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2008年9月22日

対称と非対称 (3)

 前回、アイヌ民族のイオマンテの儀式を取り上げたのは、それが無意識の機能の1つである「非対称的関係を対称的関係として取り扱う」分かりやすい例だと思ったからである。
 
 宗教学者の中沢新一氏は、神話や宗教の教えの中には対称性論理(対称的関係)と非対称性論理(非対称的関係)とが上手に組み込んである、と指摘している。例えば、神話の世界では、対称性論理が支配的である。日本の神話に登場する数多くの神々も、ギリシャ=ローマの神話の神々も、その他の多くの神話の神々も、人間との区別がつけにくい。つまり、人間のように泣き、笑い、怒り、嫉妬し、殺し、また悲しむ。このことの裏を返せば、これらの神々は人間にとても理解しやすく、“仲間”として感じやすい。神は人間のようであり、人間は神のようなのだ。このことは、日本神話に出てくるスサノオミコトやオオクニヌシノミコト、ヤマトタケルノミコトなどの話を思い出せばわかるだろう。
 
 また、日本神話での対称性を顕著に示すものとして、私は神々の連続的関係を指摘したい。そこに登場する幾多の神々は、他の神々から截然と分離独立しているのではなく、むしろ流動的につながり合っているのである。どこかにもこのことは書いたが、イザナミノミコトが火の神であるヒノカグツチノカミを産んだことがもとで死んでしまうと、夫のイザナギノミコトは痛恨のあまり自分の子であるヒノカグツチノカミの首を刀で切って落とす。すると、その流れ出る血から次々と8柱の神が生まれてくるのである。また、切られた首や手足や胴体からも別の8柱の神が生まれてくる。これらの神々には人の生活に役立つ機能を表すような名前が、また、山や谷や山麓を表すような名前がそれぞれについている。つまり、火の破壊力を制御することで人間の生活に利便を供したり、自然の山野を(落雷や野火から)守ったりすることができるというメッセージがそこから読み取れる。

 また、これらの神々の関係は“善”と“悪”というような非対称的で、相容れないものとして描かれていない。火の破壊力は否定されるのではなく、その形を変えれば人間や自然に恩恵を与えるものとして肯定されている。そして、“火の神”から生まれるすべての神々は、それぞれの役割がゆるやかに重なり合い、どれかが抜群に秀でているのではなく、みな対等に何らかの積極的機能を果たしている。これらは互いに対称的関係にあると言っていいだろう。
 
「Aは非Aではない」という論理は、我々にとって当り前だろう。それは例えば、「人間はサルではない」ということであり、「赤はピンクではない」ということだ。しかし、人間とサルは遺伝子が98%以上共通しており、ピンクの中には赤が混ざっている。そういう共通性に注目して「人間はサルではないがサルでもある」と言ったり、「赤はピンクではないがピンクでもある」と言うことはバカげているだろうか? 後者の考え方が対称性の論理であるが、神話はこういう考え方に満ち溢れている。そして、宗教の教えの中にも、対称性の論理は数多く見出されるのである--「自他一体」「今即久遠」「相即相入」「即身成仏」「身心一如」「修証一如」「言葉は神なりき」「天国は今ここにあり」「唯心所現」……そして、「人間は神の子である」。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○中沢新一著『対称性人類学』(2004年、講談社刊)

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コメント

脳内活性化には非常に面白いテーマですね!
対称性論理をどう受容するかは個々人によって非常に異なるとは思います(これが人間?従って教えが無くなる事は無い)が対称性の論理として「人間はサルではないがサルでもある」とか「赤はピンクではないがピンクでもある」と言う事はバカげているとかバカげていないとかではなくそう表現するを必要はないのではないか?有りの儘「人間はサルではないがサルの要素や共通性を持っている」「赤はピンクではないがピンクが混ざっている」で良いのではないか?森羅万象に実体が無いと言う前提に立てばあらゆる物は様々なものの集まりであり単独(人間、サル、赤、ピンク)で存在するものは有り得ない(一即多、多即一)!従いまして単純に人間は人間、サルはサルで生き、赤は赤、ピンクはピンク其の儘で利用すれば良いのではないか?勿論それぞれ深く観察研究する事は人間にとって意義ある事だとは思いますが、、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年9月27日 01:18

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