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2008年2月29日

新しいタイプの誌友会

 2月28~29日の2日間、生長の家では日本のみならず、ブラジル等の海外からも幹部の代表が集まって「生長の家代表者会議」という会合が開催された。ここでは、4月から始まる新年度の運動をどう進めるかを描いた運動方針の説明と、それに対する質疑応答などが行われた。新年度の運動方針には、新しい方策がいくつも盛り込まれているので、それに対する質問も多く出て、時間が足りないほどだった。私は2日目である今日の最後に、参加者全体への包括的なメッセージを語る役割をもっていたが、会場の真剣な雰囲気に影響されたのか、予定していた話とは少し違う内容のことを話している自分に気がついた。が、方向転換はせずに話を続けた。おかげで、あまりまとまりのない抽象的な内容になってしまったことが悔やまれる。そこで、この場を借りて、本来予定していたもっと具体性のある話をさせてもらおうと思う。
 
 新年度の運動方針では、従来のものに加えて、新しいタイプの誌友会を開くことが謳われている。誌友会とは、家庭単位で行われる生長の家の真理勉強会のようなものだ。この誌友会は、開催者の技能や芸術的感覚を生かし、真理を生活に活かす具体的な実践を盛り込んだものだ。ここで言う「技能や芸術的感覚」とは、少し努力すれば、誰でもある程度のことが可能となるもので、例えば、料理、写経、絵手紙、書、俳句、短歌、写真、動画、植樹・植林、エコ生活の工夫、パソコン(インターネット)などを指す。誌友会を開催する人が、こういう分野の技能や芸術的感覚をもっていた場合、それらの実践を通して真理を生活に活かすことをここで学ぶのである。

 拙著『日時計主義とは何か?』の66頁以降で、私は「感覚と意味」について書いている。これは、私たちが物事を見たり考えるときに、その物事自体がもつ感覚的味わいを優先的に感じる場合と、その物事が自分に対してどういう意味をもっているのかを優先して考える場合とがある、という分析にもとづく。前者が“感覚優先”のものの見方であり、後者は“意味優先”の認識である。そして私は、この本で「“意味優先”のものの見方をする場合、私たちは目の前にあるものを自分の現在との関係でとらえ、価値判断する傾向がある」と書いている。自分の現在の目的に対して利益があるものを“善”とし、不利益なものは“悪”と見なし、無関係なものには“無感覚”になる傾向がある、ということだ。こういう単純で、自分勝手なものの見方をしていては、そこにある物事そのものをよく見ていないし、感じていないと言える。

 私たちが生活の喜びを感じないときは、この“意味優先”のものの見方をしている場合が多い。そこで日時計主義では、神からいただいた優秀な感覚器官を備えたこの肉体に感謝する意味からも、“感覚優先”のものの見方、感じ方の復権を訴える。これは感覚主義や快楽主義になれというのではなく、自分中心の先入見によって世界を見るのをやめ、自分の周囲に与えられたすべてのものを虚心になって見、感じるところからやり直そうというのである。これを別の言葉で表せば、現象の中にあっても、実相の反映であるところの“真象”を正しく感じ、しっかりと受け止めようということだ。『日時計主義とは…』の本では、こう書いている--本書で提唱する「日時計主義」も結局、そのような真象をより多く見るための考え方であり、真象を感じるための実践である。
 
 こういう観点を理解していただくと、私たちがこれから行おうとしている「技能や芸術的感覚を生かし、真理を生活に活かす具体的な実践を盛り込んだ誌友会」の目的は「真象をより多く見、感じ、共有するため」であり、「すでに与えられている神の恵みを認め、感謝するため」であることが分かる。読者にはどうか、この観点を忘れないでいただきたい。私たちは今、料理教室やカルチャー・スクールを開設しようとしているのではない。今日の会議では、料理と絵手紙を取り入れた誌友会のデモ・ビデオが上映されたが、それは料理が上手くなり、絵手紙が上手に描けるようになるための誌友会ではない。そうではなく、「料理」や「絵手紙」を通して真象をより多く見、感じ、それを参加者全員で共有するための誌友会である。

 今、なぜこのような活動が必要かと言えば、それは地球環境問題の背後には、人々の不足や不満に焦点を当て、欲望を喚起することで物やサービスを売ろうとする大きな動きがあるからである。このような迷妄は、「人間・神の子」と「天地一切の物への感謝」の教えによって消滅するが、それを実践するのが日時計主義の生き方である。

