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2008年5月11日

庄野潤三氏の日記

 生長の家の出版・広報部の人が興味あることを教えてくれた。作家の庄野潤三氏が日時計日記をつけている可能性が大きい、というのである。とはいっても、生長の家が出版物として『日時計日記』を発刊したのは2007年版からで、庄野氏の芥川賞受賞はそれより半世紀も前のことだ。だから、もしこの可能性が事実だとしても、我々よりもこの大作家の方が“大先輩”ということになる。で、その可能性を有力に示しているのが、2002年11月にマガジンハウスから発行された『ku:nel』(くうねる)のインタビュー記事だというのである。
 
 私は、『太陽はいつも輝いている』(生長の家刊)の中で庄野氏の小説を取り上げて「小説版の日時計日記」と形容し、そこには「日時計主義と共通する“人間の本性への信頼と讃美”が貫かれている」と書いた。が、庄野氏がもし日時計日記のような「よいことばかり書く日記」をつけていたとしたならば、氏の作品の比類のない質の秘密を知ったような気がして、うれしくなった。

 そこで問題のインタビュー記事だが……インタビューアーの女性が、庄野氏の書斎の机の上に何冊も重ねてある日記のことを、こう書いている。

「毎朝、この部屋に入るといちばんに、前の日のできごとを詳細につける。……そして、日記を開き、それを見ながら原稿にしていく。たいてい、ほぼそのままが原稿になる」。

 さらに、こうある--

「この日記には、嫌なことは書かない。うれしいことだけを取り上げる。だからこそ、小説には“おいしい”“ありがとう”という感謝の言葉が並ぶ」。

 このあと、庄野氏自身の言葉が次のように続く--

「人間が生きていく以上、不愉快なことにも必ず出会うわけですけど、それを大きく取り上げない。それを無視したいという気持ちがあるわけですね。それから、人間は必ず死ぬものですけれど、死ぬってことも考えちゃいけないと、自分に言い聞かせているんですよ。自分が死んだら、家族はどうなるだろうかとか、お葬式はどうかなんてことはね、考えないようにしてる。ありがとうと言えるような事柄が、毎日起こることだけを期待しているわけですね。」(同誌、pp.84-85)

 この「ありがとう」という言葉が、形式ではなく、心から出ることの難しさは、私が『ぱすわあど』でも取り上げた通りである。庄野氏も、そのことにインタビューで触れている。
 
「“ありがとう”というのは、年月の積み重ねでできあがったものです。実生活の経験がまだ少ない人たちは、どんなふうに読むのかなぁと、ちょっと見当がつかないんですけれども。だけど、ぼくは難しいことを書いているわけじゃないから、ぼくが“ありがとう”と言えば、“ほんとに庄野さんはありがとうと思ってるんだろうな”と。それは通じているかもしれません」(同誌、p.85)

 人生の暗黒面を見ないという点については、庄野氏は9・11後の11月に行われた作家の江國香織さんとの対談で、次のように言っている--
 
江國--(前略)さっき炭疽菌の話がでましたが、今、世界ではテロが起きたり、狂牛病騒ぎがあったり、親が子供を殺してしまったりと、陰惨な事件がひっきりなしにあって、新聞やテレビの報道を追っていると、どうしてもそういったことに目が行きがちですが、庄野さんのお書きになるものを読むと、じつはそういうことは本質ではない、大切なことはもっと別な身近なところにあると教えられます。僭越ですが、御自分にとって大切なことと、そうでないことをきっちり分けていらっしゃいますね。

庄野--それはありますね。炭疽菌とかテロとか、そういうことはあっても見ないのです。自分とはかかわりがない。自分に大事なのは、脂身をつつきにくるシジュウカラだという、そういう気持があります。

 これだけの会話では、庄野氏が人生の暗黒面を「見ない」という意味が、「臭いものに蓋」式のことか、それとももっと深い理由があるのかは分からない。が、私は、氏の作品群について「小説版の日時計日記」と書いたことは、それほど間違っていなかったと知り、安心したのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○庄野潤三著『孫の結婚式』(講談社、2002年)

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コメント

私は庄野潤三と言う作家は知りませんし、読んだ事もありませんが嫌な事は書かない!うれしいことだけを取り上げる!人生の暗黒面は「見ない」!テロとか狂牛病、親の子殺し、陰惨な事件、そういう事が有っても見ない!自分とはかかわりがない!そういう事は本質ではない!大切な事は身近な所にある、、、、と言う姿勢!それはそれで個性的作家として良いとは思います、しかし、余りマスコミに取り上げられないと言う側面があり、宗教心を持って本質(実相)を見てあらゆる物事に対応して行ける人達には歓迎されるに致しましても現象界を無視して本質のみを語ると言うのはどうか?と考えます、庄野さん個人だけの問題ならそれはそれで良いとは思いますが多くの人達に影響力のある人でしょうから私はどうしても現象界をしっかり認識しながら本質を語り実践し、表現して行って貰いたいなあ、、、と思います。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月12日 00:45

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