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2008年3月31日

命はどこにある?

 我々人間には「命がある」というほど明確な実感はないのではないか。デカルトの有名な言葉--「我思う、ゆえに我有り」は、「我思う、ゆえに我に命あり」と言い直すことができる。なぜなら、命のない死体は、そこに確かに存在していても、「我思う」という意識をもたないから、「ゆえに我有り」の結論を出せないからだ。言い換えると、自分が存在するかどうかを判断する意識をもたないものは、それ自身「我有り」と結論できない。だから、「我有り」という否定しがたいデカルトの実感は、意識の有無と深く関係している。では、命があっても意識をもたない者の存在は、どうやったら確認できるだろうか。この点、デカルトは必ずしも明確でない。

 生物学では、「自己意識」--自己を他とは異なる独特の存在であると思う意識--をもつものは、人間と高等な哺乳動物の一部だけだと考える。それを証明するために、動物に鏡を見せて、その行動を細かく観察する実験などをしてきた。では、意識が生まれる元である命の有無は、どのようにして「有り」と結論できるのか。例えば、アメフラシの命の有無は、どうやって判断するのだろうか。生物学者は、アメフラシの神経系を研究し、そこに微弱な電流が起こるか起こらないか、あるいは神経伝達物質が流れるか流れないかを測定するのかもしれない。では、神経系をもたない植物や菌類の命は、どのようにして有る無しを判断するのか。私はその答えを知らない。
 
 しかし、植物の種(たね)が古い地層の中から発見され、それを適切な環境に置いて光や熱を与えると、発芽して成長したという話は珍しくない。そういう“太古のハス”の花が咲いたと、新聞やテレビで報道されたこともある。だから、命の有無は、現代の科学技術においても直接測定することはできないと考えるべきだろう。我々が大病院の治療室で目撃する様々な機械装置は、「命そのもの」を測定しているのではなく、「命の働き」で生じた電流や磁気、物質成分の変化を測定していると考えるべきなのだ。「命そのもの」はそこにあっても、それが動いて作用を生じる場合とそうでない場合があると考えると、古代エジプト人がミイラを保存することにも、キリスト教で土葬を行うことにも、それなりの合理性があるといえる。が、現代の科学ではこれを一般に不合理だと考えている。

 そんなところへ、植物だけでなく、動物も一種の“ミイラ状態”から甦ることを示した研究成果が報告された。アフリカに棲む「ネムリユスリカ」という蚊に似た昆虫の幼虫は、完全に干からびた状態で10年以上たった後にも甦る例があるという。3月25日の『日本経済新聞』が夕刊で伝えている。それによると、この幼虫が乾期の間に完全に干からびても、雨期になると生き返ることは以前から知られていて、その仕組みをこのほど、東京工業大学と農業生物資源研究所のグループが解明したという。その仕組みとは、体中に行き渡らせた糖類をガラスのように固めることで、体の組織を保護するらしい。この研究を参考にすれば、「ヒトの組織を長期間保存したり、乾燥に強い植物を作ったりする」ことが可能になるかもしれない、と記事は書いている。
 
 この例をみても、「命はどこにあるか」という疑問への答えは、科学の力によってもそう簡単に出てこないことが分かる。私たちは今、「命萌え出づる春」を目の前にして、それがどこにあり、どこから来るかをじっくり考えてみるのはどうだろうか? 
 
 聖経に曰く--
 空間の上に投影されたる
 生命の放射せる観念の紋、
 これを称して物質と云う。
 
 谷口 雅宣

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2008年3月29日

「農地から燃料」ではいけない

 22日の本欄で「食糧危機」の可能性について触れ、現在この可能性に向かって相互連動して動いている4つの要素を挙げた--①中進国の経済発展に伴う動物食の増加、②気候変動による農業生産の不安定化、③石油の高騰、④バイオエタノール・ブーム、がそれだ。この順番に私はこだわらない。が、④について、やや楽観していたところがあった。それは、自動車の燃料にバイオエタノールやバイオディーゼルを使うことは、ガソリンを使うよりも温暖化を推進しないと考えていたのである。しかし、4月7日号のアメリカの時事週刊誌『Time』の記事を読んで、その楽観論が揺らいできた。

 もっとも本欄では、バイオ燃料の環境への貢献度に疑義をはさむ記事を何回も書いてきた。それらの疑問点は、①同じ農地を自動車と人とが奪い合う関係におく、②森林破壊を促進する要素がある、③食糧の値上げを招く、④気候変動を招く、などだった。にもかかわらず、私が頭からこの技術を否定しなかったのは、「地上で育てた植物を燃料にすることは、植物の成長過程で吸収した炭素を放出するのだから、大気中にCO2を新たに排出することにはならない」という議論に納得していたからである。ところが、上記の記事は、その議論は部分的には正しくても「木を見て森を見ていない」とし、「燃料用に植物を育てることは、現状ではまだ非効率的な土地の使用法であり、奇妙に聞こえるかもしれないが、食料を地上で育て、石油は地下から掘る方が我々にとってよい結果が得られる」と書いている。そして、地球温暖化問題に関して、「現状では、バイオ燃料は解決策の1つなどでは全くなく、解決すべき問題の一部なのだ」と結論している。
 
 記事が問題にしているのは、ブラジルのアマゾンやセラードなど、大気中のCO2の吸収に絶大な役割を果たしてきた世界中の森林が、昨今のバイオ燃料ブームによって急速に減少しつつあることだ。それがどうやって起こるかを図式的に示そう--「アメリカのバイオエタノール・ブーム」→「原料であるトウモロコシの大増産」→「ダイズの作付面積の大幅な減少」→「ダイズの値段の高騰」→「ブラジルでのダイズ作付面積の拡大」→「ブラジルの土地の価格高騰」→「アマゾンやセラードの違法または合法の伐採」。これと似たパターンが、インドネシアなどの東南アジアにおけるヤシ油の増産と熱帯雨林の伐採の関係にあるという。そして--これが一番問題なのだが--アメリカでもブラジルでも東南アジアでも、森林伐採やバイオ燃料の栽培、精製、販売に関わっている人々は大抵、経済的繁栄を大いに享受しているのである。
 
 超大国の中心者である政治家の決定が、地球全体にどれほど重大な結果をもたらすか、と思い知らされる。アメリカでのバイオエタノールの大幅増産は、ブッシュ大統領が昨年の一般教書演説で打ち出した政策である。この政策にもとづいて今、大いなる資金が世界中に投入されている。上記の記事によると、バイオ燃料への投資額は、1995年に世界全体で50億ドルだったのが、2005年には380億ドルに達し、2010年には1千億ドルに上ると予測されている。これは、イギリスのバージン・グループのリチャード・ブランソン(Richard Branson)氏や投資家のジョージ・ソローズ氏(George Soros)のほか、GE、BP、フォード、シェルなどの世界的大企業が参加しているからだ。今行われているアメリカの大統領選挙でも、民主党の2人の候補者はバイオエタノールの利用をさらに促進すると公約している。だから、動き始めたこの大きな潮流の方向は、早期に変えなければならない。

「農地から燃料を採る」のではいけないのだ。バイオ燃料は、農地以外から、CO2を極力出さずに、しかも森林を破壊せずに得るのでなければならない。

 谷口 雅宣
 

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2008年3月27日

幸せなひととき

 桜の開花宣言が出てしばらくたった休日ということで、横浜まで夫婦で足を延ばHanam03271した。花 見に期待していたことは言うまでもないが、主目的は5月初めの生長の家の組織の全国大会を期して出される単行本の校正や原稿書きだった。「旅先で校正する」と言うと奇妙に聞こえるかもしれないが、要するに“缶詰状態”に自分を置くためだ。自宅での休日はどうしても気が緩むし、周囲にいろいろのものがあるので誘惑が多いのである。「これさえ終えれば、後は花見!」と思いながら、周囲に何もないところで神経を集中する……ということで、とにかく形を整えるところまで仕事を終え、人々に混じってほんの少しだけ花見ができた。ありがたいことである。
 
 横浜港の大桟橋には、ちょうど上海から豪華客船の「飛鳥Ⅱ」(5万0142t)が入港したところだった。昼前には、これに「にっぽん丸」(2万1903t)も加わって、見物客もかなり出て、大桟橋周辺は華やかな雰囲気になっていた。が、私たちは、そういう混雑から少し距離をおいて、山手の丘の上へのぼり「港の見える丘公園」付近で午後の数時間を過ごした。私は、そHanam03272 の公園に日時計があるのを覚えていて、ついでに写真を撮りたいと思っていた。生長の家の講習会で「日時計主義」の話をする際に、実物の写真を見せるのが効果的と考え、これまでは十勝の帯広中央公園にある日時計の写真を使っていたが、そろそろ別のものに変えたいと感じていたのだ。

