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2008年8月31日

頭の回路を切り替える

 JALグループの機内誌『スカイワード』の8月号に、アニメーション作家の宮崎駿氏がインタビューに答えて、自らの制作過程に触れた話をしているのを、興味深く読んだ。

 宮崎氏は、所沢市の自宅から武蔵野の仕事場までの曲がりくねった道を歩いていくことがあるという。いつもではなく「たまに」というニュアンスである。それが2時間半の道のりというから相当な運動量と思うが、「たいした距離じゃないですよ」と言っている。15分で1キロを歩くとすると、10キロの行程である。記事は、そのあとこう続く--
 
「歩いているうちに、何も考えなくなる。とても単純な感じになって、同時に、だんだんと風景が見えてくるのだそうだ。束の間の、自分の時間。頭の回路を切り替えるための、大切な時間だ」。(同誌、p.80)
 
 今日は北海道の空知教区での生長の家講習会だった。私はその中の午後の講話で、人間の“右脳”と“左脳”の働きについて触れ、知覚や芸術的感覚との関係が深い“右脳”の機能をもっと活かした生き方が、現代人には必要であることを訴えた。そのことが、我々にすでに与えられている自然の恵み、さらにはその背後にある神の愛を感受し、感謝する生き方につながるからだ。また、そのような生き方を人類が取り戻すことが、地球環境問題の“根っこ”にある欲望至上主義を脱却する道だと考えるからである。そんな話をした後、千歳から羽田へ飛ぶ機上で宮崎氏の長距離歩行の記事を読んだのだ。だから、氏が「頭の回路を切り替える」のは“右脳モード”への切り替えだと合点した。
 
 上の引用で私が特に重要だと感じたのは、「何も考えなくな」って「だんだんと風景が見えてくる」という点だ。人間が考えるのは「言葉」による。一般に言語処理は“左脳”が得意とすることだから、自然の中で体を動かし、歩行を続けていけば“左脳”はやがて沈黙し、何も考えなくなる。そのとき“右脳”が活性化しているのだ。つまり、言わば“言語優先モード”から“感覚優先モード”に切り替わる。だから、周囲の自然界から送られてくるメッセージを感受しやすくなり、「だんだんと風景が見えてくる」のに違いない。これは、それまで風景に目をやらないで歩いていたという意味ではなく、風景に目をやっていながら、心は別のことを考えていたということだろう。つまり、私が『太陽はいつも輝いている--私の日時計主義実験録』(生長の家刊)の中で使った左脳による“自動運転モード”にあった心が、自然との一体感を得る“感覚優先モード”に切り替わるのだと思う。宮崎氏は、その時の感覚を次のように語っている--
 
「なんとなくできた道って、スーッと曲がっていて、いい感じなんです。歩いていると前から風景が仕掛けてくる。思わぬ路地が現れたりしてね。楽しいし、気が楽になります」(p.80)
 
 東京の都心に住む私は、宮崎氏のように山道や田舎道を2時間半も歩くことはできないが、約30分のジョギングで心が結構解放される。このことは、上掲の拙著に書いた通りである。これで“右脳”が活性化するから、句を作ったり、創作の構想が湧いたり、スケッチしたくなる風景が見えてくるのである。もちろん、宮崎氏はその道のプロで、私はそうでないから、右脳の活性化の程度にはずいぶん差があるかもしれない。また、発想の豊かさや、関心の方向にも違いがあるだろう。しかし、同じ人間であるから、芸術制作に必要な心の持ち方という点では、共通したものがあるはずである。その一端を覗いたような気がして、うれしくなった。

 もう1つ、気がついたことを言おう。それは、“左脳”の活動とは違う“右脳”の働きを私はここまで描いてきたのだが、それをするのに言語のみを使っているという点だ。つまり、“左脳”は“右脳”を表現できるのである。人間の左右の脳は--そして、心も--このように複雑に一体化している。実に有用で、ありがたい道具を我々は使わせていただいていると思う。
 
谷口 雅宣

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2008年8月29日

集中豪雨は何を語るか?

 昨夜から今日にかけて、日本列島の各地で記録的な大雨が降り、河川の氾濫、土砂崩れが起こり、家屋や商店の損壊や人的被害も起こった。気象庁によると、24時間の最大雨量は愛知県岡崎市で302.5ミリ、埼玉県久喜市で227.0ミリ、東京都八王子市で218.0ミリ、同青梅市で148ミリを観測した。
 
 1時間当たりの雨量では、東京都八王子市とあきる野市で昨日午後11時が110ミリ、日の出市で100ミリを観測。愛知県岡崎市では29日零時までの1時間に146ミリの雨量があったため、同市は今日未明、市内の約14万世帯(約37万6千人)に対して一時、避難勧告を出し、県を通じて自衛隊に災害派遣を要請した。また、神奈川県相模原市は952世帯に、東京都八王子市は150世帯に一時、避難勧告を出した。
 
 今日の『日本経済新聞』が夕刊でまとめている被害状況(総務省消防庁発表)によると、愛知県や関東地方など10都県で床上浸水が519棟、床下浸水は390棟。JR中央線は八王子-大月間の上下線で始発から運転を見合わせ、京王線は土砂崩れの影響で普通電車の一部が脱線し、29日の始発から一部で運行ができなかった。また、自動車専用道路では、圏央道のあきるのIC-八王子ジャンクションの間と、中央道の上野原-八王子間が一時通行止めとなった。
 
 今年の夏は東海や関東だけでなく、金沢や神戸などでも集中豪雨による浸水被害が出ている。問題はその原因だが、専門家は地球温暖化との直接的関係には否定的だ。上記の『日経』では、東京大学気候システム研究センターの木本昌秀教授の談話として、「例年、亜熱帯性の高気圧がある日本列島の南海上に、冷たい低気圧が居座った状態が続いている。南からの湿った風が入りやすく、各地で集中豪雨を招いた」という分析を載せている。つまり、「例年通りの出来事」というわけだ。ところが同教授は、「温暖化が進むと今回のような集中豪雨型の雨の降り方が増える」とも語っている。私は、この点が重要だと思う。気候変化のパターンは変わらなくとも、それぞれの変化が“激化する”ということだ。
 
 私は、昨年の生長の家講習会で集中豪雨の増加に関する気象庁の統計を紹介したことがあるが、それは地球温暖化と関係していると思っている。この研究は、2006年8月27Gouu2b 日の『北海道新聞』にも報道されたが、1日の雨量が400ミリを超える降雨の発生回数をまとめた統計だ(=グラフ参照)。それを見ると、そういう豪雨の発生回数は1年ごとではかなりバラツキがあるものの、10年単位で見ると、近年目立って増加していることが分かるのである。気象庁がアメダス(地域気象観測システム)を開始した1976年から85年までの10年間の平均では、この回数は「6.4回」で、次の10年間は「5.1回」といったん減るが、96年から2005年までの10年間の平均は「15回」と、一気に3倍の数になる。
 
 なぜ集中豪雨が増えるかも、温暖化の影響で説明できる。私は昨年10月5日の本欄で、「北極の海氷が最小になった」ことを書き、この年の氷の減少率がここ数十年間の平均値を大幅に超えていることに触れた。専門家の中には、今年の9月には北極海から氷が消えると予測している人もいる。このことが地球上の水の循環システムに何をもたらすかは、明らかである。地球上には、極地や高地に年間を通して融けずにいる「氷」が大量にある。それは「万年雪」とか「永久凍土」「氷河」「氷床」などと呼ばれているもので、この大量の氷が「氷」として地上や海上に固定されている限り、地球上の水の循環システムに乗ることはない。南極やグリーンランドの氷床などは、何千年もの間、そこに固定されてきたのだ。ところが、今やこれらの氷が融け出して海に流れ込んでいる。それが蒸発して水蒸気となって雲をつくる。これらの水が再び地上に降りてくれば、それは以前より多くの水量となることに何の不思議もない。
 
 私がこのブログを書いている間も、背後の窓からは、間断のない激しい雨音と頻繁に轟く雷鳴が聞こえる。今後、我々が体験するであろう水害や土砂崩れは、“天災”という分類から“人災”の分類へ移行すべき性質を色濃く帯びてくる。世界の人々が早くそのことに気づき、“国益”とか“ナショナリズム”に熱中するエネルギーを、地球温暖化の抑制と低炭素社会への移行に振り向けてくれることを、私は心から念願している。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年8月28日

“百万の鏡”が映すもの (5)

 本シリーズは、8月25日の本欄で結論が出たと考えた読者がいるかもしれない。が、本当は結論は出ていない。ここ数日、シリーズ“最終回”(本当に最終になるかどうか自信がないが)をどう書くかに、私は迷っていた。が、今日は休日であることもあり、不安がありながらもとにかく書いてみることにした。このブログは、これまでにもそういう“半煮え”の心境でも書き継いできたから、たとえ文章が不完全なものになっても寛大な読者は大目に見てくださるだろう……などと期待している。
 
 私は聖経『天使の言葉』にある“百万の鏡”の喩え話について、シリーズ前回の最終部を下記の文章で締めくくった:
 
 我々は今、この瞬間にも、上下左右四方四維を“百万の鏡”に取り囲まれているのである--「汝ら億兆の現象も、悉くこれ自己の心の反映(うつし)なることを知れ」ということである。
 
 しかし、聡明な読者は、この文章は“現象”が我々の心にどう映るかを説明していても、“実相”については何も語っていないことに気がついたに違いない。『天使の言葉』では、この比喩が使われるに先立って、次のような文章がある:
 
 汝らの先ず悟らざるべからざる真理は、
 『我』の本体がすべて神なることなり。

 このあとに、「汝ら億兆の個霊(みたま)も、悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ」という文章が続くのである。この文脈から考えると、ここで言われているのは人間の実相が神であり、その神(または我々の実相)は唯一神霊の反映として存在する、ということだ。つまり、聖経での“百万の鏡”の喩え話は「実相」の説明に使われているのである。ところが、私の説明は、「現象は皆、それを感じる人の心の反映である」という現象顕現の法則を述べているにすぎない。別の言い方をすれば、聖経は「神と人間との実相における関係」を説いているが、私は「個人とその周りの現象世界との関係」を述べただけなのである。
 
 読者には、この違いを理解してもらえただろうか? では私はなぜ、最初から直接“実相論”(実相についての議論)を語らずに“現象論”(現象についての議論)を先にしたのかといえば、それはまず「唯心所現」の現象顕現の法則がどのように発動するかを確認しておくことが、実相の理解には必要だと思ったからである。

 我々がこれまで確認したことは、「窓枠」ないしは「田の字」のように見える図形の見え方は、その図形の客観的様相にかかわらず、見る人の心の状態に左右される、ということだった。「窓枠」を知っている人だけが「窓枠」を見、「田の字」を知っている人だけが「田の字」を見たのである。図形は、我々の心の内容を映し出す“鏡”の役割をはたした。これと同様に、現象世界に感覚されるすべてのものは、我々の心の内容を映す“鏡”と言える。ということは、現象世界の存在のすべては、「自己の心の反映」すなわち“自己の心の作品”という点で共通している--つまり、1つである。そこに仮に“敵”と“味方”が見えたとしても、あるいは“悪”と“善”とが見えたとしても、それらは“自己の心の作品”の中の“登場人物”、あるいは“舞台装置”にすぎず、作品全体にとって掛け替えのないもの--つまり、「1つ」の全体に対する部分である。
 
 これらはしかし、現象顕現の法則であって、実相のことではない。実相は、唯一神霊(神)が“自心の反映”としての世界を享受している状態である。それがどんな状態であるかは、聖経に次のように書かれている--
 
 悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)にしてすべて1つなれば
 これを汝ら互いに兄弟なりと云う。
 すべての生命(いのち)を互いに兄弟なりと知り、
 すべての生命を互いに姉妹なりと知り、
 分ち難くすべての生命が一体なることを知り、
 神をすべての生命の父なりと知れば、
 汝らの内おのずから愛と讃嘆の心湧き起らん。
 
