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2008年6月20日

「ふと思いつく」こと (2)

「高級神霊の導きを受ける祈り」には、こうある--「ふと思いつかせる神秘者は、人間の脳髄の中には居ないのである。それは霊界から何らかの霊がわれわれに霊波を送って来てふと思いつかせるのである」。

 これを読むと、「A」という人がふと思いつくことは、それとは全く別の人格をもった「X」とか「Y」などの“霊界の人”からの通信による、と解釈されやすい。しかし、同じ祈りの別の箇所では、「放送霊波に波長が合うときアイディアを感受する」という考え方が明確に述べられているから、AがXからアイディアを感受する時、両者は「全く別」ということではないのである。我々の通常の人間関係でも、「気が合う人」と「気が合わない人」がいる。これは、ものの考え方、感じ方、興味の対象、嗜好、趣味……などで、互いに共通点が多いのが前者であり、少ないのが後者である。AとXが前者の関係にあるとき(つまり、気が合う友人同士であるとき)、AとXは同一の人格ではないが、かといって「全く別」の人格でもない。だからこそ、XのアイディアをAが喜んで採用することになるのである。

 ここのところは見逃しやすい点かもしれない。「Xの放送霊波をAが受信する」と表現すると、Aはもっぱら受身の立場で、Xの放送霊波を一方的に受けて、Xの思うままになるというような隷属関係を思い浮かべやすい。しかし、このように、一方が他方を“操縦する”と考えるのは間違いである。そうではなく、Xのアイディアを受け取るAは、自ら選んでXと同じ“波長”になるのである。これがあって初めて、Xからの通信を受けることができる。だから両者は「操縦・被操縦」の関係ではない。むしろ、トランシーバーで会話をするときのように、対等に近い関係である。両者のトランシーバーが同一波長に設定されれば、「X→A」の通信だけでなく、「A→X」の通信もできるのである。この時、両者のもつトランシーバーは「全く別」とは言えない。それらは「同一」ではないが、少なくとも「同波長」であり「同型」である。
 
 この辺りの関係を、谷口雅春先生は『新版 幸福生活論』(2008年、日本教文社)の中で、次のように説明されている--

「“フト”思いつくと云うのは決して“偶然”ではないのであります。“フト”と云うのは心理学的に云うならば、“潜在意識”の世界であります。心霊学的に云いますと、これを守護霊(guardian angel)の導きと云うのです」。(p.76)

 心理学で「潜在意識」という場合は普通、ユングのいう「集合的無意識」(collective unconscious)も含まれる。とすると、「ふと思いつく」という現象は、個人の意識に対して集合的無意識が働きかける場合を含むことになる。これは、私たちが絵を描いたり、写真を撮ったり、詩作したり、作曲したり、工業デザインを制作するときに普通に起こることだ。ある森の一画を無性に絵に描きたくなったり、ある町角がどうしても写真に撮りたくなったり、歩行中に詩の言葉が浮かんできたり、曲の一部が脳裏に流れたり、あるタイトルの本を書店の本棚から取り出したくなったり……そんな経験はごく日常的にあるもので、いわゆる“心霊現象”ではない。

 こういう角度から見れば、私たちの霊界との関係は日々当り前に起こっていることになり、異常現象や超常現象などではないことが理解されるだろう。
 
 谷口 雅宣

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コメント

副総裁先生

ありがとうございます。
《私たちが絵を描いたり、写真を撮ったり、詩作したり、作曲したり、工業デザインを制作するときに普通に起こることだ》

私も詩作をしますが、創った翌日見てみると自分が創ったと思えないことがしばしばあります。

これは私が発した放送霊波がどこかで受信されて、帰ってきているのかもしれませんね。

先週の金曜日に私の作詞で第二弾がレコーディングされました。8月27日に発売されるそうです。

このCDの詩を見ても、どう考えてもこんな言葉がよくでてきたものだと思ってしまうのです。

神想観のせいかなとも思っておりましたが、どこかと繋がっているのでしょうか?

投稿: 佐藤克男 | 2008年6月23日 15:15

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