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2008年2月29日

新しいタイプの誌友会

 2月28~29日の2日間、生長の家では日本のみならず、ブラジル等の海外からも幹部の代表が集まって「生長の家代表者会議」という会合が開催された。ここでは、4月から始まる新年度の運動をどう進めるかを描いた運動方針の説明と、それに対する質疑応答などが行われた。新年度の運動方針には、新しい方策がいくつも盛り込まれているので、それに対する質問も多く出て、時間が足りないほどだった。私は2日目である今日の最後に、参加者全体への包括的なメッセージを語る役割をもっていたが、会場の真剣な雰囲気に影響されたのか、予定していた話とは少し違う内容のことを話している自分に気がついた。が、方向転換はせずに話を続けた。おかげで、あまりまとまりのない抽象的な内容になってしまったことが悔やまれる。そこで、この場を借りて、本来予定していたもっと具体性のある話をさせてもらおうと思う。
 
 新年度の運動方針では、従来のものに加えて、新しいタイプの誌友会を開くことが謳われている。誌友会とは、家庭単位で行われる生長の家の真理勉強会のようなものだ。この誌友会は、開催者の技能や芸術的感覚を生かし、真理を生活に活かす具体的な実践を盛り込んだものだ。ここで言う「技能や芸術的感覚」とは、少し努力すれば、誰でもある程度のことが可能となるもので、例えば、料理、写経、絵手紙、書、俳句、短歌、写真、動画、植樹・植林、エコ生活の工夫、パソコン(インターネット)などを指す。誌友会を開催する人が、こういう分野の技能や芸術的感覚をもっていた場合、それらの実践を通して真理を生活に活かすことをここで学ぶのである。

 拙著『日時計主義とは何か?』の66頁以降で、私は「感覚と意味」について書いている。これは、私たちが物事を見たり考えるときに、その物事自体がもつ感覚的味わいを優先的に感じる場合と、その物事が自分に対してどういう意味をもっているのかを優先して考える場合とがある、という分析にもとづく。前者が“感覚優先”のものの見方であり、後者は“意味優先”の認識である。そして私は、この本で「“意味優先”のものの見方をする場合、私たちは目の前にあるものを自分の現在との関係でとらえ、価値判断する傾向がある」と書いている。自分の現在の目的に対して利益があるものを“善”とし、不利益なものは“悪”と見なし、無関係なものには“無感覚”になる傾向がある、ということだ。こういう単純で、自分勝手なものの見方をしていては、そこにある物事そのものをよく見ていないし、感じていないと言える。

 私たちが生活の喜びを感じないときは、この“意味優先”のものの見方をしている場合が多い。そこで日時計主義では、神からいただいた優秀な感覚器官を備えたこの肉体に感謝する意味からも、“感覚優先”のものの見方、感じ方の復権を訴える。これは感覚主義や快楽主義になれというのではなく、自分中心の先入見によって世界を見るのをやめ、自分の周囲に与えられたすべてのものを虚心になって見、感じるところからやり直そうというのである。これを別の言葉で表せば、現象の中にあっても、実相の反映であるところの“真象”を正しく感じ、しっかりと受け止めようということだ。『日時計主義とは…』の本では、こう書いている--本書で提唱する「日時計主義」も結局、そのような真象をより多く見るための考え方であり、真象を感じるための実践である。
 
 こういう観点を理解していただくと、私たちがこれから行おうとしている「技能や芸術的感覚を生かし、真理を生活に活かす具体的な実践を盛り込んだ誌友会」の目的は「真象をより多く見、感じ、共有するため」であり、「すでに与えられている神の恵みを認め、感謝するため」であることが分かる。読者にはどうか、この観点を忘れないでいただきたい。私たちは今、料理教室やカルチャー・スクールを開設しようとしているのではない。今日の会議では、料理と絵手紙を取り入れた誌友会のデモ・ビデオが上映されたが、それは料理が上手くなり、絵手紙が上手に描けるようになるための誌友会ではない。そうではなく、「料理」や「絵手紙」を通して真象をより多く見、感じ、それを参加者全員で共有するための誌友会である。

 今、なぜこのような活動が必要かと言えば、それは地球環境問題の背後には、人々の不足や不満に焦点を当て、欲望を喚起することで物やサービスを売ろうとする大きな動きがあるからである。このような迷妄は、「人間・神の子」と「天地一切の物への感謝」の教えによって消滅するが、それを実践するのが日時計主義の生き方である。

 谷口 雅宣

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2008年2月26日

自然と人間 (3)

 2月9日13日に引き続き、“森の中のオフィス”との関連で東京近郊の土地を見に行った。1回目は「山の中」で2回目は「海の見える高台」だったが、今回は「新興住宅地にある里山」という雰囲気の場所だった。普通、首都圏の新興住宅地に“里山”はあまり残っていない。が、ここは昔からの住人が土地を手放さずにいて、“開発の波”に懸命に抵抗している--そんな印象を受けた。交通の便という点では3カ所のうち最も有利だが、その代わり土地の値段は恐らく最高だろう。

 前回の視察について触れたとき、私はこんな公案をもらったと書いた--「人間は自然に近づきすぎると、社会から離れることになるのか。自然と人間は相容れないのか?」 人間社会と自然との距離を考えると、今回の土地は「人間社会がこれ以上近づけば破壊される」というギリギリの所にあると思った。いや、もっと正確に言えば、そこではすでに人間社会による自然破壊が進んでいるが、それを自覚した人間が自然の維持に努力している場所である。市民農園が点在し、下草刈りがしてある林にはシイタケのホダ木が並んでいる。だから、周辺の住民がこの地を愛していることは分かる。が、人間による開発が行われるは、時間の問題のような気がする。それだけ、付近には住宅が迫っているのである。