 読者は、我々が心でつくる現象世界の違いと、唯一神霊の心の反映としての実相世界との違いを感じ取っていただけただろうか? 我々はとかく「自己は肉体なり」との誤った認識から“敵”や“悪”を現象世界に映し出すが、神はそのような誤りを犯し給わないから、実相世界は善一元、美一元、真一元なのである。その実相においては、「すべての生命が一体」であるから、「調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」(『甘露の法雨』)ということになる。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月26日

南オセチア紛争が拡大 (4)

 南オセチア紛争の拡大によるロシアとグルジアの軍事対立が、欧米とロシアの対立に発展する様相を見せている。これは、今後の世界情勢全体を考えるうえで大変憂慮すべきことだ。私は16日の本欄で、オリンピックの「メダルの数や靖国に参拝した政治家の数などとは比較にならないほど重大な変化が、世界で起こりつつあるのでは」と書いたが、この“悪い予感”が当たりつつあるのは残念なことだ。
 
 すでに報道されているように、ロシアはグルジアの各地に軍を展開した後、「撤退した」とGeorgiamap 言いながら、一部の要所からの撤退を拒否している。特に重要なのは、黒海に面する港湾都市・ポチと、分離独立運動が盛んな南オセチアの州都・ツヒンバリに近いゴリ北方の地域だ。また、グルジア西部の自治共和国アブハジアとの境界地帯からも、ロシア軍は撤退していない。それでもロシアが「撤退した」と言う理由は、それらの部隊はロシア軍ではなく“平和維持部隊”だから--というのである。24日付の『朝日新聞』の載った地図(=図を参照)を見れば明確だが、ロシアは、自己の勢力圏であったグルジア領内の南オセチアとアブハジアを、グルジアの他の地域から切り取る形で軍を展開しているのである。

 港湾都市・ポチが重要な理由は、そこが黒海側からのグルジアの入口だからだ。石油の積み出しにも使われるだけでなく、人員や物資流入の基地であり、軍事衝突の際は海からの派兵はここからとなるだろう。逆に言えば、この港を押さえておけば、欧米の軍隊は海から上陸できない。さらに重要な点を言えば、ゴリ北方に軍を展開させることは、10日の本欄に書いたように、BTC(石油)パイプラインとそれに沿う天然ガス・パイプラインの使用に影響を与えることができる。このパイプラインは、カスピ海のバクー沖から産出される原油を、アゼルバイジャン国内とグルジアのトビリシ経由でトルコの港・ジェイハンまで運ぶルートだ。これを主導しているのが英米の石油メジャーだが、26日の『産経新聞』によると、今回の武力衝突でロシア軍はパイプラインも空爆の対象としたため、石油メジャーの1つであるBP社は、BTEパイプラインの運用停止に追い込まれたという。
 
 このようなロシアの動きに対して、欧米諸国は「グルジアから撤退しろ」と声を上げているのだが、声は大きくとも具体的な行動はあまり進んでいない。アメリカは22日、“人道支援”の名目で地中海から黒海へイージス駆逐艦「マクフォール」を送り込んだ。25日の『朝日』によると、この艦船は同日にポチ港ではなく、バトゥーミに到着したという。また、24日の『産経』によると、ポーランド、スペイン、ドイツのフリゲート艦なども黒海に入り、米艦艇と共に軍事演習をする予定という。この黒海北方のウクライナの港・セバストポリは、ロシアの黒海艦隊の基地である。ウクライナは、グルジアと同様に西側への傾斜を強め、NATOへの加盟を目指している国だから、ロシアの動きに神経を尖らせている。アメリカの艦艇としては、第6艦隊の旗艦で、揚陸指揮艦の「マウント・ホイットニー」と巡視船「ダラス」が黒海に向かっているという。
 
 軍事でなく政治の動きを見ると、サルコジ仏大統領が仲介して成立した「6項目の和平原則」について、米仏の大統領が「ロシアは従っていない」との立場を確認しのたが22日。サルコジ氏が、ロシアのメドベージェフ大統領と電話会談し、ロシア主体の“平和維持部隊”に代わる国際的組織を早急にグルジアに派遣することで合意したのが23日である。サルコジ大統領は24日、グルジア問題に関するEUの首脳会議を開くことを表明したが、その開催は9月1日だという。(25日『朝日』)
 
 ロシアは、これらの欧米からの圧力に対して25日、政治的に大きな動きに出た。それは、南オセチア自治州とアブハジア自治共和国の独立を大統領が承認するよう、上下院がそろって声明を採択したことだ。加えてプーチン首相は、WTO加盟交渉を凍結する方針を表明、メドベージェフ大統領もNATOとの関係断絶を辞さない姿勢を示した。(26日『日経』)

 欧米諸国は今回の紛争激化以後、グルジアの領土の一体性の維持を主張してきたから、ロシアのこの動きは、それと真っ向から対立するものだ。また、この2つの地域がグルジアから“独立”してロシアの勢力圏に完全に編入されれば、グルジアは両地域を諦めてNATOへ加盟する選択をする可能性がある。また、グルジアと同様の民族問題を抱えている隣国・ウクライナも、グルジアの“二の舞”となることを避けるために、西側への編入を決意する可能性は大きく、欧米もそれを認めざるを得ないだろう。こうして、民族問題(ナショナリズム)の対立を契機として、黒海沿岸の国々は“ロシア側”と“欧米側”に鮮明に色分けされることになれば、“東西冷戦の再現”に近づいていくのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月25日

“百万の鏡”が映すもの (4)

 さて、本シリーズも4回目になったので、そろそろ結論を出さねばならない。が、幸いなことに、読者のコメントの中に“結論”らしきものがあるので、これについてまず述べよう。2人の読者が「図形自体には意味がなく、それを見る人の心の中に意味が想起される」という主旨の答えを述べられた。この答は、谷口雅春先生が『新版 真理』第7巻悟入篇の、問題の図形を提示された箇所に書かれている次の言葉と、ほとんど同じ意味である:
 
「外から来る光線の刺戟は、実は自分の心の内にある無限の相(すがた)のなかから、或る相を浮かび上がらせる契機を与えるだけである。」(同書、p.79)
 
 そうすると、「窓枠」や「田」の字のように見えた図形は、それを見る人の心を映す“鏡”の役割をはたしていることになる。では、その図形が、ここで言う心の“鏡”の役割をはたしているのは、それが何か人為的な工夫を凝らした特殊な図形だからだろうか? それとも、どんな図形でも、同様の役割を果たすと言えるのだろうか? この質問に対する答えは、上に引用した雅春先生の言葉を理解する人は、簡単に分かるだろう。我々の周りにあるどんな図形も皆、我々内部の相を映し出す“心の鏡”である--こう考えていいだろう。
 
 では、「図形」以外のものについてはどうか? ここで「図形」というのは、「描かれた形」あるいは「面・線・点などの集合から成ったもの」(いずれも『新潮国語辞典』の定義)の意味に使おう。換言すれば、図形とは、人為的に平面に描かれた形、または人為的に形成された立体ということになる。そうすると、「図形以外のもの」とは、二次元と三次元上に人為的に形成されなかったもの--つまり、(人間を除いた)自然界の現象すべてを指すことになる。これには、例えば「山」や「木」「草」「川」「海」「岩」「動物」……など無数のものが含まれる。これら無数の自然現象は、はたして「我々内部の相を映し出す“心の鏡”である」と言えるだろうか?
 
 この質問に対する答えを読者に考えてもらっている間に、「自然物」という考え方について少し述べたい。「自然物」という言葉は上掲の辞書では「自然界に存在する有形物」と定義されていて通常、人工物は含まない。これは、自然的(natural)なものに対して人工的(artificial)なものを考える我々の心のクセから来ているのだろう。が、1つ指摘しておけば、我々人間も「自然界に存在する有形物」であることに変わりないのだから、高層ビルのような人工的な建物であっても、サンゴ虫が形成したサンゴ礁と同じように「自然物」と呼んでも間違いではないはずだ。しかし、議論がややこしくなるので、今はそのことを問わずに、“自然”と“人工”を対比させる習慣に従うことにする。
 
 では、自然物とは具体的に何だろうか? それは、上に例示した「山」「木」「草」「川」「海」「岩」「動物」……などだろう。しかし、「山」が本当に自然物であるかどうかは議論の余地が十分あると思う。私の言う意味は、現代においては地球上のほとんどの「山」には人間の手が入っているというようなことではない。そもそも「山」などというものが自然界に存在するか、という問題である。誤解のないように言っておくが、私は一般に「山」と呼ぶものが現象界に存在しないと考えているのではない。そうではなく、「山」に対して「平地」や「里」や「丘」を別のものとして捉える考え方は、人間の独断であり、不自然ではないかということである。
 
 説明しよう。地球の“外皮”に該当する部分を「地殻」と呼び、その表面に堆積したものを「表土」とか「土壌」と呼ぶ。これらは均一でなく、地殻変動や河川の活動などによって隆起したり陥没しているのが自然状態だ。が、その隆起のうち一定の高さ以上のものを、我々は周囲の地殻から視覚的に分けて取り出し、それを「山」と呼んでいるのである。「山が在る」のではなく、何か別のものを「山と呼んでいる」のである。「一定の高さ」がどれだけであるかは、人間が勝手に決めており、それより低いものは「丘」と呼んだり「盛り土」と呼んだり、「堆積」と呼んだり……つまり、これらは、もっぱら人間の心の中の独断的分類であって、その言葉に正確に対応するものが自然界に存在するわけではない。したがって、「山」は自然物として存在しているのではなく、人間の心の反映の一部であるに過ぎない。
 
 この議論に賛成してくれる読者は、同じ論法によって、「草」「木」「川」「海」「岩」「動物」……なども人間の心の反映であって、自然界にそのまま存在するものではない、という議論にも賛成してもらえるのではないか? この結論に達するまでにはもっと説明が必要かもしれないが、スペースの関係で省略する。私がここで言いたいのは、人工物のみならず、自然物も「我々内部の相を映し出す“心の鏡”である」ということだ。このことが分かれば、『天使の言葉』にある“百万の鏡”が何を意味するかも了解されるに違いない。
 
 我々は今、この瞬間にも、上下左右四方四維を“百万の鏡”に取り囲まれているのである--「汝ら億兆の現象も、悉くこれ自己の心の反映(うつし)なることを知れ」ということである。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月24日

“百万の鏡”が映すもの (3)

 前回、本欄で私が発した問いかけに対して、さっそく読者の1人が答えてくださった。問題の図形を、「窓枠」であるとしても「田」であると答えても、「どちらも正しい」というのである。そして、その答えの後に、大変興味深いコメントを付け加えていられる--「本文上での図は、 多くの視点から様々なことを想像できるけれども、実は、一つのものを観ている。換言すると、真実は、一つだが、実は多くの視点を内包しているのではないかと想いました」。私は、この読者の答えに大いに(95%)賛成する。が、残りの5%に疑問を呈することを許してほしい。

 その疑問とは、前回の図が「多くの視点を内包している」と表現している点だ。この表現は、比喩的、文学的表現としては正しい。が、厳密に論理的に考えた場合、「図形が視点を内包する」という言い方はおかしい。図形は死物であるから「視点」をもたず、もたないものは「内包」するわけにいかない。もちろん私は、この読者が言いたいことを理解している。彼は、「この図形は、見る人の視点によって多くのものに見える」と言いたかったに違いない。その「多くのもの」の中に「窓枠」があり、また「田の字」が含まれるのである。ではここで、もう一度質問してみよう。
 
 前回掲げた図形は、見る人の視点によって多くのものに見えるというが、本当は何の図形と言うべきか?
 
 ここで「本当は」という意味は、「あらゆる時代の、どんな場所のどんな人にとっても真であるか?」ということだ。読者がこの質問への答えを探しているあいだに、この図形についての谷口雅春先生の解説を紹介する--
 
「これは“田”という字を知らない人には、どうしてもこの形は“田”という字に見えない。これを“田”という字に見るのは、“田”という字が心の中にある人だけであります」。(『新版 真理』第7巻悟入篇、p.79)

 私は時々、生長の家の講習会でこの図形を提示して、「これを“田”だと思う人は、漢字の“田”を小学校で習った人だけ」などと話す。そして、ブラジル人の聴講者がいる場合には、「普通のブラジル人は、これを“田”だと思わない。なぜなら、“田”という字を知らないからだ」などと付け加える。雅春先生の上の解説を別の言葉で表現しているのだ。では、「窓枠」だという結論について、何が言えるだろうか?

