古い記録
今日は休日を利用して、家にしまってある自分の古い記録の一部を眺めてみた。私の若い頃の話は、主として2005年の本欄で折に触れて書いてきた。(例えば、2005年3月31日「古い家族写真」、5月18日「横浜に来ています」、同月19日「横浜のカレー」、同月23日「横浜との縁」、7月7日「横浜の赤レンガ倉庫」)しかし、大学より前のことはうろ覚えであるから、確かな資料を手元に置かず、記憶だけで書くのを控えてきた。今日はその“確かな資料”の1つを眺めてみる気になったのだ。その資料とは、私が高校時代に所属していた「出版部」というクラブ活動の中で発行していた新聞の縮刷版である。
私は小学校から大学まで、東京・渋谷にある青山学院へ通った。この学校では、小学校を「初等部」、中学校を「中等部」、高校は「高等部」と呼んでいる。だから、高等部のクラブ活動で発行している新聞は『青山学院高等部新聞』といった。この新聞の第1号は昭和25(1950)年12月18日の発行で、同43(1968)年2月に第100号が出たというので、その年の6月末に「100号記念」の縮刷版を出版したのだった。私がこの出版部に所属していたのは、昭和42年から足かけ3年間だから、この縮刷版の終りに近い部分に、当時の私が書いた記事や企画が載っているのである。それを読んでみると、おぼろげな記憶の中から高校時代の自分の思いや考え方が立ち上がってきて、実に興味深い。しばらく時間を忘れて“若い自分”と対面することになった。
私の高校時代は、ちょうど「70年安保」の前夜で、社会は年とともにしだいに騒がしくなっていた。生長の家高校生連盟に所属していた私は、休日には原宿の生長の家本部などで生高連の仲間と顔を合わしたりしながら、騒然としつつある社会状況を憂えていたのだと思う。「だと思う」などと書くのは、もう40年近くも前のことで記憶が定かでないからだ。しかし、この縮刷版の記事を読んでみると、その“憂い”の内容が伝わってくる。実際の記事をここでお見せすることはできないが、簡単に言ってしまえば、私は当時、日本がいわゆる“左翼”の暴力革命によって転覆されてしまうのではないかと不安に思っていたのである。特に、青山学院はキリスト教系の学校で、当時のキリスト教の傾向は一般的に“左向き”で、大学の教授陣や高校以下の教師の中にも“左向き”の人が多かった(例外もあったが)から、当然、高等部の新聞もそういう論調だった。
例えば、私が入部する前の昭和42年3月22日付の『青山学院高等部新聞』には、「建国記念日に思う」と題して、当時の出版部長であるKさんが論説を書いている。そこには、次のような文章が見える--
「なるほど、賛成側の人の中には、教育勅語を復活せよ、とか、欧米に負けずにアジアへ進め、とか、太平洋戦争は聖戦であった、とかいっている人もいるし、キリスト教者である内村鑑三氏なども、教育勅語に敬礼しなかったために教師の職をやめさせられたりしたことも事実である。今度は、賛成側の意見はこれも、ごく大ざっぱにいってしまえば、愛国精神を養う、祖先の辛酸と栄光の足跡をふりかえる、人に誕生日があるように国に誕生日があってなぜ悪い、というわけだが、人の誕生日は他人を戦争なんぞへかりたてる力はないでしょうネ。」
これに先立つ昭和41年3月15日号は、「われわれの政治意識」という2面見開きの特集記事を組んでいる。そこにある「改憲論をつく」という文章には、こうある--
「改憲論者は“第一に現憲法はおしつけられたものであり、第二に天皇の位置がアイマイであり、第三に自衛権が独立国に存在することは明確であるから、自衛軍を設置できるように”改定すべきだと主張する。
が、憲法改定運動の発端は昭和25年に朝鮮戦争が勃発して、警察予備隊が設置されたときなのである。北鮮軍の進撃に脅威を感じたマッカーサー司令部が警察予備隊の設置を命令し現在の自衛隊の礎石をおいたときから改憲運動がおこったという事実は、現在の改憲論の本質を示唆するものである。
すなわち、“おしつけられたものだからいかに内容が完全なものであっても外国人のつくったものであるかぎりは非民主的憲法であって断じて日本人の民主的憲法ではない”という第一の理由をふりかざしていながら、実は戦争放棄を規定している憲法第九条をあらためるための隠れ蓑にすぎなかったのだ。“自主憲法を制定する”という口実のもとに再軍備を推進し、戦争準備を着々と整えようという腹づもりなのだ。」
まるで、過去のどこかの政党の機関紙のような論調だが、そういう考えの先輩がいるクラブへ入部しようと思った16歳の私は、恐らく悲壮な覚悟をしていたのではないかと思う。なぜなら、多くの読者はご存じのように、当時の生長の家は「建国記念日制定」や「自主憲法制定」などを前面に打ち出した政治運動を展開していたからである。高校生の私には、もちろんその“全貌”など見えなかったが、生高連を通じて、学校で「やるべきこと」の大筋は理解していたに違いない。
谷口 雅宣
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コメント
合掌ありがとうございます。
雅宣先生の生高連時代を書かれた文章を読ませて頂き懐かしい思いに浸っております。もう忘れかけていた活動でした。
その当時を思い出し、高校生に帰った気分で、本日から始まります小学生練成会に臨む事が出来ます。
私は今55歳ですが、40年間過去にタイムスリップした気分にならせて頂きました。 合掌
投稿: 豊田建彦 | 2008年8月 2日 06:58