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2008年2月11日

ウソをつかない生き方

 建国記念の日である今日は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館で「建国記念の日祝賀式」が執り行われた。私は、この祝賀式で大略以下のような言葉を述べた:

 皆さん、本日は日本の建国記念の日、おめでとうございます。
 日本列島はこのところ、各地で雪が降るなど寒い日が続いていましたが、今日は幸いにも比較的暖かな日となり、こうして皆さんと元気で日本国の誕生日を祝うことができることを心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
 さて、建国記念日の由来については、皆さんはすでによくご存じのことと思います。『日本書紀』などの日本の神話によると、この2月11日の日が、初代の天皇であられた神武天皇が日本の国を統一し、即位した日に当たるということで、昭和42年(1967)2月11日から「国民の祝日」として適用されている日です。戦前は「紀元節」として祝われていたことも、ご存じの通りであります。また、これは昨年もお話ししましたが、現在、存在している世界各国の中で、国の始まりを神話の時代にまで遡って定めている国は大変珍しく、日本とお隣の韓国ぐらいです。その他の大多数の国では、欧米諸国の場合は近代の民主主義革命が起こった日、アジア=アフリカ諸国では第2次大戦後に欧米各国からの独立した独立記念日が、建国記念日として祝われているのです。
 
 このように、世界の多くの国の誕生は比較的最近のことですから、その際の“建国の精神”とか“建国の理想”というものは、独立宣言や憲法関連の文書の中に明確に定められています。だから、それらの公的文書を学ぶことで建国の精神は理解されます。ところが、日本のように“神話”という一種の文学作品に物語の形で描かれている場合は、解釈の余地がある。言いかえれば、解釈の違いによって、「A」が建国の精神だという人もいれば、そうではなく「B」の方が本当の建国の精神だという人。あるいは、神話など昔の人の作り話だから、そんなあやふやなものを現代の指針とすべきでなく、もっと最近の分かりやすい文書--例えば、日本国憲法の前文--に書かれていることを日本国の精神とすべきだというような、いろいろな意見が出ているのが現状です。
 
 そこで私はここ数年の建国記念日では、日本の神話にある建国物語の一節を紹介して、そこにある何をもって日本の国の“建国の理想”とすべきかについてお話しています。このことは今年の1月1日付で発行させていただいた『小閑雑感 Part 9』(世界聖典普及協会刊)の中にもありますので、それを紹介したいと思います:
 
 (同書、pp.265-266 を朗読)
 
 ここで私が最後に書いた「神意に聴き、正しいことを素直に実行する」という精神は、今の日本にいちばん欠けていることではないでしょうか。「神意」とは「真理」であり、「神意に聴く」とは「真理に従う」ということです。これは即ち「本当のことを言う」ことでもあります。にもかかわらず、伊勢神宮のお膝元で、賞味期限の切れた餡を再利用したお菓子を売っていた老舗の和菓子屋がありました。それ以前にも、北海道の牛乳やチョコレートでも「表示」と「実際」をゴマカス操作が行われていました。最近になっては、製紙会社が永年にわたって古紙の含有率を偽って表示や納品をしていたことが発覚しましたし、同じようなリサイクル率のゴマカシは、プラスチックを製造する石油化学会社でも行われていたことが分かりました。簡単に言えば、「ウソをつかない」という倫理が廃れているのが現代日本ではないでしょうか。
 
 この「ウソをつく」ということについて、哲学者の梅原猛さんが『日本の深層』という本の中で興味あることを書いています。それは、日本人の先祖である縄文人と弥生人の間には、「ウソをつく」ことに関する倫理感に違いがあるというのです。言葉には神が宿るという言霊信仰をもっていた縄文人は「ウソはつけない」という倫理感をもっていたのに対し、言霊信仰をもたない弥生人には「ウソも方便」という考え方があった、というのです。ことの真相は私には分かりませんが、少なくとも日本建国の神話の中には、「正直に還り、神意にしたがって事を成すべし」という教えが説かれていることは明白です。(その箇所を再び指摘)
 
 生長の家では「コトバは神なり」と教わっています。コトバには大いなる創造力がある、ということです。コトバとは「身・口・意」の三業のことです。神意を正しく知り、それをコトバの力によって現していくのが我々の運動ですから、これは日本建国の理想とも合致した正しい生き方である。このことが忘れ去られているために、今日の日本社会の乱れがあることを知り、今後とも大いに真理宣布の活動に邁進し、ウソをつかない生き方を実践していきたい。建国記念の日にあたり、そのような思いを改めて強くもったしだいであります。
 