 この地にもし“森の中のオフィス”ができるとしたら、その目的の中には、20日の本欄で書いたことが含まれるような気がする。それは、「都会の中に“本来の自然”の活動を盛り上げる空間を拡げていくこと」である。この地はもちろん、東京の赤坂や原宿のようないわゆる“都心”ではない。しかし、そこでは都会とほとんど変わらない生活が営まれている--建売り住宅、高層マンション、駅前スーパー、コンビニ店、ファーストフード店、ファミリー・レストラン、そして自動車専用道路も近い。こんな場所に“森”が残っていること自体が驚きだが、逆に言えば、こんな地に森を残すことによるメッセージ効果は小さくないだろう。人々の欲望に奉仕するのではなく、自然の力の展開に奉仕し、同時に、国際運動の本拠地としての役割を果たしていく--それができれば、地球温暖化時代の人間の生き方に、何がしかの示唆を与えることができるのではないか。
 
 ここまで書いてきたことは、楽観的観測だ。悲観的観測をやれば、こうなる--「都会の中に“本来の自然”の活動を盛り上げる空間を拡げる」と書いたが、これは例えば、明治神宮や新宿御苑のことでもある。しかし、そういう空間があるからと言って、都市化や自動車社会や“欲望の街”の進行が妨げられたという証拠は明らかでない。都会の環境では、むしろそういう“緑地”があるところへ人々は引き寄せられるから、周辺にはマンションが建ち、レストランが開店し、大型店が集まるかもしれない。それは例えば、大手スーパーが都市の郊外に巨大なショッピングセンターを開発して、同時に緑地を設けるのとどこが違うのか? 宗教施設だから、ショッピングセンターのような「集客」は目的ではないとしても、人々が集まれば地価は上がり、家賃も駐車場代も物価も上がる。それは結局のところ、温暖化抑制にはならず、温暖化の促進ではないか?

 もう1つの問題点は、交通の便がいい場所に“森の中のオフィス”を造っても、本部職員の日常生活は何も変わらないということだ。昼間は“森”で働き、夜は都会のアパートや寮に帰る。休日も都会の中で過ごし、移動も相変わらず自動車で行う。食事もこれまで同様に、カーボン・フットプリントが顕著な輸入食品、冷凍食品を使い、あるいはファミレスやコンビニの世話になる。これでは昼間の一時期に“都会の中の森”にいるだけで、周囲の社会--欲望の街--に及ぼす影響はほとんどない。単に維持費の高い「自然」という名の施設を余分に使うだけだから、「聖使命会費のムダ使いだ」との批判が出ないとは断言できない。
 
 まぁ、いろいろなことが考えられる。今後は、とにかくこの3つの候補地を足掛かりにし、それぞれで何をどう調整すれば、“森の中のオフィス”の本来の目的が最も効果的に達成されるかを検討する段階に入る。
 
 谷口 雅宣

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2008年2月24日

春一番で南国へ飛ぶ

 24日、宮崎市と日向市の2会場で行われた生長の家講習会は、好天に恵まれ、比較的温かな日差しの下で大勢の受講者に参加していただけたことは、誠にありがたかった。長谷川暢彦・教化部長の報告によれば、受講者の総数は3,013人で、2年前の前回より7人増えたことになる。長谷川教化部長を初め、昨秋、新たに選ばれた教区各組織の役員、県内各地の幹部・会員の方々の努力が、このような形で実ったことは実に喜ばしい。

 宮崎県はこのような好天だったが、日本列島の各地では前日の23日から荒れ模様で、降雪や強風の被害が出たそうだ。気象庁の発表では、平年よりやや遅れてこの23日に「春一番」が吹いたという。時間的にも、台風並みの強風が吹いたのが午後の早い時間だったというから、ちょうど私が羽田から宮崎行の全日空3755便に乗っていた時期に“春の嵐”が吹いていたことになる。新聞報道によると、この日に記録された最大瞬間風速は、福島県の白河で34.0m、東京・大手町で26.4mなど、各地で2月に吹いた風としては観測史上最強を記録したという。
 
 この便で、少しハプニングがあった。予定の出発時刻は12時40分だったが、吹雪の影響で千歳空港を中心に欠航が相次いだことから、その頃の羽田空港はダイヤが大きく乱れていた。そして、強風が収まるのを待って離陸しようとする航空機が、滑走路の手前で長い列を作っていた。それでも我々の便は定刻通りにゲートを出、滑走路の手前の3番目ぐらいの位置まで順調に走ってきた。さあ、いよいよ離陸だと身構えていたところで突然、機長から「管制塔の指示で離陸の順番を変更します」というアナウンスがあり、我々の搭乗機は右へ大きく進路を変えて、待機している航空機の列の後方へ回ったのである。

「どうして?」という疑問に、答えてくれる人はいなかった。永年、客室乗務員をしていた私の妻に聞いても、「こんな経験は初めて」だという。「出発が全体に遅れているから、出発の予定時刻が早い便から出発させるのかもしれない」などと、妻は分析した。しかし、一度列についたものの中から1機だけ引き抜いて、後ろへ回れというのは、いかにも乱暴な処置のように感じた。そのうちもっと説明があるだろうと思いながら、私は手提げ鞄から文庫本を取り出して読み始めたが、結局、この件についての説明はなく、羽田からの離陸の時間は約1時間遅れたのである。
 