 公園にも、平日にしては多くの人々がいたが、大桟橋付近のように「列をつくる」ほどのHanam03273 人出ではなかったので、ゆっくりと写真が撮れた。まだ五分咲き程度のものがある一方で、満開のサクラが何本もあった。そういう木の周囲はほの白くなっているので、遠くからでも分かる。近づいていくと、必ずといっていいほど、高級な一眼レフ式のデジタルカメラを提げた中高年の人(男も女も)がいて、熱い目で満開のサクラを眺めているのだった。公園の外れに近代文学館があるが、その付近のサクラが何本も見ごろを迎えていたので、私も“中高年”の一員としてデジカメを構えて何枚か写真を撮った。そのあと妻と2人で、公園内の「山手111番館」という市が管理する木造の洋館へ入り、コーヒーとハーブティーを飲みながらケーキをつついた。幸せなひとときであった。

 旅に出て桜ケーキで花見かな
 
 谷口 雅宣
 

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2008年3月26日

地上資源文明への転換 (2)

 池内教授は、有限の地下資源に依存せずに、地上資源を、その循環的性質を損なわずに効果的に組み合わせることが、今後の人類の生きる道であるという。そういう前提のもとに、農業に注目する。なぜなら、これこそ太陽がもたらす地上資源のうち最古のものであり、「地上資源を最も効果的に利用している」営みだからだ。同教授は「農業は太陽の光と大地の力と人間の労働が織りなす自然の芸術」だとさえ言う。

 このような観点から見れば、食糧自給率が4割を切る日本の実情は深刻である。が、同教授は、日本において「農業が見直されるのはそう遠くはない」と予言する。何が日本の農業政策を変えるかについては何も書いてないが、私が想像するところ、石油の価格高騰や資源の囲い込み、人口増加にともなう食糧の価格高騰などによって、日本は政策転換を余儀なくされるのだろう。農業は基本的に地域分散的産業だから、これによって「地域の復権に必ずつながっていくだろう」と同教授は言う。そして、地上資源文明が開花し始めるというのだ。

 この新しい文明においては、従来の一極集中の大型化を推進する技術ではなく、「地域分散的な生活を目標とする地上資源を用いた小型で多様な技術の組み合わせに替わってゆく」と同教授は予測する。なぜなら、「地上資源による多様化・分散化こそが地球に似合った文明の形態」だからという。

 この線に沿った世界の将来像は、別の人も別の用語を使ってすでに提出していて、私もどこか(恐らく『足元から平和を』の中)でそれを紹介したことがある。つまり、再生可能の自然エネルギーは、太陽光も風力も、バイオマスも、波力も、地熱も、全地球的に分散して存在するから、地元生産・地元消費が原則であり、それを基礎とした新しい社会は当然、中央集権的ではなく、地方分権的になるという考え方だ。この大変革の先鞭をつけるのが、農業の復興であるかもしれない。私が、3月8日の本欄で食品の値段の今後の上昇について書いたとき、「食品の値上がりにも“光明面”はある」と書いたのは、このことなのである。
 
 農業の復興は、すでにアメリカにおいて兆候が見られる。これはご存じのように、中東の石油に依存したアメリカ経済が9・11事件を生んだ要因の一つだとの反省に立ち、ブッシュ大統領自身がエネルギー安全保障の立場からバイオエタノールの大増産を決定したことに端を発する。このおかげで、エタノールの生産量はここ数年で急拡大し、2005年にはアメリカの生産量がブラジルのそれを追い抜いて世界一になった。それに応じて、アメリカの農家の収入も急拡大している。このほか、ヨーロッパやアジアでもバイオエタノールやバイオディーゼルの生産がブームとなっていて、2000年に世界全体で約二千万キロリットルだったバイオエタノール生産量は、2007年には倍増して約五千万キロリットルになっている。(25日『日経』)

 日本にも遅まきながら、同様の動きが出てきている。25日の『日経』夕刊は、新日本石油や出光興産、トヨタ自動車などの民間16社と経産省、農水省、東京大学などの産官学による「バイオ燃料技術革新協議会」が、2015年までに最大で20万キロリットルのバイオ燃料を国内で生産する目標を定める、と報じている。アメリカに比べ2桁も少ない量だが、アメリカより優れている点は、このバイオ燃料は人間の食糧と競合しないヤナギや大型草などを主原料とすることだ。試算によると、東京の山手線内の面積の1.5倍の耕作地があれば、年間10万~20万キロリットルのバイオ燃料が「リットル当り40円」で生産できるという。必要な栽培面積は現在、減反などによる未利用農地を活用することでまかなえるらしい。
 
 こうして地方の休耕田が活用され、農家の収入増に結びつけば、若者の“農業回帰”も増えてくる可能性があるのではないか。が、それにしても、日本のバイオ燃料の導入目標は現在「50万キロリットル」だから、いかにも小規模である。「急激にはやりたくない」という意志の表明だろう。また、地下資源の利用者に地上資源を開発させようとしている。これでは、早急な文明の転換は難しいと言わねばならない。
 
 谷口 雅宣

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2008年3月25日

地上資源文明への転換

 総合研究大学院大学の池内了(さとる)教授が『日本経済新聞』紙上に書いておられた「未来世代への責任」という連載が終った。なかなか示唆に富む内容で、世代間倫理を重視しつつ、文明史的視点から今後の人類の進むべき方向を平易な文章で明確に示している点で秀逸である。私は本欄などで、地球温暖化問題を解決するためには、人類は化石燃料を基礎とした“炭素社会”から脱却し、大気中に豊富にある水素や太陽エネルギーを利用する“水素社会”へと早く転換すべきことを訴えてきた。これはまた、アースポリシー研究所を主宰するレスター・ブラウン氏(Lester R. Brown)などが唱えていることと同じである。が、池内教授は、この“炭素社会”“水素社会”の代りに「地下資源文明」と「地上資源文明」という言葉を使う。そして、この方が分かりやすく、また的確な表現だと私は思った。

「地下資源文明」とは、それまで森林を伐採してエネルギーや資源としていた人類が、約250年前に起こった産業革命により、石炭や鉄鉱石などの地下資源を利用した機械文明を確立し、さらに石油や石灰などの地下資源に依存する科学技術を発展させてきた、現在の文明のことを指す。この文明を推進するためには、「地下」が重要だから、山を崩したり、地下や海底深くまで掘削するための巨大な機械と、それを生み出す大きな資本力が必要で、そのため大量生産、大量消費、大量廃棄を前提とする文明が育った。本来、地上に存在しなかった資源を地下から大量に掘り出し、それを燃やしたり加工した後に、利用されないほとんどの物資を“廃棄物”として地上に捨てるのである。ここからは当然、公害問題が生まれ、やがて昨今の地球環境問題も生じてきた。また、地下資源は無限でないから、この文明が発達するにつれて、資源の枯渇問題が生じてきている。

 この「地下資源文明」に固執する限り、人類の未来はない。このことは明々白々の事実なのだが、池内教授によると、「いったん禁断の木の実の味を覚えた人間はそれを簡単に打ち捨てることはできないどころか、いっそう地下資源への依存を強めている」のだという。これでは未来世代への責任は果たせないから、「無限とも言える容量があり、環境と調和できる地上資源へと可能な限り切り替えること」を同教授は提案している。要するに、地上に於いて利用できる太陽光、バイオマス、地熱などの自然エネルギーへの転換である。これらの自然エネルギーは「安定性」に問題があるとよく言われるが、それは、石油や石炭のようにもともと貯留されていたものと比べるから“問題”であるように感じられるだけで、「可能な方策を柔軟に組み合わせればよく、一つの方法ですべてを賄う発想は時代遅れなのだ」と同教授は言う。

 私も、その通りだと思う。地下資源は、地下のあちこちにあるのでなく、特定の地域に遍在しているから、その土地の埋蔵量があるかぎり“安定”しているように見えるが、その資源が貴重であればあるほど、土地をめぐって政治的対立が起きやすいし、掘り尽くしてしまえば廃墟が残るばかりだ。日本国内でも、かつて金山や炭鉱があった場所を思い浮かべれば、そのことがよく分かる。これに比べ「地上資源」は、基本的に循環型である。その源は太陽エネルギーだから事実上「無限」であるが、それが人間に利用できる形になった時--例えば、バイオマス、水力、風力、波力など--は有限であり、安定的でない。だから、地上資源の循環が断たれないように、相互補完的に組み合わせて利用すればいいのである。

 谷口 雅宣

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2008年3月23日

素鳳館の人形

 生長の家の講習会で鳥取県米子市に来ているが、前日の夕方、2年半ぶりに市内を歩いてみた。宿舎のホテルの近くに米子市役所があるが、その敷地に隣接して建っていた「素鳳館」という木造の建物の跡地がどうなっているのか、気になっていた。この建物は、かつて講習会で来たときにスケッチをし、その絵が絵葉書にもなったのだが、前回ここを訪れた際、ブルドーザーによって取り壊されているのを目撃して驚いた。歴史的建造物はできるだけ残しておいてほしいのだが、この木造の館は、米子市にとってはそれほど重要な建物ではなかったのかと、寂しく思ったものだ。で、今回、その場へ行った私を迎えてくれたものは、駐車場を完備した吉野家の牛丼店だった。

