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2008年6月 4日

イスラーム法と理性 (3)

 前回、「イスラームには中心的権威がない」と書いたのは、「イスラームには宗教的権威がない」という意味では決してなく、「教会組織がない」という意味である。この場合の「教会組織」とは、カトリック教会におけるローマ法王のように、一人の宗教的権威をもつ人間の法解釈に、傘下のすべての聖職者組織や信者が従うというような、中央集権組織ではないということである。このことは、「イスラームにヴァチカンはない」という題でかつて本欄(2006年3月27日)で触れたことがある。イスラーム研究者の小杉泰氏は、イスラームにおける宗教指導者、ウラマーについて、次のように描いている--
 
「ウラマーは“アーリム”の複数形であるが、この言葉は“知識を持つ人”を指す。この知識とは、言うまでもなくイスラームの知識であるが、知識さえあれば誰でもアーリムとなる。ということは“宗教学者”は特定の位階や職業を指すわけではない」。(『イスラームとは何か』、p.148)

「つまり、知識の探求は、信仰に発する信徒の一般的な務めであり、(中略)信仰行為の一環であった。このことを言いかえると、信徒が勉強して、知識が十分得られれば“アーリム”(知者・学者)となるだけで、ほかには普通の信徒と何の違いもない。別な言い方をすれば、ひたすら一般信徒だけが存在して、その中で知識を持つ者が“知者・学者”として指導的な役割を担うにすぎない、とも言える」。(同書、pp.148-149)

 こう書いてあるからといって、普通の信徒が数年の勉強で権威あるウラマーになれるわけではない。なぜなら、井筒俊彦氏も言うように、「宗教研究の権威者ともなりますと、狭い意味での宗教や信仰に関することだけでなくて、社会問題、政治問題、法律問題、風俗問題、道徳問題など、人事百般について『コーラン』の名において判定を下すことのできる権威者」(p.48)でなければならないからだ。このようなウラマーの中でも特に学識や人徳に優れた--イランでは「アヤトーラー」(神の徴)と呼ばれるような--人物は、絶大な権力をもつことになる。
 
 井筒氏の説明を続けて聞こう--

「そういう権威者たちが自分自身の『コーラン』解釈に照して、ある『コーラン』解釈が許容範囲を逸脱していると認めれば、ただちに正規の法的手続きを踏んで、それに異端宣告をすることができる。というより、宣告をする義務がある。この点で、ウラマーの政治的権力は実に絶大なるものであります。なぜなら、いったん異端を宣告されたが最後、その人、あるいはそのグループは完全にイスラーム共同体から締め出されてしまう」。(pp.48-49)

 このようにして、イスラーム社会では教会組織が存在しなくても、教典の解釈を一定の範囲内に留めておくための社会的メカニズムは存在しているのである。しかし、その「一定の範囲内」に留まるのであれば、かなりの解釈の自由が許されていると見ることができる。なぜなら、イスラーム法のように、人生の万般に関わってくる規範や規則を、様々な文化圏の多くの人々に単一の解釈のもとに厳密に適用することなど、不可能と思われるからである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○小杉泰著『イスラームとは何か--その宗教・社会・文化』(講談社現代新書、1994年)
○井筒俊彦著『イスラーム文化--その根柢にあるもの』(岩波文庫、1991年)

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コメント

イスラームに教会組織は存在していなくても社会メカニズムは存在している、「コーラン」の名において判定を下すことの出来る権威者、人事百般に通じた政治的権力絶大なウラマーの存在があると言う事ですが、私はその中でも特に学識、人徳に優れたイランの「マヤトーラー(神の徴)」と呼ばれる人物、彼を中心にしたウラマーを「中心的権威ある組織=教会組織」すればイスラームの内部の混乱、他宗教世界との誤解等々解消されて行くのではないか!又「マヤトーラー」は原理組織タリバンを異端と宣告していないのでしょうか?であるならばアルカイダによる自爆テロも「コーラン」「ハディース」の許容範囲を逸脱していない!と言う事になりますが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年6月 5日 13:39

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