イスラーム法と理性 (2)
さて、これまでの本欄の記述を読んで、イスラーム法は「人の前で立つ」とか「リンゴを食べろ」などという日常生活の細部にわたって規制をかけるのか、と驚いた読者がいるかもしれない。我々のように儒教的倫理思想と西洋式法体系を兼備した社会に生きている人間にとっては、社会習慣、倫理・道徳、宗教それに法律は、互いに内容的には重なるところがあっても、概念としては明確に分かれている。ところがイスラーム社会では、これらが一体となってイスラーム法を形成していると考えていいだろう。井筒俊彦氏は、そのことを『イスラーム文化』の中で次のように描いている--
「イスラーム法を叙述した書物を開いてみますと、まず最初に出てくるのは、宗教的儀礼の規則、たとえば、メッカ巡礼のやり方とか、ラマダーン月の断食の仕方、それから日に5回の礼拝の仕方、礼拝に臨む場合の身の清め方--(中略)ところが、すぐその次に、われわれなら民法、親族法として取り扱うはずの家族的身分関係を律する細かい規則が出てきます。(中略)そうかと思うと次に、それにすぐ続けて、こんどは商法関係になって、取引の正しい仕方、契約の結び方、支払いの仕方、借金の仕方、借金返済の方法などです。次は刑法的規定で、(中略)そうかと思うと、食物や飲み物、衣服、装身具、薬品の飲み方、香料の使い方、挨拶の仕方、女性と同席し会話するときの男性の礼儀、老人に対する思いやりの表わし方、孤児の世話の仕方、召使いの取り扱い、はては食事のあとのつま楊枝の使い方、トイレットの作法まである」。(pp. 160-161)
こんな日常の“些事”まで規制されるのでは、我々にとっては息が詰まりそうである。が、すべてが「あれはダメ」「これをしろ」とガチガチに規制されているのではなく、許容度に応じて次の5段階の分類があるのだという--①絶対善、②相対善、③善悪無記、④相対悪、⑤絶対悪。このうち「相対善」とは、そうすることは望ましいが、しなくても罰せられないことであり、「善悪無記」とは、してもしなくても奨励も処罰もされないこと。「相対悪」とは、イスラーム法では是認されないが、しても処罰されないことである。
このような法体系ができた理由は、イスラームには「聖俗分離」の考え方がなく、むしろその逆に、神の聖なる秩序を現実生活に表すことが信仰者の生きる道と考える長く、根深い伝統があるからだろう。井筒氏は、11世紀のイスラーム思想家、ムハンマド・ガザーリー(1058-1111)がこのことをどう考えたかを、次のように描いている--「人間生活の全体が、毎日毎日の生活、その一瞬一瞬が、神の臨在の感覚で充たされなければならない。そういう生活様式に人生を作り上げていくことによって、人は神に真の意味で仕えることができるのだ」と。(前掲書、p.144)
しかし、生身の人間の一挙手一投足が、すべて神の御心への奉仕になるなどということは、理想論としては唱えられても、実際には不可能である。第一、そういう理想的生活が具体的にどういうものであるかを、どうやって知るのか。言いかえれば、日常の細々とした行動の中で「神の意思は何か」をどうやって知るのか? それらは確かに『コーラン』や『ハディース』に書かれているかもしれないが、そんな大部の書物の内容と解釈をすべて憶え、日常生活に適用できる人がもしいれば、それはきわめて数が少ないだろう。こう考えていくと、「イスラームには中心的権威がない」と言われる理由が、何となく分かるような気がするのである。
谷口 雅宣
【参考文献】
○井筒俊彦著『イスラーム文化--その根柢にあるもの』(岩波文庫、1991年)
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コメント
私は一般人として普通に思いますのは啓示が肉体人間を通して現される時代の指導者が余りに無知蒙昧、我欲、自分勝手、権力絶大で人民は苦しみ、社会状況は見るに耐えない、救いようが無い、劣悪過酷な時の様に感じています、ムハンマドの時代のアラビヤが正にその様な状況の一つのケースであり、偶像崇拝が蔓延り、真の神を忘却したアラブに、「神の聖なる秩序を現実生活に現す生きる道」をムハンマドを通してこと細かく教えられたのではないでしょうか!
従いまして「コーラン」と「ハディース」が最も重要となり、この「内容」と「解釈」を全て憶え、日常生活に適用できる、きわめて数少ない人、この人を選び出し、唯一つの"中心的権威"として教会組織するならば誤ったイスラームの思想又は誤解は無くなるのでないか!と現時点では考えています。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年6月 5日 12:40