 これと類似した現象は、米子市の各所で見られた。東京や大阪でもよく見かけるブランド店や大企業の看板が増え、特徴的な町並みが消えていく。旧く個性あるものが廃れ、新しい没個性的なものが栄える。これを文明の進歩と考えるわけにはいかない。そんな中で、前回ここを訪れた際に立ち寄ったコーヒー専門店があるのを見つけ、妻と私は喜んでそこでひと時を過ごしたのである。
 
 講習会終了後、市内の皆生(かいけ)温泉にある「素鳳ふるさと館」という所へ立ち寄った。「素鳳」の名に惹かれたからである。そこで知ったのは、「素鳳」とは、ある個人の雅号であるということだ。この個人とは、書道家の坂口真佐子氏(1908年~1997年)で、この人が長年にわたって収集してきた雛人形、御所人形、衣装人形などのコレクションを展示するために昭和43年に造ったのが「素鳳館」だった。「素鳳ふるさと館」には、素鳳館に収められていた伝統的人形コレクションが展示されていた。それと同時に、今はなき素鳳館のちょうど向い側に位置する米子市立山陰歴史館でも「素鳳展--春をつげるお人形たち」と題して、雛祭りの季節にちなんだ人形展が行われていた。素鳳館のコレクションは、日本人形のほか西洋人形、江戸時代からの絣・更紗、装身具、調度品など約2000点にも上るという。
 
 私は、雛人形にはあまり興味をもっていなかったが、今回、江戸時代からの雛人形の変遷を眺めてみて、近代以降の日本人の、女の子に対する思い入れの深さをしみじみと感じた。日本の文化は“男尊女卑”などという単純な言葉では表現できないと思った。雛人形の表情は多様で生き生きとしており、着衣は贅を極めているだけでなく、女子が他家へ嫁いでいく時に持参する家具や調度品を模した、精巧なミニチュアが数多く、展示品には添えられていた。それは、現代の人形に添えられるプラスチック製のミニチュア家具などとは違い、本物と同じ工程を経て作られるミニチュアの陶器や漆塗りの調度品なのである。それらはもちろん、一般の市民が持てるものではないが、女子に対する心遣いが上流階級と一般市民とでそれほど違うとも思えない。そういう文化が、現代の雛人形にも継承されているのだと知った。
 
 ところで、我が家にも娘のために買った雛人形がある。何段にもなる大袈裟なものではなく、男女の内裏雛だけのものだ。娘はすでに家を出て自活しているが、妻は今年も3月3日を前にしてそれを部屋に飾り、子供たちを呼んで食事会を催した。江戸時代と比べ生活習慣も住宅事情も相当変わり、他家へ嫁ぐ娘に持たせるという昔の習慣はなくなったが、心遣いは共通していると思う。人形の文化は女性が継承するものなのだ、と感じた。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年3月22日

食糧危機が近づいている?

 3月8日の本欄でも取り上げているが、このところ食品の値上がりが続いている。これは日本だけのことではなく、世界的な現象だ。原因もわかっているが、効果的な対策が講じられているとは思えない。原因は、①中進国の経済発展に伴う動物食の増加、②気候変動による農業生産の不安定化、③石油の高騰、④バイオエタノール・ブーム、などだ。この4つの要素は、相互に密接に関連している。肉食が増えれば農地が減り、農地を得るために森林伐採が進み、気候変動が深刻化する。人口の多い中進国(中国、インドなど)の経済発展は温暖化を促進し、石油や資源の需要を増大させ、石油の値上がりはバイオエタノール・ブームを生む。エタノール生産を増やせば、食糧用農地が不足し、農地拡大が森林伐採を進める……という具合だ。世界は今結束して、この悪循環を止めなければならない。
 
 アメリカの時事週刊誌『Time』は最新号(3月31日付)で、この世界的な食品の値上がりを取り上げ、途上国の貧困層への影響が深刻化していると伝えている。それらの国では、2年間に値段が倍になった食品もあり、多くの国々で市民の不満が爆発して、中にはメキシコやパキスタンのように、暴動に発展している国もある。また、西アフリカのブルキナ・ファッソでは先月、暴徒が3都市を破壊し、政府の建物を焼いたり、商店を略奪したという。昨年後半には、セネガルやモーリタニアでも、同じような暴動が起こっている。昨年10月、インドの西ベンガル地方でも、何百もの食品店が焼き討ちにあったそうだ。それらの店が、政府からの配給用食品を闇市に流しているという理由だ。
 
 ワシントンにある国際食糧政策研究所(International Food Policy Research Institute, IFPRI)の分析では、このような食品の高騰は少なくとも10年は続くという。理由は、上に挙げたような状況がそう簡単には変わらないからだ。そして、アースポリシー研究所のレスター・ブラウン氏(Lester R. Brown)は、3月20付けのニュースレターで、このような食糧危機の背後には、地球温暖化による世界の氷河の融解がある、と警鐘を鳴らしている。
 
 それによると、今後の大きな問題は、ヒマラヤ山脈にある氷河が急速に融け出していることだ。ここはガンジス川、黄河、長江などへ水を送る重要な役割をもっていて、氷河が凍っていれば、乾期にもこれらの大河に水を送り、中国やインドの内陸部に水を供給することができる。しかし、温暖化で早期に氷河が融け出すと、灌漑用の水を供給できなくなる恐れがあるという。中国とインドは、小麦と米の大生産地だ。中国の小麦の生産量は世界一で、アメリカの倍近くある。インドの小麦生産量は世界第2位だ。これにコメの生産を加えると、中印2国で世界の穀物生産の半分以上を占めることになる。だから、この地での水不足は、世界の食糧事情に重大な影響を与えることになる。

 では、どうすればいいのか。ブラウン氏の提案はこうだ--国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告では、ヒマラヤの氷河の多くは、2035年までに完全に融けてしまうと予測されている。だから、温室効果ガスの排出量の削減は、現在考えられているようなペース(2050年までに80%削減)では不十分であり、同じ量の削減を2020年までに達成すべきである、という。このように急速な排出削減ができない場合、世界の穀物生産に深刻な影響が出て、現在をはるかに上回る食糧危機が到来する危険性がある、ということだろう。

 日本の食糧自給率の低さは有名で、日本の農業は衰退している。この流れを逆転させ、農業を活性化し、さらには将来の食糧危機を乗り越えられるだけの農業の抜本的振興策を真剣に考える時期に来ているのではないか。

谷口 雅宣 

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2008年3月21日

真象と偽象

 今日は、関東地方の南東の海上を低気圧が発達しながら北東方向に進んだため、関東地方には毎秒10~20mの北風が吹き荒れて、寒い1日となった。朝の天気情報では降水確率は40%で、午前中は雨混じりの強風だったが、午後になると雨はしだいに降らなくなった。生長の家本部の新館玄関前に立つ小型風力発電装置は、風の吹いてくる方向へ向くように設計されているのだが、向きを頻繁に変えながら回っていた。ビルの谷間にあるため、不規則な風向きに翻弄されていたのだろうか。
 
 午後、明治神宮外苑までジョギングした。強風に備えてウインドブレーカーを着たが、走り出してしまうと案外、風は気にならなかった。午前中降った雨で埃は抑えられていたからでもある。道すがら、いろいろの樹木の芽や花や細い枝が道路に落ちていた。春になって一斉に伸び始めたものが、強風の犠牲になったのである。が、木々たちは強風程度ではひるまないに違いない。街を歩く人々も、この程度の風では顔色を変えることもなく、それぞれが目的地を目指して足早に歩いていた。
 
 「芸術表現について」という題で2回書いたが、その際、現象には“真象”と“偽象”があると述べた。しかし、実際のこの世界で何が真象に当り、何が偽象に該当するかを明らかに判別することは、必ずしも簡単でないかもしれない。犯罪や病気や戦争は基本的には偽象であるにしても、犯罪の動機の中に善意が含まれていた場合、あるいは罪を犯した人間が悔悛して善行をした場合などは、“真”と“偽”が混交してくる。また、大病を患うことで心機一転して、明るい人生観に変わる人もいる。戦争でさえ、渦中で戦う人々の間には無償の愛や、自己犠牲、戦友同士の友情が生まれることは珍しくない。こう考えていくと、真象と偽象の関係は、「白」と「黒」、「1」と「0」のようにデジタルな関係ではなく、純白から漆黒のあいだに横たわる無段階の灰色のグラデーションのようなアナログの関係だといえよう。
 
 そうすると、芸術表現においても、同じことが言えるのではないか。ある絵画は、病床に横たわる人を描いていたとしても、窓から差し込む光の束と、それを受けて輝く白いシーツや、白い壁、苦痛のない病人の顔、枕元に活けられた花……などから受ける全体の印象が“真象”を表す可能性を、私は否定できない。その一方で、結婚式のような一見“真象風”の題材でも、式の参列者の中に新郎・新婦のいずれかの“浮気相手”を描けば、その絵画は“偽象的”と言えるだろう。だから、ある芸術作品が、真象か偽象のいずれを表現しているかの判断には、注意が必要である。
 
Mtimg080321  また、こんなケースはどうだろうか?--私は今日、ジョギングの帰途、ある公団住宅の敷地内を通ったが、その一角に、金柑の実が地上に散らばっていた。恐らく強風で落ちたのだ。その光景を私は美しいと感じた。が、翻って考えると、同じ光景を見て「おいしい金柑が落ちてしまってもったいない」と感じる人がいるかもしれない。また、「樹の実が風で落ちるのは不吉である」と考える人がいるかもしれない。そういう場合、この光景は“真象的”“偽象的”のいずれだと言えるのだろう?
 