 皆さまと共に、神様の光を背に受けた、明るい、ウソのない運動を展開してまいりましょう。

 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○梅原猛著『日本の深層--縄文・蝦夷文化を探る』(集英社文庫、1994年)

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コメント

谷口雅宣先生

 素晴らしいお言葉有り難うございました。

>言葉には神が宿るという言霊信仰をもっていた縄文人は「ウソはつけない」という倫理感をもっていたのに対し、言霊信仰をもたない弥生人には「ウソも方便」という考え方があった、というのです。

 私の周囲にもこの「ウソをつかない」という倫理観の世界が完全に展開しているかと言えば、必ずしもそうではありません。でも、それも私の自覚の反映と思い、自己研鑽にいよいよ努めたいと思います。

投稿: 堀 浩二 | 2008年2月12日 09:33

人類光明化運動指針や、生高連の歌にもある、生長の家立教の使命である日本建国の理念の実現。すなわち、中心帰一、六合兼都、八紘一宇、大和の心とともに、先生のお言葉である、神意に聴く、真理に従う、すなわち「うそを言わない」という、日本人として建国の理想に合致した生き方を、日本国実相顕現による世界平和実現のために、実践して行こうと決意させていただいた良い紀元節となりました。
谷口雅宣先生、ありがとうございます。
感謝合掌

投稿: 久米敏晶 | 2008年2月12日 10:49

素晴らしい考え方、生き方ですね!この文章を拝読させて頂いて故社長の考え方、生き方を思い出さされました、社長は宗教の人ではありませんでしたが無宗教で宗教の生き方を終始一貫して実践された人であったと確信出来ました、釈尊は「汝らこの道を行かば苦しみのはてに至らん、われ苦しみの矢を抜きたれば、今こそ汝らに道を説くなり」と申されました、万教帰一!この道は一つなのですね。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年2月12日 12:30

久米さん、

 初めてお目にかかりますね。どちらの教区からアクセスされていますか? 

>>中心帰一、六合兼都、八紘一宇、大和の心とともに……<<

 ずいぶん古い言葉が出てきましたが、それぞれ貴方にとってどんな意味をもっているのでしょうか? その意味しだいでは間違った方向を指すこともありますよ。

投稿: 谷口 | 2008年2月12日 13:09

『ウソをつかない生き方』と『本当のことは言わない生き方』について、どのように思いますか?
ウソはつきたくないから、本当のことは言わないということもあります。

投稿: 早勢正嗣 | 2008年2月12日 18:20

大阪教区の者です。
中心帰一、六合兼都、八紘一宇、大和の心は、
天照大神の子孫である神武天皇が、天孫降臨され、この紀元節の日に、この理念の下に日本の国を建国された、と神話に描かれているものと認識しております。
先生のお説きになられた「神意に従う」すなわち「うそをつかない」生き方とともに、日本建国の理想であり、世界平和や地球環境環境改善をももたらす、日本人として実践すべき建国の理想にかなった生き方であると認識しております。

『菩薩は何をなすべきか」の人類光明化運動指針第5条の解義を基にしておりますので、間違ってはいないと思っておりますが・・・・。
間違いございましたらご指導頂ければ幸いでございます。

また来る3月9日における講習会、楽しみにしております。

感謝合掌

投稿: 久米 | 2008年2月13日 00:32

早勢さん、

>>ウソはつきたくないから、本当のことは言わないということもあります。<<

 ?? 「嘘をつきたくないから、本当のことを言う」の間違いではないですか?

