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2008年3月17日

芸術表現について

 前2回にわたり、「芸術は、生命(いのち)と生命の触れ合いを表現したものである」という谷口雅春先生の言葉を解説したが、この主題は、口(発声音)による説明ではなかなか意を尽くせない側面があるので、さらに文章によって補足しよう。
 
 3月3日の本欄で、私は絵手紙を用いた「新しいタイプの誌友会」の参考として、『真理の吟唱』にある「良きアイディアを受信するための祈り」の次の一節を引用した:
 
「神は無限のアイディアの本源であり給う。宇宙の一切のものを観察するならば、神が無限のアイディアの本源であることは誰にも解かるのである。宇宙には木の葉一枚くらべて見ても同一の樹でありながら全然同じ葉脈をもった葉は存在しないのである。木の葉一枚一枚の輪郭がえがく曲線の美しさ、葉脈の流れの美しさ、しかも一枚一枚ことごとく異なりながら、美しいのであるから、その無限創造の神秘力に驚嘆するほかはないのである」

 春に萌え出でる若葉を見て、あるいは赤や黄に染まった秋の落葉を見て、我々が上のような思いを心に強く感じることが、「生命と生命の触れ合い」である。葉の形や色の中に表れている植物の生命を、我々が視覚を通して「美しい」と感得するのである。この感得は直感的であり、なぜそれを美しいと感じるかの説明は難しい。が、あえてそれを試みるならば、人間が植物との“接点”や“共通点”を葉の形や色の中に見出すからだ、と私は思う。葉脈の大きな特徴は、左右対称性である。我々人間の肉体の顕著な特徴の1つも、左右対称性である。体の中心部にある背骨から腕が2本、脚が2本、左右に伸びているだけでなく、肋骨、鎖骨、骨盤と、それらを動かす筋肉の構造も左右対称である。さらに目も耳も脳も、その他の多くの臓器も、基本的に左右対称である。
 
Mtimg0611014  植物の葉の色も、我々を感動させる大きな要素である。緑色は、人間の心に安らぎを与えることが心理学的に分かっている。これは、人類の遠い先祖が、森の中で生活していたときに、外敵から身を守れる場所が緑色の樹冠であったからだ、と進化生物学者は説明する。これに対して赤や黄は“警戒色”だが、食物を調理するときに用いた火の色でもある。また、動物に共通の血の色であり、日の出や夕焼けの色でもある。我々の遺伝子の中に刷り込まれているこういう太古の記憶が、紅葉や黄葉を見たときに我々の“感動”の一部を構成するのだろう。だから、「1枚の葉」を見ることで触れ合う「生命と生命」とは、単なる個と個の関係にあるのではなく、多くの生物種を巻き込んだ複雑で、奥深い関係にあるのだと思う。
 
 「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」には、次のようにある--

「私たちが花を見て、花の美しさを感ずることができるのは、私たちの生命(いのち)と花の生命(いのち)とが本来ひとつであるからである。私たちが空の星を見て、それを理解し天地の悠久を感ずるのも、星の生命と私たちの生命とが本来一体であるからである。或いはまた空の鳥を見て、その可憐さを感じ、その声の美しさに聴き惚れるのも、空の鳥の生命と私たちの生命とが本来一つであるからである」

 人間と植物の生命について、ここには「本来ひとつ」と書いてある。この意味は何だろう。私はこう考える。植物は、動物に実を食べられることによって子孫繁栄を図ってきた。こういう言い方が嫌いな人には、植物は動物に果実や穀物を与え、動物は植物の種を運んで殖やすことで共存共栄してきた、と言ってもいい。人間はさらに植物を自ら栽培することで、植物種を護り、人類自身も護ってきた。つまり、両者の利益は一致するのである。この関係は、功利的な要素をもちろん含むが、それだけでなく、長い進化の過程で、エモーショナル(感情的)に牽引する関係も作り上げてきた。だから、我々は多くの植物の果実の味や香りを好ましいと感じるのである。

 「生命と生命の触れ合い」はこのようにして人間の心の中で成立する。が、それを表現せずに、心にしまっておくだけでは芸術にはならない。言葉や絵、写真などでその密接な触れ合いの表現を試みるときに、初めて芸術に向かって動き出すのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

ブログは新しい芸術の表現体でしょうか(笑)
私も先生のような日時計・讃嘆ブログをつけていきます。

投稿: 多久 真里子 | 2008年3月18日 00:33

副総裁は「我々が葉の形や色、花を美しいと感得するのは直感的であり、何故美しいと感じるのか?"人間が植物との接点や共通点を葉の形や色の中に見出す(本来一体である)からだ!"」と申されています、確かにそうではあるのですがその様な事を感じたり表現しようとするものは人間以外には考えられない様に思います、と致しますと人間のみに与えられた能力、特権ではないでしょうか?つまり人間はその様に創造されている、極端な言い方をすれば動植物は人間の為に生かされている、それをどの様に利用享受するかはそれぞれ人間の選択に任されている、神仏が喜ばれる選択をすれば良い結果を得る事になり逆の場合は良くない結果になるのではないか?従いまして「生命と生命の触れ合い」を心にしまっておくだけでは芸術にならないだけでなく折角の神仏の恵を受け取れずに過ごしてしまう事になりますから勿体ない、大いに言葉、絵、写真、その他スポーツでも芸能でも岡本太郎の爆発だあの世界、世界に一人しかいない自分だけのもの(プロではないのですから愚作だろうが駄作であろうが笑われようが貶されようが自由に感じた儘)を表現して行けば良いのではないか?と考えますがいかがなものでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月18日 16:05