 金柑のぽつぽつと落つ春嵐
 
 谷口 雅宣

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2008年3月20日

生命の不死を想う

 春分の日の今日は、午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館で「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」がしめやかに執り行われた。私はこの御祭の斎主として奏上の詞を奉げ、概略次のような言葉を述べた:

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 皆さん、本日はこの慰霊祭にお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。このお祭りは、生長の家の運動に功績のあった人で霊界へ旅立たれた方々の御霊をお招きし、生前のご活躍への感謝と霊界でのさらなる幸福と、我らの運動へのご加護をお願いする大変有意義なものであります。今回は、243柱という多くの御霊様をお祀りすることになりました。
 
 この中で筆頭にお名前を読んだのが生長の家の長老であった清都松夫さんでした。この方は、多くの方はご存じの通り、谷口輝子先生のお姉さまの清都桂さんの息子さんですから、私にとっても親戚に当ります。清都長老とは、ちょうど1年前の3月22日の思い出があるのです。その日は木曜日で休日だったので、私は妻と2人で渋谷の映画館にデンゼル・ワシントン主演の『デジャヴー』という映画を見に行ったのです。私たちは早めに入館して映画の始まりを待っていたら、上映間際になって、白髪の老人が1人でスーッと入って来て、私たちよりかなり前の席に座ったのです。その後姿は、どう見ても清都長老だったので、私たちは驚きました。なぜなら、この映画はミステリー・アクション物で、ストーリーは複雑で、派手な仕掛けがいろいろある映画だったからです。あの静かで、温厚な清都長老が好むような映画とは思えなかったのでした。

 後でご本人から聞いたところ、清都長老はミステリー物の映画が好きで、一人でもよく見に行っていたそうです。また、これは別の人から聞いた話ですが、長老は本部退職後も定期券を買い、世田谷のご自宅から渋谷の行きつけの喫茶店へ通い、そこで本を読んでおられたそうです。私はこういう話を聞いて、一人の人間には他人には分からない、いろいろな側面があるのだなぁとつくづく思いました。人間はこのように、内部に多様性をもち、様々な可能性を秘めていて、たかだか100年くらいの一生の間は、すべての側面を開花させることはできないし、またそうする必要もない。なぜなら、人間には“次の生”があるからです。別の言葉で言えば、人間は再生しながら、多様な側面を表現していくのです。きっと清都長老も、次の生でやりたいことの準備をしていたのだと思います。
 
 私は昨年のこの日にも、慰霊祭を春分の日にするということは、大変時宜を得た習慣だと申しあげました。その理由は、自然界では、これから植物も動物も生命力をどんどん発揮し、花咲き、実を結び、発展するという「成長」の初めにあるのが、今の時季であるからです。空気はまだ寒く、外を歩くにはコートがいる時期ではありますが、辺りには春を知らせる植物の新芽、花、香り、鳥の声や昆虫の羽音などが聞こえます。このように、春は“生命再生”の時期ですから、慰霊祭をするのにふさわしいのです。皆さんも、年をとってきたらやることがないなどと考えずに、新しいことでも何でも積極的にやってみてください。それが次の生への準備になるからです。
 
 ご存じのように、生長の家では「人間の生命は不死なり」と説きます。生長の家だけでなく、多くの信仰でもそのように説いてきました。しかし、これまたご存じのように、人間の肉体は死にます。ここにいる私たちすべても、時期が来ればやがて必ず肉体を失います。しかし、それが本当の人間の死ではないことを、私たちは教わっています。先ほど読んだ聖経『甘露の法雨』には、人間の肉体の死のことを、カイコが繭を食い破って羽化登仙することになぞらえて、「人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん」と書かれています。「人間は生命なるがゆえに、常に死を知らず」とも説かれています。
 
 私たちの周りに、カイコを見る機会はもう少なくなってきましたが、しかしモンシロチョウは飛んでいます。今、飛んでいなくても、やがて飛んできます。ガも飛んできます。また、ハエやハチやゴキブリには、すでにお目にかかっている人がいるでしょう。春という季節は、このように生命が本来の“不死”の姿を表す時季ですから、霊界への転生を想う慰霊祭にふさわしいと言わなければなりません。
 
 スイスで生まれ、アメリカで活躍した精神科医で、終末医療の先駆けとなった人に、エリザベス・キューブラ=ロスという人がいます。臨死体験を扱った『死ぬ瞬間』などの本が世界的なベストセラーになったので、ご存じの方も多いと思います。この人も、人間の死のことを「蝶がサナギから出る」ことになぞらえています。日本で1995年に出た『死後の真実』(日本教文社刊)の中には、次のような箇所があります:
 
「何年も死にゆく患者さんたちと共に働き、彼らから人生とは何なのか、もう今となっては遅い最期となって何を悔やむのかなど教えてもらっているうちに、私は一体死とは何なのかと考えるようになりました。
 私の教室で、幽体離脱の体験を一番最初に話してくれたのはシュワルツ夫人という患者さんで、これが世界中からのケースを集めるきっかけとなりました。今では、オーストラリアからカリフォルニアまで、何百ものケースが手元にあります。その全てに共通している特徴があります。それは、誰もが皆、自分の肉体を脱ぐのをはっきりと感じており、私たちが科学的用語を使って理解しているような死は、存在しないことにも気づいている、ということです。死とはただ、チョウがマユを脱ぐのと同じで、肉体を脱ぐだけに過ぎません。より高い意識への移行であり、そこでは再び、知覚し、理解し、笑い、成長し続けることができるようになります。唯一失うものと言えば、もう必要のなくなった肉体のみです。要するに、春になると冬のコートはもうぼろぼろになって必要ないから、捨ててしまうことと同じなのです。死とは、つまりそういうことなのです。」(pp. 56-57)

 キューブラ=ロス博士がこのような考えに至った背景には、2万件以上の実際の体験者のデータがあるそうです。また、この本の中で、博士は「人間が死なないということは死んでみれば分かる」ということを何度も書いています。だから、私たちも運動の先達や諸先輩がたとい肉体を失われたとしても、今のこの春の季節のように、霊界での新しい境涯に於いて、新たな生命の息吹とともに活動を始められていることを知らなければなりません。そして、これらの御霊さまは皆、今生において人類光明化の善行を積まれた方々ですから、霊界においても私たちと同じ目的で、神の国、仏の浄土実現の活動を進めてくださっているに違いない。と同時に、私たち家族や運動の同志を導いて下さることに感謝し、これからの日々を明るく、愛深く生き、「人間の生命は不死である」という真理宣布に益々邁進していきたいと思うのであります。

 春の慰霊祭に当たってご挨拶を申し上げました。ありがとうございます。

谷口 雅宣

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2008年3月18日

芸術表現について (2)

 「生命と生命の触れ合い」を感じてそれを「表現する」段階に入ったとき、芸術の胎動が始まる。では、人が表現しようとする「生命と生命の触れ合い」とは、いったい何だろう? 前回は主として「形」と「色」について考え、さらに「味」や「香り」についても言及した。さらにこれに「音」と「肌触り」を加えれば、いわゆる“五官の感覚”が生命同士の触れ合いを感じる媒介であることが分かる。
 
 私は、2005年6月~7月の本欄で6回にわたり「芸術は自然の模倣?」と題して、芸術の定義を試みた。その時たどりついた結論は「芸術は、人間の捉えた世界の一部を客観化する営み」であり、「人間の感動を客観化する営みである」ということだった。この結論と、今回紹介した谷口雅春先生の定義--「芸術は、いのちといのちの触れ合いの表現である」--を並べてみてほしい。表現は若干異なるが、意味はほとんど同じである。違う点は、雅春先生の定義が「触れ合い」という言葉を使うことで、芸術が本来、表現者の内部だけで生じるものではないことを、より明確に示していることである。芸術の源泉である「感動」は、表現者のみでは成立せず、対象との「触れ合い」の中で生まれるという点が、ここでは特に重要である。

 この「触れ合い」を科学的用語を使って表現すれば、「クオリア」になるだろう。私は、2001年に出した『神を演じる前に』(生長の家刊)の中で、この言葉を使って芸術について次のように述べた:
 
「あらゆる芸術表現は、人間の五感の感覚から得られる直接感覚(クオリア)を元にしている」「感覚は芸術の母であり、父である」(p.59)
「クオリアが起こる原因は、動物と植物との長期にわたる共生関係である」(p.67)
「色のクオリアばかりではない。我々が五つの感覚器官を通じて体験するすべてのクオリアは、我々の生物としての生存に必要であるばかりでなく、知的で、豊かな生活を可能にするすべての文化活動の基盤にあるものである」(p.68)

