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2008年6月30日

北見で考えたこと

 生長の家講習会のため、28日から29日にかけて北海道の北見市で過ごした。とは言っても、29日は朝から夕方まで講習会の会場にいたから、市内を見学したのはごくわずかな時間だ。それでも、2年前の前回との違いは感じられた。北見市は一時“東急の町”と言われたように、東急グループが中心となって開発した町だ。航空便も東急系の東亜国内航空(後の日本エアシステム)だけが運行していて、市の中心部に東急デパートと東急インが並んでいた。ところが現在は、東急グループが町から一部撤退して、デパートは地元資本の手に渡っていた。
 
 私は、各地の地方都市に東京資本が進出して“金太郎飴”のような町並みを形成することを嫌ってきたから、東急グループの撤退自体を嘆きはしない。自分勝手な感想かもしれないが、私の住む東京・渋谷はまさに“東急の街”だから、はるばるオホーツク海の近くまで飛んでも、また“東急の町”に来てしまうのでは退屈する。が、東急が撤退した理由の1つは、札幌以外の北海道各地の経済が縮小しつつあるからだろうから、東急の“後がま”として入った地元資本の行く末が心配だ。

 このデパートに入って、店員に文房具の売場を尋ねたら、「文房具は今は置いていません」と、すまなそうな顔をして答えた。この「今は」という言葉の意味を、私は「今はないが、今後は置くかもしれない」という意味に取れなかった。なぜなら、このデパートのある北見駅周辺には文具店どころか、書店が全然なかったからだ。文具店も書店も、学生にとって必要な店だ。それがないということは、この町には学生が、そして若者がいないという意味にとれる。ところが、夕方になると、自転車に乗った学生たちが大勢駅前を走るのを見かけたのだ。
 
 翌日、そのナゾが解けた。会食の席で青年会委員長が教えてくれたことは、駅から自転車でなければ行けない距離に、大手スーパーが開発したショッピング・センターがあるのだという。彼らはそこに集まっていて、駅前にも来るというのだ。「北見よ、お前もか」と私は思った。同様の現象は、盛岡にも青森にもあった。この中心街衰退の構図は全国で見られる。原因は明らかである。イーオンなどの大手スーパーが郊外型のショッピング・センターを建設することにより、駅周辺の古い商店街から客がいなくなるのである。自動車をもった客は、1箇所ですべての用が足りる便利さに逆らえないからだ。

 この問題は国会でも取り上げられ、大規模小売店舗の郊外への立地を制限する動きが出ている。が、大企業に弱い政権で何ができるかは不明である。私はそれより、“原油の高騰”と“地方の高齢化”がこの問題の解決に影響を与えるような気がしている。簡単に説明しよう。
 
 ガソリンの値上げの影響は、自動車の利用の減少という形ですでに現れている。また、地方では人口減少が急速に続いているから、土地の値段も下がっている。しかし、地方にいて自動車のない生活は不便このうえない。また、高齢化にともない、車を運転する人の数も減っていく。すると地方では、人口は郊外から駅近くの中心街に移動する傾向が生まれるのではないか。ただし、これには駅周辺の再開発と公共交通機関の充実が必要だ。私は、行政が税制の変更や優遇策などで、この動きをリードするのがいいと思う。そうすれば、東京資本による“金太郎飴”的開発ではない、地元資本による個性ある町づくりができるのではないだろうか。

 谷口 雅宣

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2008年6月28日

物価上昇と運動の工夫

 原油価格の高騰が、我々の生活全般に影響を及ぼし始めている。今日の『日本経済新聞』は、7月1日から新たに値上げされる商品とサービスを一覧表で示しているが、それによると、ガソリンの卸売価格は言うに及ばず、電気、ガス料金は2~3%値上げされ、「今後もさらに上昇傾向が続く可能性が強い」という。そのほか、航空運賃、自動車保険料も上がる。食品関連の値上げ幅は大きく、カゴメは野菜飲料などを4~9%上げ、日清オイリオ、J-オイルミルズは食用油を平均で10%上げ、味の素はマヨネーズを4~14%上げ、マルハニチロ食品は練り製品などを8~40%、伊藤ハムは空揚げや冷蔵ピザなどの加工食品を平均で17%上げるという。これに加えて、全農(全国農業協同組合連合会)が主要の化学肥料を1.6倍に値上げするそうだ。こちらは、今後の農産物全般の価格に影響を及ぼしそうだ。
 
 重油の値上がりで、遠洋漁業にも深刻な影響が出ている。同じ日の『日経』は、日本、台湾、韓国、中国の遠洋マグロはえ縄漁業では、全体の保有船約1050隻うち3割が、休漁していることを伝えている。これにより、マグロの値段が上がるのは時間の問題だろう。養殖マグロの場合も、飼料の値上がりが価格に跳ね返る。こうして、家計に占める食費の割合が増えることになるから、レジャーや贅沢品に回される分は当然、減っていくだろう。
 
 家電量販店で、照明や店頭デモ用に使う電力を節約する動きが出ているそうだ。これは大いに歓迎したい。渋谷や新宿の家電量販店の前を通るたびに私が思うのは、あの壮大な電力の浪費によって、どれだけのCO2が排出されるのか、ということである。特に、各種の大画面テレビなどを壁の全面に並べて、映り具合を比較させたり、音響製品を並べて聞かせる方法は、どうにかならないのかと思う。あの店頭デモで使われる電気代は当然、商品価格に含まれるのだから、それがなくなってくれれば、原油の値上がり分も価格に反映しないすむのではないか、などと憶測する。記事によると、ビックカメラは、薄型テレビとパソコンの3割、照明機器と電話機、ファックスの5割で電源を落とすなどすることで、消費電力の3%を節約する考えらしい。これを全国の27店で実施すると、年間で150万Kwhになるという。この電力は、約360世帯の一般家庭の年間消費電力に相当するという。電気代にして年間2~3千万円のコスト減が見込めるらしい。

 生長の家は“炭素ゼロ”の運動を目指していることは前回も触れたが、この実現はそれほど簡単でない。背後にある基本的な論理は、比較的単純だ。つまり、CO2の排出をできるだけ避けるためには、交通機関の利用を減らすことが重要だから、遠距離を移動しないで運動を進める方法--つまり、地元に密着した、地元中心の運動が望ましい、ということだ。これは、交通費全般が値上がりしているのだから、交通機関の利用はできるだけ避けたいという経済的要請とも一致している。宗教運動は基本的に「人と人とのつながり」(人間関係)を基本としている。それを盛り上げるためには、人と人とが頻繁に会うことが必要だ。もちろん、現在は通信技術の発達によってケータイやパソコン、遠距離会議システムの利用は可能だが、これはあくまでも“従”的手段であり、宗教の“主”的手段は「人対人」である。“主”を確実に進めながら、“従”を効果的に使っていくような新しい運動の開発が求められている。
 
谷口 雅宣

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2008年6月26日

生長の家は温暖化抑制に努めている

 地球温暖化抑制のための対策として、京都議定書で定められた温室効果ガスの排出権取引があることは、本欄の読者ならばすでに十分ご承知のことだろう。これについては本欄で何回も取り上げ、必ずしも諸手を挙げて賛成はしていないものの、その一部については、実質的な温室効果ガス排出削減の効果があると認めてきた。洞爺湖サミットの開催を直前に控えて、政府内部でも排出権取引の方針が煮詰まりつつあるようだ。ただし、あくまでも企業の「自発的な参加」を原則とするうえ、「自主的削減目標」しか設定しないようであり、効果はきわめて限定的だ。6月25日付の『朝日新聞』などが伝えている。私は、東京都が25日に可決した環境確保条例改正案のように、一定規模以上の企業に温室効果ガスの削減を「義務化」するのでなければ、実質的な効果はあまり望めないと思う。

 22日に富山市で行われた生長の家講習会では、参加者の質問の中に生長の家の環境問題への取り組みが不十分ではないかと、疑問を呈する内容のものがあって、私は驚いた。それは62歳の自営業の男性からのもので、こういう内容である--
 
<「生長の家」の信仰を多くの人々に知ってもらうには、マスコミ等による宣伝が少ないと思います。又CO2の削減のアピールも少ないと思います。今のままでは少しもの足りないと思います。>

 そこで私は、生長の家が日本の宗教界では最初に、環境経営の国際基準である「ISO14001」を取得したことや、今年の1月には韓国のフロンガス工場から排出される強力な温室効果ガスの排出削減に貢献して排出権を獲得したこと、また、現在は“炭素ゼロ”運動を強力に推進していることなどを話して、この質問者の誤解を解こうとしたのだった。そんな中で、本欄の読者、濱田貴博さんから、1月10日の本欄へのコメントの形で、生長の家の排出権取得を評価する文章が、最近発刊されたビジネス書に書かれていることを教えていただいた。うれしいニュースである。この本は、北村慶著『排出権取引とは何か--知っておきたい二酸化炭素市場の仕組み』(PHPビジネス新書)で、初版発行日は今年の7月2日(!)であるから、まさに出来たてホヤホヤである。
 
 この本の25ページには、こうある--
 
<日本で初めて「排出権」を信託方式により小口化した三菱UFJ信託銀行の「排出権信託」を購入した先には、企業だけではなく、「生長の家」という宗教法人もあります。「生長の家」は、信者数200万を超える日本を代表する宗教団体です。>

 このあと、生長の家の公式サイトに発表された文章を一部引用してから、さらにこう書いてある--

<「排出権」については、温室効果ガスを排出できる権利--すなわち、地球を汚す権利--と捉えると、環境問題に真摯に取り組んでこられた人々や団体から、環境問題をカネで解決するものではないか、という疑義を受けやすいという側面があります。
 しかし、私たちが生活し、活動していく以上、それが個人の活動であれ、企業活動であれ、宗教活動であれ、温室効果ガスは発生してしまいます。
 その意味で、「生長の家」のように、地球環境への負荷を軽減する自助努力をまず行い、それを補う形で国連で認められた「排出権」を補完的に用いるという考え方は、十分に受け入れられて然るべきものであると思われます。>
 
