命はどこにある?
我々人間には「命がある」というほど明確な実感はないのではないか。デカルトの有名な言葉--「我思う、ゆえに我有り」は、「我思う、ゆえに我に命あり」と言い直すことができる。なぜなら、命のない死体は、そこに確かに存在していても、「我思う」という意識をもたないから、「ゆえに我有り」の結論を出せないからだ。言い換えると、自分が存在するかどうかを判断する意識をもたないものは、それ自身「我有り」と結論できない。だから、「我有り」という否定しがたいデカルトの実感は、意識の有無と深く関係している。では、命があっても意識をもたない者の存在は、どうやったら確認できるだろうか。この点、デカルトは必ずしも明確でない。
生物学では、「自己意識」--自己を他とは異なる独特の存在であると思う意識--をもつものは、人間と高等な哺乳動物の一部だけだと考える。それを証明するために、動物に鏡を見せて、その行動を細かく観察する実験などをしてきた。では、意識が生まれる元である命の有無は、どのようにして「有り」と結論できるのか。例えば、アメフラシの命の有無は、どうやって判断するのだろうか。生物学者は、アメフラシの神経系を研究し、そこに微弱な電流が起こるか起こらないか、あるいは神経伝達物質が流れるか流れないかを測定するのかもしれない。では、神経系をもたない植物や菌類の命は、どのようにして有る無しを判断するのか。私はその答えを知らない。
しかし、植物の種(たね)が古い地層の中から発見され、それを適切な環境に置いて光や熱を与えると、発芽して成長したという話は珍しくない。そういう“太古のハス”の花が咲いたと、新聞やテレビで報道されたこともある。だから、命の有無は、現代の科学技術においても直接測定することはできないと考えるべきだろう。我々が大病院の治療室で目撃する様々な機械装置は、「命そのもの」を測定しているのではなく、「命の働き」で生じた電流や磁気、物質成分の変化を測定していると考えるべきなのだ。「命そのもの」はそこにあっても、それが動いて作用を生じる場合とそうでない場合があると考えると、古代エジプト人がミイラを保存することにも、キリスト教で土葬を行うことにも、それなりの合理性があるといえる。が、現代の科学ではこれを一般に不合理だと考えている。
そんなところへ、植物だけでなく、動物も一種の“ミイラ状態”から甦ることを示した研究成果が報告された。アフリカに棲む「ネムリユスリカ」という蚊に似た昆虫の幼虫は、完全に干からびた状態で10年以上たった後にも甦る例があるという。3月25日の『日本経済新聞』が夕刊で伝えている。それによると、この幼虫が乾期の間に完全に干からびても、雨期になると生き返ることは以前から知られていて、その仕組みをこのほど、東京工業大学と農業生物資源研究所のグループが解明したという。その仕組みとは、体中に行き渡らせた糖類をガラスのように固めることで、体の組織を保護するらしい。この研究を参考にすれば、「ヒトの組織を長期間保存したり、乾燥に強い植物を作ったりする」ことが可能になるかもしれない、と記事は書いている。
この例をみても、「命はどこにあるか」という疑問への答えは、科学の力によってもそう簡単に出てこないことが分かる。私たちは今、「命萌え出づる春」を目の前にして、それがどこにあり、どこから来るかをじっくり考えてみるのはどうだろうか?
聖経に曰く--
空間の上に投影されたる
生命の放射せる観念の紋、
これを称して物質と云う。
谷口 雅宣
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コメント
> 私たちは今、「命萌え出づる春」を目の前にして、それがどこにあり、どこから来るかをじっくり考えてみるのはどうだろうか?
副総裁は、命がどこにあり、どこから来るかとお考えなのでしょうか?