 クオリアとは、上にあるように「人間の五感の感覚から得られる直接感覚」だから、きわめて主観的である。にもかかわらず、芸術とはそういう主観的直接感覚を客観化(表現)する営みであるから、多くの修練が必要とされる。“自己満足”や“独りよがり”で終ってしまってはいけないからである。表現者の主観的体験を誰もが「完全に」とまで行かなくても、「ある程度」共有できる程度の技術が要求されるのである。
 
Arttheory_2   ここで、これまで述べてきたことを図に表したものを掲げよう。この図は、「表現者」が対象から受け取るクオリア(直接感覚)に感動して、表現活動を開始し、やがて「作品」を仕上げるまでの過程を示している。図の左から右方向へ「時間」の流れがあることを、読者は気づいてほしい。私が前回の本欄で述べたことは、この図の「A」までのことであり、今日述べているのが「B」の部分である。AはBが生じる前段階であり、Bが生まれるためにはAが必要である。しかし、Aが生まれるのにBは必ずしも必要でない。質のよいBを生み出すためには多くの修練が必要だが、Aを得るためには、親から(あるいは神から)いただいた五感があれば足りる。
 
 Bの過程はプロの芸術家の道であるから、新しいタイプの誌友会で「芸術的感覚」を生かす場合は、Aの過程を重視するのがいいと思う。この過程は、3日の本欄に書いたように、「虚心で周囲の世界を見る」実践である。“意味優先”の都会の心境から抜け出し、神からいただいた“感覚優先”の心境に自分を置き、そこで実相からのメッセージ(真象)を受け取るのである。クオリアを通して感動を得られたならば、Bの過程へ進もう。優れた作品が生まれることは、もちろん素晴らしい。表現の向上を目指すことは善いことだ。しかし、宗教運動として重要なのは「真象を捉える」というAの過程だから、誌友会の力点もここに置くべきだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年3月17日

芸術表現について

 前2回にわたり、「芸術は、生命(いのち)と生命の触れ合いを表現したものである」という谷口雅春先生の言葉を解説したが、この主題は、口(発声音)による説明ではなかなか意を尽くせない側面があるので、さらに文章によって補足しよう。
 
 3月3日の本欄で、私は絵手紙を用いた「新しいタイプの誌友会」の参考として、『真理の吟唱』にある「良きアイディアを受信するための祈り」の次の一節を引用した:
 
「神は無限のアイディアの本源であり給う。宇宙の一切のものを観察するならば、神が無限のアイディアの本源であることは誰にも解かるのである。宇宙には木の葉一枚くらべて見ても同一の樹でありながら全然同じ葉脈をもった葉は存在しないのである。木の葉一枚一枚の輪郭がえがく曲線の美しさ、葉脈の流れの美しさ、しかも一枚一枚ことごとく異なりながら、美しいのであるから、その無限創造の神秘力に驚嘆するほかはないのである」

 春に萌え出でる若葉を見て、あるいは赤や黄に染まった秋の落葉を見て、我々が上のような思いを心に強く感じることが、「生命と生命の触れ合い」である。葉の形や色の中に表れている植物の生命を、我々が視覚を通して「美しい」と感得するのである。この感得は直感的であり、なぜそれを美しいと感じるかの説明は難しい。が、あえてそれを試みるならば、人間が植物との“接点”や“共通点”を葉の形や色の中に見出すからだ、と私は思う。葉脈の大きな特徴は、左右対称性である。我々人間の肉体の顕著な特徴の1つも、左右対称性である。体の中心部にある背骨から腕が2本、脚が2本、左右に伸びているだけでなく、肋骨、鎖骨、骨盤と、それらを動かす筋肉の構造も左右対称である。さらに目も耳も脳も、その他の多くの臓器も、基本的に左右対称である。
 
Mtimg0611014  植物の葉の色も、我々を感動させる大きな要素である。緑色は、人間の心に安らぎを与えることが心理学的に分かっている。これは、人類の遠い先祖が、森の中で生活していたときに、外敵から身を守れる場所が緑色の樹冠であったからだ、と進化生物学者は説明する。これに対して赤や黄は“警戒色”だが、食物を調理するときに用いた火の色でもある。また、動物に共通の血の色であり、日の出や夕焼けの色でもある。我々の遺伝子の中に刷り込まれているこういう太古の記憶が、紅葉や黄葉を見たときに我々の“感動”の一部を構成するのだろう。だから、「1枚の葉」を見ることで触れ合う「生命と生命」とは、単なる個と個の関係にあるのではなく、多くの生物種を巻き込んだ複雑で、奥深い関係にあるのだと思う。
 
 「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」には、次のようにある--

「私たちが花を見て、花の美しさを感ずることができるのは、私たちの生命(いのち)と花の生命(いのち)とが本来ひとつであるからである。私たちが空の星を見て、それを理解し天地の悠久を感ずるのも、星の生命と私たちの生命とが本来一体であるからである。或いはまた空の鳥を見て、その可憐さを感じ、その声の美しさに聴き惚れるのも、空の鳥の生命と私たちの生命とが本来一つであるからである」

 人間と植物の生命について、ここには「本来ひとつ」と書いてある。この意味は何だろう。私はこう考える。植物は、動物に実を食べられることによって子孫繁栄を図ってきた。こういう言い方が嫌いな人には、植物は動物に果実や穀物を与え、動物は植物の種を運んで殖やすことで共存共栄してきた、と言ってもいい。人間はさらに植物を自ら栽培することで、植物種を護り、人類自身も護ってきた。つまり、両者の利益は一致するのである。この関係は、功利的な要素をもちろん含むが、それだけでなく、長い進化の過程で、エモーショナル(感情的)に牽引する関係も作り上げてきた。だから、我々は多くの植物の果実の味や香りを好ましいと感じるのである。

 「生命と生命の触れ合い」はこのようにして人間の心の中で成立する。が、それを表現せずに、心にしまっておくだけでは芸術にはならない。言葉や絵、写真などでその密接な触れ合いの表現を試みるときに、初めて芸術に向かって動き出すのである。
 
 谷口 雅宣

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2008年3月15日

新しいタイプの誌友会 (4)

 14日の本欄に引き続いて、谷口雅春先生の『新版 幸福生活論』の第12章「物質無と芸術」の内容について、私が解説している音声を掲載する。前回の解説では、同章にある「いのちといのちと触れ合って、いのちを表現したのが芸術である」という谷口雅春先生の芸術の定義を紹介したが、ここでは絵画を例にとって、線や面を描くということが、すでに“物質”を描いているのではなく、生命と生命の触れ合いを表現しているという、普段見落としがちな重要な事実が指摘されている。(6分41秒)
 
「ArtinSNI-2.mp3」をダウンロード

 谷口 雅宣

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2008年3月14日

新しいタイプの誌友会 (3)

 3月3日の本欄でこの主題について書いたとき、「料理」を通して真理を学び実践することについては材料をいろいろ示したが、「絵手紙」を使った誌友会についてはあまり材料を提供しなかった。そこで、今回は絵手紙だけでなく「芸術」一般が、生長の家の教えの中でどのような位置を占めるかについて、1つの材料を提供しておこう。

 2月29日の本欄では、私は“感覚優先”のものの見方の目的は、「自分中心の先入見によって世界を見るのをやめ、自分の周囲に与えられたすべてのものを虚心になって見、感じるところからやり直」すためだと書いた。また、そのことが「現象の中にあっても、実相の反映であるところの“真象”を正しく感じ、しっかりと受け止める」生き方につながると述べた。そこで次には、この“真象”とは、現象の中のどういう側面を指すかについて、考えてみよう。
 
 幸いにも、この目的に相応しい文章を収めた谷口雅春先生の著作が、このほど新装なって出版された。『新版 幸福生活論』(日本教文社刊)である。この書には第12章として「物質無と芸術」について説かれている。これを読むことで、読者の理解は深まるはずだ。また、この章を解説してみたので、興味のある読者は私の「語り」(7分11秒)を聞いてください。

「ArtinSNI-1.mp3」をダウンロード

 谷口 雅宣

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2008年3月13日

納税の休日

 休日の今日は、“懸案”であった納税のための確定申告をした。朝一番に銀行が開くのを待って納税額分の預金を引き出し、その足で妻と一緒に渋谷税務署へ行った。毎年のことだが、なかなか手間がかかるし神経を使うことは、自営業者の方なら分かるだろう。が、国民としては当然の義務なので粛々として行うだけである。サラリーマンの頃は毎月の給料からの天引きだけだったから、自分が納税者であるという意識が薄かったが、確定申告をするようになると、tax payer (税金を支払う人=納税者)という言葉の意味を身に沁みて感じ、「税金のムダ使い」という言葉に敏感になるものである。

