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2008年7月24日

現代のイスラーム理解のために (9)

 本題でこれまで書いてきたことを振り返ると、世界第2の宗教であるイスラームでは、政治や国際関係の面では「厳格主義者」ないしは「急進派」が目立った動きをしているものの、草の根レベルの市民生活においては、「穏健派」ないしは「中道派」が主として家族法と関係する領域で伝統を守り、かつ発展させる形で“イスラーム復興”を行っている--という構図が見えてきた。まあ、実際はこのような単純化ではとても表現しきれない種々の考え方や、入り組んだ関係がイスラーム社会の各所に存在するに違いない。が、日本のメディアが伝えるような極端に保守的、暴力的、非人間的、宗教至上主義的なイメージが、イスラーム社会の全体像ではないということだけは確実だろう。
 
 地球社会が成立しつつある21世紀において世界平和の方向へ進むためには、イスラームの「穏健派」の声が--換言すれば、穏健な形でのイスラーム復興の様子が、もっと鮮明に世界に知られる必要がある。エルファドル氏は、それを目的に今回の書『イスラームへの誤解を超えて』を世に出したと書いている。国際平和を目的とした我々の運動においては、その「穏健派」の信念や信仰をより多く、正しく理解することがさらに必要と考える。その中から、真の協力と協働が生まれるに違いない。
 
 さて、エルファドル氏の著書の後半には、イスラームの考え方の中で「穏健派」と「厳格主義者」の間で大きく異なるものが対比されている。その中で我々の運動と関係が深いものを1つだけ取り上げ、これまで我々が抱いていたかもしれない誤解を正したい。それは、少し前に言及した「イスラームの館」(ダール・アル・イスラーム)という考え方である。

 実は、2004年に日本で行われた「生長の家教修会」で私は一度、この問題を扱っている。この時私は、イスラームの世界観では、「世界は“戦争世界”(ダール・アルハルブ/Dar Islamview al-Harb)というイスラムの外側の世界と、イスラム法の支配する--つまりイスラム教が信仰されている“ダール・アルイスラーム"(Dar al-Islam)という2つの領域に分かれる」(『平和の先人に学ぶ』、p.190)などと解説した。そして、「こういう世界観の中では、イスラムとそれ以外の国々との間には戦争が常に存在することになってしまいます。そういう教えを世界の半数近くの人が信仰しているということになると、平和実現はなかなか難しい」などと言った。しかし、エルファドル氏の本を読んで、そういう世界観は厳格主義者の間では認められていても、現在の穏健派イスラームではもはや採用されていないことを初めて知った。同書には、こうある--

 イスラーム法学者の多くは、世界をいわゆる「イスラームの家」(「ダール・アル・イスラーム」)と、「戦争の家」(「ダール・アル・ハルブ」、あるいは「不信心者の家」を意味する「ダール・アル・タフル」とも呼ばれた)という2つの領域に分けて考えていた。歴史的に見れば、このイスラームの家という概念は、12世紀におけるキリスト教世界というローマカトリックの概念によく似ている。「家」という言葉はアラビア語の「ダール」の直訳だが、イスラームの家とはムスリムが支配する領域を意味するのに対して、戦争の家とは非ムスリムの支配領域を意味している。したがって、実質的には、世界をこのように2分して考える法学者がかなり多かったのである。(p.242)
 
 しかし、エルファドル氏は、この世界観は当時の国際政治の状況を反映したものであっても、「宗教的な思想信条にはほとんど関係がな」いと断言し、クルアーンやスンナにも裏付けられていないと指摘する。(p.244)また、興味あることに、10世紀以降に書かれた法学書には、世界を3つの領域に分ける考え方がほとんどだという。この3番目の領域は「和平の家」(ダール・アッスルフ)または「協約の家」(ダール・アル・アフド)と呼ばれ、「イスラーム世界と友好関係を保っている非ムスリム地域」を指しているらしい。そして、この領域は暴力的なジハードの対象にならないどころか、「攻撃したり暴力的手段に訴えたりすれば、罪に問われて罰を受け、その地域の政府に損害を賠償しなければならないとされた」(p.245)という。
 
Islamview4  また、さらに時代がくだり、12世紀以降になると、世界を2分や3分する単純な考え方はしだいに否定され、「世界は多種多様な領域に分かれているという説を唱える法学者が増えてきた」という。この中で典型的なのは、「正義の家」(ダール・アル・アドル)という考え方で、正義が存在するか、自由に正々堂々と信仰行為を実践できるところであれば、政治的な友好関係があろうがなかろうが、そこは真の“イスラームの家”と考えるというものだ。この説を採用すれば、ムスリムがアメリカで無事に暮らし、公然と信仰行為を行える状況にあれば、アメリカも“イスラームの家”と見なされることになる。そして、この地域には暴力的なジハードは法的に認められないことになるという。(p.246)
 
 だから、9・11の攻撃や、7・7のロンドンの爆破事件がイスラームの教義にもとづいて行われたとするのは、あくまでも厳格主義者の言い分であり、穏健なイスラームから見れば、10世紀以降の事実を無視したとんでもない屁理屈ということになるのである。
 
 谷口 雅宣
 
 

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コメント

「正義の家」と言う考え方に納得いたします、ただ、イスラム教に対する誤解や偏見は少数の厳格主義上層部指導者の言い分であり、イスラム教の真実の教えを無視した屁理屈である、、、と言う事を国を超え民族を越えた全世界の人々が理解すると言う事が大事だ!と考えますがそうはなっていない様なのが残念です。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年7月29日 22:15

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