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2008年8月24日

“百万の鏡”が映すもの (3)

 前回、本欄で私が発した問いかけに対して、さっそく読者の1人が答えてくださった。問題の図形を、「窓枠」であるとしても「田」であると答えても、「どちらも正しい」というのである。そして、その答えの後に、大変興味深いコメントを付け加えていられる--「本文上での図は、 多くの視点から様々なことを想像できるけれども、実は、一つのものを観ている。換言すると、真実は、一つだが、実は多くの視点を内包しているのではないかと想いました」。私は、この読者の答えに大いに(95%)賛成する。が、残りの5%に疑問を呈することを許してほしい。

 その疑問とは、前回の図が「多くの視点を内包している」と表現している点だ。この表現は、比喩的、文学的表現としては正しい。が、厳密に論理的に考えた場合、「図形が視点を内包する」という言い方はおかしい。図形は死物であるから「視点」をもたず、もたないものは「内包」するわけにいかない。もちろん私は、この読者が言いたいことを理解している。彼は、「この図形は、見る人の視点によって多くのものに見える」と言いたかったに違いない。その「多くのもの」の中に「窓枠」があり、また「田の字」が含まれるのである。ではここで、もう一度質問してみよう。
 
 前回掲げた図形は、見る人の視点によって多くのものに見えるというが、本当は何の図形と言うべきか?
 
 ここで「本当は」という意味は、「あらゆる時代の、どんな場所のどんな人にとっても真であるか?」ということだ。読者がこの質問への答えを探しているあいだに、この図形についての谷口雅春先生の解説を紹介する--
 
「これは“田”という字を知らない人には、どうしてもこの形は“田”という字に見えない。これを“田”という字に見るのは、“田”という字が心の中にある人だけであります」。(『新版 真理』第7巻悟入篇、p.79)

 私は時々、生長の家の講習会でこの図形を提示して、「これを“田”だと思う人は、漢字の“田”を小学校で習った人だけ」などと話す。そして、ブラジル人の聴講者がいる場合には、「普通のブラジル人は、これを“田”だと思わない。なぜなら、“田”という字を知らないからだ」などと付け加える。雅春先生の上の解説を別の言葉で表現しているのだ。では、「窓枠」だという結論について、何が言えるだろうか?

 同じ論法を使えば、「窓枠」というものを過去に見たことのない人(盲目の人、あるいはニューギニアやアマゾン奥地の原住民)の心の中には、窓枠という概念は存在しないから、「窓枠」という答えは本当(あらゆる場合に正しい)とは言えない--ということになる。それに、見落としてはならないことは、この図形をじっくりと眺めれば分かるが、こんな形の窓枠を作ったら、大工さんは失格とされるに違いない。(それぞれの枠が連結しないでバラバラであるから、ガラスをはめ込むことができない!)
 
 さらに、次のような事実を指摘しよう。我々日本人のように漢字文化圏で育った者にとっては、問題の図形を「田」だと解釈することは実に簡単に、当り前にできる。しかし、それは、我々が多くの視点をもっていて“優秀”だからでは決してない。単に、文化的背景が漢字文化圏外の人と違うからである。ということは、漢字文化圏の外にいる人には理解できても、我々には理解できない解釈もあるということだ。
 
Tambonota  分かりやすくするために、ここに問題の図形を再掲する。これをよく見つめると、その中に「窓枠」や「田」以外にも様々なものが見えてくる。例を示すと--漢字では「卍」「王」「十」「口」「工」「土」「士」「川」「山」「三」「二」「一」「上」「下」が見える。片仮名では「コ」や「エ」が見える。また、キリスト教の信者には「十字架」も見えるだろう。さらに、アルファベットでは、「H」「E」「F」「I」「U」などが見えるし、数学が好きな人には「±」(プラスマイナスの記号)が見え、郵便局に勤める人には「〒」(郵便マーク)が見えるかもしれない。さらに言えば、外国人には日本人には見えないものも見えるかもしれない--「Γ」(ギリシャ文字のガンマ)、「Ε」(同じくエプシロン)、「Η」(同じくエータ)、「Ι」(同じくイオタ)、「Ξ」(同じくクサイ)、「Π」(同じくパイ)、「Τ」(同じくタウ)、「Ш」(ロシア文字シャー)……。

 さて、ここまで書けば、私が問題にしていることが何であるかが、読者にもお分かりだろう。私の質問はこうだった--この図形は、本当は何の図形と言うべきだろうか?

 谷口 雅宣

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コメント

図形自体は何の意味も持たない、図形の意味はそれを見る人のcontext(脈絡)によって決まるというのが、意味論の基本だと思いますが。

投稿: 仙川健一 | 2008年8月25日 01:39

谷口雅宣先生
コメントさせて頂きます。今回の先生の質問を見た際、申し訳ないですが、まず、"やっぱりこの質問をしてきたかぁ"と心が汗を流すような気持ちでした。と言いますのは、昨夜、先生に分かったかのようなコメントをさせて頂きましが、しかし、一体"本当に観ているのは、何ぞや"という核心的で、本質的なものが、よく解らなかった・掴めなかったからです。だから、今回は、本当に正確に問いに答えているか自信がありません。間違っていたら申し訳ありません。以下、個人的な解答を書かせて頂きます。
先生の"この図形は、本当は何の図形と言うべきだろうか?"の私の解答は、率直に言うと、"無"だという結論に達しました。

投稿: 原太郎 | 2008年8月25日 12:21

いつも興味深く拝見しています。

今回の問いかけに対する私の答えは以下の通りです。
「この図形は線画であり、かぎ型を5つ組み合わせたものにすぎない。これが何かを表している、と仮定するとき、多義図形の一種であり、見る人の心にその文化的文脈的背景に条件づけられた、さまざまな意味を呼び起こすことがある。」
つまりは、図形というもの自体が意味を持つもの、とは言えず、意味は見る人の中に想起される、ということだと思います。

投稿: bourbon | 2008年8月25日 12:40

先生、ものすごくへりくつになるかもしれせん。ご了承下さい。

>この図形が「唯一神霊」を表していると仮定しよう。

と示されているので、現在、ここに記載されている図形は「唯一神霊」を示しているのではないでしょうか?

