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2008年3月 3日

新しいタイプの誌友会 (2)

 2月29日の本欄では、今年の運動方針で提案された新しいタイプの生長の家の誌友会(家庭単位で行われる真理勉強会)の基本的考え方を説明した。今回は、それを「料理」と「絵手紙」の実践を通して行う場合、どのような方向性が考えられるかを述べよう。
 
「料理」を通して真理を生活に活かすには、私たちの食生活をどう見るか、から考えてみる。私たちは肉体を維持していくために、食べることをやめるわけにはいかない。しかし、古来、宗教的には「食べる」ことを「殺す」ことと見なし、それによる“罪”が説かれてきた。これは、キリスト教に於いてはさほど強調されなかったが、ヒンズー教や仏教--とりわけ日本に伝来した大乗仏教--では強調され、「不殺生」の戒めと併せて、肉食を忌む習慣が長期にわたって続いてきた。この辺の事情は、2006年の生長の家教修会で学び、私も本欄で何回か論じたので、詳しくはそちら(2006年7月5日7月10日7月13日7月14日)を参照してほしい。生長の家でも、『生命の實相』や『心と食物と人相と』などで谷口雅春先生が肉食忌避を勧めて来られたことは、多くの読者がよくご存じの通りである。

 21世紀の現代では、このことに加えて、人類の肉食の習慣が地球環境を破壊し、気候変動を招来することが多方面から指摘されている。本欄では、2006年11月26日同年12月17日などでそのことを紹介した。私の著書では、『今こそ自然から学ぼう』(2002年)の第4章「動物の命を考える」や『足元から平和を』(2005年)のp.166-173で、肉食の問題を取り上げている。この“現代的問題”は一見、上で触れた「不殺生戒」と関係がないように見えるかもしれないが、実は因果の法則によって巡り来った悪業として捉えることができるのである。つまり、人類の長年の破戒(不殺生戒を破ってきたこと)の悪業によって、縁が熟したときには、大きな悪果がもたらされる--すなわち、地球温暖化による気候変動が起こり、大量の被災者や疫病の罹患者、そして環境難民が生まれる。この場合、「縁が熟する」とは、大気中の二酸化炭素の量が一定量以上になることである。その時には、肉食の増大で繁栄したかのように見えた人類も、人口が増えた分だけ、罹患者や被災者の数も増えて悲惨な結果が招来されることになる。
 
 少し“暗黒面”を強調してしまったが、とにかく、この現象世界には“真象”と“偽象”が現れているということを誌友会では伝え、私たちの食生活にも“真象的”なものと、“偽象的”なものがあることを説明する。つまり、生物相互の共存度が高い食材と低い食材があることを述べ、菜食は共存度が高く、肉食は共存度が低いことを説明する。そして、そのことを単に理論的に知るのではなく、毎日の食生活にも“真象”を現す実践をすることが重要だと伝えよう。実際に菜食やノーミートの食事のレシピーがこれだけ豊富にあることを教え、もし時間があれば、それを実際に作って、食べて美味しいことを体験する。また、手軽に作れることを知る。そうすれば、この誌友会は、私たちの食生活の中に真象をより強く、明らかに現すという日時計主義の具体的実践の場になるだろう。
 
「絵手紙」を通して真理を生活に活かすとしたら、前回(2月29日に)触れたように、私たちが日常的に「ものを見る」に際しては2つの傾向があることを説明する。“意味優先型”と“感覚優先型”である。そして、それぞれのものの見方のメリットとデメリットを話す。さらに、普段私たちがとかく意味優先で世界を見ていることを例を挙げて指摘し、それによって「本当のものを見ていない」ことを確認しよう。つまり、「現象は心で作られている」ことを確認するのである。では、本当のもの(真象)を見るとはどういうことか、を次に考える。「神の創造とは何か?」を考えながら「虚心で周囲の世界を見る」ことを実践する。その中で、感動を覚えたものを絵に描くのがいい。

 この際、『真理の吟唱』にある「良きアイディアを受信するための祈り」の一節を引用するのもいいかもしれない--
 
「神は無限のアイディアの本源であり給う。宇宙の一切のものを観察するならば、神が無限のアイディアの本源であることは誰にも解かるのである。宇宙には木の葉一枚くらべて見ても同一の樹でありながら全然同じ葉脈をもった葉は存在しないのである。木の葉一枚一枚の輪郭がえがく曲線の美しさ、葉脈の流れの美しさ、しかも一枚一枚ことごとく異なりながら、美しいのであるから、その無限創造の神秘力に驚嘆するほかはないのである」

