頭の回路を切り替える
JALグループの機内誌『スカイワード』の8月号に、アニメーション作家の宮崎駿氏がインタビューに答えて、自らの制作過程に触れた話をしているのを、興味深く読んだ。
宮崎氏は、所沢市の自宅から武蔵野の仕事場までの曲がりくねった道を歩いていくことがあるという。いつもではなく「たまに」というニュアンスである。それが2時間半の道のりというから相当な運動量と思うが、「たいした距離じゃないですよ」と言っている。15分で1キロを歩くとすると、10キロの行程である。記事は、そのあとこう続く--
「歩いているうちに、何も考えなくなる。とても単純な感じになって、同時に、だんだんと風景が見えてくるのだそうだ。束の間の、自分の時間。頭の回路を切り替えるための、大切な時間だ」。(同誌、p.80)
今日は北海道の空知教区での生長の家講習会だった。私はその中の午後の講話で、人間の“右脳”と“左脳”の働きについて触れ、知覚や芸術的感覚との関係が深い“右脳”の機能をもっと活かした生き方が、現代人には必要であることを訴えた。そのことが、我々にすでに与えられている自然の恵み、さらにはその背後にある神の愛を感受し、感謝する生き方につながるからだ。また、そのような生き方を人類が取り戻すことが、地球環境問題の“根っこ”にある欲望至上主義を脱却する道だと考えるからである。そんな話をした後、千歳から羽田へ飛ぶ機上で宮崎氏の長距離歩行の記事を読んだのだ。だから、氏が「頭の回路を切り替える」のは“右脳モード”への切り替えだと合点した。
上の引用で私が特に重要だと感じたのは、「何も考えなくな」って「だんだんと風景が見えてくる」という点だ。人間が考えるのは「言葉」による。一般に言語処理は“左脳”が得意とすることだから、自然の中で体を動かし、歩行を続けていけば“左脳”はやがて沈黙し、何も考えなくなる。そのとき“右脳”が活性化しているのだ。つまり、言わば“言語優先モード”から“感覚優先モード”に切り替わる。だから、周囲の自然界から送られてくるメッセージを感受しやすくなり、「だんだんと風景が見えてくる」のに違いない。これは、それまで風景に目をやらないで歩いていたという意味ではなく、風景に目をやっていながら、心は別のことを考えていたということだろう。つまり、私が『太陽はいつも輝いている--私の日時計主義実験録』(生長の家刊)の中で使った左脳による“自動運転モード”にあった心が、自然との一体感を得る“感覚優先モード”に切り替わるのだと思う。宮崎氏は、その時の感覚を次のように語っている--
「なんとなくできた道って、スーッと曲がっていて、いい感じなんです。歩いていると前から風景が仕掛けてくる。思わぬ路地が現れたりしてね。楽しいし、気が楽になります」(p.80)
東京の都心に住む私は、宮崎氏のように山道や田舎道を2時間半も歩くことはできないが、約30分のジョギングで心が結構解放される。このことは、上掲の拙著に書いた通りである。これで“右脳”が活性化するから、句を作ったり、創作の構想が湧いたり、スケッチしたくなる風景が見えてくるのである。もちろん、宮崎氏はその道のプロで、私はそうでないから、右脳の活性化の程度にはずいぶん差があるかもしれない。また、発想の豊かさや、関心の方向にも違いがあるだろう。しかし、同じ人間であるから、芸術制作に必要な心の持ち方という点では、共通したものがあるはずである。その一端を覗いたような気がして、うれしくなった。
もう1つ、気がついたことを言おう。それは、“左脳”の活動とは違う“右脳”の働きを私はここまで描いてきたのだが、それをするのに言語のみを使っているという点だ。つまり、“左脳”は“右脳”を表現できるのである。人間の左右の脳は--そして、心も--このように複雑に一体化している。実に有用で、ありがたい道具を我々は使わせていただいていると思う。
谷口 雅宣