久米さん、

 ご存じのように「六合兼都」「八紘一宇」の言葉は、戦前は悪用され、中国大陸侵攻の口実に使われた時期もありました。その点を注意していただければ幸甚です。


投稿: 谷口 | 2008年2月13日 15:42

早勢さんの「ウソをつきたくないから本当のことを言わないということもあります」ですが裁判でよくある"黙秘"に似ています、過ちを犯した場合、私は「罪を憎んで人を憎まず」有りの儘本当の事を言って法に依る裁きを受け、悔悟し二度と再び同じ過ちを繰り返さない生き方、つまり「本当のことを言わない生き方ではなくウソをつかない生き方」の方が気持ちよく生きて行ける様な気がします、何しろ怖いものが無いではありませんか、神仏でも怖く無いですよ!故社長は「自分に不利益や名誉が傷つかない時は本当の事を有りの儘に正直に言うが逆の場合はサギよカラスと言い訳三昧する諸君の正直さではお得意様から本当の信頼は得られないぞ!不利益を承知で本当の事を語り振舞った時、初めて感動し、真の信頼を得るのだ!本当の信頼を勝ち得た者は何をするにしても勝者となり栄光の未来が開けてくるのだ」と指導された事がありました、「信頼あるのが第一の親しみ」と言う言葉もあります、勿論「他者を害することのないように、、、」と言うダライラマの言葉は無視出来ませんが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年2月13日 22:38

「ウソはつきたくないから、本当のことは言わない」というのは、やはり変でしょうか。

本当のことを言う状況ではないと判断した場合、本当のことを言いたくない場合で、そのことについて何か尋ねられた場合、本当ではないこと言えば、(相手がそれをウソであるとわからなくても)自分の中ではウソをついたことになるから、何も語らない。

それでは、その何も語らないと言う行為は、ウソをつかない生き方であるといえるのでしょうか。

投稿: 早勢正嗣 | 2008年2月14日 01:06

早勢さんへ
裁判ではないのですから日常生活でのウソに拘り、縛られ、囚われるのはどんなものでしょうか?孔子は「恕」と言う言葉をダライラマは「他者を害することの無い様に、」と基本的なことを言っています、何もかも本当の事だからとベラベラ喋れば良いと言うものではないと思います、相手を傷つけ、奈落の底に落とし入れ、恨みを買う様な事は言わない(裁判は別)と言う事とウソを付きたくないから本当の事を言わないと言う事をゴッチャにしてしまうと迷路に入るのではないでしょうか?ここからウソも方便と言う考えが生まれた様な気がします。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年2月14日 17:24

早勢さん度々申し訳有りません、早勢さんは副総裁の答弁を待っておられる事と思いますが、私の様な考えを持っている人もいる位で気楽に聞いて下さい、
早勢さんは「本当のことを言う状況ではない」と判断した場合、「本当の事を言いたくない場合で、その事について何か尋ねられた場合、本当でないことを言えば自分の中ではウソをついたことになるから何も語らない」と言う事で少しもへんでは無い」と考えられているのではないですか?
この場合
他者の事についてでは無く、自分自身についてのみ考えられてはどうでしょうか?つまり「あなたは昨日不法投棄されましたね?とかお金を誤魔化されましたね?盗みをされましたね?酔っ払ってひき逃げされましたね?」等々尋ねられた時にどう言うか!「本当でない事を言うとウソをつく事になるから何も言いたくないから何も言わない」と言うその行為は"ウソをつかない生き方"であるとは言えない!と私は考えます、ですから副総裁は「ウソをつきたくないから、本当のことを言う」の間違いではないのですか?と逆質問されたのだ思いますが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年2月15日 10:12

早勢さん、

 前回の貴方のコメントは、誰に宛てたものか明示していないので答えませんでした。私への質問は私宛であることを明示していただければ幸甚です。尾窪さんが、私宛だと推量されているので、そうだと仮定して答えます。

>>「ウソはつきたくないから、本当のことは言わない」というのは、やはり変でしょうか。<<

 変だと思います。「本当のことは言わない」という言葉の意味には、①「本当でないことを言う」、②「沈黙する」、③「いいかげんなことを言う(白黒をはっきりさせない)」など、いろいろの内容が考えられますが、どちらの意味で使っているのでしょうか?

