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2008年4月 2日

芸術表現について (4)

 美についての議論で前回までに明らかになったことの1つは、美感が生じるためには、それを感じる主体(心)と、感じられる対象の双方が必要であるということだった。これを言い直せば、美は人の心の内部に生じるものだが、その契機となるものは人の“外”(外界)に存在するということだ。つまり、“内”と“外”とが響き合って一体感を醸し出した状態が美感だと言うことができる。このことを『新版 幸福生活論』では、「いのちといのちと触れ合っ」た「いのちを表現」したものと形容しているのである。この場合の「いのち」とは、必ずしも生物学的な意味での命だけでなく、気象や山、川、波などの自然現象、さらに天体や砂漠、岩石などの自然物のほか、人間がつくった芸術作品や建物、工業・商業製品なども含まれるだろう。なぜなら、それらはみな「命の表現」と考えられるからである。
 
 例えば、私がもし鳥の飛翔を見て感動するならば、私の命とその鳥の命とが“触れ合った”からである。これは、私が物理的に鳥に触れたという意味ではなく、飛翔する鳥の姿にその鳥の生命の発露を見、その生命力に感動したという意味だ。では、感動の対象が生物でなく航空機であった場合は、どうか? その場合は、その航空機の設計者、製造するに至った多くの人間、さらに人類が「空を飛びたい」と永年にわたって熱望し、その夢の実現を追究してきたという事実の背後に大きな生命力を感じているのである。前者の場合は、鳥と人間の生命の“一体感”を感じるのだが、後者の場合は、それに加えて、航空機製造にいたる人類の歩みの“総体”に感動すると言える。もちろん、そのほかにも航空機のデザインや色、形、性能、製造技術などに感動することもあるが、それらも結局、「命の表れ」であることに変わりはない。
 
 拙著『神を演じる前に』(2001年、生長の家刊)の中で、私はアメリカの哲学者、ダニエル・デネット博士の言葉を引用して、「色」が生物間の“いのちの触れ合い”から生まれたことを説明した(pp.65-67)が、この際は「クオリアが起こる原因」という言葉を使った。クオリアとは「直接感覚」とも訳されるが、例えば、「赤のクオリア」と言えば、色彩の「赤」を見たときに我々が心で感じる、「黄」でも「青」でも「緑」でもない、あの独特の色の感覚であり、その際に心中に醸し出される感情も含まれている。人間の体の外部にある色によって、そういう独特の感覚と感情が人間の内部に生じる理由は、人間の体の神経系の働きだけでは説明できない。私がいう意味は、「赤」く見える光は、光のスペクトルの中のどれだけの範囲のものを指す--という種類の説明のことではなく、その特定の波長の範囲をもった光がなぜ「青」や「緑」ではなくて「赤」でなければならないか、という説明である。

 デネット博士は、その謎を次のように解いている--
 
「リンゴの実が、少なくとも何種類かのリンゴ好きの動物によく見えることは、リンゴに対する単なる“危険”(リンゴの立場からは!)ではなく、リンゴが存続するための一条件である。(中略)色によって区別をつけられない果実は、自然界のスーパーマーケットの棚では競争力が乏しい。しかし、嘘の宣伝は罰せられる。よく熟れた(栄養素が豊富な)果実は、そしてそのことを宣伝している果実はよく売れるだろう。しかし、その宣伝内容は、対象とする消費者の視覚的能力と嗜好によく合致していなければならない」(同書、p.66)

 この引用文は、少しわかりにくいので解説を加えよう。--色彩の「赤」は、画材店の棚やコンピュータの画面に出現する前に、まずリンゴの実の色であった。と同時に、様々な植物の実の色として自然界に存在してきた。しかし、植物の実は、花から成長し始める最初の段階から赤いのではなく、栄養素を結集して熟し、ちょうど動物が食べるにふさわしくなった頃に、緑から黄、そして赤へと変化する。そして、「おーい、ボクを食べてくれよぉ~」と言わんばかりに、生い茂った緑の樹冠の中から鳥や昆虫に呼びかける。それは、その果実にとっては取って食われる“危険”を冒しているようだが、実はそうではなく、自然界にはゴマンと溢れている他の植物の様々な実の中から、動物が“自分”を採ってもらうことで子孫を殖やそうとしているのだ。このことをデネット博士は「自然界のスーパーマーケット」という言葉で表現している。ここで“消費者”(動物)に採ってもらうためには、偽装や嘘の宣伝は効果がない。なぜなら、一度騙された動物は、次の機会には別の植物の実を選ぶに違いないからだ。だから、植物の方も、自分の子孫の繁栄に最も有利な場所へ種を運んでくれる動物に対して、その最も必要とする栄養素と最も好む味と香りを用意して“消費者”の到来を待つのである。

 「色」とは、このような植物と動物との永い共存共栄の過程で形成された、植物が動物に発する一種の“暗号”である。動物の側は、この色の暗号を素早く解読するための“高速暗号解読装置”として色覚を発達させてきた。このように考えれば、色とは、人間を含めた多くの生物種の「いのちといのちが触れ合って生まれたいのちの表現」であることが分かるだろう。臭いや味にも、同様のことが言えるのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

谷口先生

〉「色」とは、このような植物と動物との永い共存共栄の過程で形成された、植物が動物に発する一種の“暗号”である。動物の側は、この色の暗号を素早く解読するための“高速暗号解読装置”として色覚を発達させてきた。

「色」同じようにみなが認識していることがとても面白いと思います。「赤」は危険・熟している状態を表す。それは誰かに教えられたから解るのだと思う部分もあるけど、誰にも教えられないのに解ることもあります。

ゴキブリは「汚い」と教えられなくても嫌いになったから。でもある方に「親がゴキブリを嫌っているからだよ」といわれました。でも、親が嫌っていても私は全然平気に退治していたのに、あるとき嫌いになりました。それは何故なのか

〉「色」とは、このような植物と動物との永い共存共栄の過程で形成された、植物が動物に発する一種の“暗号”である。

とあり、やはり「ゴキブリ」と「人間」が永い共存共栄の過程で形成された感覚なんじゃないか、などと考えます。常識的に考えられるようにな年齢に達して、「ゴキブリ」は人間の部屋にいることがおかしいと認識したのではないか。常識的な判断は大切なことなのかなと思いました。

また、ゴキブリの話しになってしまいました。本当はゴキブリのことを気にしすぎな気もしますが、例に上げるには面白い生き物だと考えています。

投稿: 多久 真里子 | 2008年4月 3日 22:00

「美感が生じる為には」とか美、臭い、味等々とは?について研究分析したり、解説したりするのは全ての動植物、鉱物の中で人間のみに与えられた特殊能力である、その他森羅万象は神仏の計画に従順で条件、法則の儘、生めよ増やせよ地に満てよ!で進んで行きますが、もしこの世界に人間が存在しなかったらどうでしょう、この素晴らしい神仏の創造世界を認識するものが無い事になり、何と味気ない世界、在ると言っても無いのと同じ、だからこの素晴らしい世界を認識し、驚嘆し、感動し、表現し、共鳴し、感謝する人間を創造された、しかし、人間には迷いと選択の自由が与えられている為に過ちを犯し、後退したり進歩したりを繰返している状況にあると言う事ではないか!と思いますが、ここは「芸術の表現について」ですから、、この人間の特殊能力を駆使しましてAのクオリアを自分だけのクオリアを大いに表現して行く事も自らの人生を鮮やかに彩り、精気の満ちたものにするのではないか?と期待しています。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月 3日 22:54

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