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2008年4月 1日

芸術表現について (3)

 3月18日の本欄では、芸術表現が行われる過程を図で示してみた。その過程は、(A)表現者が対象から受けるクオリアに感動すること、と(B)表現者がその感動を媒体上に客観化すること、の2段階に大別できた。そして、生長の家で行う新しいタイプの誌友会では、BよりもAの過程を重視することを提案した。これは、もちろん「Bを軽視せよ」という意味ではない。AもBも共に重要だが、宗教活動としてはAに力点を置くべきだということであり、芸術運動を志す人は、大いにBを探究していただいていいのである。

 新しいタイプの誌友会に関して、最近、奈良県の地方講師の方から手紙をいただいた。本部で制作した誌友会のデモビデオを見、私の文章を読んで「納得し、共感しました」と賛同して下さった。私の文章とは、恐らく3月3日の本欄のことだろう。「素晴しいご指摘で、日々実践し、誌友会の活性化に役立てたく存じます」と書いて下さっている。その文章の下に、お地蔵さんの両脇にカエルがすわった絵を描き、
 
 心うずく人の心に花衣
 
 という句まで添えられている。絵心も詩心も開花した明るい文面に、感激した。
 
 このK講師の手紙に導かれて谷口雅春先生の『叡智の断片』(日本教文社刊)を開くと、ちょうど「美の本質に就いて」という素晴らしい文章があった。この箇所は、『新版 幸福生活論』の第12章とともに、新しいタイプの誌友会で学ぶのにふさわしいと思う。『新版 幸福生活論』では、芸術とは「いのちといのちと触れ合って、いのちを表現したもの」と定義されていたが、ここでは、美感が生じるためには「“美”として感じられるところの対象とそれを“美”として感ずるところの心とが必要である」(p.104)と説かれている。そして、「客観(対象)と主観(心)とが互いに相会うことが必要なのである」と書いてある。さらに、雅春先生は美について、「“ものそのもの”(客体)に内在する美を、“感ずる心”(主観)が触発することによって、意識界に浮かび上がらせたのが美である」と定義されている。これは、まさに上記のAの過程を別の言葉で描いている。「いのちといのちが触れ合う」こと、「客体に内在する美を主観が触発する」こと、「対象から受けるクオリアに感動する」ことは、みな同じことを別の言葉で表現しているのである。
 
 では、なぜ我々は、何かを見たり、聴いたり、触れたりして感動するのだろうか? あるものに感動し、別のものには感動しないのはなぜだろうか? サクラの開花には感動するが、ゴキブリの腹を見て感動しないのはなぜだろうか? 雅春先生のお答えを次に引用する--
 
「或る物が吾々の生命に“快さ”の感じを起させるのは、その物が、生命そのものの在り方に順応した、ふさわしい生命の本来のあり方の傾向に一致するものがあるからであり、或る物が吾々の生命に“不快”の感じを起させるのは、その物が生命そのものの本来の有り方に逆い、生命本来の傾向を抑圧又は搔き乱すところの傾向があるからだと言わなければならない。」(p.107)
 
 この文章はなかなか難解であるが、含蓄深い。その意味については、私は3月18日の本欄で『神を演じる前に』から引用する形で、すでに少し触れている。曰く--「クオリアが起こる原因は、動物と植物との長期にわたる共生関係である」(p.67)「色のクオリアばかりではない。我々が五つの感覚器官を通じて体験するすべてのクオリアは、我々の生物としての生存に必要であるばかりでなく、知的で、豊かな生活を可能にするすべての文化活動の基盤にあるものである」(p.68)--が、これらの解説は次回以降に譲ることとする。