 この便は、離陸時にも着陸時にもけっこう揺れた。しかし、満席の機内に座る乗客たちは皆、静かに息をひそめて、文句一つ言わないのである。通勤列車でウンウン唸りながらも、ひたすら耐える状況とよく似ている。私は「日本人は何と我慢強いのだろう」と改めて感心したのだった。
 
 そんなことはあったが、宮崎空港へ降り立って温暖な空気に触れ、ヤシの木の並木や、抜けるような青空を見ていると、気分は“南国”になるものだ。翌日、講習会のメイン会場となった宮崎県立芸術劇場では、約1800のゆったりした椅子席が並ぶコンサートホールで講話をしたが、照明がやや暗かったことを除けば、静かに、落ち着いた雰囲気の中で、よい講習会がもてたと思う。教区の皆さん、ありがとうございました。
 
谷口 雅宣

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2008年2月22日

低炭素社会懇談会

 日米関係のアンバランスを指摘して「日本はアメリカの51番目の州だ」などと皮肉る言い方が昔あったが、これはひょっとして現在にも通用する立派な“格言”ではないか、と最近思うのである。アメリカの大統領選挙で勝ち残ってきたマケイン、クリントン、オバマの3候補が、いずれも地球温暖化抑制のための排出権取引に参加する意向を示していることを知り、日本政府のみならず、この制度にあれほど正面から反対してきた日本の経済団体も“重い腰”を上げ始めたからだ。
 
 21日付の『日本経済新聞』によると、日本経団連の御手洗冨士夫会長は20日、ヨーロッパ型のキャップ・アンド・トレード方式(cap and trade)による排出権取引について「欧米などの世界の潮流を踏まえて検討していくのがカギになる」と発言したという。この方式は、民間企業などに温室効果ガス排出量の上限を設定し、この上限に対する過不足分を売買する制度だ。これまで経団連は、この制度では排出権の公平な割り当ては難しいとして反対してきたが、この日の御手洗氏は「地球環境問題をテーマとするサミットの主催国として、これを成功させるためにも検討していくのがカギになる」と発言したという。
 
 同日付の『朝日新聞』は、町村官房長官が「ブッシュ政権とは環境については違いがある政権ができる可能性を認識している」と発言したことを取り上げ、政府が「米国の次期政権が排出量取引制度の導入を含め、温暖化対策を加速させるという見方を示した」と分析している。同紙は、この制度に抵抗していた経済産業省も、「省内に私的研究会を立ち上げ、本格的な検討に入る」だけでなく、自民党も今月になって国内排出量取引の勉強会を発足したことを伝えている。
 
 21日には、政府サイドでもう1つ新しい展開があった。それは福田首相直轄の有識者会議「地球温暖化問題に関する懇談会」のメンバー12人が発表されたことだ。経済界から注目されているのは、これまで排出権取引に最も強力に反対してきた電力業界と鉄鋼業界の代表者として、勝俣恒久・東京電力社長と三村明夫・新日本製鉄社長がメンバーになった点だ。つまり、最大の反対勢力を内部に取り込むことで何かを達成しようということだ。私は、こういう政治手法によって、本当に意味のある政策が実現可能かどうかよく分からない。が、福田首相は、「電力・鉄鋼は日本の産業界の6割くらい温暖化ガスを排出している。そういう人に積極的に協力してほしいという思いもあった」(22日『日経』)という。とりあえず、洞爺湖サミットまで、お手並み拝見ということにする。
 
 ところで、上記の有識者会議は「低炭素社会懇談会」という異名ももっている。そのメンバーの中に枝廣淳子さんがいたので、少し驚いた。彼女は、知る人ぞ知る環境ジャーナリストで、本欄でもたびたび登場するレスター・ブラウン氏(Lester R. Brown)の本の翻訳者でもある。アメリカの企業家の環境意識についても詳しく、地球環境問題へのブラウン氏の危機感を共有しているだろう。そういう人と電力と鉄鋼の両業界の重鎮とが「懇談」することで、7月のサミットまでに首相に「低炭素社会」実現のための助言を与えることなどできるだろうか? いやいや、マイナス思考をしてはいけない。きっと成算があるからこのメンバーが選ばれた、と解釈しよう。
 
 低炭素社会へ向かって、日本だけでなくアメリカも引っ張っていくような強力な提言を打ち出すことを期待したい。そうすれば、「51番目の州」などという汚名は返上できるに違いない。
 
 谷口 雅宣
 

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2008年2月20日

“欲望の街”と“霊的緑地”

 15日の本欄で、赤坂の末一稲荷神社境内の様子を書いた際、「都会の中に“本来の自然”の活動を盛り上げる空間を拡げていくこと」の意味について触れた。それを端的に言えば、わが郷土、わが街を“欲望の街”に変えていこうとする圧倒的な流れに対して「No」と言うことだと思う。あの赤坂の地には昨年、東京ミッドタウンが出現して地価がグンと上がった。集客力の大きい施設が近くにできれば当然、駐車場の需要も増加する。だから少しでも空いた土地があれば、時間貸し駐車場を設置して利益の増大を図ろうとする動きもある。

 しかし、長い目で見た場合、それにどれだけの価値があるだろうか。これによって駐車場を経営する会社の利益は上がり、役員や社員の可処分所得が増える。そうすれば、彼らは街に繰り出すから、周辺の商店の利益も増えるかもしれない。また、それらの商店は改装や改築をしてさらに客を増やそうとする。こうして、六本木・赤坂の古い建物はまた取り壊され、街並みは変わり、さらに客数が増す。これが“経済発展”の黄金律だ。今、中国大陸で起こっていることと、このこととの本質的違いはない。人々の欲望を引き出し、満足させることで、自然も歴史も破壊されていく。