 同じ論法を使えば、「窓枠」というものを過去に見たことのない人(盲目の人、あるいはニューギニアやアマゾン奥地の原住民)の心の中には、窓枠という概念は存在しないから、「窓枠」という答えは本当(あらゆる場合に正しい)とは言えない--ということになる。それに、見落としてはならないことは、この図形をじっくりと眺めれば分かるが、こんな形の窓枠を作ったら、大工さんは失格とされるに違いない。(それぞれの枠が連結しないでバラバラであるから、ガラスをはめ込むことができない!)
 
 さらに、次のような事実を指摘しよう。我々日本人のように漢字文化圏で育った者にとっては、問題の図形を「田」だと解釈することは実に簡単に、当り前にできる。しかし、それは、我々が多くの視点をもっていて“優秀”だからでは決してない。単に、文化的背景が漢字文化圏外の人と違うからである。ということは、漢字文化圏の外にいる人には理解できても、我々には理解できない解釈もあるということだ。
 
Tambonota  分かりやすくするために、ここに問題の図形を再掲する。これをよく見つめると、その中に「窓枠」や「田」以外にも様々なものが見えてくる。例を示すと--漢字では「卍」「王」「十」「口」「工」「土」「士」「川」「山」「三」「二」「一」「上」「下」が見える。片仮名では「コ」や「エ」が見える。また、キリスト教の信者には「十字架」も見えるだろう。さらに、アルファベットでは、「H」「E」「F」「I」「U」などが見えるし、数学が好きな人には「±」(プラスマイナスの記号)が見え、郵便局に勤める人には「〒」(郵便マーク)が見えるかもしれない。さらに言えば、外国人には日本人には見えないものも見えるかもしれない--「Γ」(ギリシャ文字のガンマ)、「Ε」(同じくエプシロン)、「Η」(同じくエータ)、「Ι」(同じくイオタ)、「Ξ」(同じくクサイ)、「Π」(同じくパイ)、「Τ」(同じくタウ)、「Ш」(ロシア文字シャー)……。

 さて、ここまで書けば、私が問題にしていることが何であるかが、読者にもお分かりだろう。私の質問はこうだった--この図形は、本当は何の図形と言うべきだろうか?

 谷口 雅宣

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2008年8月23日

“百万の鏡”が映すもの (2)

 21日の本欄では、聖経『天使の言葉』から引用して、百万の鏡に映した1つの物体は、百万の異なる姿に見えていても結局、同じ1つの物体であるという喩え話の正しい解釈を考えた。私はこの際、比喩が「鏡」を使っているところに重要なポイントがあると書いた。今回は、そのことを中心に考えてみよう。

 鏡の1つの大きな特徴は、「自分の姿がない」ということである。もちろん、バッグに入るような手鏡であれば、縦何センチ、横何センチという限定された大きさがあり、恐らくプラスチックや木の枠の中にはまっているだろう。しかし、そういう大きさや形は任意のものである。つまり、どんな大きさや形であっても、「鏡であること」は妨げられない。
 
 手鏡も、姿見も、医療用の内視鏡も、歯科医が口の中を見る鏡も、一眼レフ式カメラに内蔵された鏡も、万華鏡も、自動車のバックミラーも、大型反射望遠鏡に使われる鏡も、大きさや形はまちまちだが「鏡」であることに変わりはない。それらの鏡は、その姿形や大きさが重要なのではなく、「何を、より正確に映すか」が重要であり、その目的に従って鏡のサイズや形が変わっていく。つまり鏡は、自分が言わば“無”になって、映す対象の姿形をどれだけ正確に反映するかに奉仕するのである。
 
 このような鏡が、神(唯一神霊)の様々な側面を映して、相異なる姿形を現じているのが我々人間である--と『天使の言葉』は説いている。これは“一即多”と呼ばれる教えでもあり、分かりにくいものの一つである。そこでここに“例題”を掲げよう。下の画像は、谷口雅春先生の『新版 真理』第7巻悟入篇に出てくる図形である--
 
Tambonota  この図形を、『天使の言葉』の中にある「唯一神霊」の位置に置いて考えよう。もちろん、これはあくまでも説明のための便宜上の仮定であって、「神」や「唯一神霊」がこんな単純な図形によって過不足なく表現できると言うつもりはない。まず単純な例で理解した後に、複雑なものへと類推を働かせる--そのための説明である。

 読者は、この図形を何だと考えるだろうか? 人間は物事に名前をつけて、それを考えの“単位”とするが、この図形が何であるかの説明がなければ、自分の知識や記憶の中から、これと形がよく似たものを探し出して、それがこの図形が表象しているものだ、と結論づけるだろう。
 
 谷口雅春先生は、「これは窓の枠の影であります」(同書、p.78)と書いておられる。が、すぐその後に「まあそう思えばそう見えるのである」と続けていられる。つまり、この図形を定義づけるものは、図形そのものではなくて、それを見る人の心だということだ。それも、図形によって、心の中にまったく新しい名前や概念が作られるのではなく、すでに存在する名前や概念や形を当てはめることで、「図形を理解した」と考えるのである。言い換えれば、我々はこの図形を通して「自分の心」にあるものを見るのである。そういう意味で、この図形は、見る者の心を映す「鏡」の役割を果たしていると言うことができる。

 雅春先生は、この図形によって我々の心の中に「窓枠」を想起させられた後で、今度は「しかし或る人はこれを見てこれは(中略)田という字の影だけ書いたのだと言うのです」と書かれている。つまり、同じ図形が「窓枠」にも見えるし「田」の字にも見えるということだ。そこで読者に質問しよう。いったいこの図形は、本当はどちらだと考えるのが正しいだろうか?
 
 谷口 雅宣
 

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2008年8月22日

生物多様性に注目 (2)

 宇治の大祭からもどってきたとたんに、東京地方は涼しくなった。昨日は休日だったおかげで1日ゆっくりできたが、夕方、食事をしに妻と渋谷へ出かけようとしていたら、雷が鳴りはじめ、稲妻がまぶしく閃いて、勢いよく雨が降り出した。夕方のスコールだからそのうち上がると思い、家の中で小一時間待ってみたが、なかなか上がらない。そこで2人は、傘をしっかり握りながら出発した。夕食が終わったら、幸い雨は上がっていた。が、その代わり寒いほどの涼しさだった。ポロシャツ1枚しか着ていなかった私は、体温を逃がさぬよう両腕を胸の前に組んで歩いた。その日の夜は、久し振りに布団を掛けて眠ることができた。
 
 17日の本欄で「生物多様性」について書いたら、ムカデやスズメバチがいる中で暮らしてKemumpus いる読者から、「人間の都合と生物の凌ぎ合いは、なかなか一筋縄ではいかない」とのコメントをいただいた。その通りだと思う。実は昨日、私もそれを実感する経験をした。毎朝の日課である生ゴミの処理のため、庭のコンポストへ行った私は、その近くに立っている若いクヌギの木を見て驚いた。若緑の葉が繁る枝の上を、体長20センチほどの濃紅色の体をくねらせた毛虫が、いっぱい這っているのである(=写真)。数を正確に数えなかったが、20匹以上はいた。体一面に生えたその灰色の毛の長さが、いかにも毒々しく見える。私は一瞬途方に暮れたのである。

 わが家の庭には、クヌギの木はこれ1本しかない。そう断言できるのは、この木は私が「実」の段階で植えたものだからだ。子供たちがまだ小さい頃、神奈川県か東京の三多摩地区の自然公園に行った際、そこに落ちていたクヌギの実を拾って植木鉢に植えた。それが成長して、今や2メートルを超える高さに育った。そんな思い出のある木を、醜い姿の毛虫が寄ってたかってイジメテいる--そう考えると、「生物多様性」を喜ぶ気持などどこかへ行ってしまうのである。それで結局、こう考えた。毛虫が死ぬことでその親であるガが死滅することはないだろう。しかし、ここに1本しかないクヌギの葉が全部食われてしまえば、クヌギはこの地から消滅する。したがって、毛虫を殺すことは生物多様性を傷めることではなく、守ることである。一応こう考えたが、この論理が本当に正しいかどうか、私は分からない。それよりも、毛虫に対する自分の嫌悪感が先に立ち、論理は後からついて来たのかもしれない。
 
 クヌギについた毛虫たちは、こうして殺虫剤の攻撃を受けることになる。1~2匹ぐらい残しておこうかとも思ったが、クヌギの葉はすでに大半が食べられてしまっていたから、毛虫を残しておくと食いつくされる可能性があると思った。その後、しばらくして現場を見に行った妻の報告によると、木から落ちた毛虫たちが固まっている場所に、1匹の大きなヒキガエルがいたそうだ。普通彼らは、人間の姿を見ると身を隠そうとするが、そのヒキガエルは彼女の姿など眼中になかったのだろう、という。ヒキガエルが毛虫を食べるかどうか、私は調べていない。が、食べるとしたら、そのヒキガエルの命がどうなるか、私は心配になった。殺虫剤の種類や毒性によっても影響は違うだろうが、カエルまで巻き添えにしたくなかった。
 
 殺虫剤は、一般には果物の栽培時にもよく使われている。そうしないと、見栄えや生産効率の面で商品価値が下がるからである。が、自家用のものは、一般の農家では農薬の使用を最小限にとどめるらしい。わが家でできる果物--ミカン、レモン、イチジク、ブルーベリー、キーウィー--は、もちろん無農薬だ。だから、虫や鳥が来て食べる、という話はすでに書いた。今年のブルーベリーの収穫は終った。でき栄えは昨年並みだった。これからはイチジクの収穫の時期だが、これはカラスとの知恵比べとなる。すでに1個を人間が食べ、1個をカラスに持って行かれた。

 果物のことでもう1つ言えば、今日、ジョギングの帰途に、狭い路地で青柿を拾った。涼しい日に青柿を拾うと、暑い夏もさすがに終りだとの気分になる。
 
 青柿の割れずに落つをみつけたり
 青柿の落ちる小路や力あり
 
 谷口 雅宣
 

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2008年8月21日

“百万の鏡”が映すもの

 京都府宇治市の生長の家宇治別格本山で行われた盂蘭盆供養大祭は19日、宝蔵神社本祭、精霊招魂神社大祭、全国流産児無縁霊供養塔供養大祭、末一稲荷神社大祭の4つが行われ、私はそれぞれの御祭で斎主(いつきぬし)として務めさせていただいた。これらの大祭は、例年のように17日から3日間行われ、連日の30℃を超える暑さにもかかわらず、全国から大勢の信徒・幹部の方々が招霊祭員その他の実行委員として奉仕してくださった。私は19日の4つの御祭で、それぞれ祝詞を唱え、玉串奉奠し、聖経読誦する。聖経は『甘露の法雨』と『天使の言葉』が2回ずつ誦げられるが、今回は『天使の言葉』の中の次の一節が心に残った--

 汝ら億兆の個霊(みたま)も、
 悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ。
 喩えば此処に一個の物体の周囲(まわり)に百万の鏡を按(お)きて
 これに相対せしむれば一個もまた
 百万の姿を現ぜん。
 斯くの如く汝らの個霊(みたま)も
 甲乙相分れ、
 丙丁互に相異る相を現ずるとも
 悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)にしてすべて一つなれば
 これを汝ら互いに兄弟なりと云う。

 聖経のこの箇所は、人類がみな互いに兄弟姉妹であることを唯心所現の原理を通して説いているのだが、「鏡」を喩えとして使っている所に重要なポイントがあると思う。
 
 我々の多くは“自分”の外見を確認するために、ほとんど毎日のように鏡を見るに違いない。外見の中でも「顔」を見ることが多いと思うが、それだけを見ながら“自分”を見ているつもりになっている。しかし、(よく指摘されることだが)鏡に映る顔は左右が逆転しているから、厳密な意味では「自分の顔」ではない。が、我々は普通、その左右逆転の顔を通して「自分」を見る以外に方法がない。そして、我々の日常生活においては、上下逆転は困るが、左右逆転はさほど気にならないようなので、鏡は十分実用価値があるのである。我々は鏡を見て、「あっ、自分はこんな姿だ」と感じ、「自分の反映」として鏡の中の像を理解する。これが普通の鏡の見方だと思う。