そう考えた経緯を記載します。

はじめ、私は素直に「田」だと思いました。その後、窓枠という文章で、「窓枠」とも見えるかもと思いました。また、きちんと図形を見詰めると、田という字でもないし、窓枠もこんな窓枠ないよなというところまでいき、だったらなんだろうと思いました。これは何を現しているのだろうと図形ですらない?とか思ったりもしました。ここで、もう一度、文章を読み返してみようと思い、読み返してみました。そこで上記の仮定がありました。この図形を唯一規定しているものはこれしかないかもしれないと思いました。つまり、この図形は「唯一神霊」を表していると仮定されていることです。作成者の意図ですが、そのように仮定されているので、他の答えは思い浮かびませんでした。それが答えでは、それではなぞなぞみたいなへりくつでしょうか?

投稿: 齊藤義宗 | 2008年8月25日 13:02

斎藤さん、

 貴方がおっしゃるように「へりくつ」と言われても仕方がないのでは…(笑)

原さん、

 そういう言い方もできるかもしれませんね。ただ、難解です。

投稿: 谷口 | 2008年8月25日 17:26

先生、そうですか・・・へりくつですね。

問:本当は何の図形と言うべきだろうか?

「無」に似ていますが、
「本当は何かというべき図形は無い」

というのも解として考えられます。

もし一人一人の文化背景等によって何に見えるか違うとすれば、その図形は本当は何の図形と言えるのだろうか?

けれども、実際には、各自の心の中身が反映されているわけなので、この図形すらも私たちの心を映している鏡と考えると、

「“私”の心の中身の一部」

という単刀直入な解もありかなと思いました。

また、この解からは簡単な図形だけでなく、私の目に見えているものすべてが鏡であり、すべて“私”の心の中身を反映しているという解も導かれます。

では、私の心の中身の一部を形成しているものは何かというところまで踏み込んで考えていくと、生物が歩んできた進化、人類が歩んできた歴史、日本人として学んできた文化背景、そして、個人的経験と様々なものが含まれてきます。

そこを詳述する力量を私は持ち合わせていないのが現状です。

投稿: 齊藤義宗 | 2008年8月25日 21:04

頭の体操有難う御座います、
私は目が見えますから最初は文章を読みながら"窓"だよ!と思いながら(笑)そんな訳は無いから何を言わんとされるのかな?と読んで行きました、それで図形は"唯一神霊"を表していると仮定しよう!とありますから唯一神霊は何か?の問いの様に感じています、始めも知れない昔から現在に至る迄の様々な全ての人類に於ける目、耳、鼻、舌、身の不自由な人々をも含めそれぞれの個々人が持つ唯一神霊への概念、信心が多様性に満ち満ちていて異なれど真理は永遠に変わらない!従いまして、あの図から思う個々人の見方は見る人の心を映す鏡であって正しいとか正しくないとか人間には決められないのではないか?畢竟神のみぞ知る!ではないか?と思いますが私は原さんが言われました"無"では無くて"空"ではないか!即ち「空(一)即是色(多)」、空は無ではなく完全なる真理、智慧、大慈悲なる心を包含しているものではないか?と考えます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年8月25日 21:11

いつも大変興味深く拝見させて頂いております.
先生のご文章は感覚的にも意味的にも多くの刺激を頂き,脳が賦活されます.ありがとうございます.

先生の意図とは若干違いますが,このご文章を拝読して,

> 前回の図が「多くの視点を内包している」と表現している点だ。この表現は、比喩的、文学的表現としては正しい。が、厳密に論理的に考えた場合、「図形が視点を内包する」という言い方はおかしい。図形は死物であるから「視点」をもたず、もたないものは「内包」するわけにいかない。

という表現に対して,ギブソンの提唱した”アフォーダンス理論”が頭をよぎりました.この理論からですと,「図形が視点を内包する」という言い方はありなのでは?と感じました.

投稿: 平野明日香 | 2008年8月28日 08:20

平野さん、

 その“アフォーダンス理論”というのをよく知らないのですが、簡単に説明していただけませんか?

投稿: 谷口 | 2008年8月28日 10:34

私もその分野が専門という訳ではないので,詳しくはご説明できませんが,簡単に言いますと,

「与える、提供する」という意味の英語、アフォード(afford)から、米心理学者のジェームス・ギブソンが1950年代後半に作った造語。物体の持つ属性(形、色、材質、etc.)が、物体自身をどう取り扱ったら良いかについてのメッセージをユーザに対して発している、とする考え。   (はてなダイアリーより)

参考文献としては,
佐々木正人『アフォーダンス――新しい認知の理論』,岩波書店,1994年,ISBN4-00-006512-2
が和書としてはよく引用されています.

投稿: 平野明日香 | 2008年8月28日 12:32

平野さん、

 なるほど…認知心理学の分野の考え方ですね。何となく分かります。が、軽率な発言は控えます。

投稿: 谷口 | 2008年8月28日 14:59

この考え方は感覚的な要素も多く含まれるため,私自身も十分に意味を理解できないのが現状です...まだまだ勉強が足りないなぁと感じております.
いろんな方と意見を交わすのは自分自身よい勉強になります.
ありがとうございます.

投稿: 平野明日香 | 2008年8月28日 17:02

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