 そんな中に、早春にフキノトウが顔を出し、春にはタケノコが伸び、菜の花が咲き乱れ、夏にはスモモやブルーベリー、秋にはクリが実る土地があったとする。欲望に奉仕するのではなく、自然の力の展開に奉仕する土地である。人々に宗教的なメッセージを伝えるのは、どちらの土地の使い方だろうか。温暖化の方向へ突き進む地球社会に対して「再考」を促す説得力をもつのは、どちらの土地の使い方だろうか。それとも、都会の中にあって、こんな考えをもつ人は“絶滅危惧種”に過ぎないのか。
 
 大都市圏にある「生産緑地」が減り続けていることを、18日の『朝日新聞』夕刊が伝えている。生産緑地とは、都市部の緑地を守るために、一定の広さ以上の土地を一定の条件で農産物生産に使う代わりに、固定資産税を軽減してもらえるものだ。この生産緑地が最も広かったのは1995年度で、3大都市圏で1万5576haだった。それが、2000年度には1万5316haになり、2005年度には1万4652haへと減った。10年間で6%の減少であり、面積にすると東京ドーム198個分狭くなったことになる。主な理由は、相続人が相続税支払いの必要に迫られ、生産緑地の指定を解除して業者に売却したからという。この制度の原則としては、自治体が買い取ることになっているらしいが、面積が狭く公共目的に不適ということで、ほとんど買い取られていないという。

 宗教は公益法人なのだから、緑地保全の面で公益に資することができるならば、そうすべきではないだろうか。都市部の神社や仏閣では、境内に駐車場やマンションを建設して、本業の収入減を補おうとする動きがあるようだが、何か本末転倒な気がするのである。大都市がたとい“欲望の街”であっても、その中にありながら人々の神性・仏性を目覚めさせるような、自然豊かな“霊的緑地”を蘇らせる方策はないものだろうか。それが古来からの宗教施設の役割だったと思うのだが……。

 谷口 雅宣

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2008年2月19日

原宿は欲望の街?

 ノンフィクション作家の工藤美代子さんが、2月17日付の『日本経済新聞』に書いている「原宿はらはら」というエッセーを読んで、手で膝をハッシと叩きたい気分になった。まさに「我が意を得たり」の文章なのだ。私は、工藤さんが原宿に住んでいたことは妻から聞いていて、散歩のついでに二人でお家の前まで行きかけたこともある。が、工藤さんは、6歳の頃から半世紀ものあいだ原宿に住んでいたのに、一昨年の夏、ついにこの地に「別れを告げた」というのである。その理由は、普通の商店がなくなり、高級ブランド・ショップばかりが建ち並び、「乱暴な言葉遣いに濃いメーク、そして高価なブランド物と携帯電話で武装した少女たち」が跋扈するようになったため、「いくら愛着があり、思い出がたくさんつまっている街でも、これ以上住み続けるのが辛くなってしまったのである」と書いている。
 
 そして、次の言葉が私の胸を打った--

「今の原宿は欲望の街と化している。人間のあらゆる欲望が、あの街に集約されているように私には見える」。

 私は昨年2月1日の本欄で、原宿の表参道のことを密かに「ヴァニティー・ストリート」(虚栄通り)と呼んでいることを書いたが、工藤さんは、この街全体を「欲望の街」と名づけて別れを告げてしまった。そう言われれば、この街を動かしている原動力は「欲望」に違いない、と私も思う。しかし、「それだけではない!」と私は叫びたい。谷口雅春先生ご夫妻が人類救済の拠点を建てられ、自らも永年生活された地だ。今も生長の家の国際本部がここで機能し、明治神宮の深い森は訪れる多くの人々の心を慰めている。生長の家に隣接して東郷神社もあり、歴史のある長泉寺や穏田神社もある。キリスト教では原宿ユニオン教会やクリスチャン・サイエンス教会、また天理教の教会もある。が、確かに、この街では、新しく生まれるものよりも、壊されて失われるものの方が、価値が大きいと感じられるのである。

 しかし、私は新しいものにも価値があるに違いないと思いながら、「新旧相い並ぶ混沌とした街の中で、私の心に残る、あるいは現在印象を刻みつつある風景を記録しておく」(上記本欄)ことを始めた。が、この作業は未完である。「あそこも描きたい」「ここもスケッチしたい」と思いながら、忙しさに紛れて日を過すうちに、いざスケッチブック持参で行ってみると風景が変わってしまっている。そんなことも十分あり得る。杞憂であってほしいと思う。
 
谷口 雅宣

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2008年2月17日

“炭素ゼロ”で長崎へ

 京都市での生長の家講習会を終え、東京へ向う新幹線の車中でこの文章を書いている。今日の京都は寒く、午後から雪が吹雪いたそうだ。「そうだ」と書いたのは、私自身は講話をしていて戸外がどうなっているか全く知らなかったからだ。第一、朝ホテルを出て、会場である京都府総合見本市会館(パルスプラザ)へ向かった時には、気持よく澄んだ青空が出ていたから「よい天気になりましたね」と当地の長村省三・教化部長に挨拶をしたのだ。だから、吹雪になるなど予想もしていなかった。が、中途からのそんな悪天候にもかかわらず、9千人を超える受講者の方々が集まってくださり、静かなよい雰囲気で講習会が行われたことは、誠にありがたかった。

