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2008年6月 2日

イスラーム法と理性

 私は昨年の6月後半の本欄で、「イスラームの理性主義」と題し、イスラーム神学の各学派が、「理性」の位置をどのように扱ってきたかを概観した。それによると、理性を最大に尊重するのがムータジラ派であり、教典(『コーラン』と『ハディース』)を最大に尊重し、理性をその下に置くのがアシュアリー派だった。「下に置く」といっても、それは「理性を無視する」という意味ではなく、『コーラン』や『ハディース』の記述を現実生活に適用するに際して、また、両教典に定めのない領域においては、アシュアリー派も理性にもとづいて法解釈をするのである。だから、アシュアリー派といえども、論理性、合理性を重んじていることに変わりはない。そして、イスラーム研究者の小杉泰氏が言うように、「今日に至るまで、アシュアリー神学、およびそれとほぼ同じ内容を持つマートゥリーディー神学がスンナ派の正統神学となっている」のである。

「権威と権威主義」についての本欄で、私は「人の前で立つ」という行為をイスラーム法ではどう判断するかを、アブ・エルファドル氏の解説にもとづいて述べた。この行為がイスラーム法で禁じられているかどうかは、一元的には決められていないというのが、その時の結論だった。にもかかわらず、アメリカのイスラーム主義の団体が、その行為が一元的に禁止されているかのような法解釈を行ったことが、かえって権威のなさを露呈し、権威主義的な態度として批判されたのである。

 読者は、この例による説明で感じとっていただけたと思うが、イスラーム法の適用は日常生活の細部にわっており、また適用の仕方はかなり精緻である。「人の前で立つ」という単なる動作の外形を問題にするのでは足りず、その動作がどういう環境で、どういう人に対して、またどういう時に行われるかによって、可否の判断が異なってくるのである。イスラーム学者の井筒俊彦氏は、「リンゴを食べろ」という1つの命令を例に取って、このことを分かりやすく説明している:

「例えば“リンゴを食べろ”という命令がある。この分は命令形そのものとして、いますぐ、ここで食べろということか、それとも、後でもいいから、それが可能になったら食べろということか。また後者の場合、可能になった第一段階でか、その後の段階でか。全部食べてしまうべきなのか、一口だけ食べればそれでいいのか。一回だけ食べればそれで命令の効力は消滅するのか、それとも今後何回でも繰り返すべきなのか。一般に誰でも食べろということか、ある特定の人だけが、か。リンゴを食べろとは、リンゴだけを食べることであって、他のものを食べてはいけないという意味まで含意するのか、等々。実に微に入り細をうがって命令法の構造的意味を分析していきます。そしてそれがすべて、神の命令を正確に把握するための理論的基礎とされるのであります」。(『イスラーム文化』p.150)

 理性をフルに使った、このように精緻な分析が必要な理由は、『コーラン』には「リンゴを食べろ」という生活レベルの命令(法)だけでなく、「異教徒を殺せ」というような重大な命令が書かれているからである。この命令を、「見たらいつも、すぐに、全員殺せ」と解釈するのと、「やむを得ない場合だけ、何回も警告した後に、最終手段として、できるだけ少なく殺せ」という命令だと解釈するのとでは、“神の命令”の内容がまったく違ってくるし、それを実行した結果も全く異なるだろう。したがって、イスラーム法においては、教典に何が書いてあるかはもちろん重要だが、それに劣らぬほど重要なのが、法解釈の態度や方法であることが分かる。

 この辺の事情を、井筒氏は次のように述べている:
 
「イスラーム諸学の哲学に関わる分野において、論理学が特に尊重され、かつ異常な発達をとげましたのは、単にアリストテレスの論理学の影響だけではなくて、実は法的思惟そのものに内在する要請によるところがきわめて大だったのであります。法律の源(もと)は聖典、つまり神の啓示であり、それの法的解釈は純粋に論理的である。イスラーム法はこの点で啓示と理性とのきわめてイスラーム的な出会いだということができます」。(前掲書、p.157)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○小杉泰著『イスラームとは何か--その宗教・社会・文化』(講談社現代新書、1994年)
○井筒俊彦著『イスラーム文化--その根柢にあるもの』(岩波文庫、1991年)
 

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コメント

私はイスラームの信者ではありませんがズブの素人で知る限りの教えの内容には納得させられるものが多々あります、そして現時点でイスラームの教えはアラビア人だけの為の教えではなく全人類に対する教えであり、教典「コーラン」と「ハディース」を元とし、定めの無い領域だけでなく理性に依って解釈するべきではないか?例えば「人の前で立つ」とか「異教徒を殺せ」と言う様な場合においてもムハンマドの人柄、時代の状況、発言された時と場所での流れを良く吟味して神の真意を汲み取り、理性に依って解釈されるべきではないか?と思っています。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年6月 3日 00:28

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