 そういう意識が最も研ぎ澄まされるのが税金の支払い時なのだが、払込みを受け付ける部屋は、暖房がよくきき、ほとんどの署員はワイシャツを腕まくりしている。また、私の納税分を受け取った男性署員は最初は1人だったが、金額を確認するために他の2人の署員(男)が立ち上がってきて、パラパラと札を手で数え出したのである。それで終りかと思いきや、今度は一度勘定したものをすべて、別の女性の署員に渡し、女性署員は近くに据えつけられた勘定用の機械にかけてバラバラと音をたてた後、領収証を発行してくれた。恐らく、納税者を待たせないための配慮と、ダブルチェックのためだろうが、何とも不思議な気がした。なぜなら、1年前に同じ場所で税金を払い込んだときは、1人の男性が機械による1回の勘定で、すぐに領収証を出してくれたからだ。
 
 そうは言っても、“国民の義務”を果たした後の春の空は明るく、澄みきっていた。道行く人がみな善人に見える、と言えば大袈裟だろうか。でも、そんな気分だった。昼までまだ時間があったから、私と妻は相談して、それぞれが渋谷駅近辺でしたいことをした後に、コーヒーショップのある書店で待ち合わすことにした。で、私は家電量販店へ行き、前々からほしかったICレコーダーなるものを購入した。デジタル式小型録音機のことだ。

 11日の本欄でヒキガエルの“愛の唄”のことを書いたが、今日の夕食後、私は池のそばへ行って、買ったばかりのICレコーダーを使ってそれを録音した。下のプレーヤーで聴いていただくと、私が「案外いい声」と言ったことに納得していただけるのではないか、と思う。
 
 「Toads.mp3」をダウンロード

谷口 雅宣

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2008年3月12日

映画『地上5センチの恋心』

 今日は私にとって“週末”である水曜日なので、妻と一緒に映画を見た。久し振りである。フランス映画で原題は、主人公の名前である「Odette Toulemonde」だが、「地上5センチの恋心」という日本語の題名が、どうやってここから生まれるのか不思議である。よほどヒネッた題でないと日本では観客が集まらないのだろうか、と思う。内容を月並みな表現で言えば、仕事をもつ中年の未亡人と、妻のいる人気作家との恋を描いたラブコメディーというところか。各所に「アレッ?」と思う工夫が仕掛けてあるが、本欄の読者に注目していただきたいのは、ヒロインの明るさと生き方が「日時計主義」を思わせるという点である。

 今回は恥ずかしながら、慣れない、緊張した私の“肉声”で以下、コメントする。

谷口 雅宣

「Odette.mp3」をダウンロード

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2008年3月11日

親虫の使命

 啓蟄を過ぎると、どこからか本当に虫が出てくるから不思議だ。また、わが家の庭では今、ヒキガエルが盛大に活動を始めている。池の中で雌雄が重なって産卵するだけでなく、コロコロと案外いい声で“愛”を語っている。その数を数えたことはないが、恐らく「数十」の単位ではなく「数百」ではないか。雨の降る日などは、石段を上り下りする時、彼らを踏まないように注意が必要だ。昨年2月14日の本欄によると、去年は2月中旬に温かい日が続いて、彼らは一度出てきた。しかし、その後にもどった寒気のためにまた姿を消した。今年はそんなこともなかったから、満を持して出てきたのだろう。

 妻はすでに9日、家の中で5ミリほどのゴキブリの子を見つけているが、私は今日、立派に成長したクロゴキブリを見つけた。ただし、わが家の中ではなく、明治公園の一角でだ。体長5センチ弱の黒光りしているのが、人の足で踏まれたのだろう。片方の羽を外側へ折って死んでいた。ゴキブリは家の中だけでなく、立木の穴の中にも棲むから、陽気に誘われて「さぁ、春だぞ!」と出てきたところで潰されたのだ、と私は想像する。哀れといえば哀れだが、冬を越した成虫のゴキブリは卵を産んだかもしれず、また、腹の中にまだ卵があれば、多くの子虫たちは生き延びる可能性をもっている。そんな場合、親虫は使命を果たして死んでいったのである。
 
 ゴキブリの羽折れ潰れ春浅し
 
 谷口 雅宣

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2008年3月10日

季語も変わっていく

 昨日の本欄でザゼンソウの句を詠んだが、実はこの花は「晩春」の季語だ。それを初春に詠む句の中に入れるのは、邪道かもしれない。しかし、現実に目の前にその花があり、それに心を動かされた場合、その花を詠まずに別のものを探すというのも、何となく変だ。大阪城ホールの控室にあったザゼンソウは、きっと温室育ちだ。それと一緒に菜の花も飾られていたが、こちらも温室栽培かもしれない。でも、飾ってくださった人は、きっと「春の雰囲気をどうぞ……」というもてなしの心遣いをされたのだ。晩春の花のもてなしに晩春の句で応えることは、許されていいと思う。

 8日の本欄で触れた単行本の新刊には、私の句集が含まれている。この中にも、季語のルールに従わないものが1つある。5月下旬に、田植機と雪の山を一緒に詠んだのだ。2005年5月21日の本欄にある句を一部直したものだが、第一に「田植機」というのが伝統的な季語ではない。俳人の佐川広治氏によると、「昭和50年代に田植機が発明されて以来、千数百年続いてきた日本の稲作作業が大きく変化した」という。その結果、現在の田植えは5月初めのGWごろまでに機械で一気に終えてしまうから、「早乙女」「早苗」「早苗饗」などの伝統的な季語は使えなくなってしまう。が、私はその時、「死に行く季語を必死に守るよりは、今の人々の生き方に合わせた季語を新たに創出するという選択肢があるはずだ」と書いたのだった。
 
 春衣(はるごろも)という言葉は「仲春」の季語で、冬季の地味の色の重い外套を脱ぎM_lionsheep 、明るい色の華やいだ色や柄もの服に替えたものを言う。一昨日昨日と、東京は日中15℃ほどになったから、春もいよいよ到来という感じだが、まだ時々寒い日が訪れる。それが普通の3月である。イギリスの気候も日本と似ているらしく、彼の地には「3月はライオンで始まりヒツジに終る」(March comes in like a lion and goes out like a lamb.)という諺がある。これは、本欄の前身である「今日の雑感」に2001年3月2日付で書いた通りだ。(『小閑雑感 Part 1』に収録)その際、文章に添付した絵をここに掲げておく。こんなイメージで3月が通り過ぎると思うと、何となく愉快な気分にならないだろうか?
 
 そこで「春衣」のことだが、最近は若い女性がすごく地味な色や服装をするのが流行りのようで、そうなってくるとこの季語も使いにくくなってしまう。今日、私は仕事からの帰り途に原宿の竹下通りを通ったとき、まだ高校生ぐらいの少女2人がそんな恰好をしていたので、「ほぉー」と思いながら去りゆく姿を眺めたのである。
 
 春衣骸骨模様で少女行く
 
 谷口 雅宣

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2008年3月 9日

ザゼンソウを眺める

 大阪城ホールで行われた生長の家講習会には、2万5千人を超える大勢の受講者が参集してくださり、盛大ながら、和やかな雰囲気のもとに行われた。主催する側の実行委員の数だけでも800人を上回るという規模だから、この半年間、推進のために努力して下さった人々は想像を超える数に上るだろう。この場を借りて、皆様の絶大なるご支援、ご協力、そして揺るぎない信仰に深く、厚く感謝申し上げます。前回に比べて千五百人以上も多くの方々が来てくださったのも、驚異的である。天候も穏やかで、大阪城公園の梅林の花々もまさに見ごろであり、誠にありがたい1日だったと思う。

 午前の講話を終り、大阪教区の最高幹部の方々との会食会場へ入ったとき、部屋の中 央に豪華な春の花々が飾られていた。と、その中心部に何か黒い、動物の頭のようなものが見えた。注意して見ると、それはザゼンソウだった。この植物の花序は大きな苞形をしていて、仏像の光背にも似ている。ミズバショウの花序は白色だが、ザゼンソウは赤黒い。会食を終えて控室で休憩をしたが、ここにもザゼンソウが飾られていた。その色と形を眺めていると、何かしなければ……という気持になったので、ペンでスケッチをMtimg080309始めた。
 
 人が一念発心し、長期にわたって何事かを成し遂げんと歩みゆく姿は、祈りに似ている。それは「動」の中にあって不動の「静」を感じさせるものだ。派手な動きは目立つものだから、色に喩えれば黄、赤、白のような明るい色になる。が、動中の静は、そんな派手な色の陰に、影のごとく寄り添う深い色--濃紺、藍、セピア、チャコール・グレー、そして黒だろう。花は本来、昆虫を呼び寄せるために目立つ色、明るい色を天に向けるものだ。が、ごく稀に、深く、濃い色で咲くものがある。ザゼンソウは、そんな稀有な花の1つと言える。赤黒く錆びた鉄のような、それでいて、形はキューピーの頭の毛を思わせるユーモラスな花序が、じっと横を向いている。参禅中の僧の姿からこの名があるのだろうが、僧の頭というよりは、幼な児のそれを思わせる。
 
 幼い時から変わらぬ志をもち続けた魂が、幾多の人生経験を積みながらも同じ志を保持してきたならば、その志は鉄に化してこんな姿になるかもしれない……ザゼンソウを眺めながら、こんな想念が心中を流れた。

