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2008年5月23日

権威と権威主義

 宗教における権威と権威主義の違いは、微妙ながらとても重要である。宗教的に権威ある言葉は信仰者から渇望されるが、権威主義的な言葉は忌み嫌われる。ある人の「権威が失墜する」とき、その人は必ずしも自分の社会的地位や権力を失うわけではない。例えば、ある大学教授がセクハラで訴えられれば、その人の権威はある程度失墜しても、大学教授である身分は必ずしも失わない。それでも有罪判決が出れば身分を失うかもしれないが、それは権威が失われた結果の1つとして権力を失うのであり、その逆ではない。

 辞書で「権威」を調べてみると、「①他を支配し服従させる力」という意味と、「②ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められていること」(『大辞林』)という2つの意味がある。この大学教授の場合、②を失わずとも、①が失われることになるかもしれない。また、同じ大学教授が、他人の論文を盗用して自分の研究発表をし、それが発覚した場合は、この逆になるかもしれない。彼は、学問的権威を失うが、大学教授の地位にとどまるかもしれないからだ。要するに、「権威」とは、それをもつ人や組織自体の資質と深くかかわっているのである。
 
 これに対して「権威主義」とは、それを唱える人や組織自体の資質を問わずに、その人や組織が唱えることを、権威をもった別の人や組織によって正当化しようとする姿勢である。『大辞林』の定義によれば、それは「権威をふりかざして他に臨み、また権威に対して盲目的に服従する行動様式」とされる。が、この定義では、「権威をふりかざす」という言葉の背後にある「自分の資質と他の権威は別」という要素が、明確に表現されていない。諺に「虎の威を借る狐」というのがあるが、ここに示されている「キツネはトラではない」という事実が、権威主義の本質を表していると思う。権威主義者は、「オレがトラでないことは問題ではない。オレはトラの代弁者だから、オレに従え」という論法で、他人を支配しようとするのである。

 さて、それでは宗教の話に入っていこう。イスラーム(そして、他の多くの宗教)における権威は「神」から来る。神の教えが権威あるものであることは、誰でも認める。しかし、何が神の教えであるかについては、大いに論争の余地があるだろう。例えば、イスラームの教えの根源(法源)は『コーラン』と『ハディース』であるとされるが、双方は大部の書物の形で残されているから、浅学の徒が一見すると、理解できない言葉があり、また互いに矛盾し、否定し合うような記述が各所に見られる。そんな場合、ある言葉が何を教えているかを人間が「解釈」しなければならない。また、複数の矛盾する教えが含まれている場合は、どちらの記述が“神の教え”であり、どちらがそうでないかを判断しなければならない。いずれの場合にも、人間の理性や感情がそこに介入してくる。だから、宗教の聖典がそこにあるといえども、必ずしも神の教えは明らかではないし、神の教えをめぐる論争が存在しないわけではない。理性と感情をもった多くの人間は、同じ1セットの聖典を目の前にして、「これが神の教えだ」と言い合うが、結局、「これが自分の教えだ」と言っていることが多いのである。
 
 現代のイスラーム法学者であるカリード・アブ・エルファドル氏(Khaled Abou El Fadl)は、神の教えを書物や文章(text)から判釈する際、まず最初にすべきことは、その書または文章が本当に「神によるもの」かを判断することであり、次にその文章が何を言っているかを知ることであるという。この2つの過程は、いずれも人間によってなされる以外にない。だから、“神の教え”といえども、人間の介入なくして表現されることはないという。しかし、この点を極限まで突きつめていくと、神の教えは解釈者の主観によって変わるし、神の教えは一定していないということになる。誰でも自分の好きな言葉を自由に聖典から引用して、都合の悪い言葉は無視して教えを説いていいことになり、“神の権威”そのものが失われてしまうだろう。
 
 これに対して、逆の方向に極端に進む場合がある。それは、すべての問題は聖典の中で解決ずみであるから、信仰者は書かれていることを文字通りに素直に実行すればいいのだ、という考え方である。しかし、こういう文字通りの聖典解釈は教えを硬直させ、応用範囲を狭め、実用的でなくなり、結局、社会から隔絶してしまう。こういう宗教は、権威主義的になるのである。宗教的権威をもつ聖典の文章であっても、このような硬直的な解釈によって、ある文章が「ただ一つの意味しかない」と限定されてしまうと、権威はいつのまにか権威主義へと摩り替わってしまう。複数の解釈が可能な聖典の文章に対して、「これ1つしかない」と限定することは、“神意”を人間の理解の範囲内に限定し、権威を権威主義へと堕落させてしまうのである--エルファドル氏は、このように警告している。

 これは、聖典の解釈がいかに重大な問題を含んでいるかの指摘であり、直接的にはイスラーム内部の問題を指している。しかし、他の宗教の聖典や教典解釈に関しても重要な示唆を含んでいると思う。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○ Khaled M. Abou el Fadl, And God Knows The soldiers: The Authoritative and Authoritarian in Islamic Discourses (Lanham: University Press of America, 2001), pp. 32-33

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コメント

これは簡単な問題ではありませんね、
エルファルド氏の警告は確かにそうなのですが現在の様に法解釈で分派分派分派分派、、で中心の無いイスラームの中でエルファルド氏の意見が現実的に通用するものかどうかは?です、原理主義を認めない!とする権威あるイスラーム組織は出来ていない現実に問題を複雑にする原因があると考えます、権威は確かに神の教えから来て、その根源はコーランであり、ハーディス又は聖書であり、仏典であり生命の実相でるとしましても問題はムハンマドやイエスや釈迦自らが直接筆記されたものではない、多くの人が耳にした事を吟味して記録したものであると言う事、彼らが何を語ったのか録音でもあれば確かなのですが、、そして真理を体得した彼らが時と状況で矛盾する様な事を言われたとしましても一つの導きの為のもので矛盾する事は言われないと思います、それに聖典とは言いましても神自らの著書ではありませんから書いてある事が全て正しいと考える方がそもそも無理があるのではないか?その点"聖教"は谷口雅春大聖師本人自らが宗教の真髄を洞察された上に神霊により直接筆記されていますので最も神に近いのではないでしょうか?いずれに致しましても人間は全知全能の神の真理の一端を見るに過ぎない存在なのではないか?結局原理主義的なものの考え方、非寛容で無慈悲で自是他否の言動、行動は"我"であり"迷い、煩悩の無明"であり、権威主義であり、神の名の元に神から遠く離れ、空しく神を崇めているに過ぎない様な気がしてなりません、である限り地球上、現象界での争いはまだまだ無くなりそうにありません(泣)。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月25日 02:10

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