谷口 雅宣

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コメント

何時も様々な情報有難う御座います
K講師の「お地蔵さんの両脇にカエルがすわった絵」カエルがお好きなのでしょうか?(笑)猫の好きな人は両脇に猫でも良いのでしょうか?(笑)それとも脇侍の様に別の意味でもあるのでしょうか?それは兎も角といたしまして「美の本質について」とか「芸術とは?」「何故我々は何かを見たり、聴いたり、触れたりして感動するのだろうか?」についてですが人間以外の生物で上記の様な事は考えもしないし、出来ない様に思います、といたしますとこれらの思考能力は人間のみに与えられた能力なのではないか?つまりその様に設計、創造されている、しかしその思考能力は個々人によって千差万別多様性に富んでいる、だからこの現象世界は面白く魅力に溢れた世界と言えるのではないか?そして人類は現象世界に驚嘆し、感動し、共鳴し、喜びに満ちて有り難く生かせて頂くと言う事なのではないか?その日その時が来たら感謝して"南無"で後の事はその時その時勉強して行く、、その世界は人間の思考を遥かに越えた世界、全生物が通過する道で必ず明るく開かれている、この世界を創造した全知全能なる神仏を信頼して良い様に思います、又"快""不快"に関しまして谷口雅春大聖師の言葉は広く深い洞察を基にした表現でなかなか難解です、弱肉強食のこの世界動物同士睦み会えるものは"快"命の取り合い(天敵)は"不快"ではないか!とも単純に思うのですがいかがなものでしょうか、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月 2日 12:03

私の母がかなり昔に「人間は無いものを想像(創造?)できない」と言っていました。

 その意味をずっと考えているところです。

『聖教』
「神」には
“創造の神は五感を・・”とあります。

では人間は神?

「人間」には
吾は『真理』なり、

・・・じゃあ火星人っているのかな?なんてどうでもいい疑問にぶち当たり終了します。

投稿: 多久 真里子 | 2008年4月 2日 20:31

多久さん、

>>私の母がかなり昔に「人間は無いものを想像(創造?)できない」と言っていました。<<

 それは、「自分の心の中に無いものは想像できない」という意味ではないでしょうか?

>>・・・じゃあ火星人っているのかな?なんてどうでもいい疑問にぶち当たり終了します。<<

 「どうでもいい疑問」だとは思いません。貴女は、火星の人面岩(人の顔に似た岩)の話をご存じですか?

投稿: 谷口 | 2008年4月 2日 23:39

谷口先生

〉「どうでもいい疑問」だとは思いません。

お返事すごく嬉しいです。多くの人にこの話をすると誰も相手にしてくれません。(苦笑) 

〉貴女は、火星の人面岩(人の顔に似た岩)の話をご存じですか?

モアイ像とか。あれは先祖をまつったものだと言われているようですが、実際モアイをつくるには現代の技術でもかなり無理な部分があったりする見たいです。あの岩自体が生きているんじゃ・・・・?また、意味の解らないことを考えます。

ちなみに、熊本の山鹿市には5億年前に出来たモアイ像があります。地元では“モアイ”と呼ばれていますが、実際5億年前は人間はいなかったという説が有力なので(私は5億年前もいたと思いますが。)モアイに見えるだけってことになっています。でも、大きさから言って現代の人間には創れない大きさです。でも、今の人間より昔の人間はかなりビックだったら、あの巨大さでも、今の人間が粘土遊びをした感覚で創れたのではないかとか思います。

〉それは、「自分の心の中に無いものは想像できない」という意味ではないでしょうか?

なるほど。私もそう思ったのですが、やっぱり宇宙人はいるんじゃないかっていう常識から外れた感覚に行くと考えるのを止めてしまいます。常識にとらわれすぎかな。
 逆説にすると「自分が想像したものはすべて現れる」。“心でつくる世界”でしょうか?

投稿: 多久 真里子 | 2008年4月 3日 07:21

多久さん、

>>モアイ像とか。

 いいえモアイ像ではなく、火星の人面岩です。地球上のものではなく、火星上のものです。ご存じですか?

投稿: 谷口 | 2008年4月 3日 17:27

谷口先生

〉いいえモアイ像ではなく、火星の人面岩です。地球上のものではなく、火星上のものです。ご存じですか?

はい、解ります。

投稿: 多久 真里子 | 2008年4月 3日 21:18

多久さん、

>>はい、解ります。

 では、“火星の人面岩”はなぜそこにあるのだと思いますか?

投稿: 谷口 | 2008年4月 3日 22:52

谷口先生

〉では、“火星の人面岩”はなぜそこにあるのだと思いますか?