 ところが、上の聖経の一節は、「鏡は自分の反映」とは言わないで「鏡は唯一神霊の反映」だというのである。そして、「一個の物体」の周囲に置いた無数の鏡が、その物体の無数に異なる姿を反映するように、個性や外見が無数に異なる我々も「唯一の神霊」の反映である、と説くのである。
 
 この一節に説かれた教えは、表面的に解釈すると妙な結論になるかもしれない。それは例えば、我々一人一人の個性が神(唯一神霊)の一部を構成していると考えた場合である。そうなると、我々が「個性」と呼んでいるものの中には、必ずしも善いものだけが含まれていないから、「気が短い」とか「おっちょこちょいな」とか「強欲な」とか「嫉妬深い」などという性質も、神の属性の一部だと考えられてしまうのである。このことを、“人間の性質”の領域からさらに押し広げて“世界の性質”にまで拡大して適用させれば、「不幸」や「死」や「病気」や「事故」や「戦争」や「地震」や「生存競争」……の1つ1つが、創造主の属性の一部を反映していることになる。これはつまり、「現象のすべての側面の総和が実相である」という考え方であり、案外多くの人々が常識としてもっているものだろう。
 
 しかし、生長の家は「現象は心の影」であり「神の創造に非ず」という教えだから、このような解釈ではいけない。谷口雅春先生は、『生命の實相』第23巻経典篇二でこの部分を解釈されて、次のように書いておられる--
 
「皆さん、億兆の個々の霊も、個々の人間も、これことごとく神の反映と知れ、(…中略…)神と同じ姿が皆の本当の姿であり、神が皆の生命であり、本体であるのであります。実相はまったく同じであるものが、たんに互いにいろいろに分かれているように見えるだけであって、皆同じ神の姿が宿っているものである。分かれて別々に見えても決して一人一人が別々な存在であると思うな。一つの神が姿をかえているにすぎないのだ」。(pp. 98-99)

 この解釈で重要なのは、「皆同じ神の姿が宿っている」という言葉だろう。皆同じ神の姿が「映っている」のではなく「宿っている」のである。「映っている」のであれば神の姿は「現れて」いるだろうが、「宿っている」場合は必ずしも表面に「現れて」はいない。この違いは大切である。百万の人間が百万の異なる“世界”や“神”を見ているようであっても、それらは皆現象であり、その背後に1つの実相世界とその創造主の姿が「宿っている」(隠されている)--これが生長の家の解釈と言えるだろう。
 
 谷口 雅宣
 
 

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2008年8月20日

地熱エネルギーを活かそう

 環境運動家のレスター・ブラウン氏が主宰するアースポリシー研究所から、19日付のニュースレターが電子メールで送られてきた。同氏は『プランB』などの単行本や講演活動を通じて地球環境問題の具体的な解決法などを提言して続けているが、今回のニュースレターは「地熱発電」を取り上げていて、希望を抱かせる情報が多くある。わが国での地熱発電の可能性については、私は本欄でも述べたことがある。ご存じのように日本は火山国だから、地熱エネルギーは豊富にあり、したがっていたるところから温泉が出る。これを発電に利用してこなかったことは、むしろ不思議なくらいだ。地熱エネルギーは事実上無限にあり、自然現象そのものだから、誰からも奪わない。これを環境汚染しないように効率的に利用できれば、化石燃料の使用を大幅に減らすことができるはずである。
 
 ジョナサン・ドーン氏(Jonathan G. Dorn)の名前によるニュースレターの記事は、この分野の開発に世界は今、どう取り組んでいるかを報じており、大いに参考になるので、読者にお知らせしたい。
 
 地熱発電の歴史は案外新しく、1904年にイタリアのラルデレーロ(Larderello)というところで始まったという。今や24カ国で行われていて、そのうち5カ国では、1国の発電量の15%以上を占めるまでになっているという。2008年の前半の段階で、地熱による発電容量は世界全体で1万メガワットに達し、イギリス1国の人口に匹敵する6千万人の電力需要を満たすまでなっている。地熱エネルギーが豊かな地域は太平洋を取り囲む火山帯で、チリ、ペルー、メキシコ、アメリカ、カナダ、ロシア、中国、日本、フィリピン、インドネシアなどが含まれる。また、アフリカでは「グレート・リフト・バレー(Great Rift Valley)」と呼ばれるケニアとエチオピアにまたがる渓谷地帯が有望である。同研究所の調べでは、地球が提供する地熱エネルギーの総量は、39カ国の7億5千万人以上の全電力需要をまかなえるという。
 
 地熱発電は通常、地熱によって暖められた高温水か水蒸気を使ってタービンを回すことで行われるが、最近は、水よりも沸点の低い液体を密閉した熱交換システムを使う技術が開発されているという。これを使えば、火山をもたないドイツなどの国でも比較的低い熱源によって発電が可能になるという。地熱発電のよい点は、低炭素の地元資源を利用できるだけでなく、それが安定しているため24時間とぎれなく利用できる。これは、風力や太陽光にない特長であり、エネルギーの貯蔵や予備設備の必要が少ないというメリットが挙げられる。

 この分野で世界をリードしているのはアメリカで、2008年8月の時点で、アラスカ、カリフォルニア、ハワイ、アイダホ、ネバダ、ニューメキシコ、ユタの7州の合計で2,960メガワットの発電容量があるという。特にカリフォルニア州の発電量は多く、この州だけで2,555メガワットの容量があり、同州の全電力需要の5%近くをまかなっているという。

 アメリカでは、2005年に施行されたエネルギー政策法(Energy Policy Act)で、地熱発電が連邦政府の援助の対象になったため、地熱エネルギーによる電力の値段が化石燃料によるものと同等程度まで引き下げられた。この経済的条件の向上により、同国での地熱産業はブームになっているという。2008年8月の時点では、アメリカの13州で、新しい地熱発電開発計画が97もあり、合計の発電容量は4千メガワットに達するという。

 しかし、現在の開発状況は、利用可能の地熱エネルギー全体から比べると、まだ表面を引っ掻いている程度のものという。アメリカのエネルギー省の推定では、新しい低熱発電の技術を使えば、少なくとも26万メガワットまでの発電が可能だという。マサチューセッツ工科大学(MIT)で行われたある研究では、地熱発電の研究開発に15年で約10億ドル(新型の石炭火力発電所1基分の値段)の投資を行えば、2050年までに10万メガワットの商用利用が可能になるらしい。

 このように、地熱発電の大きな特長は、開発コストが低い点にある。だから、地熱発電で世界のトップ15を占める国々の多くは、発展途上国である。世界一はアメリカだが、フィリピンは電力需要の23%をこれで賄っていて、世界第2位。この国はさらに、2013年までにこの比率を6割以上の3,130メガワットにまで拡大する計画をもつ。第3位のインドネシアには、これより野心的な計画があり、今後10年で地熱発電の容量を新たに6,870メガワット拡大する予定で、これが実現すれば、同国の現在の総電力需要の3割近くが地熱エネルギーでまなかえることになるという。日本は今、イタリアに次ぐ世界第6位だが、アメリカの約6分の1、フィリピンの約4分の1だ。

 アフリカでの地熱利用の可能性もきわめて大きい。ケニアがこの分野では先行していて、今年の6月、ムワイ・キバキ大統領は、今後10年で新たに1,700メガワット分の地熱発電施設を建設する計画を発表した。これは、現在の同国での地熱発電容量の13倍にあたり、他の発電方法のすべてを含めた現在の総発電容量の1.5倍に当たる。ジブチは、今後数年間で同国の全電力需要を地熱エネルギーでまかなうことを目指している。
 
 このような情報を知ってみると、“地震国・日本”という言葉の意味が大いに変わってくる。地震があることと地熱エネルギーが利用できることの間には、大いに関係がある。どこかの新聞では、いまだに“資源小国”という言葉で日本を呼んでいたが、旧時代の発想から脱皮できないのである。温泉を愛する日本の皆さん、地熱エネルギーを大いに利用しようではありませんか。平和は実に“足元”から来るのです。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月17日

生物多様性に注目

 今日は午後、東京に小雨が降った。最近、日本各地で頻繁に起こる“ゲリラ豪雨”ではなく、春雨を思わせる細かい霧雨である。気温も急に下がり、前日から10℃近く低い25℃の涼しさは、まるで高原に来たようである。夕方、傘をさして仕事場からもどると、門から玄関まで続く飛び石のあちこちに、あわてて私に道をあけるヒキガエルの姿が多いのに驚かされた。彼らは、小虫を食べて大きくなるのだろうから、庭にはそれだけ数多くの昆虫がいるのである。今、自宅のリビングルームでキーボードを叩いているが、部屋の隅に置いた透明プラスチックケースからは、50匹以上のスズムシが盛大に鈴の音を響かせている。

 このスズムシのことは8月2日の本欄に書いたが、隣家の母が昔から飼い続けているものだ。母はこれまで、何度も庭に放して、自然の環境でスズムシの音を聞きたいと思ったそうだ。しかし、放した後、数日はその音が聞けても、やがて聞こえなくなり、不思議に思って探してみると、放した場所には大きなヒキガエルがいる--そんな経験をしたので、やめてしまったという。だから、わが家のスズムシは“自然”から隔離されて生き延びているのである。
 
 そうはいうものの、ここには昆虫は結構多くいる。昨夜は、庭に近いサンルームで夕食をとっていた際、目の前の網戸をつたって体長10センチほどのヤモリがぬうーっと姿を現した。ヤモリは昆虫を捕食するために出てきたので、網戸の向こう側には緑色のコガネムシが何匹も貼りついていた。コガネムシは、我々人間が果物を食べていると、その香りに誘われて飛んでくるのである。彼らのことはかつて本欄にも書いたことがあるが、ここ数年の“猛暑”の影響かどうか知らないが、夏になると大発生して我々を困らせる。樹木の葉を食べつくしてしまうのだ。今年はまず、キーウィーの葉がやられ、次にブルーベリーの葉と実がやられた。彼らは今はそこからスモモの木へ移り、ゴーヤにまで取りついて葉を盛んに食べている。
 
 昆虫は、もちろん“困りもの”だけがいるのではない。今時々、庭先に飛んできて我々の目を楽しませてくれるのがアゲハチョウである。ここには普通の黄色主体のアゲハチョウだけでなく、クロアゲハも、アオスジアゲハも飛んでくる。ハチの種類では、ミツバチもアシナガバチもクマバチも来るし、この間は、妻が大きなスズメバチを見たと言った。これに加えて、今は毎日セミの大合唱が庭中に響いている。種類も豊富で、アブラゼミやミンミンゼミは言うに及ばず、ツクツクボウシもクマゼミもヒグラシも鳴く。このほか、庭に出て目につくのは、糸をかけて巣をつくるクモ、軒下の乾いた土に擂り鉢をつくるアリジゴクなどだ。私の目につかない所には、この数倍、いや数十倍の種類の昆虫がいるはずである。だから、鳥もよく飛んできて、木の枝を巡りながら何かをついばんでいる。

 東京のど真ん中にいながら、これだけの生物多様性がある環境で過ごせることは、実に幸運である。それもこれも、わが家では私の祖父の時代から樹木を大切にし、植物を育て、農薬などで昆虫をむやみに殺さなかったからだ、と私は考えている。こういう環境を守るための生物多様性基本法が、この6月から施行されたことで、最近は企業もこの点を意識した開発計画を策定するようになったらしい。今日(17日)付の『日本経済新聞』によると、森ビルや富士通、三井物産、リコーなどの大手企業は、生物多様性の保全を目指した開発や再開発を行うことを、温暖化ガス削減に次ぐ環境経営の柱として取り入れていくという。
 
 記事によると、森ビルは東京・虎ノ門地区の再開発事業で地上46階の複合ビルなどを建設するが、この際に動植物の種類の多さを考慮して緑化地域を設計するらしい。また、富士通は2020年までの中期環境計画の目標の一つに生物多様性の保全を盛り込み、三井物産は今年度中に、5カ所の社有林で生物多様性の調査を行って森林管理に役立てる計画という。
 
