« イスラームの多様性 | トップページ | “福田ビジョン”は遅れている (2) »

2008年6月 8日

イスラームの多様性 (2)

 本欄で「イスラーム法と理性」について書き継ぎ、さらに今「イスラームの多様性」について書いているのは、目的がある。それは、仏教や儒教やキリスト教など、我々日本人が親しんできた宗教と、イスラームとの1つの大きな違いを示したかったからだ。その違いとは、イスラームは基本的に「聖俗分離」(あるいは政教分離)のない宗教であり、信徒のあるべき姿が日常生活の細部に至るまで規定されている、ということだ。その一方で、イスラームは世界宗教であり、アラビア半島やイラン、トルコは言うに及ばず、ヨーロッパ、アフリカ、インド、パキスタン、東南アジア、ロシア、中国……にまで浸透している。ここに1つの大きな疑問が生じる--生活習慣や文化が異なる、このように多様な民族が、日常生活の細部まで規定する宗教を共通して信仰することが、どうして可能なのか? 私は、その答えは、前回も述べた「イスラームに教会組織がない」という、この宗教に特徴的な“平等主義”によるところが大きいのではないか、と考える。別の言い方をすれば、イスラームがもしカトリック教会のような中央集権的組織の構築を目指したとしたならば、今日あるような多様な民族間に、これだけ多くの信者を擁することはできなかったのではないか。

 もちろん、世界最大の宗教であるキリスト教には、中央集権的組織がある。が、その代表であるカトリック教会からはプロテスタントが跳び出し、さらにロシア正教、英国国教会が生まれた。アメリカ大陸に渡ったプロテスタントは、さらに分裂を繰り返している。しかし、キリスト教は聖俗分離の考え方を採用したから、日常生活の細部にまで宗教的義務や戒律の遵守を要求する宗派は少ない。その代わり、“聖”(教義)の分野については、それぞれの宗派が中央集権的な教義の判釈権を享受しているように見える。“俗”(日常生活)の分野においては、キリスト教は伝播地の習俗や文化を取り入れながら拡張したが、“聖”(教義)において統一性を保つことができたため、キリスト教としての同一性を失わなかった--そう考えることはできないか。

 “聖”と“俗”が密接につながったイスラームの場合、発祥地のアラビア半島から離れて勢力を拡大していくにつれて、伝播地の文化や習俗と触れ合うことが、(キリスト教とは異なり)教義の変容につながっていったと見ることができる。このことは、イスラーム最大の教典『コーラン』の説く内容が、いわゆる“メッカ期”と“メディナ期”の間で相当異なるという事実が有力に示している。また、これは、イスラームの2大宗派であるスンニ派とシーア派の考え方の違いにも表れていると言えよう。イスラームは世界宗教となるに伴い信仰の“内容”が多様化した。が、信仰の“外形”をそろえることでイスラームとしての同一性を保った--そういう分析ができないだろうか。

 もし上記のことが正しいならば、イスラームとキリスト教の“多様性”について、次のような結論が導き出せるかもしれない。もしキリスト教に“多様性”があるとしたら、それは基本的には伝播地の文化や習俗の多様性のことを言うのであって、教義の多様性ではない。しかし、イスラームの多様性とは基本的に“聖”(教義)の分野の多様性を言うのであって、“俗”(日常生活)の多様性はキリスト教ほど顕著ではない。このような視点を仮設してみると、2005年3月26日の本欄に書いた、国際宗教学宗教史会議世界大会での私の観察を、興味をもって振り返ることができるのである。私はこのとき、「戦争と平和をめぐるイスラムの視点」というセッションに出た感想を、次のように書いている--

 この3番目のセッションが一番興味深かった。というのは、イラン人の発表者は、「イスラムは人権を尊重し、男女平等を説き、理由のない暴力を許さない教えである」ということを、平坦な調子で原稿を読みながら延々と話した。そのあとでマレーシア人が「コーランはテロリズムを認めない」ことを機関銃のように話した。ブルネイ人もイスラムのいい所を話した。ディスカッションの時間になると、まずドイツ人が手を上げ「今日は学問的分析を聞きに来たのに、宗教講話を聞かされたのには驚いた」と皮肉った。部屋の最後部で手を上げたオーストラリア人は、「もし貴方がたの言うことが正しいなら、9・11のあと、イスラムの宗教指導者たちは、なぜ団結してテロ行為を否定しなかったか?」と質問した。バングラデッシュ人の女性も立ち上がり、「貴方がたは言っていることとやっていることが違う」と批判した。

 これに対してイスラム側の反論は……力がなかった。イラン人は「イスラムに多くの教派があり、教えの解釈も教派によって多様だ」と言った。ブルネイ人は、「西側のニュース報道は選択的で、一部の民衆が踊って喜んだことは事実だが、宗教指導者は皆、テロ行為をイスラムにもとると批判した」と言った。最後の方で、大きな白人(国籍不明)が立ち上がってこう聞いた--「イスラムの解釈にそんなに幅があるならば、宗教指導者は何のためにいるのか。民衆は、右から左にいたる大きな解釈の幅を利用して、その時々の感情に合ったイスラムを選択すればいいことにならないか?」--うん、確かにその通りだ、と私も思った。
 
 --教義に統一性のあるキリスト教側から見れば、イスラームの多様性は無原則、無秩序に見えるのである。しかし、イスラームの側から見れば、教義にそれだけ大きな幅が許されているから、多様な民族間にも同じ信仰が共有されてきたのである。どちらが優れているかは、そう簡単に判断できないような気がする。
 
 谷口 雅宣

|

« イスラームの多様性 | トップページ | “福田ビジョン”は遅れている (2) »

コメント

イスラムの教義そのものに幅があるので、他文化の中で教えが拡がる要素があるというと、日常生活の具体的なことまで示しているイスラムの教義が時には正反対の解釈になる場合が、文化や地域によっては出てくるのではないかと想像します。そうすると、教えを信じる側は自分の住んでいるイスラム文化圏内から別のイスラム文化圏内へ入っていく場合、どうなるのかと心配します。何世紀も前の時代は、そんなに引っ越す人もいなかったでしょうが、今日ではモスリムでも当たり前に引っ越しする人もいるでしょうから。

一つ思い出したのは、天理教の幹部と話し合いの機会を持ったとき、彼らが海外での運動展開で困っている問題の一つに、教義のことが出て来ました。詳細には話されませんでしたが、天理教の儀式の作法自体が教義となっていることから、それを変更できないので、違う文化の中でどうやって受け入れてもらうかということでした。イスラムの多様性を知ることは私自身にも学ぶところが多く出てくるのではないかと思います。

投稿: 川上 真理雄 | 2008年6月10日 09:34

川上さん、

>教えを信じる側は自分の住んでいるイスラム文化圏内から別のイスラム文化圏内へ入っていく場合、どうなるのかと心配します。<

 論理的に考えると、そういうことになりますね。どうなるのでしょう? 実際は、どうでしょうか? 例えば、イスラーム国からアメリカに移住したり、留学している人は多いと思います。そういう人に会う機会があったら、尋ねてみていただけませんか? 私の推測は間違っているかもしれませんから。 

投稿: 谷口 | 2008年6月10日 13:34

モスリムの人と深い話が出来るような人間関係が出来ましたら(まだ知り合いもいないのですが)、是非聞いてみたいと思います。

投稿: 川上 真理雄 | 2008年6月13日 06:09

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« イスラームの多様性 | トップページ | “福田ビジョン”は遅れている (2) »