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2008年8月28日

“百万の鏡”が映すもの (5)

 本シリーズは、8月25日の本欄で結論が出たと考えた読者がいるかもしれない。が、本当は結論は出ていない。ここ数日、シリーズ“最終回”(本当に最終になるかどうか自信がないが)をどう書くかに、私は迷っていた。が、今日は休日であることもあり、不安がありながらもとにかく書いてみることにした。このブログは、これまでにもそういう“半煮え”の心境でも書き継いできたから、たとえ文章が不完全なものになっても寛大な読者は大目に見てくださるだろう……などと期待している。
 
 私は聖経『天使の言葉』にある“百万の鏡”の喩え話について、シリーズ前回の最終部を下記の文章で締めくくった:
 
 我々は今、この瞬間にも、上下左右四方四維を“百万の鏡”に取り囲まれているのである--「汝ら億兆の現象も、悉くこれ自己の心の反映(うつし)なることを知れ」ということである。
 
 しかし、聡明な読者は、この文章は“現象”が我々の心にどう映るかを説明していても、“実相”については何も語っていないことに気がついたに違いない。『天使の言葉』では、この比喩が使われるに先立って、次のような文章がある:
 
 汝らの先ず悟らざるべからざる真理は、
 『我』の本体がすべて神なることなり。

 このあとに、「汝ら億兆の個霊(みたま)も、悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ」という文章が続くのである。この文脈から考えると、ここで言われているのは人間の実相が神であり、その神(または我々の実相)は唯一神霊の反映として存在する、ということだ。つまり、聖経での“百万の鏡”の喩え話は「実相」の説明に使われているのである。ところが、私の説明は、「現象は皆、それを感じる人の心の反映である」という現象顕現の法則を述べているにすぎない。別の言い方をすれば、聖経は「神と人間との実相における関係」を説いているが、私は「個人とその周りの現象世界との関係」を述べただけなのである。
 
 読者には、この違いを理解してもらえただろうか? では私はなぜ、最初から直接“実相論”(実相についての議論)を語らずに“現象論”(現象についての議論)を先にしたのかといえば、それはまず「唯心所現」の現象顕現の法則がどのように発動するかを確認しておくことが、実相の理解には必要だと思ったからである。

 我々がこれまで確認したことは、「窓枠」ないしは「田の字」のように見える図形の見え方は、その図形の客観的様相にかかわらず、見る人の心の状態に左右される、ということだった。「窓枠」を知っている人だけが「窓枠」を見、「田の字」を知っている人だけが「田の字」を見たのである。図形は、我々の心の内容を映し出す“鏡”の役割をはたした。これと同様に、現象世界に感覚されるすべてのものは、我々の心の内容を映す“鏡”と言える。ということは、現象世界の存在のすべては、「自己の心の反映」すなわち“自己の心の作品”という点で共通している--つまり、1つである。そこに仮に“敵”と“味方”が見えたとしても、あるいは“悪”と“善”とが見えたとしても、それらは“自己の心の作品”の中の“登場人物”、あるいは“舞台装置”にすぎず、作品全体にとって掛け替えのないもの--つまり、「1つ」の全体に対する部分である。
 
 これらはしかし、現象顕現の法則であって、実相のことではない。実相は、唯一神霊(神)が“自心の反映”としての世界を享受している状態である。それがどんな状態であるかは、聖経に次のように書かれている--
 
 悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)にしてすべて1つなれば
 これを汝ら互いに兄弟なりと云う。
 すべての生命(いのち)を互いに兄弟なりと知り、
 すべての生命を互いに姉妹なりと知り、
 分ち難くすべての生命が一体なることを知り、
 神をすべての生命の父なりと知れば、
 汝らの内おのずから愛と讃嘆の心湧き起らん。
 
 読者は、我々が心でつくる現象世界の違いと、唯一神霊の心の反映としての実相世界との違いを感じ取っていただけただろうか? 我々はとかく「自己は肉体なり」との誤った認識から“敵”や“悪”を現象世界に映し出すが、神はそのような誤りを犯し給わないから、実相世界は善一元、美一元、真一元なのである。その実相においては、「すべての生命が一体」であるから、「調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」(『甘露の法雨』)ということになる。
 
 谷口 雅宣

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コメント

何時も様々な問題提起有難う御座います、
言葉じりを捉えてで申し訳御座いませんが独断と偏見の私見をお許し下さい、「人間の実相が神であり、その神は唯一神霊の反映として存在する」と言われています、こうなりますと「神は唯一神霊の反映として存在する!」と言う事になりますから非常にややこしくなります、ですから「人間の実相は唯一神霊から来たものであり、その反映として存在する」なら私には理解し易いのです、唯一神霊の心の反映としての実相世界は非物質の世界です、ここから唯一神霊の心動きいでて物質世界(動物、鉱物、植物全て森羅万象)を創造される事に依って様々な現象世界(唯心所現)が現されて来ているのではないか?「神(唯一神霊)を全ての生命の父、と言うより創造主!」と言う方が私には独断と偏見で分かり易いのですがこの様な理解でもよろしいものでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年8月29日 17:04

尾窪さん、

>>この様な理解でもよろしいものでしょうか?

 よろしくないと思います。

>>「神は唯一神霊の反映として存在する!」と言う事になりますから

 それは貴方の解釈であって、私はそう書いていません。引用は正確におこなってください。

投稿: 谷口 | 2008年8月29日 17:59

『すべての生命(いのち)を互いに兄弟なりと知り、
 すべての生命を互いに姉妹なりと知り、
 分ち難くすべての生命が一体なることを知り、
 神をすべての生命の父なりと知れば、
 汝らの内おのずから愛と讃嘆の心湧き起らん。』
ということが極めて大切であると思います。
それが実現できれば争いのない大調和の世界が実現すると思います。
 最近、職場内にいるある女性が離婚しました。
私は大変ショックであり彼女の実相円満完全な姿を祈っています。そのような場合は、自他一体をなんとなく感ずることができます。が、自分と意見が対立する人々を生命の兄弟と思えるか?というとなかなかそうはゆかない部分があります。
 そこのところを乗り越えて行くことが大切であると思っています。

 志村 宗春拝
 

投稿: 志村 宗春 | 2008年8月30日 19:45

「すべての生命が一体」という自覚、「調和した世界の実現」(神様の世界即ち実相世界の実現)は愛行(伝道)実践によって実現できる部分があると思います。
 「日時計主義」を他に及ぼしたとき礼拝主義となります。
 “愛行(伝道)実践は素晴しい”ということを多くの人々が深く自覚するための一つの方策として、【教区練成会で『伝道実践者養成練成会』(又は伝道練成会)を適宜開催する】ということを提唱致します。

 志村 宗春拝

投稿: 志村 宗春 | 2008年8月31日 09:50

合掌 ありがとうございます。生長の家の信徒です

投稿: 生尾秀夫 | 2012年11月 4日 11:11

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