« 楽曲『生命の栄え』 (2) | トップページ | 権威と権威主義 (3) »

2008年5月26日

権威と権威主義 (2)

 前回、本題で書いた文章で行き着いた結論は、宗教上の教典解釈においては--とりわけ大部の書物として成立している教典の解釈においては--宗教上の権威を重視しなければならない一方、権威主義に陥らないように細心の注意が必要である、ということだった。ここでいう「細心の注意」とは、教典解釈には、解釈者の主観が入り込む危険性が常にあるから、そのことを十分意識して、できるだけ忠実に教典を解釈しなければならない、ということだった。が、その一方で、教典の文字通りの意味ばかりにこだわって、その教えが説かれた文脈を考えずに解釈すると、教えは硬直化し、応用範囲が狭まり、実用性が失われてしまう。それにもかかわらず、「教典にこう書いてあるのだからこれが正しい」と主張することは、権威主義へ堕落する道である、ということだった。

 前回取り上げた本の中で、イスラーム法学者のアブ・エルファドル氏は次のような実例を紹介している。1996年の3月、アメリカのプロフットボールリーグ(NFL)の試合前に国歌が演奏されていたとき、アフリカ系のフットボール選手、マハムード・アブドゥル・ラウフ氏(Mahmoud Abdul Rauf)は、起立して国歌を歌うことを拒否した。その理由は必ずしも明確でないものの、当時言われたのは、アメリカ合衆国の国歌はアフリカ系アメリカ人の抑圧と奴隷制度を体現しているから、それに対して尊敬の念を表して起立することはモスレムである自分の信条に反する、ということだったらしい。NFLは、ラウフ氏に出場停止措置をとったが、24時間後に、彼は態度を変えたという。
 
 エルファドル氏は、ラウフ氏のモスレムとしての帰趨についてではなく、この“事件”に反応して、アメリカのイスラーム組織の1つである「スンナ忠実協会」(Society for Adherence to the Sunnah, SAS)が出した見解を取り上げて、イスラーム法がどのようにして現実生活に適用されるべきかを論じている。その全容は、我々素人にはあまりにも複雑で、専門的で、細密な議論なので、本欄では紹介できない。しかし、ここから教典解釈法の大要だけを抽出して示すことができれば、イスラームを理解するためにも、また我々の聖典解釈に際しても有意義なことだと思う。

 エルファドル氏は、SASが出した見解は、その語調、記述スタイル、結論から見て事実上、イスラーム法におけるファトワ(fatwa)に当たる、と指摘している。つまり、これがアメリカでなく、イスラーム国であったならば、一種の“判決”が下されたことになるというのだ。そのファトワはまず、「崇拝(ibadah)」を定義して--崇拝とは、心による、舌による、手による行動で、神が喜ばれるすべてのもの、とする。そして、イスラームのスンナは、誰に対しても尊敬の念を表すために立ち上がることを禁じているとした。そして、そう判断する根拠として、2つの教えを『ハディース』から引用する--①モスレムにとって神の使徒(モハンマドのこと)より尊崇に値する人はいないにもかかわらず、モハンマドを見ても弟子たちは立ち上がらなかった。なぜなら、彼らはモハンマドがそれを嫌うと知っていたからだ。②モハンマドの弟子の1人が自分を見て立ち上がった人に対して、こう言った--かつて預言者(モハンマドのこと)が「自分の前で人が立ち上がるのを見て喜ぶ輩には、地獄が用意されている」と言ったのを、私は聞いた。
 
 さらにSASは、別の『ハディース』を引用し、預言者は誰に対しても尊敬の気持からお辞儀をすることを禁じているとした。そして、さらに次のような『ハディース』を引用した:
 
 モハンマドのある弟子が師のもとに来て、ひれ伏して言った--「シャムの人々は、僧侶に尊敬の念を示すためにひれ伏すのを見たことがあります。神の使徒はそんな僧侶よりもはるかに尊敬に値すると思います」。すると、預言者は答えた--「私がもし、誰かに対して相手が誰であれひれ伏すことを命じるとするならば、その妻に対して、夫にひれ伏せと命じたであろう」。

 これらの前例を引き合いに出し、SASはそれぞれの場合、「崇拝」と呼ぶほど強い意味のことは意図されていないとした。にもかかわらず、それを示すような動作をすることは禁じられている、とした。したがって、尊敬の念をもって立ち上がることは、イスラーム法によって明確に禁じられていないとしても、少なくとも非難の対象にはなる、とした。そして、SASは最後に、忠誠心や忠実さは、不信仰者に向けられてはならないとした。つまり、それは神に対してのみ向けられるべきものだから、不信仰者(とその国や国旗)に対するのは論外である、というわけだ。こうして、アメリカ国旗の前で、アメリカのモスレムが国歌斉唱のために立ち上がることはすべきでない、との判断が正当化されたのである。
 
 谷口 雅宣

|

« 楽曲『生命の栄え』 (2) | トップページ | 権威と権威主義 (3) »

コメント

この様な競技には必ず起立や国歌は付きものです、信条として拒否するならば参加すべきではないのではないか?又自由の国アメリカが出場停止にするなんて大人気ない気もします、「信条は認めてやり、それはそれで良し、しかし、正々堂々と全力でやれよ!」位の寛容さが欲しいな!と思います、日本の国内でも教師の中にもいる位ですから、日本の方が自由なのでしょうか?SASと言う組織は全く不明ですが法解釈としては自分達の都合の良い様にどうにでも出来る様に考えます、イスラーム国家でなら彼は最初から出場しなかったのかどうか?不明ですがアメリカ国籍のムスリムでアメリカ国内の競技ならば郷に入れば郷に従わなければならないでしょう、、それにアメリカが不信仰者とは言えないでしょうし、、同じ啓典の民とも言える訳ですし、ケースバイケースでしょう、、アッラーは本当に怒るでしょうか?他の複数のイスラーム組織の解釈も聞いて見たいものですがもし彼が24時間後に態度を変えなかったならば彼のその後はどうなるのか?心配になります、この場合、アッラーはそれを彼に要求するのでしょうか?その様な非寛容で狭量な神とは思えませんがどうなのでしょう?もしそうならばイスラーム教は世界宗教とは言えないのではないか!と思ってしまいます、私は現時点でどうもこの法解釈は権威主義に陥っている様な感じがしてなりません。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月27日 02:05

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 楽曲『生命の栄え』 (2) | トップページ | 権威と権威主義 (3) »