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2008年8月 8日

自然は美しい?

 夏休みをとり、昨日から山梨県・大泉町の山荘に来ている。日中は30℃を超える気温になるが、標高1200メートルの高地にあるおかげで、朝晩はさすがに涼しく、快適である。
 
 山荘へは、5月の連休に来たとき以来、3カ月ぶりだから、庭の草や木が伸び放題であることは覚悟していた。とはいえ、野芝の伸び方は尋常ではなかった。30~40センチに伸びたものが束になって横倒しになっている様子は、見苦しく、しかも先端の10センチほどが、栄養が行き届かないためか黄色に変色している。それは一度、金色や茶色に染めた髪を伸ばしていると、根元から生えた黒髪との“層”の違いが歴然としてくるのにも似ている。要するに、「乱雑」「無秩序」「未整理」の感じが否定しがたいのである。
 
 野芝のほかに私の目に「乱雑」に映ったものは、身の丈以上に育ち、枝を八方に拡げたブッドレア(Buddleja)である。この植物はフジウツギ科フジウツギ属の植物で、私はその名から外来種と思っていたが、国内にジャポニカ種(japonica)やカービフローラ種(curviflora)が自生することなどから、在来種とみる説もある。花の芳香に誘われて蝶がよく来るというので、この付近にいる美しいタテハチョウを呼ぼうと思い、地元の園芸店で買って植えた。ところが、どんどん成長して枝葉を拡げただけでなく、植えもしないところに子株が跳んで殖え、それがまた成長し、不思議なことに買わなかった色の花もつけるようになったのである。具体的に言うと、紅に近い濃い紫色の花の株を買ったのに、今わが山荘の庭には、それ以外にも薄紫色の花も、白い花も咲いている。もちろん、3種の色の花が楽しめることはありがたい。しかし、それらの株が大人の背丈以上に伸びて、枝を縦横に伸ばし、山荘玄関に続くアプローチを遮る様子は、どう見ても「美しい」とは感じられないのである。
 
 人間が心に抱く「美感」とは、妙なものである。ブッドレアの花自体は美しく、そこから発する芳香は甘美であり、葉も茎も生命力に溢れている。しかし、それらを「一株」の塊として庭に置いた場合、他の草や樹木、置き石や道が形づくる“線”との位置関係で、美しいものが美しく見えなくなるばかりでなく、時には乱雑に感じられるのである。野芝が生い茂る様を「乱雑」と感じるのも、これと同じ理由だろう。庭の芝生は短く刈り込まれて絨毯のような平面を成すことが「美しい」--このように人間が感じるのは、我々が「一株の芝」など眼中に置かずに、“塊”としての芝、もっと正確に言えば“平面”としての芝に価値を置いている証拠である。
 
 このように考えると、人間が「自然は美しい」とか「美しい自然」と言うときには、自然界の自然そのままの姿のことを言っているのではなく、人間的なある観点から自然をとらえ、人間的なある枠組みの中にそれが収まっていることを意味している--そういう可能性に気づかされるのである。
 
 私はかつてこの大泉町の山荘の庭を造った時、これと同じことを感じ、そのことを「人工的な自然」という題の文章に書いた(『小閑雑感 Part 3』に収録)。そこにはこうある--
 
「人間は、目に見える世界の中に“秩序性”を求める。無秩序があれば、その世界に手をつけて何らかの秩序性を実現しようとする--そういう得体の知れない奥深い欲求が人間には(少なくとも私には)横たわっていることを感じる。“得体の知れない”と書いたのは、この欲求が“気味が悪い”という意味ではなく、“説明が難しい”という意味である」。(前掲書、p. 187)

 しかし、この時に書いた「秩序性」の意味は、人間の目に見えない自然界の秩序全体を指しているのではなく、文章に書いてあるように、あくまでも「人間の目に見える秩序性」を言っているにすぎない。今日私が行ったことを振り返ると、確信を込めてそう言える。私は、日差しの強い高地の炎天下にもかかわらず、ブッドレアの木が通行の邪魔にならないよう、また目で見て美しく感じられるように剪定し、野芝を短く刈り込む作業に没頭したからである。夏に野芝が生い茂ることも、ブッドレアが枝葉をぐんぐん伸ばすことも、自然界の秩序の一部である。が、そのことには満足できずに、私は汗だくになってハサミを動かした。目に見えない秩序を目に見える形に表現することが、人間の深い欲求なのかもしれない。

 谷口 雅宣

 

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