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2008年3月18日

芸術表現について (2)

 「生命と生命の触れ合い」を感じてそれを「表現する」段階に入ったとき、芸術の胎動が始まる。では、人が表現しようとする「生命と生命の触れ合い」とは、いったい何だろう? 前回は主として「形」と「色」について考え、さらに「味」や「香り」についても言及した。さらにこれに「音」と「肌触り」を加えれば、いわゆる“五官の感覚”が生命同士の触れ合いを感じる媒介であることが分かる。
 
 私は、2005年6月~7月の本欄で6回にわたり「芸術は自然の模倣?」と題して、芸術の定義を試みた。その時たどりついた結論は「芸術は、人間の捉えた世界の一部を客観化する営み」であり、「人間の感動を客観化する営みである」ということだった。この結論と、今回紹介した谷口雅春先生の定義--「芸術は、いのちといのちの触れ合いの表現である」--を並べてみてほしい。表現は若干異なるが、意味はほとんど同じである。違う点は、雅春先生の定義が「触れ合い」という言葉を使うことで、芸術が本来、表現者の内部だけで生じるものではないことを、より明確に示していることである。芸術の源泉である「感動」は、表現者のみでは成立せず、対象との「触れ合い」の中で生まれるという点が、ここでは特に重要である。

 この「触れ合い」を科学的用語を使って表現すれば、「クオリア」になるだろう。私は、2001年に出した『神を演じる前に』(生長の家刊)の中で、この言葉を使って芸術について次のように述べた:
 
「あらゆる芸術表現は、人間の五感の感覚から得られる直接感覚(クオリア)を元にしている」「感覚は芸術の母であり、父である」(p.59)
「クオリアが起こる原因は、動物と植物との長期にわたる共生関係である」(p.67)
「色のクオリアばかりではない。我々が五つの感覚器官を通じて体験するすべてのクオリアは、我々の生物としての生存に必要であるばかりでなく、知的で、豊かな生活を可能にするすべての文化活動の基盤にあるものである」(p.68)

 クオリアとは、上にあるように「人間の五感の感覚から得られる直接感覚」だから、きわめて主観的である。にもかかわらず、芸術とはそういう主観的直接感覚を客観化(表現)する営みであるから、多くの修練が必要とされる。“自己満足”や“独りよがり”で終ってしまってはいけないからである。表現者の主観的体験を誰もが「完全に」とまで行かなくても、「ある程度」共有できる程度の技術が要求されるのである。
 
Arttheory_2   ここで、これまで述べてきたことを図に表したものを掲げよう。この図は、「表現者」が対象から受け取るクオリア(直接感覚)に感動して、表現活動を開始し、やがて「作品」を仕上げるまでの過程を示している。図の左から右方向へ「時間」の流れがあることを、読者は気づいてほしい。私が前回の本欄で述べたことは、この図の「A」までのことであり、今日述べているのが「B」の部分である。AはBが生じる前段階であり、Bが生まれるためにはAが必要である。しかし、Aが生まれるのにBは必ずしも必要でない。質のよいBを生み出すためには多くの修練が必要だが、Aを得るためには、親から(あるいは神から)いただいた五感があれば足りる。
 
 Bの過程はプロの芸術家の道であるから、新しいタイプの誌友会で「芸術的感覚」を生かす場合は、Aの過程を重視するのがいいと思う。この過程は、3日の本欄に書いたように、「虚心で周囲の世界を見る」実践である。“意味優先”の都会の心境から抜け出し、神からいただいた“感覚優先”の心境に自分を置き、そこで実相からのメッセージ(真象)を受け取るのである。クオリアを通して感動を得られたならば、Bの過程へ進もう。優れた作品が生まれることは、もちろん素晴らしい。表現の向上を目指すことは善いことだ。しかし、宗教運動として重要なのは「真象を捉える」というAの過程だから、誌友会の力点もここに置くべきだろう。
 
 谷口 雅宣

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コメント

確かに、例え芸術を通してに致しましても宗教運動として虚心に周囲の世界を見る実践をして行き、体得する事が出来ましたならば現実世界の様々な国内外に於ける数々の問題の本質も見えて来るのではないか?(例えば台湾、チベット、イスラエル、パレスチナ、イラク、イラン、ミャンマー、ドル安、株安、自民、民主、官僚、政治屋、少子化、フリーター、パート、教育等々)そうすればもっと賢い選択の出来る国民の一人になれるのではないか?と期待しています。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月19日 00:40

先生の“客観化”という言葉の使い方が面白いと感じました。

客観視はよく使いますが。
落ち込んだとき、生長の家の人に“客観視”しなさいと言われたのを思い出しました。その出来事に入り込まず“客観視”することで今の自分を見つめることが出来、より良いアイデアがでるとか。

あと、謙虚な人は自分の事を“客観視”出来る人だとも聴きました。

投稿: 多久 真里子 | 2008年3月19日 01:37

今日、たまたま西山美術館というロダンとユトリロ専門の美術館に行く機会に恵まれました。ユトリロを見ている時に「そうだ、"A"を重視して見よう」と思い、画家がこの絵で生命と生命の触れ合ったところはどこだろうかとか、どこにどういうふうに感動して表現したのだろうか等、考えながら鑑賞してゆくと、とても楽しく見てゆくことが出来ました。
そして副総裁が何故、原宿の建物のスケッチをなさるのかがとても納得できました。
"A"の観方というのは私にとって絵を鑑賞するときの魔法の杖です。

投稿: 前谷雅子 | 2008年3月19日 21:48

前谷さん、

>>"A"の観方というのは私にとって絵を鑑賞するときの魔法の杖です。<<

 フーム、魔法の杖ですか。そんな風に表現していただいて光栄です。

投稿: 谷口 | 2008年3月20日 17:17

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