 私は著者の北村氏について何も知らないが、この書の略歴には、「慶応義塾大学卒、ペンシルベニア大学経営大学院留学。大手グローバル金融機関勤務。日本証券アナリスト協会検定会員、ファイナンシャル・プランナー1級技能士。日米欧で、投資ファンド、M&A仲介・コーポレートアドバイザリー業務、および環境関連のプロジェクト・ファイナンスや金融商品開発に携わる」とあるから、現役のファイナンシャル・プランナーなのだろう。これまで何冊も著書があり、北村氏自身のブログには「金融ビジネス書作家」との肩書きが使われている。

 排出権取引のことが分かりやすく書いてあるので、読者諸賢にも一読をお勧めする。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月25日

映画『西の魔女が死んだ』(The Witch of The West Is Dead)

 今日は水曜日の“週末”ということで、妻と一緒に恵比寿の映画館で『西の魔女が死んだ』(長崎俊一監督)という作品を観た。梨木香歩原作(新潮文庫)のこの映画は、100万部のロングセラーを達成した原作を読んだ妻が、かねてから公開を待ち望んでいたものだ。だから私は、彼女の“おとも”として行った、という感じだった。ストーリーは事前に妻から聞いていたから、それほど起伏のある展開ではないことは知っていた。が、この作品はストーリーで見せるものではないことが、すぐ分かった。八ヶ岳山麓で独りで暮らす老女(サチ・パーカー)のもとに、孫である女子中学生(高橋真悠)が不登校の心を癒すために世話になる--筋はそれだけだ。が、この祖母と孫との田舎生活の中から、人生の意義と「人間は死なない」というメッセージが紡ぎ出されるのである。会話と演技とメッセージ性を重視した、静かな感動を与える作品である。

 妻によると、この映画は原作にとても忠実に作ってあるという。そのことから考えると、私はこのような内容の小説が100万人にも読まれるということに、少なからず驚いた。単行本の『西の魔女が死んだ』(楡出版)は平成6年刊で、小学館の新装版は同8年、新潮文庫版は同13年刊である。この文庫版が今年2月刊の「51刷」の帯に「映画化」決定を謳っている。14年間で100万部を売ったとすると、単純に計算して1年間に7万部強という人気である。

 その中で、老女は孫にこんな言葉を語る--

「人の注目を集めることは、その人を幸福にするでしょうか」
「精神力っていうのは、正しい方向をきちんとキャッチするアンテナをしっかりと立てて、身体(からだ)と心がそれをしっかり受け止めるていう感じですね」
「死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。きっとどんなにか楽になれてうれしいんじゃないかしら」
「魂は身体をもつことによってしか物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです」

 これだけ取り出して並べると、何となく宗教臭く聞こえるかもしれない。が、これらが語られる合間には、祖母と孫はニワトリの世話をしたり、野イチゴのジャムを作ったり、シーツの洗濯をしたり、作物を収穫したりして、中学生の孫は実生活の大変さと面白さを学んでいく。だから、そんな“臭み”は感じられない。これはもちろん、著者、梨木香歩氏の文章の構成力と表現の自然さにある。また、物語が、八ヶ岳山麓の森の中という“非日常”の中で展開されることにもよるのだろう。生長の家では今、「技能と芸術的感覚を生かす」ことが勧められているが、同じメッセージでも、それをどう表現するかで大いに違いが出てくるものだと感心させられた。

 ところで、この作品では“西の魔女”役のサチ・パーカー氏(Sachi Parker)が、折り目正しい日本語を明瞭に話しているのが印象的だった。彼女は個性派女優、シャーリー・マクレーンの娘で、父親はスティーブ・パーカーという映画製作者。日本好きの両親のおかげで2~12歳まで日本で暮らしていたそうだ。が、今回のセリフは難しかった、とこの映画のプログラムの中で言っている。同じプログラムのインタビューでは、彼女は次のように言っている--「私は、人生のネガティブなところに、重点を置きません。その時間があっても長く続かないように心がけています。愛するものたちに、感じたものをそのままコミュニケートするのです」。何となく日時計主義のように聞こえる。また、原作の小説にもそんな記述がいくつか見られるから、興味をもった読者には一読をお勧めする。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月24日

ガイコツの踊り

(ある暑い夏の夕、托鉢を終えた良寛和尚が町はずれの木蔭まで歩いてきて、岩の上にゆっくりと腰を下ろす。)

和尚--どっこいしょ…っと。ああ、くたびれた。トメ婆さんも、玄爺さんも、なかなか分かってくれんようじゃ。(と言いながら、キセルを取り出して煙草に火を点ける。キセルから煙草を大きく吸い込み、煙を吹き出しながら…)
和尚--ふぅーー。トメ婆さんは、嫁のノロマが我慢できんというがねぇ、嫁さんはあれでよくやっとるよ。ただちょっと、頭の回りが遅いだけでね。「注意深い」と言ってもいい…。毎日ヤンヤ言われていたら、注意深くなるものさ。トメ婆さんは、息子に嫁が来てくれた縁で“ノロマの嫁”との問題が出てきたのだから、それがイヤなら別れるまでさ。ところが婆さんは、「嫁のノロマが治ればいい」と言ってきかん。ノロマはのんびりしていて、いいものだよ…。(と言いながら、ゆっくりと煙草をもう一服する。)
(良寛の腰かけている岩の陰から、カメが1匹出てくる。それを見つけて…)
和尚--おおおお、のんびりカメさんのお出ましだ。(と言って、腰を上げてカメの傍に行き、脇にしゃがみ込む。カメは驚いて、頭や手足を甲羅の中にしまい込む。)
和尚--ほほほほ……驚かせちゃったね。甲羅の中にお隠れだ。では、待つとしよう。
(良寛はカメから少し離れて、しゃがんだ姿勢のまま腕組みをする。そして時々、煙草を吸う。)
和尚--ウサギは、これが我慢できなかったね。自分の尺度で相手を見るから……こんなノロマとつき合っていられないってね。
(カメはゆっくりと手足を伸ばし、頭をもたげて良寛を見る)
和尚--やあカメさん、今晩は。これからお食事ですかな?
(カメは、またノソノソと歩きだす。)
和尚--では、ご一緒しましょうか。(と言いながら、カメの歩く方向へ横へにじっていく。)
(しばらく行くと、カメは草叢へ入っていく。良寛は見送る。)
和尚--ああ、カメさんいってらっしゃい。どうかおいしい食事にありつけますように…。(と合掌する。)
(目を開いた時、草叢の中に何かを見つける。)
和尚--はて、あれは何か? 人の着物のようだが……。(と言いながら、草叢へ足を踏み入れる。)
和尚--おお、人が倒れておる。もしもし、大丈夫ですか? どこか具合が悪…(と言って黙る。)
(良寛が草叢から跳び出してくる。)
和尚--おお、何ということだ。死んでから相当日がたっておる。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…(と言いながら、草叢に向き直って合掌する。やがて、その場に正座して経文を唱える。)
(経文を唱え終ると、草叢に向かって深々と一礼し、立ち上がる。)
和尚--何か知らぬが深い縁で、私はこの御人と会うことができた。それをカメが導いてくれた。そのカメに会うために、私はあの岩の上に座ったのだ。岩までたどりつく前には、トメ婆さんと玄爺さんと話し込んでいた。爺さんの家からこちらへ向ったのは、一羽のトビが空で円を描きながら、この方向を示してくれたからだ。爺さんの家に托鉢で訪れたのは、朝の祈りの中でこの老夫婦を思い出したから。つまり、御仏の導きだ。すべての縁が、渾然一体となって私を導いてくれる。これが人の生というものだ。ありがたい、ありがたい…。すべてのものが御仏の使いなり。悉皆成仏、悉皆成仏…。
(良寛は、一度腰かけていた岩のところへもどり、再び腰を下ろす。)
和尚--今年はあいにく飢饉が続いて、大勢の人たちが亡くなったが、この御人は貧しい服装ではないから、追剥ぎにでも襲われたのだろう。さぞ無念だったろう。しかし、たとえ短い命であっても、「この世に生まれる」という最初の縁があったことで、大勢の人々、数限りない物事との縁が次々と生まれ、それぞれの縁が御仏の導きを多くの形で示してくださっていたはずじゃ。この御人が、それに気がついてくれればよいのぉ。富は悟りの因にあらず。長命は悟りの因にあらず……悉皆成仏、悉皆成仏。(と再び合掌する。)
(その時、一陣の風が辺りを駆け抜けたかと思うと、草叢から骸骨が起き上がって、良寛の前で手を打ちながら踊り始める。)
骸骨--シッカイジョウブツ、シッカイジョウブツ……。(その声の主は、初めは一人であるが、しだいに数が増えてくる。)
和尚--おお、何とありがたいことか。御人は気づいてくださったぞ。
(良寛が周囲を見回すと、あちこちからも骸骨が立ち上がってきて、同じように手を打って踊り出す。)
骸骨たち--シッカイジョウブツ、シッカイジョウブツ……。
(良寛も、骸骨たちに合わせて踊り出す。)

 谷口 雅宣

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2008年6月23日

ガイコツはなぜ踊る?

