水木しげるの“妖怪”
8月3日の本欄では、先ごろ亡くなった赤塚不二夫さんのマンガと私との関係について、少し書いた。その時に、同じマンガ家の水木しげるさんの名前も出したが、『墓場の鬼太郎』や『ゲゲゲの鬼太郎』等の水木作品については触れなかった。記憶をたどってみると、子どもの頃の私は、マンガの中の“絵”の質にも興味をもっていたから、赤塚マンガとは対照的な水木マンガの“絵”--つまり、根気のいる点描や緻密な線描によって絵に現実味をもたせた作風--には、いつも感心していた。また、それによって描き出される日本の田舎の風景や、そこに溶け込んでは現れる数々の妖怪にも、一種のリアリティーを感じていた。
水木さんがなぜ、墓場や妖怪のマンガばかりを描いてきたのか、私は知らない。が、12日の『朝日新聞』夕刊に載った水木さんのインタビュー記事を読んで、何となくその理由の一端を理解できたように思った。水木さんは、20歳で軍に召集され、21歳のとき陸軍二等兵としてラバウルのあるニューブリテン島の最前線で、何度も死線を潜る経験をしたすえ帰還したそうだ。その時の話を、私は興味をもって読んだのである。
6月19日の本欄で、「ふと思いつくこと」と“高級神霊”の導きとの関係について書いたが、水木さんが九死に一生を得た背後にも、そんな不思議な力が働いていたと解釈できるのである。記事によると、水木さんはある日、10人の小隊で最前線に送られ、不寝番をしながら海から来る敵を見張っていたという。そして、「望遠鏡であちこちのぞいていたら、きれいな色のオウムがいたんですよ。見とれてね、戻る時間がちょっと遅れた」という。この少しの遅れのおかげで、後ろの山から来た敵が小隊の兵舎を襲ったとき、その場に居合わせなかったのだ。水木さんだけが生き残り、やっとの思いで中隊に合流したそうだ。この後、敵の爆撃に遭って左腕を失ったため、水木さんは後方の野戦病院に送られる。このことも、生還できた大きな理由だろう。
いつ敵の攻撃があるかもしれない最前線で、オウムの色の美しさに感動する心境になるというのは、「ふと思いつく」のと似ている。言い換えれば、これは「ふと美に振り向き」、戦う心をしばし忘れることであろう。それによって、水木さんは敵の攻撃を擦りぬけた。その後、左腕は失ったが、後方へ回されたことで、今度は“玉砕”を免れた。この際の水木さんの心境について、本人は次のように語っている--
「後方では、現地住民と友達になって、毎日のように集落に通いました。彼らは、食べて、昼寝して、畑を耕して、うまくいっている。規則なんかでがんじがらめじゃない。本当の自由がありました。私の理想の生活ですねえ。しまいには、“畑も家も嫁さんも世話するから残らないか”と真剣に言われたくらい、なかよくなりました」。
このような水木さんの心境が、憎しみがぶつかり合う戦場や、その「憎しみ」の具象化である爆弾や弾丸から、水木さんを遠ざけていたに違いない。そのために左腕を失ったが、これが右腕でなかったおかげで、私も、私の子供たちも、そして戦後の多くの人々が水木マンガを楽しみ、またそこから多くのことを学ぶことができた。戦争では、何十万、何百万もの命が失われる。しかし、その中の「1人」であっても決して“虫ケラ”でないことを、この話は教えてくれる。「人間1人が生きる」ということの価値を改めて知るとともに、水木さんの戦後の活動の背後には、生還できなかった多くの戦友たちへの想いを感じる。水木しげるが描く“妖怪”は、そんな戦友たちの“魂”ではないだろうか。
谷口 雅宣
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