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2008年8月23日

“百万の鏡”が映すもの (2)

 21日の本欄では、聖経『天使の言葉』から引用して、百万の鏡に映した1つの物体は、百万の異なる姿に見えていても結局、同じ1つの物体であるという喩え話の正しい解釈を考えた。私はこの際、比喩が「鏡」を使っているところに重要なポイントがあると書いた。今回は、そのことを中心に考えてみよう。

 鏡の1つの大きな特徴は、「自分の姿がない」ということである。もちろん、バッグに入るような手鏡であれば、縦何センチ、横何センチという限定された大きさがあり、恐らくプラスチックや木の枠の中にはまっているだろう。しかし、そういう大きさや形は任意のものである。つまり、どんな大きさや形であっても、「鏡であること」は妨げられない。
 
 手鏡も、姿見も、医療用の内視鏡も、歯科医が口の中を見る鏡も、一眼レフ式カメラに内蔵された鏡も、万華鏡も、自動車のバックミラーも、大型反射望遠鏡に使われる鏡も、大きさや形はまちまちだが「鏡」であることに変わりはない。それらの鏡は、その姿形や大きさが重要なのではなく、「何を、より正確に映すか」が重要であり、その目的に従って鏡のサイズや形が変わっていく。つまり鏡は、自分が言わば“無”になって、映す対象の姿形をどれだけ正確に反映するかに奉仕するのである。
 
 このような鏡が、神(唯一神霊)の様々な側面を映して、相異なる姿形を現じているのが我々人間である--と『天使の言葉』は説いている。これは“一即多”と呼ばれる教えでもあり、分かりにくいものの一つである。そこでここに“例題”を掲げよう。下の画像は、谷口雅春先生の『新版 真理』第7巻悟入篇に出てくる図形である--
 
Tambonota  この図形を、『天使の言葉』の中にある「唯一神霊」の位置に置いて考えよう。もちろん、これはあくまでも説明のための便宜上の仮定であって、「神」や「唯一神霊」がこんな単純な図形によって過不足なく表現できると言うつもりはない。まず単純な例で理解した後に、複雑なものへと類推を働かせる--そのための説明である。

 読者は、この図形を何だと考えるだろうか? 人間は物事に名前をつけて、それを考えの“単位”とするが、この図形が何であるかの説明がなければ、自分の知識や記憶の中から、これと形がよく似たものを探し出して、それがこの図形が表象しているものだ、と結論づけるだろう。
 
 谷口雅春先生は、「これは窓の枠の影であります」(同書、p.78)と書いておられる。が、すぐその後に「まあそう思えばそう見えるのである」と続けていられる。つまり、この図形を定義づけるものは、図形そのものではなくて、それを見る人の心だということだ。それも、図形によって、心の中にまったく新しい名前や概念が作られるのではなく、すでに存在する名前や概念や形を当てはめることで、「図形を理解した」と考えるのである。言い換えれば、我々はこの図形を通して「自分の心」にあるものを見るのである。そういう意味で、この図形は、見る者の心を映す「鏡」の役割を果たしていると言うことができる。

 雅春先生は、この図形によって我々の心の中に「窓枠」を想起させられた後で、今度は「しかし或る人はこれを見てこれは(中略)田という字の影だけ書いたのだと言うのです」と書かれている。つまり、同じ図形が「窓枠」にも見えるし「田」の字にも見えるということだ。そこで読者に質問しよう。いったいこの図形は、本当はどちらだと考えるのが正しいだろうか?
 
 谷口 雅宣
 

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コメント

谷口雅宣先生

率直に申し上げますと、考えれば考えるほど、良くわからなくなる?と言いますか、自信が、ありませんが、自分なりの解釈でありまして、御了承頂きたいと思います。

さて、先生のブログでの"どちらが正しいか?" という問いに対して、単刀直入に、私個人の意見を言及させて頂きますと、"どちらも正しい"という結論にたっしました。
本文上での図は、 多くの視点から様々なことを想像できるけれども、実は、一つのものを観ている。換言すると、真実は、一つだが、実は多くの視点を内包しているのではないかと想いました。

投稿: 原 太郎 | 2008年8月24日 01:36

谷口 雅宣 先生

 窓枠とも田とも受け取れるこの図形の意味するものは、
「中心帰一することは素晴しいということ」であると私は
思います。

志村 宗春拝

投稿: 志村 宗春 | 2008年8月24日 21:37

志村さん、

 なぜそうなるのか、理由を教えてもらえませんか?

投稿: 谷口 | 2008年8月24日 22:59

谷口 雅宣 先生

窓枠とも田とも見れるこの図は、十字交差の点を中心に、まとまりのある(統制のとれた・調和している)美しい姿形となっておりますので、「中心帰一の素晴しさ」をあらわしているものと思いました。

志村 宗春拝

投稿: 志村 宗春 | 2008年8月25日 06:46

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