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2008年9月12日

逆立ちした「9・11」

 2001年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロ事件から7年がたったというので、被害国・アメリカを中心に、その後の“テロとの戦争”などの諸対策の効果をめぐって様々な議論が起こっている。私はその中で、10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載ったマイケル・スラックマン記者(Michael Slackman)のカイロからのレポートを読んで驚いたと同時に、人間の心の不思議さを改めて感じた。我々日本人を含む“西側”の立場から見るこの事件と、“イスラーム側”--特に、アラブ人--から見たこの事件の意味が、あまりにも違うからである。
 
 エジプトのカイロだけでなく、ドバイ(アラブ首長国連邦)のショッピング街、アルジェ(アルジェリア)の公園、リヤド(サウジアラビア)のカフェで普通の人々が語り合う「9・11事件」は、我々の考えるものとほとんど“正反対”だ。西側では“陰謀説”と呼ばれ、ごく少数の人間が唱えているものが、彼らの間の“通説”になっている。つまり、「9・11」はアメリカ政府とイスラエルの合作であり、これをイスラーム過激派やイラクのせいにして中東に軍を送り込み、そこを支配下に置くための陰謀である--そう固く信じている人が大半だというのである。

 私はかつて本欄でも、この“陰謀説”を紹介したことがある。2年前の今ごろに書いた「大悪が大事件を起こすのか?」というブログだ。また、この説は、オサマ・ビンラディンのアメリカへの“宣戦布告文”と主旨が同じであるから、“テロとの戦争”を7年間戦ったすえに、イスラーム人口の大半がビンラディンの世界観に同調するようになったとも解釈できる。もしそうであるなら、たとえ武力によって“敵”を制圧したとしても、この戦争では“西側”が勝利しているとはとても言えないと思う。少なくとも“思想戦”の分野においては“西側”の敗北ではないだろうか。

 どこかにも書いたことがあるが、人間は基本的に「信じたいことを信じる」のである。この記事にもあるように、アラブ世界の一般民衆は、あの精密・強力な電子兵器で武装した核超大国であるアメリカが、自らの富の源泉である国際金融センターのニューヨークや国防総省の真上に旅客機が侵入することを防げないなどということはあり得ない、と考えるのである。しかも、それを指揮したのが、アフガニスタンの山奥に住むアラブ人の小グループであることなど信じられない、と彼らは言う。また、物事が起こる時間的序列は、因果関係を示すと見られがちだから、「9・11」(A)が起こった後にアメリカによる「アフガニスタン侵攻」と「イラク戦争」(B)が起こったのだから、Aの目的はBである--つまり、アメリカは原理主義イスラームを打倒するために、自分自身で「9・11」を演出した--と見なされるのである。そして、Bによって何が実現しているかというと、アフガニスタンとイラクに親米政権が樹立され、そこからの石油の(アメリカへの)輸出が保障され、さらにはイスラエルの安全が向上する。こうして、原因に始まり結果に終わる因果関係の輪はきれいに閉じて、世界はとても分かりやすくなる。だから、この“陰謀説”は、アラブの民衆の“認知の不協和”を解消する便利な道具でもあるのだ。
 
 私はもちろん、こんな安物の陰謀説にくみしない。この説の最大の難点は、「アメリカ人によって選ばれたアメリカ政府が、何千人という大勢のアメリカ人とその友好国の人々を犠牲にして、国の一部の勢力と外国(イスラエル)の利益のために行動する」という前提が、現実離れしているからである。また、もし仮に政府上層部と一部の利益団体がそのような動きをしようとしても、それを見抜き、反対できないばかりか、そういう政策に積極的に協力していくような愚か者としてアメリカ人を--いや、民主主義が機能しているどんな国の国民も--見ることができないからである。これに対して、民主主義が機能しない独裁的な政治が行われている国の人々は、自国政府の姿をアメリカ政府にごく自然に投影できる。つまり、自国がそうなのだから、アメリカもそうであるに違いないと考えるのだ。スラックマン記者は、それを次のように説明している--
 
「それ(陰謀説)は、彼らが国家の指導者を--ワシントンの指導者だけでなく、ここエジプトを初め中東全体の政治指導者を--どう見ているかを反映している。彼らは、政治指導者を信じない。国営の報道機関も信じない。だから、政府がビンラディンが事件の背後にいたと主張するのであれば、それは本当はいなかったに違いないと考えるのである」。

 このような事実を見ると、我々人間は、個人のレベルで“心でつくる世界”に棲んでいるだけでなく、国家や国際関係のレベルでも、自らの“心の投影”をつくり上げて、それと格闘するという愚を犯していることが分かる。「戦争は迷いと迷いとのぶつかり合い」と言われる所以である。
 
 谷口 雅宣
 

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コメント

9月11日にまつわる、こんな詩を見つけました。
じっくりと読むと、心の中からこみ上げて来るものがありました。
<<最後だとわかっていたなら
       作・ノーマ コーネット マレック / 訳・佐川 睦

あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても わかってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたなら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして わたしたちは 忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと

だから 今日
あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも いつまでも大切な存在だということを
そっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから>>

投稿: 久保田裕己 | 2008年9月14日 02:36

7年前のこの事件、帰宅して初めて映像を見た時「これは事件ではなく戦争だなあ!」と妻に第一声をかけ、そして「敵が見えないのだから核を持った自爆テロ達がアメリカの大都会を同時多発的に行ったならばアメリカは無くなってしまう!これは大変な事だ!」と言った記憶があります、首謀者はビンラディンと言う事が後から明らかになり、現在に至っていますが陰謀説がイスラーム側のドバイ、アルジェ、リヤド等々で通説になっている、又イスラーム人口の大半がビンラディンの世界観に同調するようになった!とは驚きです、それに独裁的な政治が行われている国の人々は政治指導者を信じない!国営の報道機関も信じない!と言うのも不幸な事だと思います、やはり神仏の裏付けを持たない人間の独裁は人民に不幸を齎す結膜を持っていると言う事になるのでしょう(泣)、私は陰謀説はイルージョン(錯覚)、臆測にに過ぎないと考えますが自分の心の投影をつくり上げて、それで格闘する愚を犯しているのでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年9月15日 12:14

尾窪さん、

>>やはり神仏の裏付けを持たない人間の独裁は人民に不幸を齎す結膜を持っていると言う事になるのでしょう(泣)、<<

 サウジアラビアは国教としてワッハーブ主義のイスラームを信仰しており、ビンラディンは、『コーラン』から引用して自分たちの行動を正当化しています。だから、「神仏の裏付けを持たない」という表現は語弊があるのではないでしょうか?

投稿: 谷口 | 2008年9月16日 13:02

谷口雅宣副総裁様
「神仏の裏付けを持たない」との表現について、、、、、、この判断は当然全ての人が納得出来るものではないとは思います、私の心の投影として愚かな考えであるかも知れません、しかし、今の時代にムハンマド(神の啓示で行動)と釈尊(仏)が生きていたと仮定すればビンラディンと同じ行動は採らないだろうと考えるのです、ビンラディンがクルアーンの解釈でもって神の裏付けとして自分達の行動を正当化しているとしましても「9・11」や自爆テロはいただけませんし、とても神の教え、命令とは思えません、アッラー(神)はムハンマドには啓示しましたがワッハーブにもビンラディンにもしていない!勝手な解釈で神の心から遠く離れて虚しく神を崇めているのではないか?と現時点で私は思っているのです、勿論私だけの考えです。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年9月16日 20:21

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