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2008年3月20日

生命の不死を想う

 春分の日の今日は、午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館で「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」がしめやかに執り行われた。私はこの御祭の斎主として奏上の詞を奉げ、概略次のような言葉を述べた:

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 皆さん、本日はこの慰霊祭にお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。このお祭りは、生長の家の運動に功績のあった人で霊界へ旅立たれた方々の御霊をお招きし、生前のご活躍への感謝と霊界でのさらなる幸福と、我らの運動へのご加護をお願いする大変有意義なものであります。今回は、243柱という多くの御霊様をお祀りすることになりました。
 
 この中で筆頭にお名前を読んだのが生長の家の長老であった清都松夫さんでした。この方は、多くの方はご存じの通り、谷口輝子先生のお姉さまの清都桂さんの息子さんですから、私にとっても親戚に当ります。清都長老とは、ちょうど1年前の3月22日の思い出があるのです。その日は木曜日で休日だったので、私は妻と2人で渋谷の映画館にデンゼル・ワシントン主演の『デジャヴー』という映画を見に行ったのです。私たちは早めに入館して映画の始まりを待っていたら、上映間際になって、白髪の老人が1人でスーッと入って来て、私たちよりかなり前の席に座ったのです。その後姿は、どう見ても清都長老だったので、私たちは驚きました。なぜなら、この映画はミステリー・アクション物で、ストーリーは複雑で、派手な仕掛けがいろいろある映画だったからです。あの静かで、温厚な清都長老が好むような映画とは思えなかったのでした。

 後でご本人から聞いたところ、清都長老はミステリー物の映画が好きで、一人でもよく見に行っていたそうです。また、これは別の人から聞いた話ですが、長老は本部退職後も定期券を買い、世田谷のご自宅から渋谷の行きつけの喫茶店へ通い、そこで本を読んでおられたそうです。私はこういう話を聞いて、一人の人間には他人には分からない、いろいろな側面があるのだなぁとつくづく思いました。人間はこのように、内部に多様性をもち、様々な可能性を秘めていて、たかだか100年くらいの一生の間は、すべての側面を開花させることはできないし、またそうする必要もない。なぜなら、人間には“次の生”があるからです。別の言葉で言えば、人間は再生しながら、多様な側面を表現していくのです。きっと清都長老も、次の生でやりたいことの準備をしていたのだと思います。
 
 私は昨年のこの日にも、慰霊祭を春分の日にするということは、大変時宜を得た習慣だと申しあげました。その理由は、自然界では、これから植物も動物も生命力をどんどん発揮し、花咲き、実を結び、発展するという「成長」の初めにあるのが、今の時季であるからです。空気はまだ寒く、外を歩くにはコートがいる時期ではありますが、辺りには春を知らせる植物の新芽、花、香り、鳥の声や昆虫の羽音などが聞こえます。このように、春は“生命再生”の時期ですから、慰霊祭をするのにふさわしいのです。皆さんも、年をとってきたらやることがないなどと考えずに、新しいことでも何でも積極的にやってみてください。それが次の生への準備になるからです。
 
 ご存じのように、生長の家では「人間の生命は不死なり」と説きます。生長の家だけでなく、多くの信仰でもそのように説いてきました。しかし、これまたご存じのように、人間の肉体は死にます。ここにいる私たちすべても、時期が来ればやがて必ず肉体を失います。しかし、それが本当の人間の死ではないことを、私たちは教わっています。先ほど読んだ聖経『甘露の法雨』には、人間の肉体の死のことを、カイコが繭を食い破って羽化登仙することになぞらえて、「人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん」と書かれています。「人間は生命なるがゆえに、常に死を知らず」とも説かれています。
 
 私たちの周りに、カイコを見る機会はもう少なくなってきましたが、しかしモンシロチョウは飛んでいます。今、飛んでいなくても、やがて飛んできます。ガも飛んできます。また、ハエやハチやゴキブリには、すでにお目にかかっている人がいるでしょう。春という季節は、このように生命が本来の“不死”の姿を表す時季ですから、霊界への転生を想う慰霊祭にふさわしいと言わなければなりません。
 
 スイスで生まれ、アメリカで活躍した精神科医で、終末医療の先駆けとなった人に、エリザベス・キューブラ=ロスという人がいます。臨死体験を扱った『死ぬ瞬間』などの本が世界的なベストセラーになったので、ご存じの方も多いと思います。この人も、人間の死のことを「蝶がサナギから出る」ことになぞらえています。日本で1995年に出た『死後の真実』(日本教文社刊)の中には、次のような箇所があります:
 
「何年も死にゆく患者さんたちと共に働き、彼らから人生とは何なのか、もう今となっては遅い最期となって何を悔やむのかなど教えてもらっているうちに、私は一体死とは何なのかと考えるようになりました。
 私の教室で、幽体離脱の体験を一番最初に話してくれたのはシュワルツ夫人という患者さんで、これが世界中からのケースを集めるきっかけとなりました。今では、オーストラリアからカリフォルニアまで、何百ものケースが手元にあります。その全てに共通している特徴があります。それは、誰もが皆、自分の肉体を脱ぐのをはっきりと感じており、私たちが科学的用語を使って理解しているような死は、存在しないことにも気づいている、ということです。死とはただ、チョウがマユを脱ぐのと同じで、肉体を脱ぐだけに過ぎません。より高い意識への移行であり、そこでは再び、知覚し、理解し、笑い、成長し続けることができるようになります。唯一失うものと言えば、もう必要のなくなった肉体のみです。要するに、春になると冬のコートはもうぼろぼろになって必要ないから、捨ててしまうことと同じなのです。死とは、つまりそういうことなのです。」(pp. 56-57)