>>その何も語らないと言う行為は、ウソをつかない生き方であるといえるのでしょうか。<<

 こういう質問をされるのですから、上の②のことを意味しているのですね? そうだと仮定した場合、私の答えは「嘘をつかない生き方であるとも、ないとも言える」となるかもしれません。とにかく、貴方の質問は意味があいまいであることが多いので、答えにくいです。

 ある事柄に対して自分は「No」と考えているのに、「Yes」と答えるのは嘘です。しかし、状況を見てここで「No」と答えるのはマズイと考え、何も答えない場合、それは「嘘をついた」とは必ずしも言えないでしょう。しかし、自分が心底から「これではいけない。絶対に答えはNoだ!」という信念をもっていながら、それを吐露せず、後ろを向いて立ち去ったとします。これは社会的には「嘘をついた」ことにはなりませんが、自分に対してはどうでしょうか? 「俺は卑怯者だ」と感じる人、「俺とは関係ない」と感じる人、「アイツはアホだ」と思う人、いろいろいると思います。

 要するに、一般論では何とも言えないということです。


投稿: 谷口 | 2008年2月15日 13:24

>とにかく、貴方の質問は意味があいまいであることが多いので、答えにくいです。

すみません。要領が悪いと思うのですが、話が進んでいけば解消される部分も出てくると思いますので、ご勘弁ください。
あいまいな部分で抜けているいる部分がありました。まず、はじめにある人が「本当のことを言ってください」と質問したことから始まります。

そこで
>状況を見てここで「No」と答えるのはマズイと考え
ですが、
この「マズイ」という判断をした、根拠が問題になるのだと思います。相手が返答を求めてきたその理由と「マズイ」という判断結果との間に納得できるものがあるのかということです。対立というのは、お互いに情報が共有できていない場合に起こるのだと思います。あなたの考えていることは何ですか、私の考えていることはこういうことです、ということによるお互い理解。
どちらかというと、他者が何を考えているのかを思う姿勢が大切なのかもしれません。このことは、ウソをつかない生き方の背後にあるものと同じなのだと思います。

投稿: 早勢正嗣 | 2008年2月16日 08:49

副総裁先生の御言葉、ホールで拝聴させていただきました。

先生の御言葉の途中、ハッと思ったのは、
神武天皇が日を背にして…の神話の紹介をされたときでした。

太陽を背に(味方につける)する生き方、
日時計主義だ。。。と(笑。


勝手な思いつき解釈かもしれませんが、
いつも太陽のような「明るさ」を味方につける。。。

光明面のみを見て、神の御心に沿った生き方をすることが大切なのだと思いました。

お天道さまが見てるよ☆という昔の人のコトバを忘れずに、
明るく正々堂々と神の子の生活をしていきたいと思います^人^☆

投稿: はぴ☆まり | 2008年2月16日 12:02

進歩とか向上というものは、よいところを伸ばすことよりは、反省や不備・欠陥の是正により為されることの方が多いのではなかろうか。
この反省することや、不備・欠陥を認める行為は、表面上は光明面を見るのではなく、マイナス面を見ることになる。
それでは、これらは日時計主義に反するのであろうか。私はそうは思わない。なぜ、反省するのだろうか。なぜ、不備・欠陥を探すのだろうか。これらは、善いものを導き出すための、過程にすぎない。すべての事象の中に、善に導くものがあると観ずること、それが日時計主義なのではないかと思う。

観世音菩薩は、衆生を救うために相手に応じて変身するという。中には厳しい姿のものもあるだろう。自分の周りに起る事象を、観世音菩薩の働きと見るならば、「ありがとうございます」とすべてを日時計主義にできる。
かたちに現れる光明面のみを見ることを、日時計主義というならば、それは、観世音菩薩の働きの一部分しか観ていないのではないかと思う。
私たちが経験しているもので、無駄なものない。すべての中に、神が「私はここにいる」と示している。そんな感じがします。

投稿: 早勢正嗣 | 2008年2月16日 23:07

早勢さんへ
論点を元に戻します、「ウソの無い生き方」です、早勢さんは「状況を見て"no"と答えるのはマズイと考え判断した根拠が問題になる」とはっきり捉えておられます、ですから私が聞きたいのは黙秘したり、noですからウソを言ったり、する根拠を具体例で示してみて下さい、でないと抽象的で良く分からないのです、申し訳有りませんがよろしく御願い致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年2月19日 15:39

↑少し感想です★

「観世音菩薩のお働き」とは、観世音菩薩様が姿形を変えて何かを説いて下さると受け取られがちですが、すべてこの現象世界は、一人一人自分で創り出している世界ですよねぇ。

観世音菩薩のお働き=自分で現している人や世界かと( ̄◇ ̄)!

なので、私は自分で創り出している世界に自分で責任を持つ!という生き方をしたいと思います^^

投稿: はぴ☆まり | 2008年2月20日 10:05

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