 私はこのような傾向を大いに歓迎するが、企業イメージ向上のための“装飾的”な活動に終らないよう希望する。生物多様性とは、少しぐらい木を植えれば実現するような簡単なものではない。また、生物多様性が豊かな環境とは、人間に便利で、住むのに快適な環境では必ずしもない。カやハチや毒虫に刺されるかもしれないし、セミの騒音が耳障りかもしれないし、落ち葉や鳥のフンの掃除でコストがかかるかもしれない。人間の都合を最優先する現代の企業経営の考え方で、解ける問題と解けない問題がある、と私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月16日

南オセチア紛争が拡大 (3)

 南オセチアへのグルジア軍の侵攻に対し、ロシアが大規模な軍事介入をした紛争は、ヨーロッパを巻き込んだ米ロ対立に発展しつつある。情勢の変化が急速なので、なかなか目が離せない。日本のメディアはオリンピックと終戦記念日に時間とエネルギーを費やしているが、メダルの数や靖国に参拝した政治家の数などとは比較にならないほど重大な変化が、世界で起こりつつあるのではないか。
 
 今日付の『日本経済新聞』によると、ブッシュ大統領は、15日に発表した声明の中で、「脅しは21世紀の外交を行う上で受け入れられる方法ではない」として、グルジアに進駐したロシアを非難し、ロシア軍の即時撤退を改めて求めた。この日、ライス国務長官はグルジアを訪問してサーカシビリ大統領と会談し、同大統領は、フランスの仲介によって生まれた停戦のための6項目の和平原則に関する文書に署名した。その際、ライス長官は「もはやソ連がチェコスロバキアを侵略した1968年ではない」と指摘し、ロシア軍のグルジアからの撤退を要求した。
 
 ところが今日の『日経』夕刊では、ロシア軍は15日夜、これらの警告を無視してグルジア国内にさらに進軍した。同軍はすでにグルジア中部の都市、ゴリに進駐していたが、そこから南東にある首都トビリシに向かって軍を進め、首都から約50kmの地点に接近したという。サーカシビリ大統領は15日の記者会見で、同国中部のハシュリとボルジョミにもロシア軍が展開したと発表したという。これに対してロシア軍高官は、グルジアへの進軍の目的は「グルジアとオセチア市民の戦いを止め、平和を実現するため」などとロイター通信に語ったという。同軍は、「武器の撤去・回収」を理由に黒海沿岸の都市、ポチや西部のセナキなどでも駐留を続けているらしい。

 このようなロシアの一方的軍事圧力に対して、近隣国の反応も出てきた。ロシア軍の侵攻を受けた当のグルジアでは14日、議会が親ロシア組織である独立国家共同体(CIS)からの脱退を全会一致で承認、親欧米色を一層明確にした。一方、アメリカのミサイル防衛構想(MD)の中で迎撃ミサイルを配備することに難色を示していたポーランドは、14日になってトゥスク首相がMD施設の受け入れを表明した。この施設は、ポーランド北部に10基の迎撃ミサイルを配備して、米兵が常駐する基地を建設するもの。同首相は、この合意文書調印に先立って「米国の同盟国としてポーランドは安全でなければならないという点で見解が一致した」と述べたという。これらのミサイルは、公式にはイランのミサイルを念頭に置いたものとされているが、ロシア側は自国を標的にしているとして反対を続けていた。アメリカは、すでにチェコとの合意が成立しているレーダー基地と一体化して、ポーランドのミサイルを運用する考えだ。
 
 今日の『日経』夕刊は、ブッシュ大統領がまもなく全米に向けてラジオ演説をすることを伝え、その中で、グルジアへのロシアの侵攻を非難するとともに、「世界の自由社会はこのような行為をまったく許容できない」と強調する予定だと伝えた。この演説の全文はすでにホワイトハウスから公表されていて、ブッシュ氏は「国民が民主的に選んだ政府を脅かし、侵攻したロシアを世界は警戒心をもって見つめている」と指摘するとともに、「グルジアでのロシアの行動は、21世紀の欧州におけるロシアの役割、意図に深刻な疑問を抱かせた」と述べるという。
 
 16~17日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、ロシアの近隣国の反応を伝えている。それによると、ベラルーシ、カザフスタンなどの独立国家共同体諸国は、ロシア軍の侵攻後何日も沈黙を守っていたという。ベラルーシは結局、紛争勃発後1週間たって犠牲者への哀悼の念を表明しただけだった。カザフスタンは、グルジアがCIS脱退を決めた後になって「共同体の統一が脅かされた」と強い調子で述べ、「複雑な民族間の問題は、平和的な交渉によって解決されるべきであり、軍事的解決はありえない」と言うにとどまった。トルクメニスタンも同様の見解を述べ、国内に民族問題を抱えているアゼルバイジャンは、「我々はグルジアの領土的統一を支持し、その地域の緊張が拡大しないための努力、平和への努力を支持する」との外務省声明を出した。どの国も、ロシアの軍事行動を明確に支持していない点は、注目に値するだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月15日

南オセチア紛争が拡大 (2)

 8月10日の本欄でこの問題について触れたが、事態は急速に変化している。この時書いたことが、一部誤解を招く恐れがあるので補足したい。それは、この紛争の大きな要因として「グルジア共和国内の南オセチア自治州が、“分離独立”を目指してナショナリズムを拡大していること」を挙げたことだ。この表現だと、ロシアはこの“分離独立”の運動と関係がないような印象を受ける。が、そうではなく、オセチアの分離独立派はロシアを庇護者と考え、ロシアはグルジアの西寄り姿勢を牽制するために、オセット人(オセチアの多数民族)を支援してきたのである。また、グルジアからの分離独立を求めているのは、オセット人だけでなく、西部のアブハジア自治共和国も同じである。
 
 8月12日付のアメリカの公共ラジオニュース(NPR )がこの辺の事情を詳しく説明している。それによると、黒海の東端から東へ広がるコーカサス地方には、昔からグルジア人のほか、オセット人とアブハジア人がいた。ロシア革命後、ソ連はグルジアを吸収した際に、これら3民族にそれぞれ自治権を与えた。現在ロシアとグルジアにまたがるオセット人居住地域は、1922年に北オセチア共和国と南オセチア共和国に明確に分断されたが、旧ソ連の領土に収まっていた。

 ところが、1980年代末にソ連が崩壊し始めると、オセット人とアブハジア人はグルジアに含まれることを拒否して、ロシア側へ庇護を求めるようになった。つまり、オセット人の自治拡大運動や南北統合の要求が盛り上がり、これに反対するグルジアとの間で武力紛争が起こるようになった。その一環として、1990年に本格的な武力衝突が起こったのが「南オセチア紛争」である。この紛争は1992年に停戦が合意され、ロシア、グルジア、南オセチアの三者で構成する平和維持軍が、この地域の停戦監視をすることになった。が、三者間の不信感が消えないため、その後も衝突が散発して、双方に多数の難民が生じていたのである。
 
 一方、ロシアにとっては、ソ連崩壊後に東欧が西側に移り、グルジアも独立して“緩衝地帯”が失われていくことが問題だった。特に、2004年に西向きの姿勢を鮮明に示すミハイル・サーカシビリ氏がグルジア大統領に選ばれたことで、ロシア指導部は危機感を抱いた。同大統領は、ロシアを潜在敵国とするNATO(北大西洋条約機構)への加盟の意志を明確にし、それを念頭においてアメリカの“テロとの戦争”に協力してきた。だから、つい最近まで、イラクに2千人の地上部隊を派遣していたのである。
 
 このような中で、8月の初めの週に、南オセチアの民兵とグルジア軍との間で銃撃戦が勃発した。7日になって、サーカシビリ大統領は、南オセチアの民兵が停戦合意を破って重火器を使って攻撃していると批判した。また、この頃から南オセチアの中心都市であるツヒンバリから住民の避難が始まった。そして8日、同大統領は軍に対して、ツヒンバリを確保するよう命令した。これに対し、ロシア軍は南オセチアに増援部隊を派遣し、グルジアの首都トビリシ近郊を含むグルジアの要所を攻撃するなど、本格的な軍事介入を行ったのである。

 このロシアの動きに対して、欧米が態度を硬化していることとその事情については、10日の本欄に書いた通りである。ロシアの攻撃の速さと作戦の巧みさが浮き彫りとなり、一部には、冷戦後のアメリカ一極支配が終わった象徴的出来事であるとか、新しい冷戦時代が始まったなどという評価が聞こえる。

 今日はわが国では“終戦記念日”と呼ばれる日だ。しかし、ご覧のように、世界では新しく戦争が始まった。今回の南オセチア紛争の拡大を見れば分かるように、民族意識(ナショナリズム)を鼓舞することは、現代においても依然として戦争の原因になりやすい。また、「往年の栄誉の回復」を目指すことによっても、平和は簡単に乱されることがある。この日にもう一度、戦争の原因と日本の将来について深く考えてみよう。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月14日

本欄が書籍に (6)

 すでに一昨日の本欄で触れたが、このブログの文章等を集めた単行本の11巻目、『小閑雑感 Part 11』(=写真)がまもなく世界聖典普及協会から出版される。正式の発行日はPart11_bg 9月1日だが、版元では宇治の大祭に間に合わせようと諸準備を急いでいる。今回の本が扱う時期は、約1年前の2007年7月から10月までの4カ月間で、81篇が収録されている。特徴と言えるのは、イスラームに関する文章を初めとして宗教や哲学に関するものが全体の65%(53篇)と多いこと。それにともない、地球環境問題に関する記述が相対的に減った。しかしこの問題は、すでにマスメディアが日常的に取り上げるようになっているので、私でなければ言えないことは、それほど多くない。
 
 ただ、地球温暖化とそれにともなう気候変動は、ノーベル平和賞をとった国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が、受賞当時に予測したよりも急激に進んでいる可能性が高い。だから、本書の「はじめに」にも書いたように、各国の指導者たちはこれを“非常事態”として認識し、強力なイニシアティブによって低炭素社会への産業構造の抜本的変革を行ってほしいのである。以下、「はじめに」から引用する--
 
 地球温暖化は、(人類にとって)巨大で複雑な地球全体の気候システムが「温暖化」へ向っていく現象だから、個人や1国の努力だけではどうにもならない側面をもっている。が、逆に、少しでも多くの個人と国家が温暖化抑制の方向に動かなければ、止められない現象である。また、現在の気候システムには“引き返せない地点”(a point of no return)があると言われていて、その地点まで温暖化が進めばシステム全体が従来とは変質してしまい、もとへもどれなくなると考えられている。これを譬えれば「滝に向かって進む船」のようなものだ。滝から逸れるために舵を切るのでは、間に合わないかもしれないのだ。船の速度が速く、滝の流れが急激であれば、落下から免れる唯一の方法は、左や右へ“舵を切る”のではなく、船を逆行させることだ。そのためには船全体に負担がかかり、転倒したり、マストから落下して犠牲者が出るかもしれない。しかし、船全体と乗組員の大多数は助かるのである。

 --私がここで「船を逆行させる」と言っているのは、化石燃料の利用をやめることを指す。いきなりやめるわけにはいかないから、「増やさない」ところから始めて、早く「減らす」方向へ産業全体を誘導すべきである。これは日本1国のことではなく、地球全体でその方向へ進む合意に達する必要がある。そのための途上国への技術支援と、制度的枠組みの整備を先進国は一致団結して進めるべきと思う。

 この文脈の中で、宗教運動に何ができるだろうか? 現在の資本主義経済は一種の“欲望増幅装置”のような役割をはたして地球資源の枯渇を加速させている。だから私は、宗教はその欲望を沈静化し、「足るを知る」倫理を広め、さらには「与える」喜びを拡大していくべきだと思う。すでに与えられている全てのことを十分味わって感謝し、余分のものは他へ回していく。そういう布施や、菩薩行、愛行の原動力として、宗教は進むべきである。地球温暖化時代には、宗教者の役割は実に大きいと言わねばならない。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月13日

水木しげるの“妖怪”