 ところで、前日の16日、生長の家総本山の菅原孝文総務から興味あるメールをいただいた。練成会参加者が“炭素ゼロ旅行”を実施したというのである。生長の家では現在、地球温暖化抑制のために、二酸化炭素を出さない“炭素ゼロ”の運動を実現しようとしていることは、本欄でも何回か書いた。生長の家総本山は、長崎県西海市の交通アクセスがあまり良くない地にある。そこでは「団体参拝練成会」という名称で、生長の家の幹部・会員が教区(県に相当)単位の団体で参加する練成会が行われている。練成会とは、泊りがけで宗教的研鑽を積む会である。この行事に参加するためには、多くの人々が日本列島の西端に位置する地に航空機と自動車を乗り継いで行くから、当然CO2が多く排出されるのである。

 ところが、2月13日から今日までの期間に行われた第302回団体参拝練成会に参加した532人中の139人が、埼玉教区から総本山までの往復の移動で排出されるCO2を実質ゼロにする“炭素ゼロ旅行”を採用したというのだ。最近は、旅行会社が顧客の環境意識に訴えて“炭素ゼロ旅行”を販売しているという話を、私は聞いていたが、それを使って練成会に団体で参加したという話は初耳だった。“炭素ゼロ”運動の新しい可能性が拓かれた気がして、喜ばしく思った。

 菅原総務の報告によると、埼玉県から総本山まで139人が往復する際に排出されるCO2は約36トンだそうで、これを相殺するための費用は1人当たり「約3,000円」という。今回の“炭素ゼロ旅行”は、この3,000円を1人当たりの旅行費用に上乗せして支払うことで実現したらしい。この値段が高いか安いかは、人によって見解の相違があるかもしれない。因みに、旅行業者はJTBである。
 
 埼玉教区が行った“炭素ゼロ旅行”は、今回が初めてではないという。昨年夏に京都府宇治市の生長の家宇治別格本山で行われた盂蘭盆供養大祭に参加したときにもこれを採用し、教化部職員による研修旅行でもこれを利用したという。また、そのきっかけとなったのが、昨年4月26日の本欄の文章だというから、益々ありがたい。本欄が、このように運動の進展と地球温暖化抑制に役立つことができるならば、仕事の疲れも雲散霧消する。

谷口 雅宣

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2008年2月15日

小型風車がやってきた

Hbpwergen  今日、生長の家本部へ出勤したら、会館の玄関脇に小型の風車(=写真)が建っているので驚いた。休館日だった前日に「風力発電システム」が設置されたのだ。大きな扇風機のような5枚羽の風車と、駅や学校にあるようなアナログ時計、それに太陽光発電パネルなどを組み合わせたハイブリッド型である。風力と太陽光で発電した電気を蓄電池に貯め、夜の照明に使うらしい。本部会館前の道路は夜間、特に人通りが多い場所ではないが、この装置は照明が目的ではなく、都会の真ん中でも自然エネルギーの利用が可能であることを示す“啓発用”と、将来の同種技術の利用を想定した“データ収集用”であるという。
 
 設置されたシステムは、那須電機鉄工社製の「アウラ1000」で、定格出力135Wと風車と、85Wの太陽電池、蓄電池2台、13Wの照明、時計、発電量表示装置などが一体化している。風車は毎秒2mの風があれば発電を開始し、風向に応じて向きを変えるから、不規則なビル風にも向いているという。台風など毎秒13mを超える強風時には、電気と機械の両方から“二重ブレーキ”をかけるらしい。「アウラ」の名前は、ギリシャ神話に出てくるそよ風の女神に由来する。

 風力発電というと、地上何十メートルもの高い鉄塔の上でウィンウィンと音をたてる巨大な風車を想像しがちだったが、このシステムは“工業用扇風機”という感じで、どこか可愛らしい。写真を撮った午後2時前には、設置場所付近に強い風は吹いていなかったが、風車は回ったり止まったりの状態で、回転音は聞こえなかった。メーカーのカタログを見ると、このシステムは公園やバス停の照明用に開発されたらしい。他社のシステムに比べれば出力は劣るが、音が静かなのと低価格である点で今回選ばれた。将来、本部機能が都会から移転した場合にも、敷地内に常夜灯は必要だろうから、本機はそのためのデータ収集にも役立つだろう。
 
 ところで、私が「自然と人間」について書いた13日の本欄に対して、読者の一人が「自然の恩恵に感謝する時間をもつ」ことの重要性を指摘してくださった。実は、東京の赤坂に生長の家が運営する末一稲荷神社があるが、この2月12日にはそこで初午祭が執り行われた。私はこのお祭の主宰者として祝詞をあげさせていただいたが、帰り際、神社の境内にフキノトウがいくつも顔を出していることに気がついた。ちょうどその朝、ラジオ放送で熊本県の人がフキノトウが出ているという話をしていたのを思い出した。建物が林立する都心の赤坂でも、この境内には日が差し込む地面があり、そこでは自然の営みが行われている。近隣の人々の何人がそれに気づいてくれたか分からないが、黄緑色のフキの葉が広がる下に、蕾を膨らませたフキノトウを見るのは嬉しい。
 
 鉄とコンクリートの都会の中に、自然エネルギーを利用する装置や機械を設置することにも意味はある。が、都会の中に“本来の自然”の活動を盛り上げる空間を拡げていくことも、重要なメッセージになると感じた。

 谷口 雅宣

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2008年2月13日

自然と人間 (2)

 2月9日に続き、“森の中のオフィス”と関連する土地を見に行った。前回は東京から北上したが、今回は南下である。前回は山中へ入り込んだが、今回は海の見える高台だ。そして、前回は雪のパラつく曇天だったが、今日は澄み切った晴天だった。これだけ条件が違うと、「日本にはいろいろな土地があるなぁ」という感慨をもつ。東京駅を朝の9時ごろ出て、約50分で下車、そこから車に約20分揺られて現地着となった。同じ“森の中”であっても、四方を木に囲まれた場所と、南方に海が広がる環境とは、ずいぶん違うと思った。
 