副総裁は、信徒側から見れば、師となる側の人です。師は教えを説き、信徒はその教えを受ける。師の教えが理解できない時、そこに質疑が発生する。その方が、良いのではないでしょうか。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年4月 2日 00:29
「命はどこにあり、どこから来るか?」これを正確に語る事の出来る知的生命体が神仏以外にあるとは考えられません(泣)し、神仏以外の知的生命体の科学をもってしても出ては来ないと思います、全ての生命は誕生前と誕生理由、死後について正確に語る事は出来ない、たまに語ったり、霊感や霊能者、預言者等々ありますがヒントにはなるにいたしましても全知、熟知とは思えません、ごく一部でしょう、、又それで良いのだと思います、ですから私は単純に全宇宙色界空界全ての全て時空を越えて満ち溢れ充満して永遠なる在りて在るもの神仏から戴いた縁に依って来る、そして又その縁に依って神仏に帰ると現時点では考えています、それからデカルトの「我思う、故に我あり」ですがもし植物人間になった場合デカルトは何も思わないから我は無いのでしょうか?それとも植物人間の儘何かを思い、死後もやはり今まで通り何か思って我はあるのでしょうか?明日は我が身、どちらにいたしましても「我思う、故に我あり」の意識がある今が有り難い事だと思いますが本当は我は無いのではないか?自分の体、自分の心さえ自分のものではない!と考えましたなら、、、「我思う、しかし我なし」(笑)。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月 2日 01:47
早勢さん、
>>師は教えを説き、信徒はその教えを受ける。師の教えが理解できない時、そこに質疑が発生する。その方が、良いのではないでしょうか。<<
教えの説き方には、無数の方法があります。それは、教えを受ける人にも無数の種類の人間がいるからです。どのような説き方でなければならないかを私に助言くださっているようですが、そういう貴方の「師」とはどなたですか?
投稿: 谷口 | 2008年4月 2日 15:08
尾窪さん、
>>それからデカルトの「我思う、故に我あり」ですがもし植物人間になった場合デカルトは何も思わないから我は無いのでしょうか?それとも植物人間の儘何かを思い、死後もやはり今まで通り何か思って我はあるのでしょうか? <<
いわゆる“植物状態”になった人間が何も思わないかどうかは、立証されていることではありません。神経系の反応がないから、何も感じず、思考もないという仮定のもとに、科学者がそう考えているだけです。“臨死状態”から帰還してきた人は、自分の肉体がマヒしている中で、周囲の状況を克明に記憶していると報告しています。また、アメリカでの死刑は、薬品で神経系をマヒさせる方法をとっているようですが、その際も、「最も苦しまない死」と考えられていたものが、どうも相当の苦痛を感じるらしいという科学的研究も発表されています。
>>「我思う、しかし我なし」
これは“名言”だと思います。(笑)
投稿: 谷口 | 2008年4月 2日 15:58
>そういう貴方の「師」とはどなたですか?
師と呼べるほどの、直接的な関係を持ったことはありませんから、私に「師」はいません。
ただ、「師」の役目を果たしてくれているものはあります。そのおおもとは、雅春先生の著書、文章です。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年4月 3日 18:55
早勢さん、
それならば、他人から求めずに、あなたの「師」の説く教えに従っていればよいのではないでしょうか?