 8月3日の本欄では、先ごろ亡くなった赤塚不二夫さんのマンガと私との関係について、少し書いた。その時に、同じマンガ家の水木しげるさんの名前も出したが、『墓場の鬼太郎』や『ゲゲゲの鬼太郎』等の水木作品については触れなかった。記憶をたどってみると、子どもの頃の私は、マンガの中の“絵”の質にも興味をもっていたから、赤塚マンガとは対照的な水木マンガの“絵”--つまり、根気のいる点描や緻密な線描によって絵に現実味をもたせた作風--には、いつも感心していた。また、それによって描き出される日本の田舎の風景や、そこに溶け込んでは現れる数々の妖怪にも、一種のリアリティーを感じていた。
 
 水木さんがなぜ、墓場や妖怪のマンガばかりを描いてきたのか、私は知らない。が、12日の『朝日新聞』夕刊に載った水木さんのインタビュー記事を読んで、何となくその理由の一端を理解できたように思った。水木さんは、20歳で軍に召集され、21歳のとき陸軍二等兵としてラバウルのあるニューブリテン島の最前線で、何度も死線を潜る経験をしたすえ帰還したそうだ。その時の話を、私は興味をもって読んだのである。
 
 6月19日の本欄で、「ふと思いつくこと」と“高級神霊”の導きとの関係について書いたが、水木さんが九死に一生を得た背後にも、そんな不思議な力が働いていたと解釈できるのである。記事によると、水木さんはある日、10人の小隊で最前線に送られ、不寝番をしながら海から来る敵を見張っていたという。そして、「望遠鏡であちこちのぞいていたら、きれいな色のオウムがいたんですよ。見とれてね、戻る時間がちょっと遅れた」という。この少しの遅れのおかげで、後ろの山から来た敵が小隊の兵舎を襲ったとき、その場に居合わせなかったのだ。水木さんだけが生き残り、やっとの思いで中隊に合流したそうだ。この後、敵の爆撃に遭って左腕を失ったため、水木さんは後方の野戦病院に送られる。このことも、生還できた大きな理由だろう。
 
 いつ敵の攻撃があるかもしれない最前線で、オウムの色の美しさに感動する心境になるというのは、「ふと思いつく」のと似ている。言い換えれば、これは「ふと美に振り向き」、戦う心をしばし忘れることであろう。それによって、水木さんは敵の攻撃を擦りぬけた。その後、左腕は失ったが、後方へ回されたことで、今度は“玉砕”を免れた。この際の水木さんの心境について、本人は次のように語っている--
 
「後方では、現地住民と友達になって、毎日のように集落に通いました。彼らは、食べて、昼寝して、畑を耕して、うまくいっている。規則なんかでがんじがらめじゃない。本当の自由がありました。私の理想の生活ですねえ。しまいには、“畑も家も嫁さんも世話するから残らないか”と真剣に言われたくらい、なかよくなりました」。

 このような水木さんの心境が、憎しみがぶつかり合う戦場や、その「憎しみ」の具象化である爆弾や弾丸から、水木さんを遠ざけていたに違いない。そのために左腕を失ったが、これが右腕でなかったおかげで、私も、私の子供たちも、そして戦後の多くの人々が水木マンガを楽しみ、またそこから多くのことを学ぶことができた。戦争では、何十万、何百万もの命が失われる。しかし、その中の「1人」であっても決して“虫ケラ”でないことを、この話は教えてくれる。「人間1人が生きる」ということの価値を改めて知るとともに、水木さんの戦後の活動の背後には、生還できなかった多くの戦友たちへの想いを感じる。水木しげるが描く“妖怪”は、そんな戦友たちの“魂”ではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月12日

スケッチ原画展

 本欄に書いた文章等を単行本にまとめた『小閑雑感』(世界聖典普及協会刊)シリーズが、このほど10巻目である『Part 10』を刊行したことを記念し、シリーズに収録されたスケッチ画などを展示する原画展が、今月の16日~18日の3日間、京都府宇治市の生長のMoles01 家宇治別格本山で開催される。展示品の中では、単行本の『小閑雑感』シリーズに収録された絵の原画は12点だが、未掲載の原画が52点あり、これらを合計した62点は展示即売される。また、このほかにも『太陽はいつも輝いている--私の日時計主義実験録』(生長の家刊)に掲載されたものを含む絵封筒が34点、スケッチブック(モーレスキン手帳)2冊も展示される(ただし、これらは非売品)。展示即売による収益金は、森林の再生を目的とした活動に寄付されることになっている。
 
Moles02  私は画家ではないので、原画展などを開くことは小恥ずかしい次第だが、生長の家は発祥時から日時計主義を主唱し、運動に於いては今年から「技能や芸術的感覚を生かした誌友会」を推進していることもあり、私のスケッチ画や絵封筒、手帳へのメモ書きなどが、皆さんの参考になるかもしれないと考えた。また、森林再生に何らかの寄与ができれば嬉しいと思う。
 
 宇治別格本山では前にも1度、私の原画展のために部屋を貸していただいたから、これで2回目だ。今回目新しいものがあるとしたら、それは絵封筒と、私の使った手帳兼スケッチブックの展示だろう。特に手帳は、世界聖典普及協会のご協力により、透明のアクリル・ケースを使った展示となる。これは、手帳の特定のページを開いてそこだけが見えるのではなく、アクリル・ケースの両脇から手を入れて、中の手帳を実際に触ることで、すべてのページを開いて見ることができるものだ。ただし、手帳が汚れるといけないので、ゴム手袋も用意していただいた。
 
 また、同時期に『小閑雑感』シリーズの次の巻である『Part 11』が発刊されるほか、『Part 10』のサイン本も販売される。本欄をご愛顧くださる読者の皆さんには、よろしくお願い申し上げます。

 谷口 雅宣

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2008年8月11日

自然は善いか?

 8月8日の本欄では、自然界は人間の目に常に美しいとは限らないということを、自分のささやかな経験を引き合いにして述べた。これは、考えたら当り前のことでもある。自然界には、「食物連鎖」とか「弱肉強食」と呼ばれる現象があるから、捕食や死があり、腐敗があり、排泄がある。それらの一部は人間の目に「美」と感じるものもあるだろうが、大抵は「醜」と言わないまでも、決して美しいものではない。

 例えば、私はほぼ毎朝、生ゴミをコンポストに捨てるが、その際、腐った食物に群がる夥しい数のウジムシと対面する。彼らが自然の一部であることは間違いないが、私は彼らに感謝することはできても、好きになることはできない。これと同じことは、自分自身の排泄物にも言える。私は朝、トイレで排便することに感謝するが、だからと言って便を好きにはなれない。しかし、排泄物が自然の産物であることを否定する人はいないだろう。だから、自然は、必ずしも美しくないのである。

 では、自然は「善い」ものだろうか? これについても、山荘での私の経験を語ることにする。

 山荘に到着してまもなくのこと、妻がハチの死骸を2匹見つけた。2階の窓枠付近に落ちていたというのである。山荘の管理会社には、今回の利用の1週間ほど前に部屋の掃Beesnest 除を頼んであった。だから、これは見落としである。前回、5月の初めに来たときは、カマドウマが大量発生していて風呂の湯船の底に溜まっていたことを、5月4日の本欄に書いた。また、もっと前には、屋根裏にハチが巣を作って、山荘内を飛び回ったこともあるし、薪ストーブの煙突の中に、鳥が巣を作ったため、薪に火が点かないで困ったこともある。今回はプロに掃除を頼んだから、そんなことはないだろう……と思いながら点検していると、一緒にいた息子が、2階の屋根の明かり採りの窓の木枠に、10~15センチの大きさの灰白色の塊(=写真)を見つけた。
 
 それは、ハチの巣だった。よく見ると、まだ作りかけのようで、5~6匹のハチが巣穴を盛んに出入りしている。窓が開いていれば、彼らがそこから室内に入ることはいともたやすい。だから、妻が見つけたハチの死骸は、この巣作りと関係しているかもしれないのだった。人間はハチの恩恵を受けて作物や花や果物を得る。また、ハチミツが好きな人も多いだろう。だから、そのことを感謝することに吝かでない。しかし、だからと言って、何匹ものハチが飛び交う室内で平気で生活できる人は少ないだろう。我々も普通の人間だから、結局、ハチの巣を除去することになった。

 これはハチにとっては、とんでもない迷惑である。彼らは、自然が与えてくれた性向に素直に従って窓枠に巣を作ったのである。しかし、それは我々人間にとっては都合が悪いから、「ハチの巣は悪い」と考えられ、除去することになる。だから、人間にとって自然は必ずしも「善い」ものばかりではないことが分かる。

 このことも、考えれば当り前のことだ。今、日本の農村地帯では、シカやイノシシやサルの“食害”が悩みの種だ。クマが人家近くをうろつけば、ハンターの世話になることになる。しかし、この場合の“食害”とは、あくまでも人間の立場から見た自然の“悪”である。動物の立場から見れば、飢えたときに食物にありつくことは“悪”でも何でもなく、きわめて自然な行動である。が、人間にとっては、自然界は“害獣”や“害鳥”や“害虫”や“雑草”に溢れているように見える。こう考えてくると、自然界にある“悪”がどこから生まれるか、が理解できるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月10日

南オセチア紛争が拡大

 8月8日、63年前の長崎への原爆投下を想いながら、日本では多くの人々が“平和への誓い”を確かめ合っていたころ、ロシアは隣国グルジアへの軍の増派を開始、プーチン首相は「事実上、南オセチアでは戦争が始まった」と宣言した。同首相は、“平和の祭典”と呼ばれるオリンピックの開会式に出席していて、ちょうど同じ場所に同じ目的で居合わせたアメリカのブッシュ大統領と顔を合わせて、そう言ったのだ。ブッシュ氏はこれに対し、「誰も戦争を望んでいない」と早期の事態収拾を期待する考えを示した--9日付の『日本経済新聞』はそう伝えている。両者の心中がどうであるかは分からないものの、世界の大多数の人々が平和を望んでいても、戦争は起こるということを如実に示す象徴的な1コマではないだろうか。

 戦火拡大の大きな要因には、グルジア共和国内の南オセチア自治州が、“分離独立”を目指してナショナリズムを拡大していることが挙げられる。ここは人口が10万人で、うち6~7割がイラン系の言語を話すオセット人で、他はグルジア人だ。この自治州の北方のロシア領内には同じ民族が住む北オセチアがあり、民族的に分断されている。一方、グルジアは旧ソ連崩壊とともに独立した国だが、独立後には欧米への接近を強めているため、ロシアはそれを快く思っていない。特に、グルジアの現政権は“国家統一”のナショナリズムを掲げ、対ロシア軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)に加盟する動きを示している。ロシアはこれに対し、南オセチア自治州への接近を図り、そこの住民にロシア国籍を与えるなど、政治的・軍事的な牽制を行っている。
 
 こういう複雑な事情のある中で、欧米諸国は“西側”への加盟を目指すグルジアを支援している。これはイデオロギー的親近感だけが理由ではなく、エネルギー問題が密接にからんでいる。本欄でも何回か書いたが、ロシアは旧ソ連から分離独立して“西寄り”に動いたウクライナ共和国に対して、石油の大幅値上げを行い、これに従わない同国に一時、石油の供給を止めた。が、ロシアからウクライナを通る石油のパイプラインは、その先がヨーロッパに続いているから、これによってドイツやフランスなどへの石油の供給にも不安が生じたのだった。エネルギーを政治目的に使うロシアの外交姿勢に不安を感じた西ヨーロッパ諸国は、ロシアの影響が少ないルートを確保する動きに出ているが、その1つがグルジア領内を通っている。これは、BTCパイプラインと呼ばれ、カスピ海のバクー沖から産出される原油を、グルジアのトビリシ経由でトルコの港・ジェイハンまで運ぶルートだ。これを主導するのが、イギリスのBPやアメリカのシェブロンなどの石油メジャーである。日本の伊藤忠商事や国際石油開発も、このルートに権益をもっている。
 
 このように見てくると、最初に描いたブッシュ大統領とプーチン首相の会話が、普通の挨拶ではないことが分かるだろう。2人は「平和を望んでいる」ことはその通りかもしれないが、その「平和」とは、自国や同盟国の“国益”に反する場合には、犠牲になっていい種類の平和なのである。今回のロシアによる紛争拡大は、そのことを有力に示している。9日付の『日経』は、こう書いている--ロシア政権筋は「グルジア内の紛争状態を続けることがロシアの国益」と指摘。この数カ月間に分離派自治州への経済支援の強化と同時に、グルジア政府軍偵察機の撃墜や同国への領空侵犯などを繰り返していた。
 
 こうして、人口10万人の“小国”のナショナリズムは大国ロシアに見事に利用され、それに対して、グルジアのナショナリズムは自国統一のために“小国”攻撃に乗り出し、それに対して大国ロシアは戦線拡大を行って、西側諸国に揺さぶりをかけているのである。ロシアのこの“危険な賭け”も、かつて自国の“配下”だったウクライナやグルジアが西側へ動き、NATOが拡大する動きに対するナショナリズムだと見ることができる。すなわち、“往年の栄光の回復”である。だから、ナショナリズムを利用する国際政治は、戦争への危険を孕んでいることを忘れてはいけない。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月 9日

休日のドライブ

 8日の本欄に書いたように、短い休日をとることができたので、八ヶ岳南麓の大泉町まで足を延ばした。その際、以前(6月13日、7月3日)にも使った小型のビデオカメラを車に設置して道中を撮映しておいた。このほどそのファイルを編集し、約2時間の道程を5分弱の動画にまとめたので、ここに掲載する。単に道路が映っている……と言えばそれまでのものだ。が、都心から山の奥まで、できるだけ変化に富んだ映像をつなぎ合わせてみた。風景の変遷を見ていると、人間という生物がいかに多様な環境を形成し、そこで生きてきたかを改めて感じる。画面の解像度があまり密でないのは、カメラの性能ではなく、撮映時の設定を「320 x 240」にしたからである。あくまでも“スケッチ”のつもりである。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月 8日

自然は美しい?