 本題で前回書いたとき、「自然環境をある程度維持しようとすれば、“不便さ”と“不快さ”をある程度容認しなければならない」と述べた。今回の“不便さ”と“不快さ”の1つは、駅から現地まで続く傾斜だった。山が海岸まで迫っているから、道路は蛇行しながら山の上へ向う。自転車では、相当の健脚でも恐らく途中で息が切れる。我々はレンタカーだったが、ギヤーはセカンドに入れなければ不安だ。しかし、この“不便さ”のおかげで得られるものが、「絶景」である。海岸近くの急斜面だから、目の前に遮るものがなく、ほとんどどこからでも広大な太平洋が見える。そんな景観をできるだけ味わおうと、多くの建物が崖っぷちに建っている。この光景を見ながら妻と話したのは、カリフォルニア州の海岸にあるリゾート地のことだった。

 数年前にABCニュースか何かでやっていたのだが、その土地は地盤があまり固くなく、海岸線がゆっくりと削られていく状態にあって、現地の行政官からも「危険地帯」に指定されている。ところが、人々はそこへやってきて住居や別荘を建てるのをやめないという。理由は、「絶景」である。その土地から見える、水平線に沈む壮大な落日が、多くの人々を惹きつけてやまないのだ。これと似たことが、インドネシアやタイの海岸のリゾート地についても言える。数年前に大地震と大津波があったにもかかわらず、人々は風光明媚の海岸線に再び観光施設を造っているという。そしてご存じの通り、東海地方に大地震が来る確率は高い。地震ハザードステーション(J-SHIS)によると、この付近に30年以内に震度5弱以上の地震が発生する確率は「98%」である。

 いつか生長の家講習会で「天災も人間の心の反映か?」という質問が出たことがあるが、その時、私はこういう例を出して、人間は自分の尺度で、自分に都合のいい解釈をして自然現象を「天災」などと呼ぶが、日本列島で地震が起こるのは地質学上は「当たり前」で「自然」なことである。それなのに、「起こらない」と考えている人間がそれを「災い」と呼ぶ、というような話をした。「地震は来ない」と考えて耐震設計をしないことは、ほとんど「人災」に近いし、ある場所へ「危険」を承知で行くのも、自分で「人災」を求めているとも言える。では、30年以内に震度5弱以上の地震がほぼ確実に発生する場所に、事務所を移転するに際しては、一体どう考えるべきだろうか?

 ところで、視察した場所のごく近くに、ずっと前から60歳代とおぼしき男性が一人で家を建てて住んでいる、という話を聞いた。仕事をしている様子でもない。電気も下水もない海岸近くの絶壁の上という。都会にはホームレスの人が多くいるので、そんな人に会っても驚かない。が、田舎の海を臨む断崖の上でどうやって生きていくのか……そんな疑問をもちながら、その場所へ行ってみたのである。ホームレスどころか、屋根も壁もしっかりした小さい家が2棟ほどあり、洗濯物が干してあった。で、そこまで行って、その人がいる理由が分かったような気がした。そこから眺める輝く海、遠くに霞む島、近くの半島……眼前に広がる大自然の風光に、私は息を呑んだ。しかし……と私は考える。たといどんな“天国浄土”がそこにあっても、我々は社会から隔絶した場所で運動を進めることはできない。
 
 人間は自然に近づきすぎると、社会から離れることになるのか。自然と人間は相容れないのか--そんな公案をもらった気持で、私は東京行きの列車に乗った。
 
谷口 雅宣

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2008年2月11日

ウソをつかない生き方

 建国記念の日である今日は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館で「建国記念の日祝賀式」が執り行われた。私は、この祝賀式で大略以下のような言葉を述べた:

 皆さん、本日は日本の建国記念の日、おめでとうございます。
 日本列島はこのところ、各地で雪が降るなど寒い日が続いていましたが、今日は幸いにも比較的暖かな日となり、こうして皆さんと元気で日本国の誕生日を祝うことができることを心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
 さて、建国記念日の由来については、皆さんはすでによくご存じのことと思います。『日本書紀』などの日本の神話によると、この2月11日の日が、初代の天皇であられた神武天皇が日本の国を統一し、即位した日に当たるということで、昭和42年(1967)2月11日から「国民の祝日」として適用されている日です。戦前は「紀元節」として祝われていたことも、ご存じの通りであります。また、これは昨年もお話ししましたが、現在、存在している世界各国の中で、国の始まりを神話の時代にまで遡って定めている国は大変珍しく、日本とお隣の韓国ぐらいです。その他の大多数の国では、欧米諸国の場合は近代の民主主義革命が起こった日、アジア=アフリカ諸国では第2次大戦後に欧米各国からの独立した独立記念日が、建国記念日として祝われているのです。
 
 このように、世界の多くの国の誕生は比較的最近のことですから、その際の“建国の精神”とか“建国の理想”というものは、独立宣言や憲法関連の文書の中に明確に定められています。だから、それらの公的文書を学ぶことで建国の精神は理解されます。ところが、日本のように“神話”という一種の文学作品に物語の形で描かれている場合は、解釈の余地がある。言いかえれば、解釈の違いによって、「A」が建国の精神だという人もいれば、そうではなく「B」の方が本当の建国の精神だという人。あるいは、神話など昔の人の作り話だから、そんなあやふやなものを現代の指針とすべきでなく、もっと最近の分かりやすい文書--例えば、日本国憲法の前文--に書かれていることを日本国の精神とすべきだというような、いろいろな意見が出ているのが現状です。
 