 
 昨日は富山教区での生長の家講習会の終了後、富山県水墨美術館で行われていた「良寛展」を見に行った。時間に余裕がなかったのが残念だったが、それでも、良寛禅師の飄々とした自由自在の性格と思想を伝える墨跡の数々に接して、1日の仕事の緊張感を解き、昂る気持を鎮めるとともに、安らかな締めくくりをすることができた。
 
 良寛の漢詩の中に、こういう内容のがある(自由訳)--
 
 物事は縁から生じるが、縁から生じたものは、縁が尽きると消滅する。尽きた縁が何から生じたかと考えれば、その前の縁から生じるのだ。その前の縁も前の前の縁から生じるのだから、これらを遡っていけば最初の縁にゆきつくはずだ。しかし、この最初の縁が何から生じるかとの疑問に到ったとき、最初の縁の前には何もないのだから、すべてのものが消滅してしまう。この話を、東に住む婆さんにしてみたが、婆さんは不快な顔をした。西に住む爺さんに話したら、眉をひそめられた。そこで、この話を餅に書いて犬に食べさせたら、犬さえ嫌って食べなかった。だから、この話はよくない考えなのかもしれない。そこで、この話の中の縁と何とを、また生まれるとか滅するとかを一つにまとめて皆、野原に転がっている骸骨にくれてやった。すると、骸骨はそこらじゅうから次々に起き上がって来て、私のために歌を唄い、踊りはじめたのである。(後略)

 私は、昨日の講習会では「因果の法則」についても触れたのだった。因果の法則とは、「物事はすべて、何かを原因とする結果である」と表現することができる。人間は知性によって因果の法則を知り、それを利用することで自己の目的を達成することができる。因果の法則を知り、それを利用できる者は力を増大する。これは、科学の発達によって人間の力が拡大してきた歴史を振り返れば、明らかなことである。科学とは結局、因果の法則を知るための方法である。

「縁」とは「助因」であり、ある結果を生じるに必要な補助的原因である。土を入れた植木鉢に種を植えれば、種はやがて発芽して芽を出し、双葉を開かせる。この時、植物の種が「因」であり、双葉は「果」として考えられる。種から芽が出るためには、土(栄養素)ばかりでなく、一定の温度と湿り気が必要である。これらが「縁」と言われるものだ。上の良寛の詩では、「縁」を「因」としてとらえているように見える。つまり、「植木鉢に入った土があるから、新芽が出るのである」ということだ。土もなく、湿り気もなく、「種」だけがあるのでは発芽する機会はないだろうから、通常の場合はこの理解でいいのかもしれない。が、「発芽」の本当の原因は「種」であるから、「縁」を「因」と誤解していると妙な信仰に陥ることがある--自分は、この神社のこの御神籤を引いて、それに従って行動したら、こんな幸運を得た。だから、この御神籤が幸運をもたらしたのである!--本当にそうだろうか? よろしく脚下照顧すべし。

 谷口 雅宣

 

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2008年6月22日

“神の試練”とは?

 今日、富山市で行われた生長の家の講習会で、私は、生長の家では神を「試練」や「天罰」を与える存在として捉えないという話をした。これは、テキストとして使った谷口雅春先生の『新版 幸福生活論』(2008年、日本教文社刊)に、次のような記述があるのを引用したときだった--
 
「吾々は意識に於いては善なる大生命と調和して生活し、働き、想念し得ると共に又反対することも出来るのです。実相に於いては如何にともあれ、若(も)し吾々の意識が神の意識に対して反抗的に働くならば吾々の生活には凡(あら)ゆる方面に於いて不調和が生ぜざるを得ないのです。このとき所謂(いわゆる)“試練”とか、“神の鞭(むち)”とか、“神の怒”とか云う状態があらわれ、吾等は試みられ、籾摺機(もみすりき)にかけられたる穀物のように篩(ふるい)別けられるのです」。(p. 53)

 この文章は、サラッと読み飛ばしてしまうと、まるで神は“鞭”を振るったり、“怒”ったりしながら、人間に“試練”を与える、と説いているように感じられる。が、注意して読むと、そのまったく逆のことが説かれていることが分かる。この点を明確にしたかったのである。ポイントは「所謂」という言葉だ。この言葉は、「世に言うところの」という意味で、「一般にはこう言われているが……本当は違う」という反語的な意味にも使われる。ここでは、まさにその反語的意味で「所謂」は使われている。そのことを示しているは、この文に先立つ次の一文である--
 
「吾々の生命の流れが、善ひとすじの大生命の流れから分離する、その時、悪と見ゆる状態があらわれて来るに過ぎません。吾々は実相に於いては決して大生命と分離出来ない、併(しか)し吾々の意識の中(うち)に大生命との交通を中断させる如き念が起るとき、三界は唯心の所現であるから、神から見放されたような不幸な状態があらわれるのです」。

 谷口雅春先生は、結局ここでは人間の“自由意思”の問題を説かれているのである。人間には“意思の自由”があるから、実相に於いては神の子の善性を宿しながらも、現象としての個人の意識、集団の意識の部分で「大生命との交通を中断させる如き念が起る」ことがあり、その念にしたがって行動した場合は、現象に於いて「神から見放されたような不幸な状態」が起こるということである。神は彼を本当に「見放す」のではなく、「見放されたように見える」状態が現れるのである。この違いは重要である。「見放す」という行為は、神が人間に対して行うのではなく、人間が“意思の自由”によって、自己の真性であるところの“神の子”を一時的(現象的)に見放すのであり、その結果、実相に於いては大生命と一体でありながら、「善ひとすじの大生命の流れから分離する」ような現象が現れる、ということである。
 
 これは、実相と現象の関係をきちんと理解していない者にとっては、理解がなかなか難しいかもしれない。だから、もっと一般的な宗教にあっては、「神の怒り」「天罰」「試練」「神のムチ」「閻魔大王」などという言葉を使って、我々人間がこの世で行う“意思の自由”の行使を常に見張っている、強大で恐ろしい力の存在を説くのである。一般庶民にはその方が分かりやすく、また効果的な場合もあったからである。しかし、科学的知識の普及と個人の意識の向上が進んだ現代では、その効果はしだいに薄れつつあると言えよう。

 神は、他の生物とは異なった“意思の自由”をもった存在として人間を創造することで、他の生物には不可能な目的を達成しようとされている。その目的とは「善」の実現である。自由のないところには善も悪もない。“悪”とは、“意思の自由”の誤用によって現象的に起こる「神から見放されたような不幸な状態」のことである。本当に「神から見放された」のではなく、自分が“自己の真性”を見放した結果である。悪現象が起こったときは、だから、自己の真性の自覚を深める神想観が大切なのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年6月20日

「ふと思いつく」こと (2)

「高級神霊の導きを受ける祈り」には、こうある--「ふと思いつかせる神秘者は、人間の脳髄の中には居ないのである。それは霊界から何らかの霊がわれわれに霊波を送って来てふと思いつかせるのである」。

 これを読むと、「A」という人がふと思いつくことは、それとは全く別の人格をもった「X」とか「Y」などの“霊界の人”からの通信による、と解釈されやすい。しかし、同じ祈りの別の箇所では、「放送霊波に波長が合うときアイディアを感受する」という考え方が明確に述べられているから、AがXからアイディアを感受する時、両者は「全く別」ということではないのである。我々の通常の人間関係でも、「気が合う人」と「気が合わない人」がいる。これは、ものの考え方、感じ方、興味の対象、嗜好、趣味……などで、互いに共通点が多いのが前者であり、少ないのが後者である。AとXが前者の関係にあるとき(つまり、気が合う友人同士であるとき)、AとXは同一の人格ではないが、かといって「全く別」の人格でもない。だからこそ、XのアイディアをAが喜んで採用することになるのである。

 ここのところは見逃しやすい点かもしれない。「Xの放送霊波をAが受信する」と表現すると、Aはもっぱら受身の立場で、Xの放送霊波を一方的に受けて、Xの思うままになるというような隷属関係を思い浮かべやすい。しかし、このように、一方が他方を“操縦する”と考えるのは間違いである。そうではなく、Xのアイディアを受け取るAは、自ら選んでXと同じ“波長”になるのである。これがあって初めて、Xからの通信を受けることができる。だから両者は「操縦・被操縦」の関係ではない。むしろ、トランシーバーで会話をするときのように、対等に近い関係である。両者のトランシーバーが同一波長に設定されれば、「X→A」の通信だけでなく、「A→X」の通信もできるのである。この時、両者のもつトランシーバーは「全く別」とは言えない。それらは「同一」ではないが、少なくとも「同波長」であり「同型」である。
 
 この辺りの関係を、谷口雅春先生は『新版 幸福生活論』(2008年、日本教文社)の中で、次のように説明されている--

「“フト”思いつくと云うのは決して“偶然”ではないのであります。“フト”と云うのは心理学的に云うならば、“潜在意識”の世界であります。心霊学的に云いますと、これを守護霊(guardian angel)の導きと云うのです」。(p.76)

 心理学で「潜在意識」という場合は普通、ユングのいう「集合的無意識」(collective unconscious)も含まれる。とすると、「ふと思いつく」という現象は、個人の意識に対して集合的無意識が働きかける場合を含むことになる。これは、私たちが絵を描いたり、写真を撮ったり、詩作したり、作曲したり、工業デザインを制作するときに普通に起こることだ。ある森の一画を無性に絵に描きたくなったり、ある町角がどうしても写真に撮りたくなったり、歩行中に詩の言葉が浮かんできたり、曲の一部が脳裏に流れたり、あるタイトルの本を書店の本棚から取り出したくなったり……そんな経験はごく日常的にあるもので、いわゆる“心霊現象”ではない。

 こういう角度から見れば、私たちの霊界との関係は日々当り前に起こっていることになり、異常現象や超常現象などではないことが理解されるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月19日

「ふと思いつく」こと

 前回の本欄で言及した「高級神霊の導きを受ける祈り」を読んだ読者は気づかれたと思うが、ここには私たちの日常生活にしばしば現れる“重要な選択”の秘密が書かれている。この祈りから引用すれば、“重要な選択”とは例えば次のようなものである--
 
「人間の運命は“ふと思いつくことを行動する”ことによって、おのずから結果が展開して行くのである。ある人は、良きアイディアを“ふと思いつく”ことによって、それを行動に移して大成功したが、ある人は“ふと思いつく”ことを実行したために大火災を起こして大変な損失を蒙(こうむ)ったのである。ある人は、“この自動車で鎌倉へ行こう”とみずからタクシーを呼び留めてそれに乗ったために、その自動車がトラックと正面衝突して重症を蒙ったのである。(中略)まことに“ふと思いつく”ということで大抵、人の日常生活は行なわれ、その人自身の運命を決定しつつあるのである」。(『続 真理の吟唱』、pp. 193-194)