 また、「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」にも、よい言葉がある--

「私たちが花を見て、花の美しさを感ずることができるのは、私たちの生命(いのち)と花の生命(いのち)とが本来ひとつであるからである。私たちが空の星を見て、それを理解し天地の悠久を感ずるのも、星の生命と私たちの生命とが本来一体であるからである。或いはまた空の鳥を見て、その可憐さを感じ、その声の美しさに聴き惚れるのも、空の鳥の生命と私たちの生命とが本来一つであるからである」

 これらの言葉を紹介しながら、真象とはどのようなものであり、絵を描くに当たっては、現象のどのような面に着目すべきかを概略説明してから、絵手紙の実習に入れば、参加者も宗教的な意義を理解しながら絵手紙制作に没頭できるだろう。
 
 谷口 雅宣

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コメント

肉食や殺生についての明快で正しい解決法ははたして発見実践出来るのでしょうか?例え聖人であったとしても肉食はともかく殺生する事無く一生過ごせる人は居られないのではないか?旧約聖書では食べて良いもの悪いものを具体的に名指しで明記されています、イエスは「何を食べ何を着んか煩うこと勿れ」と言っていますし、漁師に魚の居場所を教えて一網打尽に獲らせてもいます、モーゼの10戒の「殺してはいけない」と言う戒めも、何を、、と言っていません、その点釈尊は「生きとし生けるものの命を取ってはならない」とはっきり言明しています、副総裁は魚に付いては言及されていませんが釈尊の戒めは非常に困難です、釈尊は蚊やハエ、小さな虫までも注意して殺生なされなかった様ですが目に見えないバクテリヤや菌までは及ばなかったでしょうし、不可能に近い気が致します、野菜ばかり食べていると力が出ないと言う人も数多く存在するものと推測します、「過ぎたるは及ばざるが如し」「両極端を避けよ」の言葉通り(聖人、出家者はともかく)で殆どの凡人は良いのではないか?と考えます、此処に「悪人正機」説の教えがあるのではないか?この悪人と言う言葉は好きではありません(私は凡夫にして貰いたい、犯罪を犯した訳ではありませんので)ですが、、経済発展と自然環境保護のバランスと同じく出来るだけ殺さない、食べない、減らして行こう!で良いのではないか?と思います。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月 4日 15:01

尾窪さん、

>>出来るだけ殺さない、食べない、減らして行こう!で良いのではないか?と思います。<<

 私も同感です。誤解のないように申し上げますが、私は「動物性蛋白質を絶対に摂るな」と言ったことはありませんし、本の中でも「肉食は許されない」と書いたことはありません。バクテリアや植物の“命”と、脳の発達した哺乳動物とを同等に扱わない点は、谷口雅春先生も、清超先生も私も同じです。

投稿: 谷口 | 2008年3月 5日 16:53

有難うございます。本年より先生のブログ楽しみに拝見させていただいております。 3月3日の採食は菜食ではないでしょうか?

投稿: 菅原久美子 | 2008年3月 5日 23:57

御返答有難う御座いましす、少し安心致しました、記憶では半世紀以前は鯨の肉が殆どでしたが鯨保護団体のお陰かどうか?禁止以後殆ど見かけませんし食べる機会もありません、数日前には保護団体が日本の調査船と平行して走り様々な薬品や器物を投げ込み負傷者が出ています、彼らは平気で牛肉を食べていると見聞しています(本当かどうかは不明ですが、もしそうであるのなら非難攻撃する資格はありません、自らを正して非難されるのならば耳を傾けなければなりませんが、、)牛肉、鶏肉、豚肉と非常に美味しく元気も出ますが賭殺現場の惨状や製品製造と同じ様な飼育工程を見聞しますと温暖化環境破壊以前にやり切れない思いが致します、又輸送される牛を見た事がありますが人間に懐いている牛と明らかに表情が違います、脳の発達した哺乳動物を食べないで生きて行ける時代が来れば善いですね、いづれに致しましてもその代償は自らが負う事になるのだろうと思います。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月 6日 00:46

菅原さん、

 「採食」の件、ありがとうございました。訂正しまぁーーす!

投稿: 谷口 | 2008年3月 6日 13:07

私は独身時代に7年間菜食でした。厳密にいうと自宅で作る食事(朝、夕)が完全菜食だったわけです。結婚と同時に夫の嗜好に合わせて菜食主義はどっかにいってしまいました。
その後、環境問題に関心を持つようになって最近は次第に肉食を減らしつつあります。すると気づいたことがあります。私一人の意向で肉類をなるべく買わないのですが、そうすると私の作る食事を食べている家族(夫と息子)もその影響を受けて肉類の摂取が減っているのです。独身時代はただ一人の孤独な主張でしたが、家族のいる今は一人で三人分の効果があるわけであります。主婦の影響力は大したものだと思いました。家庭の台所を預かる主婦がどの様な考え方をするかどうかはとても大切だと思います。

投稿: 前谷雅子 | 2008年3月 6日 22:54

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