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2008年6月16日

“後ろの目”をどうする?

 だいぶ前の本欄で、私がアイポッドを使い出した話を書いた。正確に言えば、それは2006年12月27日の本欄で、「ながら族へ転向?」という題のものだ。しかし最近では、私はアイポッドをあまり使っていない。理由は、大きく分けて2つある。1つは、パソコンを換えたこと。もう1つは、やはり私は“ながら族”のライフスタイルに馴染めないからだ。

 アイポッドは、自分で使うパソコンの内容と“同期”させて使う。この意味は、パソコンの特定のフォルダー上にあるファイルと、アイポッド内のファイルとは正確に対応している必要がある、ということだ。これによって、パソコン上で加除されたファイルが自動的にアイポッド上にも反映される。私は当初、この機能は「使いやすい」と感じていた。ところが、パソコンを新しくすると、新しいパソコンに古いパソコンのファイルを全部複写しておかないと、アイポッド上のファイルが自動的に入れ替わってしまう。これは実に「使いにくい」のである。もう1つ不便なのは、妻がアイポッドをもらったので、その中に私のパソコンの音楽ファイルから選んで複写しようと考えたが、これが事実上不可能なのである。理由は、上に書いたように、PCとアイポッドは“同期”が原則だからだ。しかも、1つのアイポッドに対して同期できるのは、特定のパソコン1台きりだ。別のパソコンから好きなファイルだけ選んで複写することは、(不可能でないとしても)非常に面倒くさいのである。
 
 “ながら族”が好きになれない理由は、拙著『日時計主義とは何か?』か『太陽はいつも輝いている』を読んでくださった読者なら、簡単に想像がつくだろう。イヤフォンを両耳に挿して街を歩くことは、少なくともその時間帯は、“感覚優先”の世界を拒否することになるのだ。音楽を聴くことは“感覚優先”であることは事実だが、その代わり、聴いている音楽以外の音は耳から入りにくいから、外界で起こる出来事に対する“現実感”が大分薄らいでしまう。別の言い方をすれば、肉体のもつ五感のうち聴覚だけが別のものに向いているから、心の中で他の感覚との間で注意の奪い合いが起こるのである。そして、「考えごとをしながら街を歩いている」のと似た結果になる。つまり、「心ここに有らざる」状態だから、私の言う“感覚優先”の生き方とは全く異なるのである。空の青さ、風のさわやかさ、道端の花の美しさ、すれ違う人々の表情、新しい店飾り……などに、この状態では気がつくことができない。
 
 今日の『産経新聞』には、もっと危ない話も載っていた。それは、人間が歩行中などに普通に使っている“後ろの目”が、イヤフォンで音楽を聴いている人には使えない、という話だ。いわゆる“後ろの気配”を私たちが感じるのは、聴覚によるらしいが、イヤフォンから来る音を聴いている人には、それが感じられない。同じことは、携帯電話で話している人にも言える。意識が片耳から来る音に集中しているからだ。だから、道路を歩いていて突然、ケータイを耳に当てながら立ち止まる人がいて、私もぶつかりそうになったことがある。こういう人々は、歩道を猛スピードで走る自転車にぶつかる確率も、ぐんと増えるに違いない。さらに物騒なのは、さいたま市では、イヤフォンをして歩く女性ばかりを後ろから狙ったひったくり事件があり、今月4日に少年が逮捕されたという。さらに想像すれば、秋葉原での通り魔事件で刺された人のうち、イヤフォンで聴いていたり、ケータイを使っていた人の割合はどのくらいか、が気になる。
 
 日時計主義を標榜する私が、あまり暗い想像をしてはいけないが、“文明の利器”と言われるものも、使い方を間違えば不幸の原因になるのである。上記の通り魔事件の容疑者は、自分が“ケータイ中毒”であることを認めている。機械は「使うもの」であり、「使われるもの」ではないのである。
 
 谷口 雅宣

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