 私たちの日常生活は、限りない数の選択の連続によって進んでいくが、不思議なことに、私たちは普段、そのことをあまり意識していない。そして往々にして、1日の終りに「変化のない単調な日だった」などという感想を抱くのである。そんな時、私たちは“単調な日”という何か一定した客観的なものを、外から与えられたような印象を受けているのだが、本当は、限りない数の選択を「無意識に任せて行っている」に過ぎない。私は『太陽はいつも輝いている』(2008年、生長の家刊)で、「自動運転」(automatic pilot)という言葉を使ってそのことに言及している(pp.66-72)。長距離をいく航空機や船舶には、コンピュータで制御した“自動運転”のモードがあるというが、それと同じように、私たちは1日の始まりに当たって、「いつもと同じ」「従来通り」「繰り返しの」などという無意識モードに自分の心を設定して、“変化のない単調な日”を自ら作り出していると言える。
 
 だから、「新鮮な日」「人生で1回きりの日」「新たな出発の日」などをつくるためには、この自動運転の“眠った心”を目覚めさせ、人生の主体者として自らが日々の選択に積極的に関与していく必要がある。その時に重要なのが、この「ふと思いつく」ことである。これは能動的な表現であるが、受動的に表現すれば「アイディアを感受する」ことである。ただし、前回も触れたように、感受するアイディアには善いものと悪いものがある。では、“悪いアイディア”を避け“善いアイディア”を感受するにはどうしたらいいのか? 上掲の祈りには、次のようにある--

「人は往々にして物質的欲望や、肉体の快楽追求の欲望に心の波長を狂わせて、自分の心の波長が正守護神や特命守護神の放送霊波に波長が合わなくなり、守護指導のアイディアを感受し得なくなることがある。そのとき迷える亡霊や怨霊の如きものの放送霊波を感受して、それをみずからの“思いつき”として行動して失敗するのである。その失敗を避けるためには、人は毎日、必ず神想観を実修して自己の心の波長を正しく調律し、神より遣わされたる高級守護霊の導きのみを感受し得る正しき“心の状態”に維持することが必要なのである」。(pp. 196-197)

 日々、神想観を実修することの大切さが、再確認される。それとともに、私たちが日常的に接する様々な情報が、私たちの運命をどう形成していくかも理解されるのである。つまり、「情報の選択」は「運命の選択」に結びつく人生の重要事項なのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月17日

“良いアイディア”を得て前進しよう

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山で「谷口雅春大聖師二十三年祭」が執り行われ、私は玉串を霊前に捧げ、お参りしてくださった854名の参列者の方々に、大略以下のように挨拶申し上げた。

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 皆さん、本日は谷口雅春大聖師の二十三年祭にこのように大勢お参りくださいまして、誠にありがとうございました。
 
 今日はあいにくの雨かと思っていましたが、朝から降っていた雨がお祭の前には上がってしまいました。誠に有り難いことであります。梅雨の時期に雨が降るのは当り前で、ありがたいのであります。世界では各所に気候変動の兆候が表れてきていることは、ご存じのことと思います。ミヤンマーではサイクロンの被害で何十万人もが家を失い、アメリカでは今、西部が旱魃で、中部は豪雨から来る洪水に見舞われているそうです。気候変動以外に大地震もありました。中国の四川地方の大地震については、生長の家ではミヤンマーの救援と並行して救援募金を行っています。また、つい数日前の14日の朝に、日本では岩手・宮城内陸部地震が発生しました。地震の方は人間の活動が引き起こしたものとは言えないと思いますが、気候変動は我々の活動により大気中の温室効果ガスが増えた結果だと言われています。
 
 この世界では、このように因果の法則が働いています。原因がなくて、ある結果は生じないということです。地球温暖化にも原因があり、地震にも原因があります。地殻の断層がずれる時に地震が起こることが分かっています。ですから、悪い原因をつくらず、良い原因を生み出していくことでこの世界は改善するということを、世界の多くの宗教が説いてきました。これは、私たちの“心の中”の出来事にも、“心の外”の出来事にも言えるのであります。生長の家では、いま“自然とともに伸びる運動”というのを展開中でありますから、自然環境に対しても私たちの心の内外に“悪い原因”をできるだけつくらないよう、運動に工夫をしているところであります。
 
 ところで、私たち人間は「自由意思」という貴重な宝を神様からいただいています。日本は自由主義の社会でありますから、私たちは日常生活の細部にわたって自由な選択をして生きている、と多くの人は考えているようであります。しかし、自由というものは反面、煩わしいものであります。どこかにも書きましたが、私たちは食堂のメニューを見ても迷うのであります。だから、人生に起きるすべてのことを、私たちはそのつど自由に決めているわけではないのです。すべての選択肢を事前に考えつき、それの長所・短所を考えたうえで、自由に選択して行動するなどということは、ほとんどありません。そんなことをしていたら、忙しい日常生活が正常に動いていきません。それよりも、反射的に物事を判断したり、1度決めたことを繰り返して実行するのです。そういう小さな繰返しを組み合わせて、大きな生活パターンを作り上げ、そのパターンに合わせて自動的に行動することの方が圧倒的に多いと言えます。別の言葉で言えば、「従来通り」とか「いつものように」とか「慣れた方法で」という生き方を採用することになります。これは選択しているようですが、本当は“自由な選択”とは言えず、自らの自由を極力狭めた一種の“自動運転”の生活をしているのです。
 
 これを、宗教的には“業”と言います。普通の言葉では「ライフスタイル」と言うこともあります。現在の人類が直面している地球環境問題は、「化石燃料をどんどん燃やして物質を消費する」というライフスタイル(業)から生まれたものですから、これを変えない限り、因果の法則によって今の温暖化傾向はどんどん続いていくでしょう。“自然とともに伸びる運動”を実現するためには、このライフスタイル(業)から脱却しなければなりません。私たちの運動にも、このライフスタイルから生まれた行事や伝道方法、人間関係のもち方などが沢山含まれています。ですから、「従来通り」とか「いつものように」とか「慣れた方法で」運動をしているだけでは、“自然とともに伸びる”という目的は達成されないのです。だから、ここで大いに「選択の自由」を行使する必要があります。“悪い原因”をできるだけつくらないような選択肢を数多く考え出し、そこから最もよいものを選択する時期に来ているのです。だから、新しいアイディアが必要です。悪業を繰り返さない、良いアイディアが必要です。
 
 “良いアイディア”とは、いったいどこから来るのでしょうか? これは皆さん一人一人の心から来るのです。もっと正確に言えば、“良いアイディア”は、皆さん一人一人の心を媒介として、神さまからやって来るのです。神の創造された実相世界にある無限の善なるアイディアを、私たちが心を澄まして受け取るのです。これに対して“悪いアイディア”というものが訪れることがあります。この間、東京の秋葉原で人殺しをしてやろうと考えて、それを実行した人がいますが、そういう“悪いアイディア”も人に受信されることがある。その辺の事情を、谷口雅春先生は『続真理の吟唱』の「高級神霊の導きを受ける祈り」の中で説かれているので、今日はそれを紹介して、今後の私たちの生活と運動の指針にしたいと思います:

 (「高級神霊の導きを受ける祈り」の一部を朗読)
 
 --このように書かれていまして、私たちが「ふと思いつく」という場合も、それは自分のアイディアであるかどうか分らないという点を心に留めておいてください。その時の私たちの心境の違いによって、私たちを善の方向に導く思いつきもあれば、悪の方向に陥れる思いつきもあるのです。「親和の法則」は、霊的にも作用するということです。

 皆さま方は、団体参拝練成会に参加されて、この自然豊かな環境と真理が天下る神聖な雰囲気の中で数日を過ごされました。ですから、練成会が終って日常生活にもどられても、ぜひこの心境を忘れないように、しっかりと神想観の実修を継続されて、「善きアイディア」を受信し、それをお仕事に、生活に、そして21世紀の人類が進むべき“自然にとともに伸びる”新しい運動の開発に向けて展開していっていただきたいと思います。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月16日

“後ろの目”をどうする?

 だいぶ前の本欄で、私がアイポッドを使い出した話を書いた。正確に言えば、それは2006年12月27日の本欄で、「ながら族へ転向?」という題のものだ。しかし最近では、私はアイポッドをあまり使っていない。理由は、大きく分けて2つある。1つは、パソコンを換えたこと。もう1つは、やはり私は“ながら族”のライフスタイルに馴染めないからだ。

 アイポッドは、自分で使うパソコンの内容と“同期”させて使う。この意味は、パソコンの特定のフォルダー上にあるファイルと、アイポッド内のファイルとは正確に対応している必要がある、ということだ。これによって、パソコン上で加除されたファイルが自動的にアイポッド上にも反映される。私は当初、この機能は「使いやすい」と感じていた。ところが、パソコンを新しくすると、新しいパソコンに古いパソコンのファイルを全部複写しておかないと、アイポッド上のファイルが自動的に入れ替わってしまう。これは実に「使いにくい」のである。もう1つ不便なのは、妻がアイポッドをもらったので、その中に私のパソコンの音楽ファイルから選んで複写しようと考えたが、これが事実上不可能なのである。理由は、上に書いたように、PCとアイポッドは“同期”が原則だからだ。しかも、1つのアイポッドに対して同期できるのは、特定のパソコン1台きりだ。別のパソコンから好きなファイルだけ選んで複写することは、(不可能でないとしても)非常に面倒くさいのである。
 
 “ながら族”が好きになれない理由は、拙著『日時計主義とは何か?』か『太陽はいつも輝いている』を読んでくださった読者なら、簡単に想像がつくだろう。イヤフォンを両耳に挿して街を歩くことは、少なくともその時間帯は、“感覚優先”の世界を拒否することになるのだ。音楽を聴くことは“感覚優先”であることは事実だが、その代わり、聴いている音楽以外の音は耳から入りにくいから、外界で起こる出来事に対する“現実感”が大分薄らいでしまう。別の言い方をすれば、肉体のもつ五感のうち聴覚だけが別のものに向いているから、心の中で他の感覚との間で注意の奪い合いが起こるのである。そして、「考えごとをしながら街を歩いている」のと似た結果になる。つまり、「心ここに有らざる」状態だから、私の言う“感覚優先”の生き方とは全く異なるのである。空の青さ、風のさわやかさ、道端の花の美しさ、すれ違う人々の表情、新しい店飾り……などに、この状態では気がつくことができない。
 