 そこで私はここ数年の建国記念日では、日本の神話にある建国物語の一節を紹介して、そこにある何をもって日本の国の“建国の理想”とすべきかについてお話しています。このことは今年の1月1日付で発行させていただいた『小閑雑感 Part 9』(世界聖典普及協会刊)の中にもありますので、それを紹介したいと思います:
 
 (同書、pp.265-266 を朗読)
 
 ここで私が最後に書いた「神意に聴き、正しいことを素直に実行する」という精神は、今の日本にいちばん欠けていることではないでしょうか。「神意」とは「真理」であり、「神意に聴く」とは「真理に従う」ということです。これは即ち「本当のことを言う」ことでもあります。にもかかわらず、伊勢神宮のお膝元で、賞味期限の切れた餡を再利用したお菓子を売っていた老舗の和菓子屋がありました。それ以前にも、北海道の牛乳やチョコレートでも「表示」と「実際」をゴマカス操作が行われていました。最近になっては、製紙会社が永年にわたって古紙の含有率を偽って表示や納品をしていたことが発覚しましたし、同じようなリサイクル率のゴマカシは、プラスチックを製造する石油化学会社でも行われていたことが分かりました。簡単に言えば、「ウソをつかない」という倫理が廃れているのが現代日本ではないでしょうか。
 
 この「ウソをつく」ということについて、哲学者の梅原猛さんが『日本の深層』という本の中で興味あることを書いています。それは、日本人の先祖である縄文人と弥生人の間には、「ウソをつく」ことに関する倫理感に違いがあるというのです。言葉には神が宿るという言霊信仰をもっていた縄文人は「ウソはつけない」という倫理感をもっていたのに対し、言霊信仰をもたない弥生人には「ウソも方便」という考え方があった、というのです。ことの真相は私には分かりませんが、少なくとも日本建国の神話の中には、「正直に還り、神意にしたがって事を成すべし」という教えが説かれていることは明白です。(その箇所を再び指摘)
 
 生長の家では「コトバは神なり」と教わっています。コトバには大いなる創造力がある、ということです。コトバとは「身・口・意」の三業のことです。神意を正しく知り、それをコトバの力によって現していくのが我々の運動ですから、これは日本建国の理想とも合致した正しい生き方である。このことが忘れ去られているために、今日の日本社会の乱れがあることを知り、今後とも大いに真理宣布の活動に邁進し、ウソをつかない生き方を実践していきたい。建国記念の日にあたり、そのような思いを改めて強くもったしだいであります。
 
 皆さまと共に、神様の光を背に受けた、明るい、ウソのない運動を展開してまいりましょう。

 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○梅原猛著『日本の深層--縄文・蝦夷文化を探る』(集英社文庫、1994年)

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2008年2月 9日

自然と人間

 生長の家の“森の中のオフィス”構想との関連で、東京近郊の土地を見に行った。本部機能をどこへ移転するかはもう少し先の決定になるが、首都圏近郊の土地が実際にどの程度のものかを、一度自分の目で見、足で歩いて確かめてみることは意味がある。

 生長の家は現在、“炭素ゼロ”運動を推進中であることは、本欄でもすでに何回か報告した。しかし、各都道府県にある教化部や道場等の教団施設と本部との間の人の往き来をやめることはできないし、全国で行われている生長の家講習会などの主要な宗教行事を廃止することもできない。ということは、今後とも交通機関の利用は運動遂行のために不可欠である。だから、移転先の選定には、どうしても「交通の便」を重視することになる。が、交通の便を最優先して選定しようとすれば、都心にある現在の本部事務所から動く理由はなくなってしまう。そこで、「自然環境がある程度残りながらも交通の便がさほど悪くない土地」というような、何となくウヤムヤな選定基準が意味をもってくるのである。
 
 実際に土地探しを始めると、しかし、このような基準に合致する物件はそう多くないことが分かる。もっと正確に言うと、首都圏には上記の条件に合う土地は数多くあっても、我々が希望する広さのものは、それほど多く売りに出ていないのだ。今日訪れた土地は、東京駅から約2時間の標高800メートルの高地と、そこから東京寄りに数10キロもどった国道沿いの里山様の土地だった。詳しい場所や評価を書くのは避けるが、いずれも“理想的”というわけにはいかなかった。おかげで、2月上旬の寒空の下、雪もパラつく中で、ゴム長靴の足を踏みしめながら、自然と人間との関係を改めて考えさせられた。

 いずれの土地でも、人間は山を大きく削り取って、住居や公共施設、レジャー施設を造っていた。当たり前のことである。そうしなければ、いわゆる“文化的生活”を営むことができないからだ。“文化的生活”とは、電気、ガス、上下水道、通信、交通・運搬手段が供給されることで、都会の生活を一部にしろ持ち込むこととほぼ同義だ。つまり、便利で快適な生活のことだろう。それを望むことと、自然環境を維持していくこととは基本的には両立しない。ということは、自然環境をある程度維持しようとすれば、“不便さ”と“不快さ”をある程度容認しなければならない。これも、当たり前といえば当たり前の話だ。
 
 しかし、上の論の立て方の中には、含まれていない重要な要素がある。その1つは、「自然が与える価値」だ。「自然そのものの価値」と言ってもいいだろう。これがあるから、人間は不便でも、不快でも、時々は自然との触れ合いを求めて、都会から山や川や海へ移動するのである。ところが問題は、この「自然は不便・不快だが価値がある」という事実が忘れられがちなことだ。別の言い方をすれば、多くの人々は都会生活に親しんでいるうちに、「自然の価値は功利的価値ではない」ということを忘れてしまうのである。そして、自然を「便利に」「快適に」--つまり功利的に--楽しもうとして、あるいは自然を功利的な手段にしようとして結局、自然破壊を招来する。だから、我々が「功利的でない自然の価値」をしっかりと認めることが今後、重要になってくるだろう。
 
