脳波計の測定結果に明確に言及し、被疑者(女性)は犯罪について、犯人でなければもちえない“経験的知識”(experiential knowledge)をもっているとして、終身刑を言い渡したという。ところが、この分野で最先端をいっているアメリカの脳神経学者の間では、この技術が科学的に正式に検証されていないということで、「すごい」とか「ばかな」とか「恐ろしい」という、3種類の反応が出ているらしい。

 この事件では、24歳の女性が前の許婚を殺した容疑で捕えられた。2人は同州のピューンという場所でしばらく同棲生活をしていたが、女性の方が別の男と駆け落ちしてデリーへ行ってしまったという。数カ月後、女性はピューンにもどって来て、前の許婚にマクドナルドで会おうと誘った。そして、食べ物にヒ素を盛って毒殺した--というのが検察側の主張である。女性は殺人を否定している。

 これが真実であるかどうかを、脳波計によってどう検査するのか? 上記の記事には、こうある--被疑者の頭に32個の電極を付け、脳波計につなぐ。その状態のまま、捜査官は被疑者の前で、犯罪がどう行われたかを描いた文章を読み上げる。この文章には、「私はヒ素を買った」とか「私はマクドナルドで彼と会った」などと被疑者の行動が一人称で細かく表現してある。被疑者がもし犯人ならば、文章を聞いている間に過去の記憶がよみがえって来るだろう。すると、それに対応した脳の部分が反応して脳波計に信号を送るというのだ。脳波計はその信号をコンピューターに伝え、コンピューターはそれらを解析して、被疑者が犯罪行為の細部--臭いや音など--も思い出したかどうかを判断するという。この解析に使われるプログラムは、ある行動を被験者自身が実際に行ったのか、それとも単に目撃しただけかの違いも分かるとされている。
 
 この検査法は、脳内電位振動解析法(Brain Electrical Oscillations Signature, BEOS)と呼ばれ、インドの国立精神神経科学研究所の臨床心理学部門にいたインド人神経科学者、チャンパディ・ラーマン・ムクンダン博士(Champadi Raman Mukundan)によって開発されたもの。
 
 今回の事件では、従来の方法では厳しい取り調べが行われることを見越して、被疑者の女性はこの新しい検査法に同意したという。頭に電極を付けるだけで、肉体的にも精神的にも苦痛を伴わないからだ。この点に注目する人は、検査場でのテロリストの割り出しや、捕虜やスパイからの情報収集に有益だと期待しているらしい。拷問の必要性がなくなってしまうからだ。しかし、その反面、機械的誤診断から無実の罪が生まれたり、意図的にデータが捏造される可能性が心配される。私は、それに加えて、犯罪実行前の準備段階でも、「犯人でなければもちえない経験的知識」がある程度発生する可能性を考える。つまり、準備はしたけれども、最終段階で思い止まった人が犯行グループの中にいた場合、どうなるかという問題だ。また、この同じ技術が、犯罪ではない“経験的知識”の有無を調べるために使われれば、特定のグループに属する人間を選び出したり、個人の政治思想や宗教的信念を割り出す手段となる可能性を危惧する。
 
 とにかく、人の「心の中を覗く」ための技術は、好意的に見ても“諸刃の剣”であり、否定的に見れば、危険な誘惑に満ちているような気がするのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月 6日

環境税制への移行

 今日の『朝日新聞』の第1面に“よいニュース”が載っていた。それは、日本経団連が環境税の実施を容認する立場に変わった、ということだ。同じ日の『日経』と『産経』を調べてみたが、そんなことは書いてないから、恐らく『朝日』の特ダネだろう。経団連は、これまで環境税だけでなく、排出権取引にも反対してきたから、“業界の利益”のためならば、その他のことはどうなってもいいと考える我利我利亡者的な悪印象をもっていたが、「まぁ、常識はあるのだな…」と見直した。

 ただし、この話にはちょっとした“ミソ”があるようだ。道路特定財源の一般財源化が既定の事実になってしまった今は、新たに環境税を課されるのは困るから、この財源(ガソリン税や石油石炭税など)を環境対策にも回せるように、“環境税”と呼ぶことにすべきだというのである。経団連は毎年秋に、税制改正に関する提言を出しているが、その中にこうした考え方を盛り込む方針を決めたらしい。上記の『朝日』の記事には、こうある--
 