 今日の『産経新聞』には、もっと危ない話も載っていた。それは、人間が歩行中などに普通に使っている“後ろの目”が、イヤフォンで音楽を聴いている人には使えない、という話だ。いわゆる“後ろの気配”を私たちが感じるのは、聴覚によるらしいが、イヤフォンから来る音を聴いている人には、それが感じられない。同じことは、携帯電話で話している人にも言える。意識が片耳から来る音に集中しているからだ。だから、道路を歩いていて突然、ケータイを耳に当てながら立ち止まる人がいて、私もぶつかりそうになったことがある。こういう人々は、歩道を猛スピードで走る自転車にぶつかる確率も、ぐんと増えるに違いない。さらに物騒なのは、さいたま市では、イヤフォンをして歩く女性ばかりを後ろから狙ったひったくり事件があり、今月4日に少年が逮捕されたという。さらに想像すれば、秋葉原での通り魔事件で刺された人のうち、イヤフォンで聴いていたり、ケータイを使っていた人の割合はどのくらいか、が気になる。
 
 日時計主義を標榜する私が、あまり暗い想像をしてはいけないが、“文明の利器”と言われるものも、使い方を間違えば不幸の原因になるのである。上記の通り魔事件の容疑者は、自分が“ケータイ中毒”であることを認めている。機械は「使うもの」であり、「使われるもの」ではないのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月15日

父の日に感謝する

 今日は「父の日」であるから、父に感謝の思いを表すために贈り物をした。とはいっても、読者もご存じのように、私の父はまったく欲のない人であるとともに、自分の必要なものは自分で買うし、すでに何でももっている。だから、私たちのこれまでの選択は、夏物のシャツやパジャマ、父が好きなクラッシック音楽や落語CDなどだった。が、近ごろはそういうものも揃ってしまったので、今年は別のものを考えた。それは、最近ブラジルで出版されたポルトガル語版の拙著『日々の祈り』(Oracoes Diarias: Pela Grande Harmonia entre Deus, a Natureza e o Ser Humano)である。ポルトガル語は父も私も読めないから、贈り物として意味がないかとも考えたが、この本がブラジルでも読まれるようになることを父に知ってほしかったのである。その旨を本の扉に書き、朝の挨拶の時に父に手渡した。父はベッドの上で仰向けになったまま、両手を天井に向けて突き出した格好で本を眺め、ページを開いて文字の上に目を走らせていた。父は英語は読めるから、ポ語の単語でもその意味をある程度推測できるのだろう。
 
Etegm0805152  実は、私はこの本の装丁が気に入っている。表紙は黄土色で革のような重厚感があり、背の部分が焦げ茶に切り替えてある。一見すると革表紙で背が布貼り風だ。その感じを、紙に印刷するだけでよく出している。表紙の文字は金箔押しで高級感がある。大きさは、日本の新書判より幅がわずかに広いだけで、手によくなじむ。ブラジルの人々に大いに利用していただければ幸甚である。
 
 夕食は、久々に3人の子どもが自宅に集まり、妻の手料理で家族パーティーとなった。家族5人での食事は、半年ぶりである。大いに会話がはずみ、料理はどんどんなくなった。一段落して、デザートの時間になると、今度は私が子どもたちから贈り物をもらった。Efuto080615 麻のシャツと手帳サイズのスケッチブックである。また、長男はバリ島に行ってきたということで、お土産としてネコの形をした木製の置物をもらった。このネコは緑色で、大・中・小の相似形の3匹が1セットになっている。その顔を見て、私は驚いた。以前、私が国内で買ったネコの置物と同じ顔をしていたからだ。顔は同じだが、格好がうんと違った。以前からのものは、大人しく座った形だが、今回のネコは前足を前方に突き出し、尻を上げて伸びをしている。なかなか愉快な格好なので、絵封筒のデザインに拝借した。
 
 天気もよく、清々しい夜の空気の中、楽しくありがたい一日が終ろうとしている。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月14日

地震、お見舞い申し上げます

 午前8時40分すぎには、私はたいていNHKの衛星第1放送にチャンネルを合わせ、海外ニュースを流しながら、新聞を読んでいる。今日もそうしていたら突然、音が変わって「緊急地震速報」なるものが流れたので、急いで画面を覗きこんだ。地震がどこに来るのか分からないから、緊張して身構えていたのである。が、関東地方ではなかった。マグニチュード7.2の地震が岩手県南内陸部を震源として起こり「岩手・宮城内陸地震」と名づけられた。昼のニュースでは、崩落した山や土砂に埋まった道路、押し潰された民家、崖から落ちたバスなどが画面に映し出され、死亡者、行方不明者も出た大きな被害であったことが分かった。亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げると共に、被災者の方々には、早急に援助の手が差し伸べられることを心から願うものである。

 岩手県は、つい1週間前に生長の家の講習会で訪れた地で、水沢、江刺、北上、花巻などのある北上盆地を新幹線で往復した。これらの地からも、会場となった盛岡まで沢山の人々が来て下さった。そういう人々は、どんな気持で地震を体験されたのか……私自身の新潟中越地震の体験を反芻しながら考えた。午後5時すぎに、岩手教区の矢野俊一・教化部長がメールで報告を下さった--「ご心配をおかけいたしました。特に震源地の奥州市を始め、周辺の北上市、一関市、花巻市等各地の主たる信徒、幹部に電話で確認をいたしましたが、食器等が壊れた等の被害はありましたが、建物、人的な被害は、現在のところございません。また盛岡の教化部も物が落ちることもなく、全く被害はありません」。宮城県の様子は分からないが、とりあえずは胸をなで下ろした。

 新聞情報によると、今回の地震は、昨年の新潟県中越沖地震、2004年の新潟県中越地震、1995年の阪神・淡路大地震などと同じタイプの「逆断層型の直下型地震」というのだそうだ。これは海底で起こる海溝型地震とは違い、太平洋プレートに東側から押される形で内陸部に圧力がかかって起こるものらしい。今日の『朝日新聞』夕刊によると、北上盆地に沿って南北に走る「北上低地西縁断層帯」が今回の地震と関係していて、政府の地震調査委員会は、この断層帯全体でM7.8の大地震が起こることは予測していたものの、30年以内の発生確率は「ほぼ0%」という評価だったという。また、『日本経済新聞』夕刊では、今回の地震の震源地は「北上低地西縁断層帯」より南にある「未知の活断層」が動いた可能性があると伝えている。だから地震がいつ起こるかは、現在の科学をもってしてもよく分からないのである。

 谷口 雅宣

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2008年6月13日

原宿を歩く

 今日の関東地方は梅雨の中休みの快晴で、気持のいい1日だった。アメリカでは、中部の諸州で豪雨が続き、川の氾濫で大勢の人々が家を失っている。これは農産物にも影響を及ぼし、「コーンベルト」と呼ばれるアイオワ州、イリノイ州などの中西部では、トウモロコシやダイズの植え付けが大幅に遅れただけでなく、洪水の被害が広がっているという。アメリカは世界最大のトウモロコシ生産国であり、輸出国でもある。これによって現在、値上がり中の穀物の値段がさらに上がる可能性もあり、世界の経済は予断を許さない。今日(6月13日)の『産経新聞』などが伝えている。
 
 幸いにも日本は、そのような大規模の洪水がまだ発生していない。今年の雨は数日降ったあとに、今日のように上がってくれる。そんな日に原宿の街を歩いた映像を動画にまとめてみた。今回の映像は「揺れる」のが気になる。これは、新しく入手した小型ビデオカメラを野球帽に装着して、歩きながらハンドフリーで撮ったからだ。考えてみれば、我々の目は、帽子と一緒に上下動を繰り返しながら世界を見ているのである。にもかかわらず、我々の歩行中の世界は、こんなに揺れ動かない。その理由は、恐らく我々の脳が網膜上で揺れ動く像を修正しつつ、世界を安定化しているからだ。何という優れものか、と改めて思う。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月12日

CO2を作らない技術を

 6月10日の本欄では、G8を含む11カ国のエネルギー相の会合で、CO2の地下貯留について、「G8が2010年までに20件の大規模案件に着手することで合意した」ことを伝えた。この際、私はこの技術への疑念を表明した。私はすでに、2005年12月14日2007年2月4日の本欄でも、この技術への不安を吐露していたが、最近、天然ガス田の試掘によって実際に火山が爆発したとする研究が発表されたことを知り、私の不安が杞憂でないことを確認した。6月11日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が、それを伝えている。

 それによると最近、『Earth and Planetary Science Letters』(地球と惑星科学通信)という科学誌に載った英・米・豪とインドネシアの研究チームの論文では、2006年5月、インドネシアのジャワ島で噴火し、現在も熱い泥を流し続けている火山「ルーシー」は、ラピンド・ブランタス社によるガス田試掘によって噴火した可能性が高いと結論している。この噴火によって、付近に住んでいた5万人を超える住民は避難生活を送っているという。論文執筆者の1人であるイギリスのダーハム大学(Durham University)のリチャード・ダヴィース教授(Richard Davies)は、「ルーシー山の噴火は自然災害ではなく、バンジャー・パンジー1号ガス田を掘ることによって生じた人災であると、これまでになく確実に言うことができる」としている。
 
 同教授はまた、噴火の前日、ガス田の井戸の中に大量の液体とガスが流入し、それによって井戸内の圧力が危険値を超えて上昇したことにより、井戸と岩盤から漏れた液体が地上に噴出し、それが地上の泥を巻き上げて火山が生まれた、としている。高圧の液体は周囲の岩盤にヒビを入れ、熱い泥が井戸の口からではなく、岩盤のヒビを伝わって地上へほとばしり出たのだという。
 
 試掘会社と一部の科学者はこれまで、ルーシー山の噴火の原因はその2日前、試掘場所から250キロ離れたところで起こったマグニチュード6.3のヨギャカルタ地震とその余震だとしていた。この地震では6千人が死に、150万人が家を失った。研究チームの一員であるカリフォルニア大学バークレー校のマイケル・マンガ氏(Michael Manga)と同校の大学院生、マリア・ブラム氏(Maria Brumm)はこの説を検証した結果、その規模の地震で250キロ先に泥火山を生み出すことはできないと結論したという。
 
