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2008年4月24日

アジサイが教えるもの

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で谷口輝子聖姉二十年祭が挙行された。前日の天気予報では今日の長崎地方は「雨」だったらしいが、幸い空も晴れて、さわやかに澄んだ空気の中で、生前の輝子先生の御徳を偲び、光明化運動へのさらなる決意を固めるよい機会になったと思う。以下は、御祭の最後に私がおこなった挨拶の概略である。

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 皆さま、本日は谷口輝子先生の二十年祭に大勢お集まりくださいまして、誠にありがとうございます。「10年一日」とはよく言いますが、その2倍である20年がたつと、やはり時間の経過を感じます。早いもので、谷口輝子先生がお亡くなりになってからもう20年がたつと知って、現象世界は“久遠不滅”ではなく、どんどんと“過ぎゆく場所”だと改めて感じるしだいです。

 まだ時期は少々早いのですが、今日は紫陽花の話をしようと思うのです。それは、ご存じの方も多いと思いますが、輝子先生と紫陽花の花は関係が深いからです。『生命の實相』第19巻自伝篇には、谷口雅春先生が江守輝子さんに最初に逢われた時の印象が、このように書いてあります--

「彼女はたった1回、昨年の夏に金竜池畔でふと出遭ったことのある女性であった。その時は痩せて面やつれして青褪めた紫陽花の花のような美しさであった」(p.156)。

 この表現では、輝子先生の姿が紫陽花の花のイメージに喩えられているのですが、実際はこの時、輝子先生は紫陽花を染めた単衣の着物を着ておられたようであります。この時のことを、輝子先生は喜寿の記念に出された『人生の光と影』(1972年刊)という著書の中で次のように書いておられます--
 
「梅雨も終りに近くなって来ると、庭のあじさいは花盛りである。薄みどりの小さい花房、ブルーがかった大きなもの、青紫のもの、赤紫のものなどさまざまな色を見せてくれる。私はあじさいの花は好きである。50年前に人から貰って着ていたのは、白地のメリンスに、大きなあじさいの花を染めた単衣(ひとえ)であった。その年の夏にそれを着て、池のほとりを歩いていた時、一人の青年とすれ違った。それが夫であった」(p.193)

 この頃の輝子先生は、大本教で修行中だったのですが、まだ「神とは何か」の把握がしっかりできず、不安で淋しい毎日を過ごしていらっしゃった、とその随筆「あじさいは花盛り」には書かれています。それが、雅春先生と結婚され、生長の家の信仰に入られた後に、半世紀を生きて喜寿を迎えた際に出版されたのが、この本です。その中で、輝子先生は「人間は不死である」という真理を、紫陽花の花を使って説かれているので、それを紹介いたします。
 
 (同書、pp.200-203 を読む)
 
 ここには、我々が死を恐れることは別に恥ずべきことではなく、当り前で普通のことだと書かれています。“死を恐れる心”は必要があるから神様が与えてくださっている、とも書かれています。ときどき宗教というものを誤解される人がいて、宗教の目的は何か奇蹟的な、普通ではあり得ない異常な現象をこの世界に現すことだと考える人がいます。しかし、「自然流通の神示」には、「生長の家は奇蹟を見せるところではない。奇蹟を無くするところである」とあるのです。また、「当り前のままでそのままで喜べる人間にならしめるところである」ともあります。死は、すべての現象人間にとっては未経験のことですから、それを恐れる気持はあっていい。が、それは“道具”としての肉体を大切に扱うためであるという点を、しっかりと押さえておくことが大切です。
 
 生長の家では「肉体はナイ」と言いますが、それは「ナイのだから乱暴に扱っていい」「粗末に扱っていい」という意味ではない。先ほどの雅春先生のお言葉でも「神様からいただいた体は、大事に護って、できるだけ長生きさせることが神意である」と説かれています。ですから、皆さんも神様からいただいたこの肉体を適度に使いながら、大事に護ってあげてください。

 肉体というものは、安楽に、何もせずに寝てばかりいれば健康が続くというものではないですね。このことを皆さんも経験を通してよくご存じと思います。私も最近、このことを思い知りました。というのは、私も50代の半ばを過ぎたということで、体の健康チェックのために2日間だけ入院しました。その際、ほぼ24時間、ずっと病院のベッドで寝ていたのですね。そうしたら、チェックを終って、家へ帰ることになったのですが、新宿から原宿まで2駅電車に乗り、あと徒歩の時間が合計で15分ぐらいでしょうか、それだけ歩いたのに疲れてしまいましてね、翌日には筋肉痛まで出てきました。普通だったら、何ともない距離を歩いただけなのです。だから、人間の体は使わないとすぐに衰える。そういうようにできている。ということは、常に適度に使ってあげることが肉体の維持には必要である。
 
 人生もそれと同じですね。常に適度に困難な状態が現れていても、それは我々の肉体と心とを健康に維持していくために必要なトレーニングである。そのように考えて、皆さんもこれから大いに前を向いて、当り前のことの中に喜びと神の恵みを見出して、真理宣布に邁進してください。肉体の死は、いずれやってきますが、それは人間の本当の死ではない。多様な人生を繰り返すことに、人間の魂の進歩があるということを、谷口輝子先生もこの随筆の最後で説かれています。紹介しましょう--
 
「あじさいは咲きはじめて散るまでには、幾度も色を変える。七変化という異名もある。映り移ろう現象世界の象徴のようである。散り果てたように見えるとも、死んだのではない。翌年の夏が来ると、また咲きはじめ、また散ってしまう。その生命は永遠である。現象の花の姿は一夏であるが、その生命は無限につづいて行く。現象の人間の命も一生を終っても、その生命は永遠である。現象の生活をよりよく生きることによって、幸せな未来は約束される。転んでもつまずいても、花の中に或ることを忘れてはならない」(p.206)

 この最後の言葉にあるように、私たちは転んでもつまずいても神の子であり、たとい肉体は滅びても永遠に生きるということを忘れずに、また、このことを多くの人々に伝えて、これからも希望をもって、明るい人生を送っていきたいと思うしだいです。輝子先生の二十年祭に当たって所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。

 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅春大聖師と輝子聖姉師の若き日の素晴らしい出会いは必然的な現象界ドラマとして映画を見ている様です、そして「現象の生活をよりよく生きることによって幸せな未来は約束される」と仰っています、釈尊の「人身受けがたし、今すでに受く、仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん」と言う言葉に通じるものだ!と思いました、さらに死について「遠い様に見えて、見えなかった世界が事実として現れ、現世の事は影の様に消え去ってしまう」と言う言葉がありますが永遠なる生命は無限に続いて行くものなのでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月25日 00:48

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