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2008年7月13日

現代のイスラーム理解のために (1)

 本欄を1週間休載していたので、心配してくださった読者もいると思う。私はすこぶる健康だったが、12~13日にかけて東京・調布市の生長の家本部練成道場で行われた「生長の家教修会」の準備に忙殺されていた。本教修会は、昨年夏にニューヨークで行われた国際教修会を受けて、世界第二の宗教であるイスラームを学ぶ場となった。「日本の一宗教が、日本文化とは関係が薄い世界宗教を学ぶ」と考えると不思議に思うかもしれないが、生長の家は自らを「日本の一宗教」だと考えていないし、自らとイスラームは「関係が薄い」とも思わない。本欄の読者ならすでに理解されていると思うが、生長の家には「万教帰一」という重要な教義があり、それによると「世界の正しい宗教の神髄は共通している」と信ずるのである。が、単に「信ずる」だけでは、何事も始まらない。現在、イスラームは世界各地で起こる問題に関係していると言われるが、信者は急速に増えている。そんな中で、イスラームが本当に“正しい宗教”であり、生長の家とも共通する“神髄”をもっていると主張するならば、具体的に何が正しく、何が共通するかを我々が理解しないかぎり、「万教帰一」は“空念仏”同然だろう。

Greattheft_jp  そんな意識をもって、私は数年前から、イスラームをめぐる諸問題やその教義に関連して本欄に書き継いできた。また、昨年はニューヨークでイスラーム法の専門家から、イスラームをめぐる重要な事実をいろいろ学ぶことができた。が、その教修会は日本以外の生長の家幹部を対象としていたので、今回、日本の生長の家本部講師と本部講師補を主な対象として教修会が開かれたのである。幸いにも、昨年の教修会でお世話になったイスラーム法学者、カリード・アブ・エルファドル氏(Kahlid Abu El Fadl)の著書の邦訳が間に合ったので、その本『イスラームへの誤解を超えて--世界の平和と融和のために』(=写真、日本教文社刊)をテキストに使った。

 本欄では今後、何回かに分けて、この教修会で私が行った講話の内容に沿った話(細部は実際の講話とは異なる)をお届けする--
 
  今回の教修会に先立って、参加する本部講師、本部講師補からイスラームに関する質問や疑問を募った。イスラームについては、生長の家では多くの本が出ていないが、私は本欄で、時宜に合わせてイスラームをめぐる諸問題について自分が学んだこと、感じたことなどを、2005年の夏ごろから書き継いできた。だから、それを読んでの感想や質問がほとんどだった。ということは、参加者が得たイスラームに関する基礎情報には問題があった。それは、「ブログ」という発表媒体の性格から言って、情報に偏りがあったからである。ブログには日記的性格があるから、その日、その時に、私の周辺で起こる事象や、マスメディアに取り上げられる事象についての言及が多い。学問や研究のように、ある1つの対象を体系的、あるいは網羅的に検討し、分析することなどしない。ということは、イスラームについても、社会的に“目立つ”部分--そのほとんどが過激派の起こす事件のような悪い事象--についての言及や検討に偏るから、読者にはどうしても“群盲評象”的な印象を与えることになるのである。
 
 私はその危険性に気づいていたから、2007年の夏にイスラームをテーマにして「世界平和のための生長の家国際教修会」が行われると決まった頃から、メディアで報道されないイスラームの側面で、我々の運動の参考になりそうなものを意識的に取り上げ始めた。それはイスラームの「理性主義」(2007年6月)であり、イスラームにおける「多様と寛容」(同年7月)であり、イスラームと生長の家の類似点(同年8月)である。こうなると、さらに読者には疑問が生じたようである。その疑問とは、イスラームの原理主義者や過激派の暴力事件が世界的に起こる一方で、イスラームの教えの中には、生長の家と共通する理性主義や多様性の尊重があるということになり、イスラームは“悪”でもあり“善”でもあるという矛盾したメッセージから来たようだ。この善悪混淆のイメージは、場合によっては「善が悪を生んだ」とも捉えられるから、一種の“認知の不協和”が生じるのだろう。

 この疑問を、エルファドル氏の新刊書『イスラームへの誤解を超えて』は明快に解いてくれる。その答えは、「イスラームは分裂している」というものだ。同書の「はじめに」でエルファドル氏は次のように語る--
 
「本書の目的は、すでにイスラームに存在している分裂について論じることにある。それは「穏健派」ムスリムとイスラーム「厳格主義者(puritan)」と私が呼ぶ勢力との対立だ。穏健派も厳格主義者も、ともに自分たちが真正イスラームを代表していると主張する。双方とも神の教えを忠実に守っていると信じているのはもちろん、その教義はすべて聖典クルアーン(コーラン)と、預言者ムハンマド(神が人類に遣わした最後の預言者)に関する真の伝承に依拠していると考えている。ところが、厳格主義者は、イスラームを改変し、堕落させたのは穏健派だと非難し、穏健派は、厳格主義者こそ解釈を誤ってイスラームを汚し、冒瀆したと糾弾しているのである。」(pp.6-7)
 