 谷口 雅宣
 

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2008年3月 8日

食品の値段はまだ上がる

 立て込んでいた仕事が一段落したので、本欄に向かうことができた。5月初めの生長の家の運動組織の全国大会を期して単行本を上梓させていただく予定で、その準備でしばらく根を詰めていたため「小閑」を見出す余裕がなかった。最後は、木曜日のほぼ1日を原稿書きに使い、金曜日の深夜までかけて仕上げた原稿をメールで送信して、やっと一息つけた。ありがたいことだ。
 
 今日は、生長の家の講習会のために大阪へ出発。昼過ぎに発つ新幹線に乗るために早めに東京駅へ着き、妻と2人で“キッチン・ストリート”に向かった。和食か中華を念頭においていたが、油の臭いに遭遇したため、うどん屋に入ることを決めた。近ごろは、昼食に脂っこいものをあまり食べたくない。妻も同じだ。「すぎのこ」という店に入り、妻は日替わりセット、私はゴマだれ薬味うどんを注文した。二人でうどんを食べながら、私は前回ここで食べた時よりうどんの量が少ないかなぁ……などと思った。気のせいかもしれない。しかし、それを口に出しても、妻は否定しなかったので、続けてこう言った--「小麦の値段がずいぶん上がっているからね」。
 
 ちょうど今日の『日本経済新聞』に「小麦粉1~2割値上げ」という見出しの記事が載っている。製粉大手3社が4月下旬から業務用の小麦粉を1~2割値上げするそうだ。理由は、政府が引き渡し価格を4月から3割も上げるからだ。業務用小麦粉は、昨年5月に24年ぶりに値上げされ、それ以降これが3回目となり、上げ幅は最大だという。これによって、小麦を使った製品--パン、麺類、菓子など--のさらなる値上げはほぼ確実である。『日経』は、「昨年来の食品値上げは第2波を迎え、一段と家計を圧迫する」と書いている。
 
 本欄でもしばしば書いてきたように、昨年来の食糧の値上がりは“地球温暖化”と大いに関係している。気候変動による干ばつや洪水が続き、世界の食糧の在庫が減少している。そこへもってきて温暖化抑制策として、アメリカなどがバイエタノールの大増産を進めている。これによって、世界最大の穀倉地帯であるアメリカで生産されるトウモロコシがどんどんエタノールに変わる。これが大いに利益を生むので、アメリカの農家は小麦の生産を減らしてトウモロコシを増産している。この中で、石油の生産量が頭打ちである。つい先日も、OPECが生産量の据え置きを決めた。そして、ドルベースでの石油の値段はどんどん上がっている。
 
 私は読者に、世界の石油の生産量がこれ以上増えないという“石油ピーク”がすでに来ていると考えることをお勧めする。これは、私がプロ並みの情報を集めて、専門的に分析した結果、そう結論するにいたった、というのではない。私は宗教家だから、そんなことはしない。では、“神のお告げ”かというと、もちろん違う。私が“石油ピーク説”をお勧めするのは、それが今年来なくても、近々来ることは大いに考えられ、また来なかったとしても、温暖化抑制のためには“脱石油”が喫緊に必要だからだ。もう“石油ピーク”が来たと結論して、世界各国が「これ以上のエネルギーは石油等の化石燃料から得るのはやめる」という合意に達すべきだと考えるからだ。が、近い将来、世界中がこの合意に達することはないだろうから、合意できる我々一人ひとりが、“脱石油”の行動を起こし始めるのがいい。いっぺんに“脱石油”はできないから、少しずつ、できるところから、である。
 
 そういう意味では、石油の高騰はありがたいと言える。おかげでガソリンの消費量が減っており、自動車の燃費は向上している。人類は、化石燃料を基礎とした“炭素文明”から脱しようとしているのだから、炭素ベースの古い産業が衰退するのは仕方がない。その代りに新しい“水素産業”をどんどん育てるべきである。この切り替えができないと、日本経済は相当困難な状況になると思う。今の政府の考えを推測すると、政治資金を多く提供してくれる炭素ベースの産業自体に、水素ベースの技術を導入させるか、利用させるつもりだ。これにより、資金供給を継続させながら産業構造を変えようとしている--そんな気がする。しかしこれでは、一つの産業内部で利益相反行為をさせることになり、切り替えは難しく、できてもスピードは遅い。欧米との競争に負ける気がする。

 まぁ、放言はこのくらいにして、筆を収めよう。食品の値上がりにも“光明面”はあるのだが、その話は別の機会にする。
 
 谷口 雅宣

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2008年3月 3日

新しいタイプの誌友会 (2)

 2月29日の本欄では、今年の運動方針で提案された新しいタイプの生長の家の誌友会(家庭単位で行われる真理勉強会)の基本的考え方を説明した。今回は、それを「料理」と「絵手紙」の実践を通して行う場合、どのような方向性が考えられるかを述べよう。
 
「料理」を通して真理を生活に活かすには、私たちの食生活をどう見るか、から考えてみる。私たちは肉体を維持していくために、食べることをやめるわけにはいかない。しかし、古来、宗教的には「食べる」ことを「殺す」ことと見なし、それによる“罪”が説かれてきた。これは、キリスト教に於いてはさほど強調されなかったが、ヒンズー教や仏教--とりわけ日本に伝来した大乗仏教--では強調され、「不殺生」の戒めと併せて、肉食を忌む習慣が長期にわたって続いてきた。この辺の事情は、2006年の生長の家教修会で学び、私も本欄で何回か論じたので、詳しくはそちら(2006年7月5日7月10日7月13日7月14日)を参照してほしい。生長の家でも、『生命の實相』や『心と食物と人相と』などで谷口雅春先生が肉食忌避を勧めて来られたことは、多くの読者がよくご存じの通りである。

 21世紀の現代では、このことに加えて、人類の肉食の習慣が地球環境を破壊し、気候変動を招来することが多方面から指摘されている。本欄では、2006年11月26日同年12月17日などでそのことを紹介した。私の著書では、『今こそ自然から学ぼう』(2002年)の第4章「動物の命を考える」や『足元から平和を』(2005年)のp.166-173で、肉食の問題を取り上げている。この“現代的問題”は一見、上で触れた「不殺生戒」と関係がないように見えるかもしれないが、実は因果の法則によって巡り来った悪業として捉えることができるのである。つまり、人類の長年の破戒(不殺生戒を破ってきたこと)の悪業によって、縁が熟したときには、大きな悪果がもたらされる--すなわち、地球温暖化による気候変動が起こり、大量の被災者や疫病の罹患者、そして環境難民が生まれる。この場合、「縁が熟する」とは、大気中の二酸化炭素の量が一定量以上になることである。その時には、肉食の増大で繁栄したかのように見えた人類も、人口が増えた分だけ、罹患者や被災者の数も増えて悲惨な結果が招来されることになる。
 
 少し“暗黒面”を強調してしまったが、とにかく、この現象世界には“真象”と“偽象”が現れているということを誌友会では伝え、私たちの食生活にも“真象的”なものと、“偽象的”なものがあることを説明する。つまり、生物相互の共存度が高い食材と低い食材があることを述べ、菜食は共存度が高く、肉食は共存度が低いことを説明する。そして、そのことを単に理論的に知るのではなく、毎日の食生活にも“真象”を現す実践をすることが重要だと伝えよう。実際に菜食やノーミートの食事のレシピーがこれだけ豊富にあることを教え、もし時間があれば、それを実際に作って、食べて美味しいことを体験する。また、手軽に作れることを知る。そうすれば、この誌友会は、私たちの食生活の中に真象をより強く、明らかに現すという日時計主義の具体的実践の場になるだろう。
 
「絵手紙」を通して真理を生活に活かすとしたら、前回(2月29日に)触れたように、私たちが日常的に「ものを見る」に際しては2つの傾向があることを説明する。“意味優先型”と“感覚優先型”である。そして、それぞれのものの見方のメリットとデメリットを話す。さらに、普段私たちがとかく意味優先で世界を見ていることを例を挙げて指摘し、それによって「本当のものを見ていない」ことを確認しよう。つまり、「現象は心で作られている」ことを確認するのである。では、本当のもの(真象)を見るとはどういうことか、を次に考える。「神の創造とは何か?」を考えながら「虚心で周囲の世界を見る」ことを実践する。その中で、感動を覚えたものを絵に描くのがいい。

 この際、『真理の吟唱』にある「良きアイディアを受信するための祈り」の一節を引用するのもいいかもしれない--
 
「神は無限のアイディアの本源であり給う。宇宙の一切のものを観察するならば、神が無限のアイディアの本源であることは誰にも解かるのである。宇宙には木の葉一枚くらべて見ても同一の樹でありながら全然同じ葉脈をもった葉は存在しないのである。木の葉一枚一枚の輪郭がえがく曲線の美しさ、葉脈の流れの美しさ、しかも一枚一枚ことごとく異なりながら、美しいのであるから、その無限創造の神秘力に驚嘆するほかはないのである」