私が火星の人面岩がそこにあることを認識できるからだと思います。


投稿: 多久 真里子 | 2008年4月 3日 23:50

谷口先生
〉それは、「自分の心の中に無いものは想像できない」という意味ではないでしょうか?

続けてメールしてすみません。
上の文章を読み直しました。心の中と想像するものと表現されるものって別ということでしょうか?私の中で 心の中=想像するもの という感覚があったことに気づきました。それから 想像するもの=表現されるもの でもありえる。
しかしまったくのイコールの状態ではない様な気もします。 = ではなく ≒ ・・・? なんだか解りません。

投稿: 多久 真里子 | 2008年4月 4日 00:01

多久さん、

>私が火星の人面岩がそこにあることを認識できるからだと思います。<

 火星の上に何があるかなど、あなたはどのようにして認識できるのですか? 私にはできません。教えてください。

投稿: 谷口 | 2008年4月 4日 13:03

谷口先生、

〉火星の上に何があるかなど、あなたはどのようにして認識できるのですか? 私にはできません。教えてください。

そういえば・・・どのようにして認識したか・・。
考えてみました。
私は先生が掲載したブログのユウチューブの映像を通して火星の上に何かあるという情報を得て、ある気がすると思いました。

自分で火星を見て、火星の上にいって火星を眺めた訳ではありません。それが本当の映像かどうか?と、問われれば自信がありません。
ただ、その映像と文章を読んであるように感じました。

ただ、どうして「その映像を嘘だと思わなかったのか?」
と、自分に問いましたら、「ある」と考えた方が何だか楽しかったからかなぁと思いました。

投稿: 多久 真里子 | 2008年4月 4日 20:13

質疑応答に参入して申し訳ありません(泣)
多久さんの「人面岩を認識するからある」との答えですが「認識しなかったら無い」のでしょうか?確かに多久さんが知らないだけで多久さんには無い!でしょうがそれで無い!と言えるのでしょうか?私は「認識しようがすまいが在るものは在る、無いものは無い!」と思っています、この現象界に於いても自分個人が認識するものはごく僅かではないか、ですから好奇心に限りが無い!実相界も又認識しようがすまいが在るものは在る!それから「モアイに見えるだけ!!」と言うのがありましたが「人面岩に見えるだけ!!」ではないでしょうか?以前に人面鯉が盛んに報道された事がありました、ただそう見えただけで鯉は鯉です(笑)、続いて「やっぱり宇宙人はいるんじゃないかっていう常識から外れた感覚へ行く」と言われていましたが私は常識から外れてはいない!広大な宇宙を認識するならば寧ろ常識ではないか!と思っているのです(ダムで生まれた鯉は他の池や川やダムに鯉はいないと考えるでしょうが"考えないか(笑)"いるのは常識でその鯉が知らないだけの事です)、何しろ人類自身が宇宙人ですから、、(笑)人間の思考を遥かに越えた在りて在るもの神仏は偉大なり!(アッラー・アクバル!)です(笑)。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月 5日 12:02

尾窪勝磨 さん
参入ありがとうございます。
私も“常識”というものについて考えました。誰が常識だと決めたのでしょうか?それはやはり自分だと思いました。
だから“常識”は変わらないものだという認識を持っていたのですが、“常識”は流動的なもの。時代や場所などに影響されて変わる物。結構臨機応変なもの。
 “常識”ってなんだか不思議です。“人類意識”に似てる気もします。

投稿: 多久 真里子 | 2008年4月 5日 20:15

副総裁のブログで脳を活性化させて貰って感謝致します(笑顔)、
"常識"の考え方ですがガリレオ以前の"常識"は各界の賢者、インテリ層を含め、人類意識として"天動説"でしたが現在の"常識"は"地動説"になっています、私は両方ではないか?と勝手に思っていますが"真理"が判明しない内は"常識"は変わるものだと思います、即ち「常識即非常識、非常識即常識」です(笑)、永遠に変わらないのは神仏の"常識"ですが畢竟神仏のみ知る事!でしょうねえ(泣)。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月 6日 01:30

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