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2008年7月14日

現代のイスラーム理解のために (2)

 前回の本欄では、現在のイスラーム世界は、“穏健派”と“厳格主義者”に分裂しているというエルファドル氏の見解を紹介した。ただし、同氏は、このイスラーム内部の分裂は一種の“鳥瞰図”的な見方によって把握できるのであり、細かく見た場合には、「現代のイスラーム世界をたった2つのカテゴリーで総括できるわけではない」(前掲書、p.14)と注意を喚起する。そして、「どちらかの思想に全面的に依拠するようなムスリムはごくわずかしかいない。ほとんどの者は両極間のどこかに位置しているが、穏健派寄りの考え方をもつ者が多い」という。また、「この2つのグループは、スンナ(スンニ)派やシーア派といった宗教区分とは関係がない」(p.15)と断言する。このことは、心に留めておいた方がいい。
 
 また、“厳格主義者”という分類についても、次のように注意する--
 
 厳格主義といっても、それを標榜する正式な団体や学派が存在するわけではなく、神学上のある思想傾向をあらわすにすぎない。したがって、そこには多種多様の思想や主義主張が含まれるが、すべてに共通する特徴は至上主義的な考え方だ。それによって、得体の知らない「他者」(欧米諸国、一般の不信心者、いわゆる異端のムスリム、女性のムスリムなど)に対して独善的で傲慢な態度をむき出しにしながら、敗北感、無力感、疎外感などを埋め合わせようとする。この意味で、イスラーム厳格主義者を至上主義者(supremacist)と呼んでも間違いはない。というのも、至上主義者は世界を極端に二分し、自分たちだけが優れた立場にいると考えるからだ。厳格主義者は、たんなる護教的姿勢ではなく、「他者」に対して厳しく傲慢な態度で権力を誇示し、無力感や敗北感を克服しようとするのである。(pp.105-106)
 
 上記の引用に出てくる「敗北感」「無力感」「疎外感」については、著者は解説していない。が、私が想像するところ、これは西洋諸国やその文明に対するイスラーム信者側の特殊な感情のことであろう。ウマイヤ朝の始まり(661年)から18世紀までは、イスラーム世界とその文化はヨーロッパを圧倒していたのに対し、19世紀以降は劣勢に転じ、やがて政治的には植民地化され、宗教的にもキリスト教に凌駕される。そういう欧米に対する歴史的劣等感が、厳格主義運動の背後にあると考えられるのである。
 
 さて、私はこれまで本欄などで「イスラームには中央集権的権威がない」ことについて何回か書いてきた。例えば、2006年8月11日の本欄では「イスラームはどうなっている?」という題で、エルファドル氏の本から引用しながら、そのことを短く記述した。また、最近では今年6月6日同8日の本欄で、「イスラームの多様性」と題して、中央集権的権威がないことが、かえってイスラームの多様性を保障してきたのではないか、との考えを述べた。しかし、イスラーム社会におけるこの制度の機能と意義については、こんな短い記述ではうまく伝わらない。その理解のためには、エルファドル氏の前掲書のpp.31-36が参考になる。
 
 イスラーム法にもとづく法的判断は「ファトワー(複数形はファタワ)」と呼ばれ、私的公的を問わず、生活万般に適用される。ところが、その“法的判断”は西洋型の法による判断とは相当趣を異にするのである。その辺の事情を同氏は、次のように描いている--

 “ファトワー”が出されても、ムスリムがそれを信頼するとはかぎらない。受け入れるか拒否するかは、もっぱら一人一人の判断にかかっているのだ。ある法学者の学識と判断力を尊重し、その“ファトワー”に従うグループもあれば、理由はどうあれ、正しいとは考えず、まったく無視するグループもある。ただし、“ファトワー”を受け入れるかどうかの判断は、気まぐれや気分で行うべきものではない。各“ファトワー”をよく検討し、まぎれもなく神の意志であると納得できる場合にかぎり、それに従わなければならない。それぞれの“ファトワー”は、一人の法学者が示した神の意志に関する見解だが、それをうのみにするかどうかは受け取る側の問題なのだ。
 イスラーム法によれば、教えを実践しているムスリムは、“ファトワー”を発する法学者の資格や能力はもちろん、その解釈を裏づける証拠にもある程度注意を払って調査したうえで、受け入れるかどうかを決めなければならないとされている。(pp.32)
 
 この説明を読めば、イスラーム法による法的判断には、西洋型法治国家での法的判断とは相当異なり、“外的拘束力”がないということが分かる。私がここで言う“外的”の意味は、人を法に従わせる外からの強制力のことだ。例えば、警察官や検察官がどこからか現れて「お前の行為は法律違反の疑いがあるから、別のところで取り調べる」などと言って、うむを言わさず法を守らせるような強制力は、イスラーム法には本来なじまないということだ。この点は理解しにくいので、次に実例を示してみよう。
 
 谷口 雅宣

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