投稿: 谷口 | 2008年4月 3日 22:50
先生の使われた他人という言葉の意味が良くわかりません。雅春先生の説いた生長の家の教えは、総裁、副総裁、講師等、受け継がれている人は多くいるのではないでしょうか。だからこそ、講習会等の行事にも参加していましたが・・・・。また、万教帰一を唱えているなら、生長の家以外の言葉から人として生きていくための大切なもの(言葉)を吸収することもあります。私は、ある特定の人の説く教えだけに従っている訳ではないので、【そのおおもとは】という言葉を使ったのですが・・・・・。
最初に、投稿した件とは、違った話題に向かってしまったようです。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年4月 4日 00:29
早勢さん、
>>私は、ある特定の人の説く教えだけに従っている訳ではないので、<<
こう答えておられる場合は、「私には師はいません」というのが正確な表現だと思います。「師」と「弟子」という表現は、特定の個人間の関係を指します。師から弟子として認められていない人は、いくら自分で「弟子」だと思っても弟子ではありません。それから、たくさんの先人の書を読みながらも、その中から自分の従いたいことだけを“ツマイ食い”する人がよくいますが、それも「師弟関係」ではありません。あなたは「師の役目」をはたしてくれるのが雅春先生の著書、文章だと書いておられますが、言葉の使い方がルーズだと思います。
投稿: 谷口 | 2008年4月 4日 12:56
早勢さんの疑問「他人」の意味ですがそれは「谷口雅春大聖師以外の人全て」ではないか!と思います、その膨大で広くて深い洞察と真理の表現の著書の中で理解できない事をピックアップ(誤解しない様にする為に)して講習会、誌友会等々にて質問されたらどうでしょうか?釈尊は「姿形は出家者であっても私の教えを聞かず行わない者は私の近くにいても私の弟子ではない、幾百万里離れていても私の教えを聞き、実行する者は私の弟子である」と言われていますから谷口雅春大静師のみの教えを正確に(正確にです)聞き取り、実践されたら弟子と認められるのではないでしょうか?三人寄れば一人は師がいると言った人がいますが、かの有名な善財童子は求道の旅で遊女や漁師、商人、勿論修行僧等々様々な人達から教えを受け、ついに悟りを開かれたと言う話があります、万教帰一です、過去現在に於いて生長の家以外にも有名無名を問わず、素晴らしい人達が一隅を照らしながら世界中に満ち溢れていると思います、「師はいない!」と限定、断言、公言すると言う事は神仏に一番喜ばれない"高慢"ではないか?と思いますがいかがでしょうか?。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月 4日 16:24
谷口先生
〉私たちは今、「命萌え出づる春」を目の前にして、それがどこにあり、どこから来るかをじっくり考えてみるのはどうだろうか?
前のところにコメントしてしまいすみません。初め読んで考えて解らなかったので飛ばしました。久しぶりに読み返しましたらたくさんの方が会話をしていて何となく自分の考えも浮かんで来ました。
〉〉命萌え出づる春」を目の前にして、それがどこにあり、どこから来るかをじっくり
の問いですが、みなさま「命」がどこから来るかについて答えている気がしたのですが、この問いは「命萌え出づる春」がどこにあり、どこから来るかなのではないかと、細かいのですが、そう思いました。
Q;どこにあり
A;自分の心にあり
Q;どこから来るのか
A;大生命の愛(なんかこの答えは恥ずかしいです)
投稿: 多久 真里子 | 2008年4月 4日 20:53
雅宣先生、
私は、【私に「師」はいません。】と書いていますけれど・・・・。
>あなたは「師の役目」をはたしてくれるのが雅春先生の著書、文章だと書いておられますが、言葉の使い方がルーズだと思います。
【そのおおもとは】という言葉が抜けています。この【そのおおもとは】を入れると、ある意味では、『ルーズ』と言われても致し方ないことだと思います。
尾窪さん、どうもです。対話が中途半端な状態で終わることがあり、申し訳なく思っています。ほぼ、書きたいことを書いて送信するものですから、ここに掲載するにふさわしくないことがあるようです。
>早勢さんの疑問「他人」の意味ですがそれは「谷口雅春大聖師以外の人全て」ではないか!と思います、
ということであれば、私が「師」を雅春先生とした場合、雅春先生だけが説く教えに従っていれば良いということになりますが、これで良いのですか?
もうひとつ、【雅春先生の膨大で広くて深い洞察と真理の表現の著書の中で理解できない事をピックアップ・・・・】云々ですが、私は雅春先生の著書の中で理解できないことがあるとどこかで書いたでしょうか?