 現在、一部で実行され、また考えられているCO2の地下貯留については、2005年5月15日の本欄に少し書いた。それをごく簡単に言うと、「石炭などを燃やして電気と水素、CO2を取り出し、そのうちCO2だけを地中深く埋める」という方法だ。その埋める場所は、「使われていない石炭層や古い油田、ガス田、あるいは塩水で満たされた多孔質の岩」などだ。この作業中に、今回のような事故が起こる可能性は否定できないし、それによって火山の噴火が誘発されなかったとしても、岩盤や井戸に亀裂が入り、CO2が漏れ出してしまえば元も子もなくなってしまう。次世代やその次の世代の人類のことを考えれば、「CO2を作って埋める」のではなく、「CO2を作らない」技術を開発すべきと思うのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月11日

イスラームの多様性 (3)

 6月8日の本欄では、日常の細部にわたる規定をもちながら中央集権的組織が存在しないイスラームが世界宗教になった理由を考察し、それは「教義に多様性があるからである」との仮説を提示した。これはあくまでも仮説であるから、事実と違う可能性はある。が、ここ数日、メディアで報道されているインドネシアのイスラーム組織「アフマディア(Ahmadiyah)」をめぐる紛争のことを知ると、この“教義の多様性”の問題が実際に存在していることが窺える。
 
 10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、インドネシア政府は2人の閣僚と法務長官名で、「すべてのアフマディア信徒はその活動をやめよ」との警告と命令を発し、それができない場合は最長で5年間収監されると通告した。このことがなぜイスラームの“教義の多様性”を示すかというと、イスラームではモハンマドを「最後の預言者」とする教義が、「神は唯一である」という教義と等しく基本的であるとされているからである。イスラームでは、旧約聖書に出てくるアブラハムも、モーセも、新約聖書のイエスも皆、預言者であり、神の言葉を伝えていると考える。しかし、それらの預言者の締めくくり(『コーラン』では「封印」という言葉が使われている)として、最終的な神のメッセージを伝えるのがモハンマドとされている。記事によると、アフマディアは、その重要な教義を変更して、自分たちの宗派の教祖を預言者として、また救世主として崇拝しているらしい。
 
 ここで気づいてほしいのは、その教義の内容が珍しいということではなく、イスラームの信仰の根幹に関わる重要な点を変更するような宗派が、これまで存在を許されてきたという事実である。アフマディアは、1889年にインドのプンジャブ地方で生まれ、教祖はミルザ・グーラム・アハマド(Mirza Ghulam Ahmad、1908年没)というらしい。現在、世界の190カ国に数百万人の信者を擁し、そのうち約20万人がインドネシアにいるという。もちろん、イスラームの2大宗派であるスンニ派とシーア派は、彼らをイスラームと認めないとしてきたが、アフマディア自身は『コーラン』の記述を引用して自分たちの正当性を主張し続けてきた。
 
 誤解がないように言っておくと、アフマディアはイスラームの中で自分たちの信仰を自由に享受してきたわけではない。ウィキペディアの記述によると、パキスタンは1974年に憲法改正までして、アフマディアをイスラームと認めない決定をしたという。具体的には、この改正により「モスレム」(イスラーム信者)を「預言者モハンマドの最終性を信じる人」と定義したということだ。また、バングラデッシュでは、アフマディアを公式に異端と決定せよという原理主義勢力の圧力が高まり、2004年には、アフマディアによるすべての出版が禁止されたという。その理由は、「国民の多数を占めるイスラーム信者の感情を傷つけ、あるいは傷つける恐れがあるから」という。このように、彼らは様々な形で“弾圧”を受けてきたが、それでも相当数の信者を擁しながら存続してきた。今回のインドネシア政府の決定は、この“イスラームの寛容性”が変化しつつあることを示すのかどうか--それが重要なポイントになるだろう。

 この問題に関してもう1つ重要なことは、インドネシアはいわゆる“イスラーム国家”ではないということだ。この国は、世界最大のイスラーム人口を抱えているとはいえ、キリスト教のカトリックとプロテスタント、ヒンドゥー教、そして仏教を、イスラームと共に“公認の宗教”とした上で、「信教の自由」を国是とする国である。にもかかわらず、イスラーム信仰者を自称する人々の一部の活動を禁止することは、憲法の精神に背く可能性が強い。だから、今回の政府の決定に対して、原理主義者を除く大多数の穏健なイスラーム信者は、戸惑いを隠せないでいるという。

 11日付の『ヘラルド・トリビューン』は、アフマディアの信者が多く住むマニス・ロール(Manis Lor)という町を取材し、おびえた様子の信者の姿を描いている。今回の政府の決定には、政治的意図があるというのが、同紙の分析だ。それは、インドネシアのユドヨノ大統領は来年に選挙を控えていて、自分の支持基盤の一つである保守的なイスラーム勢力の要求を無視できなくなっているからだ。そういう政治目的のために、大統領自身が国是を歪めていいのかどうか--インドネシア国民は今、論争の渦中にある。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
http://en.wikipedia.org/wiki/Ahmadiyah
○ "Ahmadiyya Muslim Community," http://www.alislam.org/introduction/

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2008年6月10日

“福田ビジョン”は遅れている (2)

 5月21日の本欄でこれと同じ題で書いたが、その時には“福田ビジョン”なるものが正式発表されていなかった。一部報道されていた情報をもとに論評したので、正確さを欠いた点は否めない。が、今日の新聞各紙は、この“福田ビジョン”を大きく、詳しく報道してくれた。9日、福田首相は日本記者クラブで「“低炭素社会・日本”をめざして」という題の講演を行い、それが首相の地球温暖化対策のための包括提案だというのである。『朝日新聞』は、その骨子を次の6項目にまとめている--
 
①温室効果ガス削減の長期目標は、2050年までに現状から60~80%減。
②2020年までに2005年比で14%の削減が可能。来年、日本の国別総量目標を発表。
③途上国支援の日米英基金に12億ドルを拠出。
④太陽光発電を2020年までに現状の10倍、30年には40倍に拡大。
⑤今秋、排出量取引の国内市場を試行。
⑥今秋、環境税を含め、税制全般を横断的に見直す。

 ①の長期目標は、すでに安倍前首相が発表した「クール・アース構想」にもとづき、温暖化に責任のある先進国の負担分を上乗せした数字だ。ただ、長期目標というのは現在の政権運営との関係が薄く、責任問題が生じないから“アドバルーン”としての意味しかない。重要なのは「中期目標」だが、それは②にあるように、発表できなかった。「2005年比で14%減」という数値は、経産省がはじいた楽観的な試算値であり、すでに発表ずみのものだ。③は、温暖化による被害救済のための基金のことだから、温暖化対策それ自体ではない。④は、今回新たに出てきた数値で歓迎できる。(後述)⑤も、新政策として歓迎しよう。しかし⑥は、「実施」ではなく「見直し」だから、やるのかやらないのか分からない。ということで、私としては「もっと言ってほしかった」と不満が残る。

 10日付の『日本経済新聞』には、やや詳しく“福田ビジョン”の要旨が載っている。それを読むと、首相の温暖化対策の重点手法が分かる。それは、「技術力」によって温室効果ガスの排出を極力抑えることを第1に考えている。2番目は、制度改革で排出権取引と環境税の実施だが、これには何か“様子見”のニュアンスが残っている。前者については「効果的なルールを提案するくらいの積極姿勢に転じるべきだ」と書いてあり、一体誰に向かって言っているのかと考えさせられる。一国の首相が本当にやる気ならば、「効果的なルールを提案する」だけでいいはずだ。業界の意向が気になるということか。後者については、上に書いたように、「見直し」にとどまっている。首相の重点手法の3番目と4番目は、全国から10程度の環境モデル都市を選び、支援することと、国民運動による意識改革だが、これらの効果は限定される。
 
 さて、問題は「技術力」の内容だが、これには新技術と従来技術が言及されていて、前者は「まだこの世に存在していない、温暖化ガスを生み出さない革新技術の開発」とあるから、何となく“夢物語”だ。そこで後者が重要になるのだが、ここには「太陽電池」「CO2の地下貯留」「原子力」「風力」「水力」「バイオマス」など、見なれた言葉が並んでいる。そして、これらをカバーする概念として「ゼロ・エミッション電源」という言葉を使い、これの国内での使用比率を50%以上に引き上げる、としている。何を「ゼロ・エミッション」と称するかは必ずしも明らかでないが、原発の増設も考えているようだから、にわかには賛成できない。
 
 実は、10日付の『産経』には、青森市で行われていたG8に中国、インド、韓国を加えたエネルギー相の会合で「青森宣言」なるものが採択され、そこには原発について「多くの国が気候変動緩和とエネルギー安全保障の達成手段として、関心を表明している」と明記され、集まった11カ国が「場合によっては国別推進目標や行動計画を策定することで合意した」と報じられている。何のことはない。原発の増設目標を各国で設定して推進することに、日本が音頭を取った形になっているのだ。また、CO2の地下貯留については、「G8が2010年までに20件の大規模案件に着手することでも合意した」のだそうだ。CO2の地下貯留とは、化石燃料(石炭や天然ガスが考えられている)を使って発電した後に、排出されたCO2を地下深くに埋め込む技術だ。原発が、放射性廃棄物を地下深くに埋め込むことで“クリーン・エネルギー”と称しているのと同じ発想だ。ここのところが、どうしても自民党の限界だと感じる。
 
 ただ、「太陽光発電世界一」の地位を奪還するとの表現には、大いに勇気づけられる。上記した「2020年までに現状の10倍、30年には40倍に拡大」するという目標は歓迎するが、首相の支持基盤の1つである電力会社との調整をどうやっていくのかが、気になるところだ。ドイツでは「1家庭あたり毎月500円のコストを負担している」ことをわざわざ書いているところを見ると、電力料金の一律値上げということなのだろうか。私は、それでもいいと思う。

 谷口 雅宣

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2008年6月 8日

イスラームの多様性 (2)