 谷口 雅宣

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コメント

聖使命新聞読みました。新しい運動が楽しみです。
私は来月から誌友会を発会致します。そこで絵手紙誌友会をする予定です。弟や妹に真理を伝えたいです。

投稿: 多久真里子 | 2008年3月 1日 14:48

谷口雅宣副総裁様
確かに自分に良くしてくれる人は善い人で、意地悪する人は悪い人、何もしてくれない人は関係ないと単純に言い、悟った様に話す人や空気をすったり、水を使ったりする事に対しましても一事が万事「当たり前ではないか!」と言う人がたまにいますが日時計主義の奥はなかなか深いものですね、それで、よく私が思う事があります、「生かされている」と言う言葉です、「生きているのではなく生かされていると言う事に気付きました」と目から鱗が落ちたかの如く、得意そうに又悟ったかの如く言う人をテレビや新聞雑誌等々で見聞します、宗教界でも普通に使われている様に思いますが確かにそうではあるのですがチョット?なのです、何故なら養殖の魚類、食用に家畜、寝たきり無意識体中管だらけの患者等の姿が思い起こされるからです、私は「生かしていただいている」と言う言葉の方がシックリ来る様な気がするのですがどんなものでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年3月 2日 17:28

谷口雅宣先生

 「新しいタイプの誌友会」の事、教区の会議でお聞きしましたが、私の中では今一つ、ストンと落ちるものがありませんでした。しかし、今回の先生のこの御文章を拝読して、その意味が分かりました。

 私としては絵手紙とかはやった事がありませんが、写経ならやった事がありますのでそんな所からちょっと試してみようと思います。

 私の趣味はテニスとか卓球ですが、それをやる訳に行きませんですものね。でも、今度、壮年部でソフトボール大会をやろうと思っています。これは新しいタイプの誌友会では無いですが。

投稿: 堀 浩二 | 2008年3月 3日 15:21

雅宣先生、

質問なのですが、

〉誌友会とは、家庭単位で行われる生長の家の真理勉強会のようなものだ。

とありましたので寮母さんとと一緒に生け花をしたいと考えました。
 寮母さんは私にとって母のような存在です。
 聖使命新聞にまだ決まっていないとのことでしたが、開会・閉会の祈りはした方が良いのでしょうか?何か聖典を読む時間を作った方が良いのでしょうか?
 生け花の先生が寮に来て頂けるようです。生長の家の玄関に生け花をして頂いている方です。生長の家を知っているかたなので祈りをしても大丈夫かもしれないのですが。

〉私たちは今、料理教室やカルチャー・スクールを開設しようとしているのではない。今日の会議では、料理と絵手紙を取り入れた誌友会のデモ・ビデオが上映されたが、それは料理が上手くなり、絵手紙が上手に描けるようになるための誌友会ではない。そうではなく、「料理」や「絵手紙」を通して真象をより多く見、感じ、それを参加者全員で共有するための誌友会である。

とありましたので、やはりただ生け花をしたということだけではダメな気もしたのですが、誌友会は大体2時間で開催していたので生け花をして、片づけたら終わってしまうような気がします。ただの生け花の授業にならない為にはどのようにしたら良いでしょうか?

投稿: 多久 真里子 | 2008年3月17日 20:47

一年ほど前、数回に渡って、誌友会の座談で私は二人の誌友さんの俳句作品を皆さんに紹介し、私なりの句評を発表したことがありました。ある事情でこの誌友会は休会になりましたが、最近、復活しましたのでまた続けてみたいと思っています。

 一人居てるり紺茄子の粥すする

私の「評」は、〝「るり紺」は宝石のような茄子の紺色を表すのに最高ですね。句から、絵を書かれる人とすぐわかります。〟というもの。この方は絵手紙に句を書いて、時々お便りを下さる熟年女性です。

投稿: 中井良穂 | 2008年3月20日 11:33

中井さん、

 実例を示していただき、ありがとうございます。

 ところで、俳句を使った誌友会では、教義との関連をどのように解説されたのでしょうか?

投稿: 谷口 | 2008年3月20日 17:26

俳句は真象(真善美の現われたもの)への賛嘆・感謝・憧れなどの心を言葉で端的に表したものでございます。俳句を味わっていただくことは、「真象をより多く見、感じ、参加者で共有する」とお教えいただいた「新しいタイプの誌友会の目的にふさわしいと感じております。
茄子漬けを単なるおいしい食べ物とだけ見ないで、瑠璃紺という宝石を髣髴とさせる賛嘆の言葉で修飾された作者の美観を皆で味わったことでした。ただし、俳句鑑賞には5%程度の時間をいただいております。

投稿: 中井良穂 | 2008年3月20日 19:15

中井さん、

 ありがとうございます。
 5%というのは、短い感じがしますが……。

投稿: 谷口 | 2008年3月22日 15:34

谷口雅宣先生
通常の誌友会のなかで、やや遠慮がちにやっておりましたので、確かに5%は短いと思われます。新しいタイプの誌友会として、一般的に認知されれば、「自分も句作してみよう」と参加する人も増えて30%位まで増えてくるであろうと感じております。特に好きな方だけで、吟行をして、その作品を誌友会で紹介したり、句集を出したりしたら楽しい会になりましょう。光の泉俳壇にも挑戦してみたいと思っております。中井良穂拝

投稿: 中井良穂 | 2008年3月23日 21:23

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