「経団連は提言で、道路特定財源の一般財源化に伴い、ガソリン税のほか石油石炭税などその他のエネルギー関連税も合わせて“CO2の排出責任”に応じた税として位置づけ直し、使途を環境対策に組み替える考え方を示す」。

 この方針転換の背後には、福田首相が今年5月、道路特定財源の一般財源化を閣議で決定し、7月には「低炭素社会づくり行動計画」を策定して、その中で「環境税の取り扱いを含め、低炭素化促進の観点から税制全般を横断的に見直す」ことを明記したことがあるという。そういう意味では、職務の“中途放棄”の印象がある福田康夫首相も、経済界に対して一定の影響力を行使して地球環境保全の方向に(わずかながら)日本を動かしたことになる。今年の6月10日の本欄で論評した“福田ビジョン”なる6項目の環境総合対策には、6番目に「今秋、環境税を含め、税制全般を横断的に見直す」とある。この政府の方針に対する経済界の対応が、今回の「新税でない環境税の容認」になったわけだ。
 
「これでは単なる税の呼称の変化であって、実質的な環境対策の進展とは言えない」という意見もあるだろう。が、私は「名目であっても一歩前進」と評価したい。なぜなら、これによって、日本の税制全体の中に「温室効果ガスの排出を社会へのコストとして認める」という考え方が初めて導入されるからだ。この思想が、地球環境問題解決にとって最も必要な前提だと、私は思う。この思想を業界が認めれば、自動車や船舶、航空機などの製造や運搬、はたまたそれらを使った人や物の移動--つまり、旅行や海外産品の輸入や海外への輸出--についても、温室効果ガスの排出量の多寡が製品やサービスの値段に反映されることになるだろう。すぐにはそうならなくても、やがてそうなる。そして、企業はそれを見越して行動するから、温室効果ガスの排出の少ない製品やサービスが新たに開発されることになる。

 今日の『産経』には、環境省が「地球環境税」について検討を開始したことが報じられている。これは、気候変動による被害に苦しむ発展途上国を支援するための資金調達法として“福田ビジョン”で提案されたものだ。第1回目の研究会を開いたというだけだが、上記した「低炭素社会づくり行動計画」の中に、来年3月末をめどに一定の研究成果を公表することが明記されているから、環境税との兼ね合いが注目される。昨日の第1回研究会では、為替取引に課税する方法などが紹介されたらしい。かつて本欄でも触れたが、フランスはこれと似た考え方に基づき、航空運賃に課税して途上国への貧困対策費を捻出する「国際連帯税」というのをすでに施行している。

 遅々としたスピードであるが、こうして「世界の富裕層が温室効果ガスのコストを負担して貧困層の負担を和らげる」という仕組みができつつある。問題は、このスピードが気候変動による被害の増大を防げるかどうかだが、こればかりは「神のみぞ知る」のだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月 5日

“発想の転換”の時代

 8月20日の本欄で、日本での地熱発電の可能性に触れ、9月1日には、わが国の山野に普通に生えているススキの一種がバイオエタノールの原料として有望であるという話を書いた。こういう例からも分かるように、日本を“資源小国”と見る古い発想から早く解放される必要がある。この発想が古い理由は、それが化石燃料や原子力を主体とした“地下資源”に注目した発想であるからで、太陽エネルギーや風力、潮力などの“地上資源”に注目すれば、まったく違う可能性が展開してくるし、今後はそうしなければならないからだ。最近では、レアメタルが採れる“都市鉱山”などという考え方も受け入れられるようになっているし、島国である日本は、周囲の海に注目すれば、さらなる可能性が目の前に広がっているのである。
 
 今日の『日本経済新聞』夕刊に、長崎大学大学院教授の川村雄介氏がそのことを分かりやすくまとめている--
 
「日本の経済海洋面積は陸地の12倍もあり、世界で5~6番目の広さだ。そこには膨大なエネルギー資源や希少金属が埋蔵されているともいわれる。新技術で海洋資源を活用する余地も大きい。また、原子力発電や太陽エネルギー技術は世界でトップクラス。最新化学技術の応用による高効率の植物エネルギー開発にも期待が寄せられている」。

 私は、原子力エネルギーについては川村教授とは意見を異にするが、それ以外は同感である。

“地上資源”といえば、今年の夏は日本への台風の上陸がゼロであった一方、各地で豪雨が降って大きな被害をもたらした。1日の『日経』によると、8月末まで台風の上陸がなかった年は、2000年以来8年ぶりだという。豪雨は、9月に入っても各地で続いているが、この海洋や気象の“破壊的エネルギー”を技術力によって“建設的エネルギー”に変換することができないか、と思う。特に、電気そのものである雷の利用はできないだろうか。