 キューブラ=ロス博士がこのような考えに至った背景には、2万件以上の実際の体験者のデータがあるそうです。また、この本の中で、博士は「人間が死なないということは死んでみれば分かる」ということを何度も書いています。だから、私たちも運動の先達や諸先輩がたとい肉体を失われたとしても、今のこの春の季節のように、霊界での新しい境涯に於いて、新たな生命の息吹とともに活動を始められていることを知らなければなりません。そして、これらの御霊さまは皆、今生において人類光明化の善行を積まれた方々ですから、霊界においても私たちと同じ目的で、神の国、仏の浄土実現の活動を進めてくださっているに違いない。と同時に、私たち家族や運動の同志を導いて下さることに感謝し、これからの日々を明るく、愛深く生き、「人間の生命は不死である」という真理宣布に益々邁進していきたいと思うのであります。

 春の慰霊祭に当たってご挨拶を申し上げました。ありがとうございます。

谷口 雅宣

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コメント

雅宣先生、ありがとうございます。
キューブラ=ロス博士のお話、とても心に響きました。
本当に、ありがとうございます。
そして、春という季節は、生命が本来不死であることを、自然を通して教えてくれていたのですね。ありがたいです。
一日一日を大切に、愛深く生きていこうと思います。
雅宣先生、人生ってすばらしいですね。
青年会の活動、がんばります!

投稿: 室井 倫行 | 2008年3月20日 21:37

ミステリーアクション物の映画に静かで温厚な長老が好む映画とは思えなかった、と仰っておられますが長老とまではいかれていませんが副総裁も静かで温厚な紳士の様に見受けられます(笑)し、静かに喫茶店でなくても本を読んだり、映画を見たり、執筆したり、自然に親しみながら絵や言葉で表現されたり、結構外食されたり、散歩をしておられる様なイメージが湧いてきます、ただ、何時も奥さんと御一緒と言う所が長老様とは少し違いますね(笑顔)、意外な一面としてテニス、野球、水泳、卓球、ゴルフ、グランドゴルフ、ソフトボール、将棋、碁等々されているのでしょうか?それで副総裁は次の生でやりたいことの準備はしておられるのですか?私は今の生でやりたいことをやっているのです、、、(他の人々から見れば取るに足らないあきれる事かも知れませんが、、)そして肉体を脱した後どの様な境涯になるのか?全く不明です、ただ"南無"しかありません、そして又人間として最初からやりたいとは思わないのです、と言って人間以外の生物にもなりたいとも思いません、しかし、自分の思う様にもならないのでしょう、、、畢竟神仏のみ知ると言う事でしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月21日 00:17

先生
ありがとうございます。
毎日先生のお話が楽しみで
感動して読んでいます。
春は生命の再生の時期
嬉しいお言葉です。
人間の生命は永遠に生き通しである
次々と感動のお言葉
私たち信徒に先生の愛情が
とても嬉しく思います。
私は先生の進められている
この新しい伝道の仕方について
本当に素晴らしいことと
思います
嬉しく思っています。
私たちも先生の生き方を見習って
毎日を真剣に大切に
生活・伝道していくことだと
本当の思わせていただいております。
心より感謝申し上げます。
再拝

投稿: 河内千明 | 2008年3月21日 04:43

東京に住んでおりますので、久しぶりに慰霊祭に参加させて頂きましてたいへん感動致しました。副総裁先生のお話はいつもWow!!ですが、真理、知識が増し、そしてはっとさせられ、そしてほっとさせられ、最後によっしと私はいつも気合が入ります。信徒遺族代表の方のお礼のコトバも感動しました。そして10年ぶりの慰霊祭には若者の参加が多く、何かがかわった!と思ったら大学生練成会の一同様でした!未来を担う学生への副総裁先生より直接指導。おおお。私も含め若い世代が副総裁先生におんぶにだっこではなく、自分達も何かを積極的に創りだしていかないと。もっといろいろ勉強し、行動に移します!ありがとうございます。

投稿: GEN | 2008年3月21日 06:52

副総裁先生、ありがとうございます。「人間の生命は不死なり」というお話に感激しました。以前から捨てたいと思っていて、なかなか捨てられなかったものが、副総裁先生のお話を聞いて、執着を去ることができ、捨てることができました。その後、とてもスッキリした気分になりました。光が闇を消し、新生した気がしました。
『春は“生命再生”の時期』、『春という季節は、このように生命が本来の“不死”の姿を表す時季』というお言葉に私も感激しました。
投稿遅くなり、申し訳ありませんが、ここに深く感謝申し上げます。


投稿: 丸山貴志 | 2008年3月30日 21:35

丸山さん、

 お役に立てて嬉しいです。今後ともヨ・ロ・シ・ク…。

投稿: 谷口 | 2008年3月30日 22:36

 今年の夏、甥が18歳で交通事故でなくなりました。数日前に、私の妹弟三家族で会食をして元気な姿を見た後だけに、現実のものとは信じられないのが正直な気持ちでした。
 妹夫婦の落胆も相当なものです。
 生長の家では生命は永遠と教わっていますのが、現実に顔を合わせて話ができなくなるのは寂しいものです。
 また、死というものに直面し、生きる意味を改めて考えさせられました。

投稿: 近藤静夫 | 2008年12月28日 07:45

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