 本欄で「イスラーム法と理性」について書き継ぎ、さらに今「イスラームの多様性」について書いているのは、目的がある。それは、仏教や儒教やキリスト教など、我々日本人が親しんできた宗教と、イスラームとの1つの大きな違いを示したかったからだ。その違いとは、イスラームは基本的に「聖俗分離」(あるいは政教分離)のない宗教であり、信徒のあるべき姿が日常生活の細部に至るまで規定されている、ということだ。その一方で、イスラームは世界宗教であり、アラビア半島やイラン、トルコは言うに及ばず、ヨーロッパ、アフリカ、インド、パキスタン、東南アジア、ロシア、中国……にまで浸透している。ここに1つの大きな疑問が生じる--生活習慣や文化が異なる、このように多様な民族が、日常生活の細部まで規定する宗教を共通して信仰することが、どうして可能なのか? 私は、その答えは、前回も述べた「イスラームに教会組織がない」という、この宗教に特徴的な“平等主義”によるところが大きいのではないか、と考える。別の言い方をすれば、イスラームがもしカトリック教会のような中央集権的組織の構築を目指したとしたならば、今日あるような多様な民族間に、これだけ多くの信者を擁することはできなかったのではないか。

 もちろん、世界最大の宗教であるキリスト教には、中央集権的組織がある。が、その代表であるカトリック教会からはプロテスタントが跳び出し、さらにロシア正教、英国国教会が生まれた。アメリカ大陸に渡ったプロテスタントは、さらに分裂を繰り返している。しかし、キリスト教は聖俗分離の考え方を採用したから、日常生活の細部にまで宗教的義務や戒律の遵守を要求する宗派は少ない。その代わり、“聖”(教義)の分野については、それぞれの宗派が中央集権的な教義の判釈権を享受しているように見える。“俗”(日常生活)の分野においては、キリスト教は伝播地の習俗や文化を取り入れながら拡張したが、“聖”(教義)において統一性を保つことができたため、キリスト教としての同一性を失わなかった--そう考えることはできないか。

 “聖”と“俗”が密接につながったイスラームの場合、発祥地のアラビア半島から離れて勢力を拡大していくにつれて、伝播地の文化や習俗と触れ合うことが、(キリスト教とは異なり)教義の変容につながっていったと見ることができる。このことは、イスラーム最大の教典『コーラン』の説く内容が、いわゆる“メッカ期”と“メディナ期”の間で相当異なるという事実が有力に示している。また、これは、イスラームの2大宗派であるスンニ派とシーア派の考え方の違いにも表れていると言えよう。イスラームは世界宗教となるに伴い信仰の“内容”が多様化した。が、信仰の“外形”をそろえることでイスラームとしての同一性を保った--そういう分析ができないだろうか。

 もし上記のことが正しいならば、イスラームとキリスト教の“多様性”について、次のような結論が導き出せるかもしれない。もしキリスト教に“多様性”があるとしたら、それは基本的には伝播地の文化や習俗の多様性のことを言うのであって、教義の多様性ではない。しかし、イスラームの多様性とは基本的に“聖”(教義)の分野の多様性を言うのであって、“俗”(日常生活)の多様性はキリスト教ほど顕著ではない。このような視点を仮設してみると、2005年3月26日の本欄に書いた、国際宗教学宗教史会議世界大会での私の観察を、興味をもって振り返ることができるのである。私はこのとき、「戦争と平和をめぐるイスラムの視点」というセッションに出た感想を、次のように書いている--

 この3番目のセッションが一番興味深かった。というのは、イラン人の発表者は、「イスラムは人権を尊重し、男女平等を説き、理由のない暴力を許さない教えである」ということを、平坦な調子で原稿を読みながら延々と話した。そのあとでマレーシア人が「コーランはテロリズムを認めない」ことを機関銃のように話した。ブルネイ人もイスラムのいい所を話した。ディスカッションの時間になると、まずドイツ人が手を上げ「今日は学問的分析を聞きに来たのに、宗教講話を聞かされたのには驚いた」と皮肉った。部屋の最後部で手を上げたオーストラリア人は、「もし貴方がたの言うことが正しいなら、9・11のあと、イスラムの宗教指導者たちは、なぜ団結してテロ行為を否定しなかったか?」と質問した。バングラデッシュ人の女性も立ち上がり、「貴方がたは言っていることとやっていることが違う」と批判した。

 これに対してイスラム側の反論は……力がなかった。イラン人は「イスラムに多くの教派があり、教えの解釈も教派によって多様だ」と言った。ブルネイ人は、「西側のニュース報道は選択的で、一部の民衆が踊って喜んだことは事実だが、宗教指導者は皆、テロ行為をイスラムにもとると批判した」と言った。最後の方で、大きな白人(国籍不明)が立ち上がってこう聞いた--「イスラムの解釈にそんなに幅があるならば、宗教指導者は何のためにいるのか。民衆は、右から左にいたる大きな解釈の幅を利用して、その時々の感情に合ったイスラムを選択すればいいことにならないか?」--うん、確かにその通りだ、と私も思った。
 
 --教義に統一性のあるキリスト教側から見れば、イスラームの多様性は無原則、無秩序に見えるのである。しかし、イスラームの側から見れば、教義にそれだけ大きな幅が許されているから、多様な民族間にも同じ信仰が共有されてきたのである。どちらが優れているかは、そう簡単に判断できないような気がする。
 
 谷口 雅宣

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2008年6月 6日

イスラームの多様性

「イスラームに教会組織がない」ということは、仏教やキリスト教に親しんでいる我々日本の文化環境では不思議に思え、宗教としては何か無秩序で、一種の混乱状態にあるような印象を受ける。実際、本欄の読者の中にも、そういう感想を述べた人がいる。私も一時、そう考え、ローマ法王を頂点とするカトリック教会の組織のようなものが、イスラームの信仰者の間にできれば……と夢想したこともある。しかし、エジプトのイスラーム法学者、カリード・アブ・エルファドル氏の『And God Knows The Soldiers:The Authoritative and Authoritarian in Islamic Discourses』(そして、神は主の軍勢を知り給う--イスラームの議論における権威と権威主義)を読んでから、私は考えが少し変わってきた。今日の世界のイスラーム社会の多様性を考えたとき、この世界宗教に教会組織がないことが、この多様性を保障しているのではないか、と思うからである。

 上記した本のタイトルは、『コーラン』の第74章34節に出てくる次の言葉から取られている:

「このようにしてアッラーは誰でも御心のままに迷わせ、また御心のままに導き給う。主の軍勢が(どのくらいあるか)知っているのは御自身ばかり。結局はこれもただ人間どもへのお諭にすぎぬ」。(井筒俊彦訳)

『コーラン』のこの章には、地獄の劫火を守る番兵のことが触れられていて、それは「19の天使」だと書いてある。エルファドル氏は、これがなぜ「20」や「18」でなく「19」か不思議に思ったという。また、この数字の意味について、『コーラン』はわざわざ「その数は邪宗徒どもの跌(つまず)きの種にもとて特に我らの指定したもの」と書いてある。一方、モスレム以外の“啓典の民”はこの数字を見て「確信ができ」、モスレムは「ますます信仰を深くする」のだという。こういう“謎”めいた記述の後に、上に引用した文章が続くのである。読者に気づいてほしいのは、引用文にはもう「19」という数字は出て来ないで、「主の軍勢はわからない」と書いてあるのである。英語に訳すると「Only God can know God's soldiers.」となるらしい。

 井筒氏の日本語訳では「知っている」となっていて「現在の状態」を表しているから、「将来は人間にも分かる」という希望が持てる。が、この英語訳では「神のみが知ることができる」という可能性を表しているから、「過去・現在・未来にわたって人間には分からない」という意味になる。だから、エルファドル氏は、ここの章句は「誰が神の真の戦士であるかは、神以外知ることができない」という意味だと解釈し、神以外の者が、自分を“神の真の戦士”だと標榜することはできない、と述べている。人間は皆、神の御心を知り、それに従おうと最大限の努力をするが、結局、自分が“神の戦士”として認められたかどうかは、地獄の劫火の前に来るまでは分からないというのである。
 
 エルファドル氏は、この章句は“荘厳なる権威主義の否定”だというのである。前回書いたように、イスラームにおいては「聖職者」という職業はなく、小杉泰氏の言葉を借りれば「ひたすら一般信徒だけが存在して」いるから「神の前の平等」が徹底している。また、カトリック教会や英国国教会のような聖職者組織もない。組織を作れば、ローマ法王のように、その頂点に位置する権威者を設けねばならず、そうなると「神の前の平等」が崩れる。この原則は、『コーラン』第49章13節の言葉によく表されている--「まことに、神の御目から見て、汝らの中で最も高貴な者は、神を怖れること最も深き人である」。「誰も神の御心を体現できない」という上記の解釈は、この原則とも矛盾しないのである。
 
 このような平等主義を“裏側”から表現した言葉がある。それは「あらゆる法学者は正しい」という教えで、これはモハンマドの言葉として伝わっている。これに付随して、こんな話もある--もしある法学者の解釈が正しければ、彼または彼女は神から「2」の功績を認められるし、間違っていたら「1」の功績を認められる。エルファドル氏によると、この意味は、人は失敗を恐れずに法(真理)を求めなければならず、その結果、成功にも失敗にも褒賞が与えられるということだ。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○小杉泰著『イスラームとは何か--その宗教・社会・文化』(講談社現代新書、1994年)
○井筒俊彦著『イスラーム文化--その根柢にあるもの』(岩波文庫、1991年)

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2008年6月 4日

イスラーム法と理性 (3)

 前回、「イスラームには中心的権威がない」と書いたのは、「イスラームには宗教的権威がない」という意味では決してなく、「教会組織がない」という意味である。この場合の「教会組織」とは、カトリック教会におけるローマ法王のように、一人の宗教的権威をもつ人間の法解釈に、傘下のすべての聖職者組織や信者が従うというような、中央集権組織ではないということである。このことは、「イスラームにヴァチカンはない」という題でかつて本欄(2006年3月27日)で触れたことがある。イスラーム研究者の小杉泰氏は、イスラームにおける宗教指導者、ウラマーについて、次のように描いている--
 
「ウラマーは“アーリム”の複数形であるが、この言葉は“知識を持つ人”を指す。この知識とは、言うまでもなくイスラームの知識であるが、知識さえあれば誰でもアーリムとなる。ということは“宗教学者”は特定の位階や職業を指すわけではない」。(『イスラームとは何か』、p.148)

