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2008年5月27日

権威と権威主義 (3)

 昨日の本欄で紹介したSASの見解に対して、アブ・エルファドル氏はイスラーム法の解釈としては間違っていることを、様々な角度から解き明かしている。
 
 まず全体的な問題として、SASの見解は、自分たちの考えが『ハディース』に示された神の意思そのままであるかのような印象を与えているが、これは厳に慎むべきことだという。イスラームの法解釈では、法学者が神の法について言及する場合は、厳密かつ慎重に、そしてもっと真剣な自己への問いかけが義務づけられるという。ある事象に対して、それが神の法に従っているか否かの判断は、その事象に対して肯定的か否定的かを問わず、存在するあらゆる記述を調べ、相互の軽重や矛盾を勘案したうえで結論を出さねばならないという。
 
 例えば、前回書いた「尊敬の念を表すために立ち上がる」ことについての『ハディース』の使い方だが、SASの見解では、これについて『ハディース』に記述があることによって、問題はすべて明確に解決するかのように書かれていた。しかし、本当は、そこから問題が始まるのだ、とエルファドル氏はいう。なぜなら、次の段階として、その引用箇所の権威と、目的について語らなければならないからだ。その後には、その教えによってモスレムにどういう義務が生じるか、また生じないか。生じる場合は、その義務の本質とは何か。また、その義務は、他の法的義務や原則に対して、どうバランスさせていくべきか……などが検討されねばならないという。
 
 煩雑さを避けるために、「人の前で立つ」ということだけに問題を絞ろう。エルファドル氏によると、「人の前で立つ」ことにも、状況によっていろいろの意味があるという。例えば、信仰や崇拝の意味でなく、社会的な儀礼やエチケットに従うための場合もあり、すべての場合で禁止されているわけではない。
 
 仮に『ハディース』のある箇所に、モハンマドが、自分に対して人が立ち上がることを禁じたという記述があったとしても、それには理由があり、「立つ」という肉体的行為そのものが問題なのではなく、その「理由」や「目的」の方が重要である。モハンマドは、自分が傲慢にならないために、あるいは神の前で慎む心を失いたくないために、そう命じたのかもしれない。その場合、立つことを禁じる目的は、個別・具体的であるから、どんな場合にも、どんな人に対しても適用されるべき法とは言えない。事実、『ハディース』の中には、モハンマドが自分の弟子に尊敬の念を示すために立ち上がったという記述があり、また、モハンマドの前で、弟子たちが互いに尊敬の念を表すために立ち上がったという記述もあり、その際、預言者は弟子たちにそれを禁じていないのである。
 
 このように、「人の前で立つ」ということだけに限って考えてみても、これだけ様々な場合があり、伝統的にはいろいろな評価が下されてきているのである。そのことに全く触れずに、「人の前で立つ=禁止行為」という単純な図式を描いてみせたSASの見解は、イスラーム法解釈としてはまったくお粗末なのである。さらに言えば、今回問題になったのは「人の前で立つ」ことではなく、「国歌の前で立つ」ことである。両者は同じでないのに、SASは同じに扱っている。また、「人の前で立つ」ことは対人関係に影響を与える行為であるが、今回の“事件”は対人関係の場で起こったのではなく、スポーツ・イベントの中で起こったことである。また、イスラーム国の内部で起こったのではなく、非イスラーム国(アメリカ)で起こったことだ。このような違いに全く触れずに、法解釈を行うことは間違いなのである。、
 
 また、エルファドル氏によると、預言者の言動にも法的拘束力を生む(legislative)ものとそうでないものとがあり、その2つを正しく分けることがイスラーム法の正当な解釈法だという。スンナ(イスラームの慣習)のうち法的拘束力を生じさせる意図がないとされるものは、例えばモハンマドの個人的な行動や医学、貿易、農業、戦争に関する専門的、技術的知識などである。また、預言者の独特の行状(例えば、妻を7人もったこと)も、一般人に対する法的拘束力は意図されていないという。

 『ハディース』とは、預言者とその弟子の言行録であるが、キリスト教の聖書にも『使徒行伝』がある。この書は28章に分かれ、私の持っている口語訳の聖書では、細かい活字の2段組みで50頁以上ある。が、『ハデーィス』はボリューム的には『使徒行伝』をはるかに凌駕する。『使徒行伝』どころか、旧約・新約を含めた聖書全体とほぼ同じか、それより大部の書である。ちなみに日本の口語訳の聖書は、旧約が1326頁、新約が409頁で合計1735頁あるが、『ハディース』は牧野信也訳、中公文庫のもので、約500頁の本が全部で6巻ある。この中に、モハンマドらがいろいろなTPOで、何を言って、何をしたかということが緻密、綿密に書かれているのである。だから、「人の前で立つ」ことについての記述も様々なものがある。にもかかわらず、SASは自分の解釈に都合のいいものだけを引用したと言わねばならない。
 
 谷口 雅宣 

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コメント

SASの見解に対するアブ・エルファドル氏の見解、その理由は納得させるものがありますが「クルアーン」と聖書の2倍近くあると言われる「ハディース」を駆使してあらゆる事象に対して権威主義ではなく、完全では無いに致しましても一つの権威ある見解を世界に表明する、中心的な組織が無い為に様々で不可解な事件が起こるのではないか?と考えます、私は何事に於いても分派は基本的に良くない、例えば日本に天皇が5人も10人もおられたのでは日本の国ではなくなるのと同様に、バラバラになり各自勝手に好きな事を言い始め収拾が付かないくなると思っています、アブ・エルファドル氏の様な人達によってマッカを中心にその様な組織が可能なら、かなりの問題が解決して行くのではないか!と自分なりに勝手に考えていますが聞いてくれる人は誰もいません(泣)。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月29日 00:23

尾窪さん、

>かなりの問題が解決して行くのではないか!と自分なりに勝手に考えていますが聞いてくれる人は誰もいません(泣)。<

 そうでしょうね。大学の教授が講義中に…ブツブツブツ…と話をしている学生がいたとします。誰が話を聞いてくれるでしょうか? (悪しからず)

投稿: 谷口 | 2008年5月29日 13:29

谷口雅宣副総裁様
ブツブツブツ学生の話は勿論左の耳から聞き流してしまって良いのですがアブ・エルファドル教授はイスラームの学者であり、信者であり、世界のあらゆる宗教にたけておられ、理論、判断力、指導力が例え強力にあったとしましても学生のブツブツの話しについては良し悪し論外は別としまて実現は不可能でしょう!これには確信が持てます(笑)、やはり、これもブツブツですが原理主義者の中から21世紀の現在にイスラームの誤解を正すべくムハンマド以降初のアッラーの加護を背景に持った聖預言者の出現以外には問題解決は無いのでしょう、なにしろイスラーム外や同じ啓典の人々との戦争では無く、イスラーム信仰者同士の論争では無く戦争にもなって来ているのですから、、、残念ではありますが空想的平和主義者のブツブツブツが限界ですね(泣)。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月29日 15:41

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