 夏休みをとり、昨日から山梨県・大泉町の山荘に来ている。日中は30℃を超える気温になるが、標高1200メートルの高地にあるおかげで、朝晩はさすがに涼しく、快適である。
 
 山荘へは、5月の連休に来たとき以来、3カ月ぶりだから、庭の草や木が伸び放題であることは覚悟していた。とはいえ、野芝の伸び方は尋常ではなかった。30~40センチに伸びたものが束になって横倒しになっている様子は、見苦しく、しかも先端の10センチほどが、栄養が行き届かないためか黄色に変色している。それは一度、金色や茶色に染めた髪を伸ばしていると、根元から生えた黒髪との“層”の違いが歴然としてくるのにも似ている。要するに、「乱雑」「無秩序」「未整理」の感じが否定しがたいのである。
 
 野芝のほかに私の目に「乱雑」に映ったものは、身の丈以上に育ち、枝を八方に拡げたブッドレア(Buddleja)である。この植物はフジウツギ科フジウツギ属の植物で、私はその名から外来種と思っていたが、国内にジャポニカ種(japonica)やカービフローラ種(curviflora)が自生することなどから、在来種とみる説もある。花の芳香に誘われて蝶がよく来るというので、この付近にいる美しいタテハチョウを呼ぼうと思い、地元の園芸店で買って植えた。ところが、どんどん成長して枝葉を拡げただけでなく、植えもしないところに子株が跳んで殖え、それがまた成長し、不思議なことに買わなかった色の花もつけるようになったのである。具体的に言うと、紅に近い濃い紫色の花の株を買ったのに、今わが山荘の庭には、それ以外にも薄紫色の花も、白い花も咲いている。もちろん、3種の色の花が楽しめることはありがたい。しかし、それらの株が大人の背丈以上に伸びて、枝を縦横に伸ばし、山荘玄関に続くアプローチを遮る様子は、どう見ても「美しい」とは感じられないのである。
 
 人間が心に抱く「美感」とは、妙なものである。ブッドレアの花自体は美しく、そこから発する芳香は甘美であり、葉も茎も生命力に溢れている。しかし、それらを「一株」の塊として庭に置いた場合、他の草や樹木、置き石や道が形づくる“線”との位置関係で、美しいものが美しく見えなくなるばかりでなく、時には乱雑に感じられるのである。野芝が生い茂る様を「乱雑」と感じるのも、これと同じ理由だろう。庭の芝生は短く刈り込まれて絨毯のような平面を成すことが「美しい」--このように人間が感じるのは、我々が「一株の芝」など眼中に置かずに、“塊”としての芝、もっと正確に言えば“平面”としての芝に価値を置いている証拠である。
 
 このように考えると、人間が「自然は美しい」とか「美しい自然」と言うときには、自然界の自然そのままの姿のことを言っているのではなく、人間的なある観点から自然をとらえ、人間的なある枠組みの中にそれが収まっていることを意味している--そういう可能性に気づかされるのである。
 
 私はかつてこの大泉町の山荘の庭を造った時、これと同じことを感じ、そのことを「人工的な自然」という題の文章に書いた(『小閑雑感 Part 3』に収録)。そこにはこうある--
 
「人間は、目に見える世界の中に“秩序性”を求める。無秩序があれば、その世界に手をつけて何らかの秩序性を実現しようとする--そういう得体の知れない奥深い欲求が人間には(少なくとも私には)横たわっていることを感じる。“得体の知れない”と書いたのは、この欲求が“気味が悪い”という意味ではなく、“説明が難しい”という意味である」。(前掲書、p. 187)

 しかし、この時に書いた「秩序性」の意味は、人間の目に見えない自然界の秩序全体を指しているのではなく、文章に書いてあるように、あくまでも「人間の目に見える秩序性」を言っているにすぎない。今日私が行ったことを振り返ると、確信を込めてそう言える。私は、日差しの強い高地の炎天下にもかかわらず、ブッドレアの木が通行の邪魔にならないよう、また目で見て美しく感じられるように剪定し、野芝を短く刈り込む作業に没頭したからである。夏に野芝が生い茂ることも、ブッドレアが枝葉をぐんぐん伸ばすことも、自然界の秩序の一部である。が、そのことには満足できずに、私は汗だくになってハサミを動かした。目に見えない秩序を目に見える形に表現することが、人間の深い欲求なのかもしれない。

 谷口 雅宣

 

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2008年8月 5日

石油高騰に“光”を見る

 石油の値段の騰勢が一服している。アメリカの原油先物価格は、7月11日に史上最高値の1バレル147.27ドルを記録したあと値下がりが続き、一時は最高値から18%も下がってから、再び上昇している。8月5日付の『日本経済新聞』によると、この主な原因は、世界最大の石油消費国・アメリカでの需要減退らしい。自動車はアメリカでは必需品だから、ガソリン需要はこの国では減りにくいと考えられていた。が、7月25日までの4週平均で、ガソリン需要は前年同期を「3.2%」下回る日量938万バレルとなった。つまり、アメリカ国民は昨年より自動車に乗らなくなっているのだ。公共交通機関が発達している日本では、すでにこの動きは顕著だが、そうでないアメリカでガソリン消費が減ってきたことが、先物価格の値下がりを呼んでいる。しかし、中国などの新興国ではガソリンや灯油を低く抑える政策を続けているため、需要は衰えず、今後の石油の値段を下支えすると見られている。
 
 私も、自動車に乗る機会がめっきり減った。その1つの理由は、近所に地下鉄の路線が新設されたためだが、ガソリン価格が高いことも理由の1つだ。仕事で燃料を使わなければならない業種への、打撃は大きいだろう。漁船の休漁やトラック運転手の苦境が報道されているが、政府が補助金を出すよりは、サービスや商品の末端価格にコストを転嫁すべきだと思う。自由主義経済では、基本的にはこの価格の変化によってサービスや商品の動向が変わり、産業構造の変化を通して次の時代に適応していくのが、もっとも自然であるからだ。
 
 このことは、国際貿易の分野ではすでに起こりつつあるらしい。4日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、昨今のグローバリゼーションの“行き過ぎ”と見なされていた現象の一部が、石油の値段の高騰によって是正されつつあることを伝えている。この“行き過ぎ”現象とは、私がかつて『足元から平和を』(2005年、生長の家刊)で紹介したような「経済活動のムダ」のことだ。イギリスで缶入りコーラを生産するためには、アルミ缶の原料のボーキサイトをオーストラリアから北欧の国へ運び、そこでアルミ板に加工し、さらにイギリスに渡ってそこで成形されて缶となり、飲料の原料はアメリカやフランスから輸入され……というように、地理的距離を無視してコストを下げることが横行していた。ところが、燃料費が高騰すれば当然、輸送費にはね返り、地理的距離は無視できなくなる。そこで、「需要地の近くでの生産」へと切り替えねばならなくなっているという。

 同紙が挙げている例に、電気自動車を生産するテスラ・モーター社がある。同社は当初、アメリカ向け高級乗用車を生産するのに、タイで製造した蓄電池をイギリスへ送って組み立て、ほぼ完成した製品をアメリカへ輸送する計画だった。ところが、燃料費が高騰したためこれを変更し、今年の春に生産開始した時には、蓄電池をカリフォルニアで生産して、自動車も同地で組み立て、そこで売るという方式に変更した。これによって同社は、車1台の生産に必要な輸送費を8千キロ分減らすことができたという。また、スウェーデンの家具メーカー「イケア」は、アメリカ向けの家具を造るために、今年5月、最初の工場をアメリカ国内に建設したという。また、いくつかの電子機器メーカーは、メキシコにあった工場を賃金の安い中国へ移転していたものの、輸送費の高騰により、もともとあったメキシコの工場で生産した方が、輸送費を含めたコスト全体が安くつくことが分かり、生産拠点を移し始めているらしい。

 この動きは、工業製品だけでなく農産品にも及びつつある。つまり、“地産地消”の動きが石油の高騰によって加速されているのだ。これは、食品の“フードマイレージ”を減らす動きと軌を一にしているから、歓迎すべき動向である。私は、生長の家の講習会で日本各地へ行くが、ホテルでの食事の際にいつも不思議に思うことがある。それは、朝食に出る果物や野菜がどこへ行っても、どんな時季でも変わらないことである。特に果物はパイナップル、オレンジ、グレープフルーツ、バナナなど、一見して国産品でないものだけが用意されている。私としては、秋から冬に奈良へ行ったらカキを食べたいし、四国へ行ったら豊富な柑橘類が味わいたい。山梨や長野で産地のブドウやモモを期待しても、それが出ることはまずない。恐らく輸入品の方が安く手に入るからである。これが是正されて、「産地で旬のものが安く食べられる」という当り前の経済にもどるとしたら、石油高騰にも“光”は見えるのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年8月 4日

古い記録 (3)

 8月1日の本欄で、私が高校時代に参加した『青山学院高等部新聞』の製作について書いたが、当時の記憶がほとんど残っていないので、周辺情報から推測するに止まった。ところが、古い記録をさらに当ってみたところ、私自身がその頃の事情を書いている文章を発見したので、それを引用しながら、誤った情報を訂正しようと思う。
 
 この文章とは、私が高等部2年の時に書いた「政治と高校新聞」という題のもので、生長の家東京都高校生連盟が発行していた『桃乃実』という小冊子の第9号に載っている。出版部への入部の動機から、新米部員が論説を書くにいたった事情などが、次のように書いてある--

「僕が青山学院高等部の出版部へ入ろうと思ったのには、別に深いわけがあったのではなかった。中等部の3年間は卓球部に入っていて随分一所懸命にやっていたつもりだったが、一向上達しなくて、下級生に負けてしまうこともあった。高等部へ入っても卓球部へ入るつもりで練習には出ていた。クラブ加入の正式登録までには相当期間があった訳である。しかし、卓球の練習に出ているうちに、僕には卓球の他にもっとやるべきものがあるのではないか、と思うようになった。そこで目についたのが出版部である。文章というものは、自分の将来に絶対必要なものだから、今のうちから文でも書いておいた方がいいだろう。と思うようになると、卓球部を退部することの決心がついた」。

 この文章で注目されるのは、文章を書くことが「自分の将来に絶対必要」と断言している点だ。私はこの頃から、祖父や父のように「文章を書く」のが将来の自分の仕事だと考えていたのである。続いてこうある--
 