 また、「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」にも、よい言葉がある--

「私たちが花を見て、花の美しさを感ずることができるのは、私たちの生命(いのち)と花の生命(いのち)とが本来ひとつであるからである。私たちが空の星を見て、それを理解し天地の悠久を感ずるのも、星の生命と私たちの生命とが本来一体であるからである。或いはまた空の鳥を見て、その可憐さを感じ、その声の美しさに聴き惚れるのも、空の鳥の生命と私たちの生命とが本来一つであるからである」

 これらの言葉を紹介しながら、真象とはどのようなものであり、絵を描くに当たっては、現象のどのような面に着目すべきかを概略説明してから、絵手紙の実習に入れば、参加者も宗教的な意義を理解しながら絵手紙制作に没頭できるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2008年3月 1日

“立教の精神”を今生きるために

 3月が訪れ、暦の上では春になった。この春の初日は生長の家の「立教記念日」である。今日は午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「立教79年生長の家春季記念日祝賀式」が挙行され、会場いっぱいの参加者とともに、晴天のもと、このおめでたい日を祝う時がもてたことは誠にありがたかった。以下は、この式典で私が行ったスピーチの概要である:
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 皆さん、本日は79回目の立教記念日、誠におめでとうございます。

 今年は閏年で、2月が29日までありましたから、今日3月1日の立教記念日が1日遅れたような印象をもちます。しかし、これは「遅れた」のではなく、「余裕を与えられた」のだと思います。漢字学の権威である白川静(しずか)さんによると、「閏」という漢字には「大きい」「余る」という意味があるといいます。サンズイに閏と書く「潤」の文字がありますが、これは「潤う」とか「潤沢」という語があるように、豊かで余裕があるという意味であります。それで生長の家では、昨日の29日とその前の28日を使って、平成20年度(2008年度)の運動をどう進めるかを描いた運動方針について、全国の幹部の方々が集まっていろいろ意見を交換する機会をもちました。この会の正式名称は「生長の家代表者会議」というのです。例年より24時間長い、この“潤いの時間”を大いに有意義に使ったのであります。皆さんはそれぞれどのように使われたでしょうか? もし、皆さんの中に「知らない間にもう3月1日になっていた」と感じる方がいらっしゃたら、今からでも遅くないですから、これから年末までにやって来る300日のどれか1日を“潤いの日”と決めて、その日をぜひ豊かで、実りのある1日にしていただきたいと思います。
 
 私は今「豊かで実りのある1日」を作ろうと言いましたが、1日だけではなく、1年365日を豊かで、実りのあるものにしようというのが、実は生長の家の運動の目的なのであります。私は、いつもこの立教記念日には、『生長の家』誌の創刊号から引用して皆様にお話をすることにしているのですが、この記念すべき雑誌の最初の文章に「『生長の家』出現の精神とその目的」というのがあります。その中に、今日「七つの光明宣言」の名で知られている7項目の宣言文の原型が書かれています。当初、これは7項目ではなく、10項目あったのですが、その最初の項目には、次のように書いてあります--
 
 1.『生長の家』本部は心の法則を研究しその法則を実際生活に応用して、人生の幸福を支配するために実際運動を行うことを目的とす。
 
 これは、実に壮大な目的だと思います。私たちは単に、学術的に心の法則を研究するのではなく、その研究成果を「実際生活に応用」するということが書かれています。さらにそれを使って「人生の幸福を支配する」--つまり、人間の生存や生活全体に幸福をもたらす、と書いてあります。また、そのためには寺院や研究室に閉じこもっているのではなく、多くの人々を仲間に入れて「実際運動を行う」のです。そういうことが、生長の家の出現の目的であると、創刊号の10項目の“いの一番”に掲げてあったのです。
 
 私たちは、この創刊号に掲げられた、生長の家出現の精神とその目的の第1項を目指して、現在も運動を推進しています。皆さんにはぜひ、このことを忘れないでいただきたい。私たちは今、谷口雅春先生が約80年前に始められた運動とは別の、何か新しい運動を行っているのではありません。この創刊号にある「精神とその目的」の第1項にあるように、心の法則を研究し、その成果を人類の幸福増進のために、実際運動の中で広めていくのが生長の家の目的です。今の運動方針は「“自然と共に伸びる運動”実現のための第1次5カ年計画」と銘打ってあります。なぜここに「自然と共に伸びる」という枕詞がついているのでしょうか? それはもうご存じのように、人類は経済発展だけでは幸福にならないことが証明されつつあるからです。経済発展のために自然を破壊し、大量の二酸化炭素を大気中に放出し、資源を枯渇させてきたのが20世紀までの人類の生き方でした。この生き方を21世紀にも続けることは、予測不能の気候変動を引き起こし、災害による犠牲者や、環境難民を生み出し、資源の奪い合いと、政情不安、政治対立を招くことは、もう明らかです。今、心ある人々、科学者、国際機関がそのことを警告しています。
  
 私たちは、今起こっている地球規模の気候変動と資源の囲い込み、食糧や原材料の高騰、世界各地での政情不安から、何を学ぶべきでしょうか? 私は、それは次の2つであると思います--
 
 ① 自然の豊かさを回復させることなしに、人類のこれ以上の伸展はあり得ない。
 ② 人間は物質的手段のみによっては、決して幸福にならない。
 
 私はここで、「物質的手段は不要だ」と言っているのではありません。人間は肉体をもっていますから、衣・食・住の最低限の要求は満たされねばなりません。が、そこから先は、「心が何に喜びを感じるか」という、もっと高度の問題になります。人間の欲望に限りはありませんから、物質的手段を拡大することが幸福だと考えているかぎり、地球資源の枯渇は目に見えています。今、世界最大の人口を抱える中国と、2番目のインドなどが、急速な経済発展を遂げつつあり、このことが資源の不足と温暖化ガスの増加を招いていることは、皆さんご存じのとおりです。こういう人々が皆、アメリカ人のような生活を実現できるほど、地球環境は頑丈でなく、また地球資源は無限ではありません。

 この21世紀初頭の現代にあって、「心の法則を実際生活に応用して、人生を幸福にする」という運動の目的を達成するためには、何をすべきでしょうか? それは、人々がより多くの物質的手段を獲得する--例えば、より広い住宅に住み、より大きい自動車に乗り、より高価な衣服に身をまとい、より高価な食品を食べる--ことでは、もはやありません。そうではなく、それは人々が破壊してきた自然をより多く回復し、自然と人間との一体感を深め、より少ない物質的手段で人々が幸福感を抱くような生き方を開発し、その生き方をより多くの人類に広めることです。これをするためには、「人間は本来神の子であり、すでに救われているから幸福である」という真理ほど強力なメッセージはありません。「人間は自然から奪うことで幸福になるのではなく、自然との一体感を得、さらにそれを深めることで幸福になる」というメッセージを広めることが大切です。

 来年度の運動方針には「日時計主義」という言葉がたくさん出てきます。ここに集まっている皆さんには、この言葉はすでにお馴染みのことと思います。この3月1日の立教記念日に、私は何回もそれについて語ってきました。なぜなら、この言葉は『生長の家』誌の創刊号で初めて使われた言葉だからです。また、最近の講習会では必ず、この言葉の意味について解説しています。私がこの言葉と、この生き方を強調する理由は、これこそ「より少ない物質的手段で人々が幸福感を抱く生き方」だからです。地球温暖化を抑制し、自然と人間との一体感を深め、資源の奪い合いをなくす生き方が、日時計主義です。この生き方を具体的に実践していくために『日時計日記』が出版されていることは、多くの皆さんはごぞんじです。また、新しい年度の運動方針には、日時計主義の具体的実践の1つとして、新しいタイプの誌友会を開催していくことが掲げられています。方針書の表現を使えば、「開催者の技能や芸術的感覚を生かし、真理を生活に活かす具体的な実践を盛り込んだ誌友会」というものですが、今年は、この2つの実践を通して、日時計主義の生活と運動を大いに拡大していっていただきたい。
 
 最後に、拙著の『日時計主義とは何か?』(生長の家刊)の中から、聖書にある「狭い戸口」の譬え話について書いた一節を紹介いたします。ここで聖書の話を紹介する理由は、日時計主義というものが生長の家だけの何か特殊なものの考え方ではないということを知っていただきたいからです。2千年も前のユダヤの地でも、これと共通する教えが説かれていたのです。
 
 (同書、pp.82-87の内容をかい摘んで紹介する)
 
 このようにありますが、「神の恵みを常に感じて感謝する」というのは日時計主義の生活そのものです。「不足を認めて不満を感じる」生活からは奪い合いが生まれます。「心に光明を見る」生き方から、豊かで、実りのある幸福生活が始まるのです。それを練習する道具として『日時計日記』をつけ、新しいタイプの誌友会を開いて、運動を盛り立てていってください。そうすることで、生長の家の出現の精神が体現され、運動の目的達成へと近づきます。また、そのことが同時に、今日の地球社会最大の問題である温暖化や気候変動を最小限に食い止める最良の方法であることを理解していただき、今後の運動を大いに明るく、楽しく展開していっていただきたいと思います。
 
 おめでたい今日の記念日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴ありがとうございました。

 谷口 雅宣 

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