尾窪さん、

 誰でも自由な表現をすればいいという貴方のお考えに、私はまったく異論ありません。しかし、“偽象”の表現は日時計主義に反する場合があることも心しておかねばと思います。

投稿: 谷口 | 2008年3月18日 17:33

谷口雅宣副総裁様
「偽象の表現」と言う事なのですが例えば「ふざけた、悪意に満ちた、いい加減な、真摯な姿勢の欠如した表現」の様な意味なのでしょうか?もしそうであるのでしたらそれは「自由な表現」ではなく汚れた、取るに足らない「勝手な表現」ではないか?神仏は喜ばれない!未熟で感動をしない以前の問題です、例え初心者で技量が未熟であったとしてもそれはそれでも良し、大いに表現して行こう!と言う事です、あくまでピュアーが前提だと考えますが、、、どうなのでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月19日 00:01

前から思っていたのですが、コメントを書くときの内容の横の顔がとてもかわいいですね。なんか、楽しくて面白いことを書きたくなります。
 声は確かに雰囲気を掴むことができますが、聞き取りづらかったり、繰り返して聴く場合に最初から聞き直さなければならない手間もあるのかなぁ。と感じました。
 文章はそれに比べて部分的に一行を何回も読み直したり、好きな言葉を発見したらそれを持ち歩くことだってできるし凄いのかなと感じました。
 文章より音声、画像という考えは違ったのかなぁ。とか考えました。
 きっと、文章、音声、画像は比較する物ではなく、日本画、油絵、水彩画みたいな種類なんじゃないかとか思いました。時やその絵描く対象物によって種類を使い分ける必要もある。どれが一番ってことは無いのかなと思いました。

投稿: 多久 真里子 | 2008年3月19日 00:28

尾窪さん、

 「偽象の表現」ではなく、“偽象”の表現、です。

 現象世界には真象と偽象があるといいます。その偽象をテーマにして芸術表現をした場合、日時計主義に反する場合がある--そういう意味です。

 例えば、ピカソの大作に「ゲルニカ」というのがあります。これは、第二次世界大戦を題材にしたと言われています。また、先の戦争中、軍の要請で戦争を美化した芸術を多く創作した作家がいました。また、現代においても、エロ、グロ、ナンセンスを描く漫画家などもいまます。そういうものを指していると思ってください。

投稿: 谷口 | 2008年3月19日 12:00

有難う御座います
つまり何ものかの意図によって捻じ曲げられた表現(プロパガンダ等々)と言う事ですか?例えそうではなくてもエロ、グロ、ナンセンスを描く漫画家等々ですね!やはりこの場合、神仏には喜ばれない(ロトの街の様に)でしょうね!(泣)。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月19日 13:52

尾窪さん、

 ピカソの「ゲルニカ」をご覧になったことはありませんか? 表現芸術はすべて「何ものかの意図」によるものです。少し意味を取り違えておられるように感じます。

投稿: 谷口 | 2008年3月20日 17:20

谷口雅宣副総裁様
意味を取り間違えていますか?う~ん「何ものかの意図」によると言う意味は「ゲルニカ」の様に自らの意思で何ものも恐れず大胆に自らの生命を全開して表現したものではなく、優れた技量の画家が自分の意思に反して軍の要請(何ものかの意思に依る意図)で戦争を美化した芸術作品(偽象)を作る!と言う意味なのです、エロ、グロ、ナンセンスを描く漫画家等々これ等は売れれば良いと言うだけ(偽象)で神仏が喜ばれない作品だ!と理解していました、ですから私は「ゲルニカ」や岡本太郎の「明日の神話」等は"偽象"にはならない!と思っているのです、"偽象"なのですか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月20日 23:19

尾窪さん、

>>ですから私は「ゲルニカ」や岡本太郎の「明日の神話」等は"偽象"にはならない!と思っているのです、"偽象"なのですか? <<

 “真象”“偽象”という言葉は、基本的には人間の手になったものを言うのではありません。私が「ゲルニカ」のことを言ったのは、この作品が戦争を扱っているからです。ピカソの作品が偽象なのではなく、戦争が偽象だという意味です。その点を取り違えておられると思います。

投稿: 谷口 | 2008年3月21日 12:23

成程!戦争、原爆そのものが"偽象"なのですね、作品が"偽象"なのか?と大変な勘違いをしていました(ホッ!笑顔)、ご回答有難う御座いました。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月21日 16:17

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