 ベンジャミン・フランクリンの時代に、雷をガラス瓶で受け止めることができたのだから、現代はその電気エネルギーをどこかに貯めることぐらいはできるのではないか。風力発電では高い塔を地上に建てるから、落雷の“被害”が言われているが、雷の電気をそこに貯められれば、落雷は“恵み”に変貌する。そうすれば、雷の多い北陸地方は“エネルギー地帯”になるかもしれない。何でも“発想の転換”が求められているのが、今の時代だと思う。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月 4日

黒ハトと灰ハト

 休日に横浜へ行った。天気が好かったのが幸いし、暑い中でも秋の気配が感じられるひと時をもてたことは、ありがたかった。
 
 ところで、泊まったホテルのバルコニーに出ていたら、ハトが飛んできて妙に馴れ馴れしいのである。何かを要求するような顔で私に近づいてくる。私は鳥は嫌いではないが、“初対面”の鳥が、しかもネコほどの大きさのものが無造作に近づいてくるのには慣れていない。妻は、鳥インフルエンザを警戒して部屋の中へ入ってしまったが、私はこの貴重な機会を生かして“都会の鳥”とのコミュニケーションを試みようとした。
 
 よく見ると、この鳥の足には指がないのである。人間でいうと、足首から先が潰れて丸くなっている。自動車事故かネコの襲撃によるものかと思い、かわいそうになった。が、“本人”は結構元気で、バルコニー下端の平らなコンクリートの上を軽々と歩いているのだった。が、そこへもう1羽のハトが飛んできて、いきなり“戦い”が始まった。何を争うのか私は検討もつかなかったが、弱そうに見えた足の潰れたハトは、反撃して襲撃者を追い返した。私は、その様子をカメラで捉えることができたので、ここにご披露する。

 近くに巣でもあったのだろうか。“平和の象徴”のハトも、戦うときには戦うものだと思った。

 谷口 雅宣

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2008年9月 2日

福田首相の責任感

 昨晩、福田康夫首相が突然辞意を表明した。「日本の首相は1年で辞めなければならない」という法律でもあるのかと疑いたくなる。安倍前首相の辞任とよく似たケースで、「精一杯やったが、もう限界だからやめる!」という感じで、国民にとっては何がなんだかサッパリ分からない。アルバイトの学生が「1年やったけど、もう限界だからやめる」と言っているのとどこが違うのか? 今朝の新聞をしっかり読んで、やっとその理由らしきものがおぼろげながら浮かび上がってきたが、しかし、それにしても“腰砕け”の政治家が多いのに驚かされる。2つに割れた国論の中で、アメリカのブッシュ大統領は2期8年やって、まだ元気衰えず、ハリケーン襲来を待つ現場へ駆けつけた。ロシアのプーチン氏は、憲法上許された大統領の最長任期8年を勤め上げただけでは満足できず、今年になって自ら首相の座に降りて、カクシャクとして世界に揺さぶりをかけている。こういう中で、バイト学生のような首相が率いる日本の外交に、“進歩”や“勢い”を期待してもどだい無理なのだ。

 実は、私は福田氏が総裁選に立候補する前日に、ご本人に会っている。といっても、面談をしたのではなく、ホテルで偶然姿を見かけただけだ。東京のグランド・プリンスホテル赤坂がお気に入りの場所らしく、私と妻が朝の食事をレストランでしていたところ、部屋の隅の衝立の陰に立って、電話に耳を当てて話をしているご仁が、福田康夫氏だった。私のような一般客が食事をする場所の隣に、少人数で会合ができる特別室があるらしく、その部屋の出入り口に立って電話をしている。電話の相手が誰だか知るよしもないが、特別室にいる人々の中には関西の財界人が数人含まれていたようだ。というのは、私たちがその日、ホテルの1階からエレベーターに乗った時、関西弁を話す背広姿の会社役員風の数人と一緒になったからだ。彼らは「朝、新幹線で来た」などと言葉を交わしてから、私たちと同じ階で降りた。が、食事中、一般客用のレストランに彼らの姿はなかった。食後、私たちが会計をすませてレストランを出た時にも、電話を片手に持った福田氏とすれ違った。最近では、政治もケータイで行われるのかと思ったものだ。
 