「出版部へ入っても、初めのうちは小間使や雑役に使われるものだと思っていたが、豈非ず、部員数は正式登録部員3人という少なさである。雑役どころか、2回目の新聞発行の時は“論説”を書かされてしまった。そのときは『大きな心を』という題で、受験地獄の渦の中で我々は決してコセコセした小さな心を持ってはならない、とか偉そうなことを言ったつもりだったが、大したものにはならなかった。その頃からだっただろうか、僕は政治に関心を持ち出したとともに、現行憲法の不当制定、内容に見られる唯物論的国家観・人間観、憲法復元の必要性などに気が付かせて頂いた。そして、第1面の面責(その面の編集責任者)になれた機会をつかんで、『日本国憲法をさぐる』と題して“現行憲法失効論”を書いたはずであったが、今日これを読み返してみると甚だ不完全なものなので済まないと思っている。新聞に書いたものは、後々まで残るので大変である」。

 前回は、出版部員は「7名」と書いたが、ここにあるように「正式登録部員が3人」であれば、新入部員が論説執筆に駆り出されることは理解できる。また、当時の『高等部新聞』が「面責」という制度を採用していたのであれば、それぞれの面が違う主張を展開してもいいことになる。これは、前回書いた私の推測--「高校生だから、思想性などより紙面のバラエティや広告が採れることを優先したのかもしれない」--とは若干ニュアンスが違うのだ。また、上の文章で興味深いのは、「○○の必要性などに気が付かせて頂いた」という部分だけに、敬語が使われている点である。ここに敬語が使われている理由は、その必要性を気づかせてくれたのが、自分より目上の人々--恐らく生高連の上部組織である生長の家青年会であり、ひいては生長の家の総裁であるからだろう。
 
 また、私のような“右翼”的論調がある一方で、なぜ“左翼”的論調も併行して展開されたかについては、次のような事情があった--
 
「しかし、このように新聞発行を続けて行っても、その新聞が以外(ママ)と生徒の間で読まれていないことに気がつくと、僕はもう少し一般生徒と結びついた新聞を作成すべきだと思い、第98号は政治色を抜いた、しかも一般生徒におもしろく読んでもらえるような紙面を作ろうとしたが、これまた甚だ不完全。とか何とかかんとかやっているうちに、何の影響であろうか、出版部に入りたいと言う3年生が4人ばかしやって来て、“ベトナム戦争について書いてみたい”というので、部長は部員が少なかったので大喜び。ところがドッコイ、彼らの書いた記事は、『赤旗』に出してもおかしくない立派なもの」。

 これを読むと、当時の高校の“左右対立”の空気が想像できて面白い。この時代の若者は、高校生の時から大人のマネをして政治論を戦わせていたのである。

谷口 雅宣

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2008年8月 3日

赤塚不二夫さんを偲ぶ

 マンガ家の赤塚不二夫さんが亡くなった。中学・高校と「おそ松くん」や「天才バカボン」を読んで育った私としては、赤塚さんが私より1回り以上年長であるにもかかわらず、「一時代が終わった」と寂しく感じる。1日の本欄を読んだ読者は、高校時代の私は学校の新聞紙上で論陣を張る“硬派”のような印象をもったかもしれない。しかし私は、その一方で、教室や出版部の部室で友人と『少年サンデー』や『少年マガジン』を読んで笑い転げる普通の高校生でもあったのである。また、授業の合間に、ノートの隅にチビ太やイヤミ、デカパンの絵を描いていたことも憶えている。
 
 私は若い頃に赤塚さんのナンセンス・ギャグから“笑い”を大いに頂戴したのだが、結婚後にも“父親”として再びお世話になった。というのは、子どもが小学校へ通いだすと当然、テレビを見たり、マンガを読むようになるが、巷には質の良いマンガが少ないのが親の悩みだった。特に子どもに小遣いをあげるようになると、彼らは本屋へ行って自分でマンガが買えるから、エロ・グロや大人のマンガに触れる機会が生まれる。そういうリスクをできるだけ減らそうと思い、考えついたのが、父親が自分で選んだマンガをどんどん買ってしまうという方法だった。
 
 私は子供のころ、赤塚不二夫だけでなく、横山光輝、桑田次郎、石ノ森章太郎、白土三平、水木しげる、手塚治虫……などのマンガに親しんだ。これらの作家の作品は、スケールの大きさや物語性、人生の描き方、絵の質などで優れていると感じていたので、それらを先に子供たちに味わわせれば、二流・三流のマンガには興味を向けなくなるだろう、と考えたのだ。「悪貨良貨をくじく」と言われるが、その逆も可能であるに違いないと思ったわけだ。成長過程にある子供の心は、実際にはそんな単純にいかないのだが、親としてはそう思うことで安心したかったという面もある。そんなわけで、心配性の父親は、自分が子供の頃に読んだマンガの単行本を、機会を見つけてはいそいそと本屋で買い、子どもたちの本棚を埋めていったのである。
 
 こうしてわが家には、子供にとっては“一時代前”のマンガ文庫ができ上がった。その中でも、子供たちから最も人気のあった作品の1つが「天才バカボン」だった。特に2番目と3番目の子がこれの愛読者となり、同じマンガを何回でも読んだ。休日に部屋で静かにしていると思えば大抵、ベッドの上でマンガを開いてニヤニヤしているのだった。
 
 “恩人”と言えば大袈裟だが、こんな具合にわが家で二代続いてお世話になった赤塚さんの冥福を、心からお祈り申し上げます。
 
 谷口 雅宣

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2008年8月 2日

スズムシが鳴きだした

 2~3日前から、家で飼っているスズムシが鳴きだした。最初は小さく、たどたどしく鳴いていたものが、やがてリーン、リーンという大きな音で、他のスズムシと羽を合わせて合奏するようになる。その音を聴いていると、不思議と涼感を覚える。スズムシは「鈴虫」と書くのが本当だが、「涼虫」という文字がつい頭に浮かぶのである。
 
 わが家では、スズムシを昆虫飼育用の透明プラスチックのケースに土を入れて、飼っている。こうしておけば、秋になって死に絶えた後も、ケース内の土を残して掃除した後、冷暗所に置いておくだけで、土中に産みつけられた卵から翌年また子孫が生まれる。その前に、ケースの土に霧吹きで湿り気を与えることが必要だが、今年は、その作業の手違いから、白カビが発生してしまい、孵化した子虫の数は少なかった。ところが、隣家の母のところでは孵化がうまくいって、「数が多すぎる」ということで、虫が大勢引っ越してきた。母の家では、スズムシをもう数十年飼っていて、子虫が生れるとわが家にも“お裾分け”が来るのである。今年は、そのおかげで助かった。これで約1カ月間、夜間に涼しい音を聞き続けることができる。

 庄野潤三氏の小説に『山田さんの鈴虫』というのがある。近所に住む山田さんから「スズムシがいっぱいかえったからいりませんか?」と電話がかかってきて、奥さんが「うれしいわ」と言うと、かごに入れて届けてくれるのである。その時期は「9月のはじめ」と書いてある。正確には9月1日で、この後、「鳴かなくなるまで」という約束で約1カ月飼い続け、10月11日に再び山田さんに返すのである。この作品が発表されたのは『文學界』の2000年1月号だから、原稿が書かれたのは、恐らくその前年の10月ごろだろう。私がなぜこのように時期にこだわっているか、賢い読者はもうお分かりだろう。今日はまだ8月2日なのだ。ということは、庄野氏がこの文章を書いた今から9年前と比べると、スズムシが鳴き始める時期が1カ月早いことになる。庄野氏は川崎の生田に住んでいるから、気候は東京とほぼ同じと考えていい。とすると、これは温暖化の影響か?
 
 スズムシが卵からかえる時期は、もちろん年によって多少違うことはあるだろう。また、自然にかえすのでなく、人工的に孵化させる場合は、霧吹きを始める時期や、卵の入った土を保管してある部屋の温度とも関係があるだろう。さらに、私の手元にある百科事典には、スズムシの「成虫は8月ごろから出る」とあるから、庄野氏が上の作品を書いた年が、たまたま孵化が遅かっただけかもしれない。
 
 今日も暑かった。東京は32℃ぐらいになっただろうか。東海より西では、さらに気温が高くなるとの予報だったが、実際どこまで上がったか私は知らない。読者の方々も熱中症などにならぬよう、気をつけてお過ごしください。暑さがこたえる時はスズムシの鳴き声でも聴いて、涼気を感じていただければ幸甚である。その一助として、わが家のスズムシの合唱を以下に掲げる。

 谷口 雅宣

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2008年8月 1日

古い記録 (2)

 前回見たように、昭和42(1967)年当時、私が入学した青山学院高等部ではいわゆる“左翼的”言論が普通に行われていたが、その出版部に私が何月に入部したかは、はっきり覚えていない。しかし、新学年は4月始まりで、5月までを“クラブ探し”の期間と考えれば、入部は5月中か6月からと推測していいだろう。その年の『高等部新聞』の7月20日号(第96号)には、文化祭に向けて、クラブ活動の紹介記事が掲載されているが、出版部については、「現在の出版部は1年生男子1名、2年生男子3名女子2名、3年生1名の計7名からなっていて」と書いてある。この「1年生男子」というのが、どうも私らしい。
 
 そう言える理由は、その号の新聞の第4面の編集スタッフとして「谷口(雅)」という文字が見えるだけでなく、その面の下2段通しで書籍広告が掲載されていて、スポンサーは日本教文社だからだ。書籍だけでなく『理想世界』と『理想世界ジュニア版』の月刊2誌の広告も載っている。入部後すぐにこんなことができたのは、恐らく部員が少なかったことと、部長が寛容だったか、もしくはいい加減だったのかもしれない。高校生だから、思想性などより紙面のバラエティや広告が採れることを優先したのかもしれない。

 その次に発行される9月23日号(第97号)では、もっと驚くべきことが起こる。第1面に7段組みで「日本国憲法をさぐる」という論説が掲載されるのだ。これが“左翼的”論説でないことは、書き出しの数行を読めばすぐ分かる--
 
「現行の日本国憲法は正しい憲法ではない。と言ったら、多くの人達は驚くことだろう。それは本当にそうなのである。その理由の一つは、現行憲法の制定の方法に非常な不正と矛盾があるからである。(後略)」

 論説はこれ以降、現憲法が大日本帝国憲法の「改正」という形で制定されたものの、外国軍の占領下であり、かつ改正範囲を逸脱した改正であったから正しくない……などという点を掲げて論陣を張るのである。入部したての一年生部員にすぐに「論説」を書かせるというのも驚きだが、その内容が従来とまったく正反対だというのには、もっと驚かされる。こんなところは、高校生の出す新聞ならではの“自由さ”(あるいはいい加減さ)が表れているのだろう。この号の第一面下には、日本教文社の3段半分の書籍広告が再び掲載されているが、本の題名には我々にとって馴染み深いものがある--
 
 谷口雅春著『青年の書』、同『第二 青年の書』、同『能力と健康の開発』、同『若人のための78章』、谷口清超著『生きる』、林房雄著『日本への直言』
 
 こうは書いたが、私が入部して以来、『高等部新聞』の論調が全く“逆立ち”してしまったわけではない。12月12日号(第99号)では「君のベトナム戦争に対する沈黙は人間的罪悪ではないか?」という大見出しの特集記事が載った。その次に出た2月22日号(第100号)では「70年闘争への展望」という“新左翼”まがいの論説が第2面に掲載されたかと思うと、第4面ではソ連の不正を糾弾する北方領土問題の記事や、国旗掲揚の意義を訴える記事が載っている。
 
 私は、この第100号に「建国記念日について」という論説を書いている。そのサワリの部分を再掲すれば--
 
「米国にしても1776年7月4日の独立宣言の日を“建国の日”としているが、これも単に時間的起源を意味するものではなく、国家誕生の精神、意義、内容を重視しているからである。日本の場合も同じで、たまたま日本の建国が太古の昔であるから何年何月何日と断言できないだけで、日本建国の精神という史実より重要なものは、古事記、日本書紀等の古典によって、厳然として今日に伝えられているのである。」
 
 こうして『青山学院高等部新聞』は記念すべき第100号に近づくにつれて、内容の分裂が際立っていく。それは同時に、私の母校の外で起こっている日本社会全体の国論の分裂と呼応していたことは、言うまでもない。
 
 谷口 雅宣

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