私はある限定された対話の中で、理解できない説き方があったとき時、そこに質疑が発生するという意味で書いたのですが。
※参考のため、前掲を記載します。
「師は教えを説き、信徒はその教えを受ける。師の教えが理解できない時、そこに質疑が発生する。」
投稿: 早勢正嗣 | 2008年4月 4日 23:30
早勢さんへ
1、中途半端な状態で終わる事があり申し訳なく思っています。
2、師を雅春先生とした場合雅春先生が説く教えに従っていれば良いと言う事になりますがこれで良いのでしょうか?
3、雅春先生の著書の中で理解できないことがあるとどこかで書いたでしょうか?
について私個人の現時点での考えは以下の通りです、
1、それは早勢さんの自由ですから申し訳なく思って貰わなくても良いです、私の思考はすぐ別の所に飛んで行きますから、、(笑)、
2、師がただ一人なのですから師を越えない限り止むを得ないのではないか?と考えますがそれも早勢さんの自由だと思います、
3、ですから、師(谷口雅春大聖)は教えを説き、信徒(早勢さん)はその教えを受ける、師(谷口雅春大聖師)の教え(著書)が理解出来ない時、そこに質疑(その著書の中からピックアップして)が発生(師は故人ですから講習会や誌友会で質問)する、
と言う事ですから著書が全て理解出来ていれば(しかし正確に)他人(谷口雅春大聖師以外の全ての人)に何も聞く必要は無いのではないか!、寧ろ早勢さん自身が人類の師にならなければならない!と思います。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月 5日 19:00
本題と違う論争ですが、皆様が真剣に書かれている様子を拝見して、私も真剣にこの問題に対して、昨日くらいから考えています。
“師”と“弟子”は、“師”が“弟子”を「あなたは私の弟子だ。」と思うことと、“弟子”が“師”に対して「あなたは私の師だ」と思うことによってなりたつと思います。
片思いでなく、両思いならその時点で言葉で会話をしなくても成立するのではないかと思いました。
“両思い”って・・恋愛みたいな表現になってしまいました(笑)
早勢正嗣 さんの書かれた。
※参考のため、前掲を記載します。
「師は教えを説き、信徒はその教えを受ける。師の教えが理解できない時、そこに質疑が発生する。」
私も谷口先生のブログにコメントする様になったころ、同じ考えでした。しかし、先生のお答えを何度も頂く中で私は問いをしているのでなく、答えている気がしました。
師は問い、弟子が答える
本当の答えが出る問いをするっという方法を使うこともあるのでは?などと考えました。
投稿: 多久 真里子 | 2008年4月 5日 20:34
多久さんへ
前のコメントですがもう二行上から読まれると「命はどこにあるか」の問いであり、"それ"と言う代名詞は「命はどこにあるか」を指していると思いますよ!
それはそれとして「どこからくるか」にたいして「大生命の愛(恥ずかしい)」と言われていますが大生命を神仏、愛(エロス、友愛、家族愛、慈悲)を慈悲と考えた場合「大生命の愛」の考えに私は現時点では同感です(笑)。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月 6日 02:08
多久さんへ
最後のコメントの「師は問い、弟子が答える」
「本当の答えが出る問いをする」と言う方法を使うこともあるのでは?などと考えました」ですが私はそれが順序だと思います、例えば学校の先生(師)が問い、弟子(生徒)が答える」それを生徒(弟子)が「考えたくないから先に答えを言って下さい!それで分からなかったら質問しますから」と言うのは私は変だな!と思います。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月 9日 11:51
雅宣先生が書いた内容は、
>私たちは今、「命萌え出づる春」を目の前にして、それがどこにあり、どこから来るかをじっくり考えてみるのはどうだろうか?
です。
これは答えを求めているものではないと思います。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年4月 9日 17:25
早勢さんへ
答えは求めておられません、「じっくり考えてみるのはどうだろうか?」ですから、、、じっくり考えてみたら良いだけです、他の学校の先生がテレビで出題された様なもので(笑)考えようが考えまいが各人の自由、他の学校の先生は答えだけ求める他の学校の生徒に教えようが教えまいが自由、他の学校の生徒は色々考えて「こうだと思いますがどうでしょうか?」と聞かれたらあるいは理解度を見ながら教えて下さるかも知れませんがこれも他の学校の先生の自由、それよりも自分の学校の先生に聞かれた方が早いと思います(笑)、しかし生徒が自分の学校の先生と同等かあるいは越えている場合は聞く必要性が無いでしょう、、、他の学校の先生を試してみる、、と言うのでしたら別ですが、、、それならばそんな無駄な事はしないで、その生徒は早く先生になるべきだ!と考えますが、、(笑)。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月10日 02:29
尾窪さんと多久さんは、何か勘違いをしていると思います。
私の最初の投稿文には、既に雅宣先生から返答を頂いていますので、納得済みであります。
たまたま、多久さんが私の投稿文の「師は教えを説き、信徒はその教えを受ける。師の教えが理解できない時、そこに質疑が発生する。」を引用して話を進めていますが、それは私が意図したものではありません。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年4月10日 19:13
早勢さんへ
納得されているのですか?一件落着ですね(笑)
それでこれは早勢さんの自由ですが、早勢さんは「命はどこにあり、どこから来るか?」をじっくり考えて見られましたか?もし考えて見らておられましたら教え下さい(私は現時点での私自身の考えをコメントしています)。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月11日 14:33
尾窪さんへ
>納得されているのですか?一件落着ですね(笑)
なぜ、【納得されているのですか?】と書いたのですか?
私は、【師の教えが理解できない時、そこに質疑が発生する。】と書いています。
「命」の件は、この返答の後に書きます。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年4月11日 18:09
早勢さんへ
1、「何故、納得されているのです?」と書いたのですか?
2、「師の教えが理解出来ない時、そのに質疑が発生する」と書いています。
について
1は早勢さんが「既に雅宣先生から返答をいただいていますので納得済みであります」とコメントしておられましたので、その様に書いたのです、
2、この件は例え話を出して度々コメントしています、それはそれで良いのです、師でもない副総裁に対して指導法を指導されている様に感じましたのでそれは"高慢""高ぶり""横柄"自信過剰""干渉"ではないか!と私個人が思っただけです、思わない人もいるでしょうからこの件は終わりにしましょう(笑)>
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月12日 13:00
早勢さんへ
追伸です(笑)、では「納得されていないのですか?それは何ですか?」
それから一般論ではなくて早勢さん個人について師(ただ一人の谷口雅春大聖師)の教え(著書、文章)で理解出来ない時(所)は無いのですか?無いのなら不必要ですが、、あれば本人が故人ですので講習会や誌友会で講師の方に質問されたらどうでしょうか?(勿論早勢さんの自由ですが)。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月12日 17:10
尾窪さんへ
1の件
私の納得済みを知ったならば、たぶん「納得していたのですね」であり、?マークも付かないのではないかと思ったものですから、逆に質問をしました。
2の件
尾窪さんは、はじめから勘違いしているようです。私ははじめに「副総裁は、信徒側から見れば、師となる側の人です。」と書いていますから、私の使った『師』の意味を理解してください。ですから、あなたの書いた「師でもない副総裁に対して・・・」の【師】は、私の書いた『師』とは全く意味合いが違うものです。
追伸の件
>追伸です(笑)、では「納得されていないのですか?それは何ですか?」
すみません。何を質問されているのか意味がわかりません。
それと、【師(ただ一人の谷口雅春大聖師)の教え】とありますが、私はこのような言葉は使っていませんのでご注意ください。
私は、雅春先生の著書・文章を四六時中読んでいるわけでもないし、また、著書・文章の内容も忘れていることは沢山ありますから、理解出来ない時(所)は無いのですか?と聞かれても、これに正確に答えることはできません。理解できないことがあった場合のことは、その時に考えます。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年4月13日 00:56
「命はどこにあり、どこから来るか?」について
今、私の命はどこにあると聞かれれば、この肉体にあると答えます。
「命はどこから来るか?」
突き詰めて考えると、「命は命から来る」になってしまうのですが。慣れた言葉を使うと「命は神から来る」でしょうか。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年4月13日 01:12
早勢へ
「命はどこにあり、」は人間個人の命の事では無いとは思いますが、考えておられる事は大体わかりました、長いやり取りでしたが本当に有難う御座いましす、又よろしく御願いいたします(笑)。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月13日 23:34
>考えておられる事は大体わかりました、
大体という言葉はあやふやであり、また、自分はわかったと思っていても、本当のことは何もわかっていなかったということは、私のこれまでの経験でも多々あることです。相手に対して、自分が何がわかったのかを伝えることは生きていくうえで、非常に大切なことではないかと思います。
あと、このような文章でやりとりをする場合、【(笑)】の多用は、時折、相手に不快感を与えるのではないかと思います。これをここに書いたのは、自戒の意味も込めました。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年4月15日 18:57
早勢さんへ
「大体という言葉はあいまいであり」について
汝自身を知れ!との言葉がありますが、悲しい哉、私は私自身の事をもはっきり分かっていないのです、従いまして論点が次々変化して行く早勢さんの事をはっきり知る事は出来ませんし、分りませんのでそう書いただけで他意はありません、
(笑)が多く不快感を持たれたとの事、(笑顔)なら良かったかも知れませんね、申し訳御座いませんでした。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月16日 14:03
早勢さんへ
やり取りを見ていましたら「早勢へ」と呼び捨てのコメントがあるのに気付きました、「早勢さんへ」の誤りです、お詫びして訂正致します。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年4月17日 17:43
副総裁は、命がどこにあり、どこから来るかとお考えなのでしょうか?
結局、この問いに対する副総裁の返答は得られないのですね。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年5月 3日 08:33
早勢さんへ
私が又言うのも変ですが、副総裁はコメントに関して「実名を歓迎します」と言う発言をされた時に「答えたくないものには答えない」と言う自由宣言をされていると思います、私は何事についても強要、強制は善いとは思いません、これは私の早勢さんへの要望なのですが師の役目を果たしてくれているものの、おおもとである雅春先生の著書、文章の中から「命はどこにあり、どこから来るか」の解答が必ずあると思いますから早勢さんの考えではなく著書、文章から探し出して教えて頂きたいと思います、勿論早勢さんの自由ですが、、、。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月 4日 17:39
尾窪さんは、随分私の使った言葉にこだわりを持っていますね。返答の件については、強要、強制はなく確認ですよ。それに、「師の役目」とか「雅春先生の著書」云々は全く関連性はないですよ、確認なのですから。
尾窪さんは、深読みのし過ぎです。シンプルに行きましょうよ。
ただ、今回思ったのは、「答えない」という「返答」すらしないとというのは、対話という形式から考えると私的には???です。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年5月 4日 23:19
早勢さんへ
早勢さんの使った言葉に拘りはありませんが考え方に私とズレがあるだけです、私はシンプルに考えて発言しているのですがそうではないと早勢さんは考えられるのですから、、、(笑顔)、答える答えないは自分のブログで立場もあり自由ですし、そう宣言されているのですから、それは尊重されなければならないと私は考えていますから答えないのか!と不満に聞こえる早勢さんとズレが生じるのは無理の無い事かも知れませんが返答がない!と言う事は、確認済みです、改めて確認する必要がない!と言う事です「答えたくない事には答えない」と最初から断って、それを承知で参加させて貰っているのですから、、早勢さんにとって師でもない副総裁個人のブログで一般読者を含め全ての人々に「どこから来るか考えてみてはどうだろうか?」の提言ですからそれぞれが考えて見たら良いだけです、それだけの事です、とてもシンプルだと思います、解からなかったら(勿論私も自分なりの考えはありますが正確には解かりません、、)師のいない早勢さんがどうしても本当の答えを知りたいのでしたら簡単に他人に求めないでおおもとの生命の実相40巻を何十回も読むとか自ら修行するなり、座禅瞑想するなりして、自力で悟られるのが一番ではないか?と考えますが"おおもとの雅春先生の著書、文章の中に必ずある(私は分かりませんが、、)と確信していますので捜されるのも一つの方法だと思います、宗教家でこの問題を避けて通っている人はいないでしょう、一般の多くの人は考えもしないし、勿論、それぞれ勝手な事を言うでしょう(私もその一人です(泣)、そしてその著書、文章の中で発見されましたならそれを教えて下さい、教える、教えない、答える、答えないは勿論早勢さんの自由です、、。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月 5日 13:33
早勢さんへ
早勢さんの発言「ただ、今回思ったのは「答えない」という「返答」すらしないというのは、対話という形式から考えると私的には???です。」について私の感想ですが
私に対する発言ならば何も言う事はありませんが、相手と場所を考えないものの言い方が相変わらず高慢、横柄、高ぶりな態度で私的には頂けません!対話する価値もない!と考えます、「私は賢いと思う愚か者よりも、私は愚かであると思う愚か者の方がまだマシである」と言う言葉がありますが全く本当だなあ、、と残念ですが感じさせられました。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月 5日 22:41
尾窪さんへ
私は、副総裁からの直接の返答をいつも期待していたのですが、残念です。
もうひとつ残念なことは、私のコメントの結果だけを見て(なぜ、そのような書き込みをしたのかを尋ねることもなく)、私に対して「相手と場所を考えないものの言い方が相変わらず高慢、横柄、高ぶりな態度で私的には頂けません!対話する価値もない!と考えます」と断定的な言葉を急いで使われるのか、理解に苦しみます。
また、副総裁に対する疑問を呈する行為が、「高慢、横柄、高ぶりな態度」と受け取られたなら、それは、私が至らない結果です。
ただ、副総裁に対する疑問を呈する行為が、「高慢、横柄、高ぶりな態度」と受け取られる雰囲気がここにあるような印象もあります。
>副総裁は、命がどこにあり、どこから来るかとお考えなのでしょうか?
この件は、私が「解かっている」か「解かっていないか」とは全く関係ありません。また、これに答えるか答えないかは、副総裁の【自由】ということだったのですね。承知いたしました。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年5月 6日 11:35
早勢さんへ
師のいない早勢さんと私の知らない事を知っている人は皆師であると考える私とではどうしても堂々巡りになりますね、人それぞれでそれで良いのだと思います、ものの言い方例えば早勢さん曰く「答えない」という「返答」すらしないというのは、、、の言い方について私にはどうしても高ぶり、横柄な言葉の様に感じるのです、このフレーズの部分、私は例え不満であったとしても「答えて頂けない」という「返答」も頂けないとう表現であるならば、その様に感じなかったと思いますが早勢さんを高慢と感じられない人も多々おられるでしょう、たまたま尾窪が高慢に感じたと言うだけの事です、尾窪こそ人を誹謗して高慢だ!と言う人もおられるでしょうから是々非々(和して同ぜず)で行きながらも聞く耳は
もって行こうと思っています。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月 6日 23:27
今まで、ここで使った、使われた、『師』という言葉について。
私が最初の書き込みで使った『師』は、道を説く人のことです。
副総裁の
>そういう貴方の「師」とはどなたですか?
の問いに、私は「師と呼べるほどの、直接的な関係を持ったことはありませんから、私に「師」はいません。
」と答えました。“貴方の「師」とはどなたですか?”とは、私個人のことを、いわゆる“師弟関係”を指していると思いましたから、最初に使った「師」と、この時に使った「師」とは、意味が違うのは必然でした。
この後、副総裁から
>「師」と「弟子」という表現は、特定の個人間の関係を指します。師から弟子として認められていない人は、いくら自分で「弟子」だと思っても弟子ではありません。
とありました。
これは、私個人の『師』について答えたものとは、全く矛盾していないと思いました。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年5月 7日 06:36
副総裁は本当に寛容で忍耐強い人ですね、
「水は流るれども、心は競わず」の様な心境で切ってしまって良い様な二人のやり取りを見捨てずに静かに自分の場を提供しておられます(維摩居士の沈黙で答えると同様)、これも一つの指導法なのではないか?と思えてきます、私の後輩に陰日なたの無い、嘘のない、賢い素晴らしい人物がいましたが不理尽な事を言って攻める人に対してジッと黙して耐えていましたので「何で黙っているんだ?言ってやれよ!」と言いますと「解からない人に言っても無駄ですから、、」と淡々として普通なのです、そう言う考えもあるんだ!と私は感心した記憶があります、そして釈尊の言葉「粗(そあら)なる言葉をなす勿れ!言われたる者、又汝に返さん、怒りに出づる言葉はげに苦しみなり、仕返し必ず汝の身に至らん」に出会い成程!と思うのですがなかなか私クラスでは実行出来ません(泣)、雑草は根強いですねえ、白隠禅師でさえ大悟18回、小悟数知れず!と言われる位ですから凡夫(言いたい事を言い、食べたい物を食べ、やりたい事をやる"政治評論家の三宅さんの言葉")としましてはせめて時々は刈り取りを忘れないで行こうと思います。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月 7日 10:30
>私の後輩に陰日なたの無い、嘘のない、賢い素晴らしい人物がいましたが不理尽な事を言って攻める人に対してジッと黙して耐えていましたので「何で黙っているんだ?言ってやれよ!」と言いますと「解からない人に言っても無駄ですから、、」と淡々として普通なのです、
【解からない人】と決定しまう根拠って何でしょう?。10回言っても解からなかったから、11回目を言っても解からないと判断したからだろうか。
自分が我慢すればそれで済むことや、差し障りのないことであれば、たぶん、その人は何も発言しない傍観者に徹することができるのでないでしょうか。人との関わりを拒絶することができるのではないでしょうか。
関わらないということは、問題から回避することであって、根本的な解決の方法ではないと思います。
人と関わるということは、当然、人と人との間に摩擦を起こすというリスクもあります。そういう状況の中で人は今まで道を開いてきたし、新しい考え方を導き出して来たはずです。
>釈尊の言葉「粗(そあら)なる言葉をなす勿れ!言われたる者、又汝に返さん、怒りに出づる言葉はげに苦しみなり、仕返し必ず汝の身に至らん」
これを承知で、発言しているとしたら?
すべて自分に返ってきて、自分で責任を負うことができるから、安心して言葉を発することができるのです。
投稿: 早勢正嗣 | 2008年5月10日 22:06
早勢さんへ
「解からない人」と決定してしまう根拠って何でしょうか?
について
社内で自分の思う様になっていない事について状況も聞かず彼を怒り、詰っているのです、それに対してどうしてそうなったか?状況を把握する人といきなり怒る人がどの社会にもいるものです、彼はその怒る人の性格を知っていたのでしょう、言い訳をしないでそう答えたのです、怒っていた人は"さわらぬ神に祟りなし"で多くの社員から敬遠され、一部の人とは怒鳴りあいもしていましたし"同じて和せず"状態でした、その後の人生は不明です(南無仏)、ただ修行が足りないと風に向かって唾をついつい吐いてしまうのです(自戒)、その後輩はそれをしないで静かに心乱される事無く淡々としていましたので感心したと言う事です。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年5月11日 20:00