 今日の『日本経済新聞』にジャーナリストの田勢康弘氏が、8月半ばに福田氏から聞いた話を書いている。福田氏は「自分の使命は安定した政治を引き継ぐこと」と2度繰り返して言ったあと、次のように語ったという--

「弟分の安倍晋三さんが辞めて、2、3日のうちに後継総裁を決めなければならないから、出てくれ出てくれといわれた。ここで断ったら政治家を辞めなければならないと思って責任感から引き受けた。逃げるわけにはいかなかった。それまで総理・総裁になろうなどと考えたことは一度もない」。

 安倍首相の辞意表明は昨年の9月12日の午後2時であり、翌13日の朝に私は福田氏をホテルで見ている。このあと、彼は自民党総裁選への出馬の意思を表明した。田勢氏の話がもし本当ならば、私は「出てくれ出てくれ」と言われていたときの福田氏を目撃していたのである。また、この言葉が本当ならば、福田氏は最初から“ピンチヒッター”として首相になったのだから、1年間ずっと、次の首相への交替の時期を見ながら政治を運営してきたことになる。「欲がない」と言えば誉め言葉だが、「本当にやる気はない」のでは責任感がないことになる。それにしても、日本の政治は寂しい。
 
 谷口 雅宣

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2008年9月 1日

新世代のバイオ燃料に期待

 バイオエタノールなどのバイオ燃料については本欄でもたびたび言及してきたが、最近の研究で有望なものがあるので、読者に紹介しよう。これは昨日、北海道の滝川市で行われた生長の家講習会で、「日本のCO2排出量は世界の5%程度だから、日本人が排出削減に努力してもあまり意味がない」という内容の質問があった際、それを反駁するために紹介した情報でもある。また、北海道大学での研究成果だというので、北海道の人たちにもっと勇気と希望をもってもらいたかったのである。簡単に言ってしまえば、北海道の原野に沢山生えているススキの1種「ジャイアント・ミスカンサス」(GM)が新世代のバイオエタノールの原料としてかなり有望だということである。8月27日の『朝日新聞』夕刊が伝えている。
 
 それによると、北海道大学はアメリカのイリノイ大学などと共同で、このGMをエタノールの原料とする研究をしているという。GMは、日本のススキと、その仲間のオギとの交雑種で、種子を作らずに株で殖える。これを戦前、ヨーロッパの収集家が観賞用として持ち帰り、それがアメリカへ渡ったものを、イリノイ大学は10年ほど前から栽培しているという。その特徴は収量が多いことと、やせた土地でも育つこと。トウモロコシの収量が1ヘクタール当たり約18トンであるのに対し、GMは約30トンという。このバイオマスとしての大きさを燃料に利用できれば、ススキは栽培に手がかからず、生態系の多様性の維持にも役立つから、現在、アメリカで主流となっているトウモロコシを原料としたバイオエタノールより、ずっと有効な原料になりえるというのである。

 ただ、北海道の原野に生えているGMを抜いてくればそれでいい、というわけでもないようだ。研究に携わっている北大の山田敏彦教授によると、今後、ススキ草原の物質循環や開花時期などを解明し、品種改良のために日本各地のススキとオギとを採集するところから始めるらしい。耕作に適していない土地でも、また寒冷地でも育てられる品種を開発するためである。

 私は、この記事を読んでから講習会で講話をし、そこで「世界の5%を減らしても意味がない」という意見を聞いたのだった。そして、日本の技術力が世界中のCO2排出削減に役立つことを考えたら、「5%」どころか「50%」の削減も日本によって可能だと話した。これは単なる空想ではなく、トヨタやホンダが開発したハイブリッドの技術によって、自動車の燃費は実際に50%向上したからだ。また、技術というものは、基本が確立すれば、その上に加速度的に進歩が起こることは、コンピューターの高速化や小型化のことを思えば明らかである。
 
 そんなことを考えながら、私と妻は講習会終了後、車の後部座席で疲れを癒しながら、滝川市から千歳空港まで、北海道内陸部を南下したのである。すると、道路の脇や、黄色く染まった田圃や、広大なトウモコロシ畑の合間に、ススキのような穂をピンと上に立てた、元気のいい植物が案外多く生えていることに気がついた。それがGMであるかどうか、私には分からない。しかし、そういう作物と競合しない草本が燃料になるのだとしたら、その技術の開発を待望せずにはいられないのである。
 
 谷口 雅宣
 

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