 つまり簡単に言えば、我々がマスメディアを通して見聞するイスラームの事件は「厳格主義者」が起こしたものであり、私がブログで取り上げたイスラームの「理性主義」や「多様と寛容」な内容は、「穏健派」が信奉するものに該当するということだ。エルファドル氏の見解が正しければ、両者は分裂しているのだから、相互の行動や言説が矛盾し、我々に違和感を与えるのは当然のことになる。
 
 谷口 雅宣

 

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コメント

先生の仰っているのは宗教団体の事だと思います。宗教はその経典を勉強する事と思います。教えそのものを先生に解釈御教示下さい。拝失礼しました

投稿: 森田正 | 2008年7月15日 03:43

私は、本ブログへ投稿するのは、初めてです。よろしくお願いします。今の時代、こうして、生長の家の副総裁先生と簡単に、そして、早くコンタクトをとることができるなんていまさらながら、不思議で、非現実的境地にいるかのような心境です。有り難いです。
ですが、一年前から、谷口雅宣先生の本ブログを精読させて頂いております。
先生は、先の7月7日に北海道で開催された、洞爺湖サミットについて触れると推測していましたが、なかなか、最近、更新してなかったので、忙しいのかと、独り考えていました。すると、"すこぶる健康だった"ことを知り、幸いです。

イスラーム世界と言ったら、主に、テレビの映像と音声から脳髄に記憶されたものが、まず、イメージとして浮かんできます。つまり、顔中に古布のようなもので顔を覆わせ、機関銃のようながっしりした銃を持ち、「戦争」、「紛争」、「テロ」といった超過激的な武装グループのようなものであると認識しています。なんとも、宗教なのに、「穏やかでない」、「怖い」、「不安定」、といった、消極的なイメージがあります。これが、先生が、意図するところの「厳格主義者」が起こした事件なんですね。生長の家の一、信徒でなければ、イ

投稿: 原 太郎 | 2008年7月15日 06:41

原さん、

 お住まいはどちらですか? 青年会の方でしょうか?
洞爺湖サミットでは、残念ながら何も書くべきことがないので書きませんでした。ホント、がっかりです。

森田さん、

 貴方のおっしゃる意味が今ひとつ分かりません。イスラームに「宗教団体」というものがあるかどうか知りませんが、そういう人間の集団のことに触れることは、その集団の信じる教えの内容と関係がないとおっしゃるのですか? あなたがもし生長の家の信徒であるならば、あなたが信じているものと、あなたの実際の生き方や行動とは関係がないのですか?
 

投稿: 谷口 | 2008年7月15日 13:01

谷口雅宣先生とコンタクトがとれて本音で嬉しいです。今胸が、ワクワクしてます。ありがとうございます。
私は、学生です。地方の国立大学に行っています。そこで今地球温暖化について環境政策的視点から学問研究しています。ですが、学部は、専ら、法学部なので、環境問題の知識は、大したことは、ないです。
中でも、生長の家が、世界で初めて、環境マネジメントISO10041を取得された「宗教団体」ということを聞いて、流石と思いました。本当の意味で、生長の家が、地球環境問題に取り組んでいることは、大変有意義であり、誇れることだと思います。
私は、青年会という組織的なものには、属していません。ですが、誌友会や練成会、講習会、全国大会等の宗教行事には、参加したことは、あります。
母が、生長の家の信徒なので、それでです。
私は、生長の家や谷口雅春先生の教えは、本当の意味で、素晴らしいと思っていまして、その教えを信じていますので、宗教団体という組織には、属していないんですけれども、そういう理由で、一信徒と言う、文言を使わさせて頂きました。
ありがとうございます。

投稿: 原 太郎 | 2008年7月15日 18:13

森田さんが仰っているのは、生長の家としてイスラムを研究するのであれば、イスラム内部の派閥の動向といった周辺情報ではなく、経典コーランについての先生独自のお説をお聴きしたいということではないでしょうか。万教帰一を標榜する生長の家としてイスラムを研究する必要があるというお考えなら、ユダヤ教、ヒンズー教、チベット仏教等々をも幅広く研究対象とすべきではないのでしょうか。

投稿: 仙川健一 | 2008年7月18日 23:29

仙川さん、

 森田さんご本人が何もお答えにならないので、何とも分かりません。きっと私の答えには関心がないのでしょう。

投稿: 谷口 | 2008年7月19日 21:47

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