« 「ふと思いつく」こと (2) | トップページ | ガイコツはなぜ踊る? »

2008年6月22日

“神の試練”とは?

 今日、富山市で行われた生長の家の講習会で、私は、生長の家では神を「試練」や「天罰」を与える存在として捉えないという話をした。これは、テキストとして使った谷口雅春先生の『新版 幸福生活論』(2008年、日本教文社刊)に、次のような記述があるのを引用したときだった--
 
「吾々は意識に於いては善なる大生命と調和して生活し、働き、想念し得ると共に又反対することも出来るのです。実相に於いては如何にともあれ、若(も)し吾々の意識が神の意識に対して反抗的に働くならば吾々の生活には凡(あら)ゆる方面に於いて不調和が生ぜざるを得ないのです。このとき所謂(いわゆる)“試練”とか、“神の鞭(むち)”とか、“神の怒”とか云う状態があらわれ、吾等は試みられ、籾摺機(もみすりき)にかけられたる穀物のように篩(ふるい)別けられるのです」。(p. 53)

 この文章は、サラッと読み飛ばしてしまうと、まるで神は“鞭”を振るったり、“怒”ったりしながら、人間に“試練”を与える、と説いているように感じられる。が、注意して読むと、そのまったく逆のことが説かれていることが分かる。この点を明確にしたかったのである。ポイントは「所謂」という言葉だ。この言葉は、「世に言うところの」という意味で、「一般にはこう言われているが……本当は違う」という反語的な意味にも使われる。ここでは、まさにその反語的意味で「所謂」は使われている。そのことを示しているは、この文に先立つ次の一文である--
 
「吾々の生命の流れが、善ひとすじの大生命の流れから分離する、その時、悪と見ゆる状態があらわれて来るに過ぎません。吾々は実相に於いては決して大生命と分離出来ない、併(しか)し吾々の意識の中(うち)に大生命との交通を中断させる如き念が起るとき、三界は唯心の所現であるから、神から見放されたような不幸な状態があらわれるのです」。

 谷口雅春先生は、結局ここでは人間の“自由意思”の問題を説かれているのである。人間には“意思の自由”があるから、実相に於いては神の子の善性を宿しながらも、現象としての個人の意識、集団の意識の部分で「大生命との交通を中断させる如き念が起る」ことがあり、その念にしたがって行動した場合は、現象に於いて「神から見放されたような不幸な状態」が起こるということである。神は彼を本当に「見放す」のではなく、「見放されたように見える」状態が現れるのである。この違いは重要である。「見放す」という行為は、神が人間に対して行うのではなく、人間が“意思の自由”によって、自己の真性であるところの“神の子”を一時的(現象的)に見放すのであり、その結果、実相に於いては大生命と一体でありながら、「善ひとすじの大生命の流れから分離する」ような現象が現れる、ということである。
 
 これは、実相と現象の関係をきちんと理解していない者にとっては、理解がなかなか難しいかもしれない。だから、もっと一般的な宗教にあっては、「神の怒り」「天罰」「試練」「神のムチ」「閻魔大王」などという言葉を使って、我々人間がこの世で行う“意思の自由”の行使を常に見張っている、強大で恐ろしい力の存在を説くのである。一般庶民にはその方が分かりやすく、また効果的な場合もあったからである。しかし、科学的知識の普及と個人の意識の向上が進んだ現代では、その効果はしだいに薄れつつあると言えよう。

 神は、他の生物とは異なった“意思の自由”をもった存在として人間を創造することで、他の生物には不可能な目的を達成しようとされている。その目的とは「善」の実現である。自由のないところには善も悪もない。“悪”とは、“意思の自由”の誤用によって現象的に起こる「神から見放されたような不幸な状態」のことである。本当に「神から見放された」のではなく、自分が“自己の真性”を見放した結果である。悪現象が起こったときは、だから、自己の真性の自覚を深める神想観が大切なのである。
 
 谷口 雅宣
 

|

« 「ふと思いつく」こと (2) | トップページ | ガイコツはなぜ踊る? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「ふと思いつく」こと (2) | トップページ | ガイコツはなぜ踊る? »