南オセチア紛争が拡大 (2)
8月10日の本欄でこの問題について触れたが、事態は急速に変化している。この時書いたことが、一部誤解を招く恐れがあるので補足したい。それは、この紛争の大きな要因として「グルジア共和国内の南オセチア自治州が、“分離独立”を目指してナショナリズムを拡大していること」を挙げたことだ。この表現だと、ロシアはこの“分離独立”の運動と関係がないような印象を受ける。が、そうではなく、オセチアの分離独立派はロシアを庇護者と考え、ロシアはグルジアの西寄り姿勢を牽制するために、オセット人(オセチアの多数民族)を支援してきたのである。また、グルジアからの分離独立を求めているのは、オセット人だけでなく、西部のアブハジア自治共和国も同じである。
8月12日付のアメリカの公共ラジオニュース(NPR )がこの辺の事情を詳しく説明している。それによると、黒海の東端から東へ広がるコーカサス地方には、昔からグルジア人のほか、オセット人とアブハジア人がいた。ロシア革命後、ソ連はグルジアを吸収した際に、これら3民族にそれぞれ自治権を与えた。現在ロシアとグルジアにまたがるオセット人居住地域は、1922年に北オセチア共和国と南オセチア共和国に明確に分断されたが、旧ソ連の領土に収まっていた。
ところが、1980年代末にソ連が崩壊し始めると、オセット人とアブハジア人はグルジアに含まれることを拒否して、ロシア側へ庇護を求めるようになった。つまり、オセット人の自治拡大運動や南北統合の要求が盛り上がり、これに反対するグルジアとの間で武力紛争が起こるようになった。その一環として、1990年に本格的な武力衝突が起こったのが「南オセチア紛争」である。この紛争は1992年に停戦が合意され、ロシア、グルジア、南オセチアの三者で構成する平和維持軍が、この地域の停戦監視をすることになった。が、三者間の不信感が消えないため、その後も衝突が散発して、双方に多数の難民が生じていたのである。
一方、ロシアにとっては、ソ連崩壊後に東欧が西側に移り、グルジアも独立して“緩衝地帯”が失われていくことが問題だった。特に、2004年に西向きの姿勢を鮮明に示すミハイル・サーカシビリ氏がグルジア大統領に選ばれたことで、ロシア指導部は危機感を抱いた。同大統領は、ロシアを潜在敵国とするNATO(北大西洋条約機構)への加盟の意志を明確にし、それを念頭においてアメリカの“テロとの戦争”に協力してきた。だから、つい最近まで、イラクに2千人の地上部隊を派遣していたのである。
このような中で、8月の初めの週に、南オセチアの民兵とグルジア軍との間で銃撃戦が勃発した。7日になって、サーカシビリ大統領は、南オセチアの民兵が停戦合意を破って重火器を使って攻撃していると批判した。また、この頃から南オセチアの中心都市であるツヒンバリから住民の避難が始まった。そして8日、同大統領は軍に対して、ツヒンバリを確保するよう命令した。これに対し、ロシア軍は南オセチアに増援部隊を派遣し、グルジアの首都トビリシ近郊を含むグルジアの要所を攻撃するなど、本格的な軍事介入を行ったのである。
このロシアの動きに対して、欧米が態度を硬化していることとその事情については、10日の本欄に書いた通りである。ロシアの攻撃の速さと作戦の巧みさが浮き彫りとなり、一部には、冷戦後のアメリカ一極支配が終わった象徴的出来事であるとか、新しい冷戦時代が始まったなどという評価が聞こえる。
今日はわが国では“終戦記念日”と呼ばれる日だ。しかし、ご覧のように、世界では新しく戦争が始まった。今回の南オセチア紛争の拡大を見れば分かるように、民族意識(ナショナリズム)を鼓舞することは、現代においても依然として戦争の原因になりやすい。また、「往年の栄誉の回復」を目指すことによっても、平和は簡単に乱されることがある。この日にもう一度、戦争の原因と日本の将来について深く考えてみよう。
谷口 雅宣
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント