真象と偽象
今日は、関東地方の南東の海上を低気圧が発達しながら北東方向に進んだため、関東地方には毎秒10~20mの北風が吹き荒れて、寒い1日となった。朝の天気情報では降水確率は40%で、午前中は雨混じりの強風だったが、午後になると雨はしだいに降らなくなった。生長の家本部の新館玄関前に立つ小型風力発電装置は、風の吹いてくる方向へ向くように設計されているのだが、向きを頻繁に変えながら回っていた。ビルの谷間にあるため、不規則な風向きに翻弄されていたのだろうか。
午後、明治神宮外苑までジョギングした。強風に備えてウインドブレーカーを着たが、走り出してしまうと案外、風は気にならなかった。午前中降った雨で埃は抑えられていたからでもある。道すがら、いろいろの樹木の芽や花や細い枝が道路に落ちていた。春になって一斉に伸び始めたものが、強風の犠牲になったのである。が、木々たちは強風程度ではひるまないに違いない。街を歩く人々も、この程度の風では顔色を変えることもなく、それぞれが目的地を目指して足早に歩いていた。
「芸術表現について」という題で2回書いたが、その際、現象には“真象”と“偽象”があると述べた。しかし、実際のこの世界で何が真象に当り、何が偽象に該当するかを明らかに判別することは、必ずしも簡単でないかもしれない。犯罪や病気や戦争は基本的には偽象であるにしても、犯罪の動機の中に善意が含まれていた場合、あるいは罪を犯した人間が悔悛して善行をした場合などは、“真”と“偽”が混交してくる。また、大病を患うことで心機一転して、明るい人生観に変わる人もいる。戦争でさえ、渦中で戦う人々の間には無償の愛や、自己犠牲、戦友同士の友情が生まれることは珍しくない。こう考えていくと、真象と偽象の関係は、「白」と「黒」、「1」と「0」のようにデジタルな関係ではなく、純白から漆黒のあいだに横たわる無段階の灰色のグラデーションのようなアナログの関係だといえよう。
そうすると、芸術表現においても、同じことが言えるのではないか。ある絵画は、病床に横たわる人を描いていたとしても、窓から差し込む光の束と、それを受けて輝く白いシーツや、白い壁、苦痛のない病人の顔、枕元に活けられた花……などから受ける全体の印象が“真象”を表す可能性を、私は否定できない。その一方で、結婚式のような一見“真象風”の題材でも、式の参列者の中に新郎・新婦のいずれかの“浮気相手”を描けば、その絵画は“偽象的”と言えるだろう。だから、ある芸術作品が、真象か偽象のいずれを表現しているかの判断には、注意が必要である。
また、こんなケースはどうだろうか?--私は今日、ジョギングの帰途、ある公団住宅の敷地内を通ったが、その一角に、金柑の実が地上に散らばっていた。恐らく強風で落ちたのだ。その光景を私は美しいと感じた。が、翻って考えると、同じ光景を見て「おいしい金柑が落ちてしまってもったいない」と感じる人がいるかもしれない。また、「樹の実が風で落ちるのは不吉である」と考える人がいるかもしれない。そういう場合、この光景は“真象的”“偽象的”のいずれだと言えるのだろう?
金柑のぽつぽつと落つ春嵐
谷口 雅宣
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コメント
ジョギングですか、、心身ともに常に"静"のイメージがしていましたので意外な一面を見させて頂いた感じが致しました、さて"真象"と"偽象"の芸術表現の判断ですが例え偽象の状況にあったとしてもそこに誰が見ても明るい希望に満ちた未来、又は慈悲が感じられる場合は真象で良いのではないか?と思います、そして金柑が強風で落ちて地上に散らばっている光景は人によって見る所を異に致しますから偽象的とも言えますし、真象的とも言えますから、どちらとも言えると思いますが誰が見てもと言うわけにはいきませんからやはり偽象的の方に分があると考えます。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月22日 00:45
「真像」と「偽像」、写真で例えるならピントがあった写真とピントのぼやけた写真でしょうか。
わざと背景をぼかしたりして・・・
投稿: POP | 2008年3月22日 10:00
「像」⇒「象」でした。
投稿: POP | 2008年3月22日 10:04
「ピントのあっていないぼやけた写真」をみてそのぼやけた姿を「真実(実相)または実相をそのままあらわした真象」だと誤解してはならないわけですね。
戦争も病気も「ぼやけた写真」で、その写真を見た時に「これは真象ではない!」と思う人間のその心が「本物」なのだと思います。
ピカソのゲルニカは「ぼやけた現象」をそのまま写し取り、反作用を利用して人々の心の中の「実相」を観る目を呼び起こしたのではないでしょうか。
ゲルニカのすごい所は「ぼやけている」事を認識している上での「ぼやけた」絵画であるからすごいのではないかと思います。
「実相(神の国)」を知らなければ「ぼやけて」いることが分からないわけですから。おそらくピカソは実相を観じ得た人物であり、さらに「人間は誰でも実相を観じ得る」事を知っていた人物であったのだろうと思います。
投稿: POP | 2008年3月22日 10:42
POPさんの
「ゲルニカのすごい所は"ぼやけている"事を認識している上での"ぼやけた"絵画だからすごいのではないかと思います」ですが私は"ぼやけてない"絵画だからすごいのだ!と思うのですがいかがなものでしょうか?
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月22日 19:08
尾窪様 ありがとうございます。
私は絵画の解釈は十人十色、様々で良いと思いますし、尾窪様も同意見でいらっしゃるとおもいます。
今回、私は戦争という現象そのものを『ぼやけたもの』と表現しているつもりでいますので、ゲルニカはそのぼやけたものを「はっきりとぼやけたもの」を(笑)描いていると思っています。
おそらく尾窪様とあの絵に対する解釈は同じではないでしょうか。
しかしあの絵をみてどう感じられますか?私は「美しい」とは思いません、私はただただ「嫌だな。気色悪い。」と感じるのです。そして観る人にそう思わせるのがピカソのねらいなのではと思うのです。
投稿: POP | 2008年3月24日 10:47
PoPさんと同様に私も「ゲルニカ」はモノクロだからでしょうか専門家でもありませんし、好きではありません(笑)!彩色画ならば少しは違うかも知れません、「明日の神話」は結構好きなんです、「戦争=偽象=ぼやけたもの」の表現は同調致しますが「ゲルニカ=偽象=ぼやけたもの」との表現には、、、どうでも良い事かも知れませんが?です、ですから私は「ゲルニカ=政治的意図、圧力、命令により自分自身を偽って美化した作品(ぼやけたもの)ではない、ありの儘の思い(戦争と言う偽象に対する怒りをぶっつけた作品(ぼやけていない)絵画だから凄いのではないか?と考えた次第です、この表現をする事に依ってピカソは戦争と言う人類の愚行に警鐘を鳴らしたのでないか!と考えたのです。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月24日 18:44
つまり、ゲルニカや明日の神話は「真象」に気付かせ、「真象」に導く絵画だから対象は偽象でぼやけていても描かれた絵画はぼやけてはいない!エロ、グロ、捻じ曲げて美化されたものは対象も描かれたものも"ぼやけたもの"であると言う事です。
投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月24日 21:34