「つまり、知識の探求は、信仰に発する信徒の一般的な務めであり、(中略)信仰行為の一環であった。このことを言いかえると、信徒が勉強して、知識が十分得られれば“アーリム”(知者・学者)となるだけで、ほかには普通の信徒と何の違いもない。別な言い方をすれば、ひたすら一般信徒だけが存在して、その中で知識を持つ者が“知者・学者”として指導的な役割を担うにすぎない、とも言える」。(同書、pp.148-149)

 こう書いてあるからといって、普通の信徒が数年の勉強で権威あるウラマーになれるわけではない。なぜなら、井筒俊彦氏も言うように、「宗教研究の権威者ともなりますと、狭い意味での宗教や信仰に関することだけでなくて、社会問題、政治問題、法律問題、風俗問題、道徳問題など、人事百般について『コーラン』の名において判定を下すことのできる権威者」(p.48)でなければならないからだ。このようなウラマーの中でも特に学識や人徳に優れた--イランでは「アヤトーラー」(神の徴)と呼ばれるような--人物は、絶大な権力をもつことになる。
 
 井筒氏の説明を続けて聞こう--

「そういう権威者たちが自分自身の『コーラン』解釈に照して、ある『コーラン』解釈が許容範囲を逸脱していると認めれば、ただちに正規の法的手続きを踏んで、それに異端宣告をすることができる。というより、宣告をする義務がある。この点で、ウラマーの政治的権力は実に絶大なるものであります。なぜなら、いったん異端を宣告されたが最後、その人、あるいはそのグループは完全にイスラーム共同体から締め出されてしまう」。(pp.48-49)

 このようにして、イスラーム社会では教会組織が存在しなくても、教典の解釈を一定の範囲内に留めておくための社会的メカニズムは存在しているのである。しかし、その「一定の範囲内」に留まるのであれば、かなりの解釈の自由が許されていると見ることができる。なぜなら、イスラーム法のように、人生の万般に関わってくる規範や規則を、様々な文化圏の多くの人々に単一の解釈のもとに厳密に適用することなど、不可能と思われるからである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○小杉泰著『イスラームとは何か--その宗教・社会・文化』(講談社現代新書、1994年)
○井筒俊彦著『イスラーム文化--その根柢にあるもの』(岩波文庫、1991年)

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2008年6月 3日

イスラーム法と理性 (2)

 さて、これまでの本欄の記述を読んで、イスラーム法は「人の前で立つ」とか「リンゴを食べろ」などという日常生活の細部にわたって規制をかけるのか、と驚いた読者がいるかもしれない。我々のように儒教的倫理思想と西洋式法体系を兼備した社会に生きている人間にとっては、社会習慣、倫理・道徳、宗教それに法律は、互いに内容的には重なるところがあっても、概念としては明確に分かれている。ところがイスラーム社会では、これらが一体となってイスラーム法を形成していると考えていいだろう。井筒俊彦氏は、そのことを『イスラーム文化』の中で次のように描いている--
 
「イスラーム法を叙述した書物を開いてみますと、まず最初に出てくるのは、宗教的儀礼の規則、たとえば、メッカ巡礼のやり方とか、ラマダーン月の断食の仕方、それから日に5回の礼拝の仕方、礼拝に臨む場合の身の清め方--(中略)ところが、すぐその次に、われわれなら民法、親族法として取り扱うはずの家族的身分関係を律する細かい規則が出てきます。(中略)そうかと思うと次に、それにすぐ続けて、こんどは商法関係になって、取引の正しい仕方、契約の結び方、支払いの仕方、借金の仕方、借金返済の方法などです。次は刑法的規定で、(中略)そうかと思うと、食物や飲み物、衣服、装身具、薬品の飲み方、香料の使い方、挨拶の仕方、女性と同席し会話するときの男性の礼儀、老人に対する思いやりの表わし方、孤児の世話の仕方、召使いの取り扱い、はては食事のあとのつま楊枝の使い方、トイレットの作法まである」。(pp. 160-161)

 こんな日常の“些事”まで規制されるのでは、我々にとっては息が詰まりそうである。が、すべてが「あれはダメ」「これをしろ」とガチガチに規制されているのではなく、許容度に応じて次の5段階の分類があるのだという--①絶対善、②相対善、③善悪無記、④相対悪、⑤絶対悪。このうち「相対善」とは、そうすることは望ましいが、しなくても罰せられないことであり、「善悪無記」とは、してもしなくても奨励も処罰もされないこと。「相対悪」とは、イスラーム法では是認されないが、しても処罰されないことである。
 
 このような法体系ができた理由は、イスラームには「聖俗分離」の考え方がなく、むしろその逆に、神の聖なる秩序を現実生活に表すことが信仰者の生きる道と考える長く、根深い伝統があるからだろう。井筒氏は、11世紀のイスラーム思想家、ムハンマド・ガザーリー(1058-1111)がこのことをどう考えたかを、次のように描いている--「人間生活の全体が、毎日毎日の生活、その一瞬一瞬が、神の臨在の感覚で充たされなければならない。そういう生活様式に人生を作り上げていくことによって、人は神に真の意味で仕えることができるのだ」と。(前掲書、p.144)
 
 しかし、生身の人間の一挙手一投足が、すべて神の御心への奉仕になるなどということは、理想論としては唱えられても、実際には不可能である。第一、そういう理想的生活が具体的にどういうものであるかを、どうやって知るのか。言いかえれば、日常の細々とした行動の中で「神の意思は何か」をどうやって知るのか? それらは確かに『コーラン』や『ハディース』に書かれているかもしれないが、そんな大部の書物の内容と解釈をすべて憶え、日常生活に適用できる人がもしいれば、それはきわめて数が少ないだろう。こう考えていくと、「イスラームには中心的権威がない」と言われる理由が、何となく分かるような気がするのである。

 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○井筒俊彦著『イスラーム文化--その根柢にあるもの』(岩波文庫、1991年)

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2008年6月 2日

イスラーム法と理性

 私は昨年の6月後半の本欄で、「イスラームの理性主義」と題し、イスラーム神学の各学派が、「理性」の位置をどのように扱ってきたかを概観した。それによると、理性を最大に尊重するのがムータジラ派であり、教典(『コーラン』と『ハディース』)を最大に尊重し、理性をその下に置くのがアシュアリー派だった。「下に置く」といっても、それは「理性を無視する」という意味ではなく、『コーラン』や『ハディース』の記述を現実生活に適用するに際して、また、両教典に定めのない領域においては、アシュアリー派も理性にもとづいて法解釈をするのである。だから、アシュアリー派といえども、論理性、合理性を重んじていることに変わりはない。そして、イスラーム研究者の小杉泰氏が言うように、「今日に至るまで、アシュアリー神学、およびそれとほぼ同じ内容を持つマートゥリーディー神学がスンナ派の正統神学となっている」のである。

「権威と権威主義」についての本欄で、私は「人の前で立つ」という行為をイスラーム法ではどう判断するかを、アブ・エルファドル氏の解説にもとづいて述べた。この行為がイスラーム法で禁じられているかどうかは、一元的には決められていないというのが、その時の結論だった。にもかかわらず、アメリカのイスラーム主義の団体が、その行為が一元的に禁止されているかのような法解釈を行ったことが、かえって権威のなさを露呈し、権威主義的な態度として批判されたのである。

 読者は、この例による説明で感じとっていただけたと思うが、イスラーム法の適用は日常生活の細部にわっており、また適用の仕方はかなり精緻である。「人の前で立つ」という単なる動作の外形を問題にするのでは足りず、その動作がどういう環境で、どういう人に対して、またどういう時に行われるかによって、可否の判断が異なってくるのである。イスラーム学者の井筒俊彦氏は、「リンゴを食べろ」という1つの命令を例に取って、このことを分かりやすく説明している:

「例えば“リンゴを食べろ”という命令がある。この分は命令形そのものとして、いますぐ、ここで食べろということか、それとも、後でもいいから、それが可能になったら食べろということか。また後者の場合、可能になった第一段階でか、その後の段階でか。全部食べてしまうべきなのか、一口だけ食べればそれでいいのか。一回だけ食べればそれで命令の効力は消滅するのか、それとも今後何回でも繰り返すべきなのか。一般に誰でも食べろということか、ある特定の人だけが、か。リンゴを食べろとは、リンゴだけを食べることであって、他のものを食べてはいけないという意味まで含意するのか、等々。実に微に入り細をうがって命令法の構造的意味を分析していきます。そしてそれがすべて、神の命令を正確に把握するための理論的基礎とされるのであります」。(『イスラーム文化』p.150)

 理性をフルに使った、このように精緻な分析が必要な理由は、『コーラン』には「リンゴを食べろ」という生活レベルの命令(法)だけでなく、「異教徒を殺せ」というような重大な命令が書かれているからである。この命令を、「見たらいつも、すぐに、全員殺せ」と解釈するのと、「やむを得ない場合だけ、何回も警告した後に、最終手段として、できるだけ少なく殺せ」という命令だと解釈するのとでは、“神の命令”の内容がまったく違ってくるし、それを実行した結果も全く異なるだろう。したがって、イスラーム法においては、教典に何が書いてあるかはもちろん重要だが、それに劣らぬほど重要なのが、法解釈の態度や方法であることが分かる。

 この辺の事情を、井筒氏は次のように述べている:
 
「イスラーム諸学の哲学に関わる分野において、論理学が特に尊重され、かつ異常な発達をとげましたのは、単にアリストテレスの論理学の影響だけではなくて、実は法的思惟そのものに内在する要請によるところがきわめて大だったのであります。法律の源(もと)は聖典、つまり神の啓示であり、それの法的解釈は純粋に論理的である。イスラーム法はこの点で啓示と理性とのきわめてイスラーム的な出会いだということができます」。(前掲書、p.157)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○小杉泰著『イスラームとは何か--その宗教・社会・文化』(講談社現代新書、1994年)
○井筒俊彦著『イスラーム文化--その根柢にあるもの』(岩波文庫、1991年)
 

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