 そんなことを考えながら、私は雪降る山中から、人混みで沸く東京駅にもどってきたのだった。
 
谷口 雅宣

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2008年2月 7日

コンポストの土

 好天に恵まれた今日は、午後から庭の植物たちに施肥をした。「寒いうちに……」と思いながらも、忙しさにかまけて延び延びになっていた。すでに立春も過ぎてしまったから“寒肥(かんごえ)”とは言えないが、数日の差は植物も許してくれるだろうと願いながら、土を掘った。「植物」とは書いたが、庭のすべての植物に施肥することはできない。当然、特定の種をエコヒイキすることになる。私の場合、果樹を優遇する。理由はきわめて単純--美味しい果実を期待するからだ。というわけで、キーウィー、ブルーベリー、イチジク、スモモの樹の下にスコップを入れることになった。日陰には、先日降った雪の名残りもある。軟らかい土に、スコップは面白いほどよく入った。
 
 スコップが簡単に入りすぎるのが、気になった。実は寒肥は、寒中を逃してはあまり効果がないと言われているからだ。土が柔らかいのは、土中の微生物がもう活動を始めているからで、植物の根も伸び始めているのだろう。土を掘ると、その柔らかい根を伐ってしまう危険がある。特に気になるのはキーウィーの樹で、昨年は勢いがなく、実がほとんどできなかった。雌雄2本の木のうち1本は今、枯れたような状態である。これに立ち直ってほしいのである。
 
 肥料は、家の生ゴミで作ったコンポストだ。2つあるコンポストの容器が、ちょうどいっぱいになりつつあった。そこで、半年前にいっぱいになった方の容器から中身を取り出し、樹下に細長く掘った穴を埋めていく。コンポストの中身は半年たてば、ほとんど黒い土になっていて、臭いもあまりしない。それでも卵の殻、貝殻、パッション・フルーツの外殻、鶏の骨などがまだ外形を残していて、何となく懐かしい気持にさせる。それらが、土中へと新たな旅立ちをするのである。“彼ら”はいずれ分子をはがされて、土中から植物の根に吸収され、再び果実となって、妻か私の口に入るか、昆虫に食べられるか、あるいは海を渡って飛んできた鳥の胃袋に入る。そんなことを考えながらスコップを振るっていると、時間がたつのを忘れてしまう。

 私がこの作業に没頭しているのを横目で見ながら、三毛と黒の2匹の野良ネコが日向ぼっこをしていた。私との距離は、最短で5~6メートルだっただろうか。私が、バケツに入れたコンポストの土を運んでスモモの樹のそばへ行くときに、彼らとの距離は最も縮まる。すると、2匹はそわそわと腰を上げて、縁の下へ逃れるのである。しかし、そのまま別の場所へは行くわけでもなく、私の姿が見えなくなると、再び同じ場所にもどってきて陽だまりの中に横たわる。ネコごっこならぬ、こんなイタチごっこを3~4回繰り返した後に、2匹はどこかへ姿を消してしまった。
 
 施肥のあと、家の北側にブルーベリーの小株を移植した。これは、挿木したのがついて、植木鉢で育てていたものだ。移植した場所には、もともとシャクナゲがあったのだが、昨年、なぜか枯れてしまった。ブルーベリーの成長には陽光が必要だから、家の北側でうまく育つか自信がない。が、若い株の枝の勢いに期待して、これにも旅立ちをさせた。

 谷口 雅宣

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2008年2月 6日

代理出産は原則禁止へ

 最近、代理出産をめぐる国の方針策定をめぐって新しい動きがあった。首相直轄の特別機関である日本学術会議の「生殖補助医療の在り方検討委員会」が先月30日に政府に提出する報告書案の大筋をまとめ、その中に、代理出産で生まれた子を、依頼した夫婦の実子として認める特例が盛り込まれたというのである。これまでは、「分娩した女性が産んだ子の母」という民法の原則が貫かれていたため、子宮切除などで妻が妊娠・出産ができない場合、代理出産で生まれた子は、遺伝的には夫婦の子であっても代理母の実子とされた。ところが、これを“かわいそう”とする世論の流れがあって、今回の動きにつながったと推測される。
 
 1月31日の『日本経済新聞』によると、30日に行われた検討委員会では、代理出産を法律で原則禁止し、営利目的の違反者には刑事罰を科すという点では合意されたが、例外的にそれを認める際の条件をめぐって議論が紛糾し、最終的な結論は今月予定されている会合に持ち越されたという。しかし、同じ『日経』の2月5日の夕刊では、この報告書案を「厳密な管理の下で“試行”は認めるとする」内容だと書き、事実上、31日の記事を訂正している。
 
 この“試行”が、どのような条件下で認められるかという情報は、新聞記事にも日本学術会議のウェブサイトにもない。ということは、この点は本当にはまだ合意に至っていないと見るべきなのだろう。このウェブサイトには、検討委員会の委員長である鴨下重彦・東大名誉教授のパワーポイントの資料が掲載されていて、そこには「代理懐胎による親子関係問題の結論」として、次の4点が列挙されている:
 
1.代理懐胎の場合も、「分娩者=母ルール」が適用されるべきである。
2.養子縁組または特別養子縁組によって、生まれた子と依頼夫婦との間に親子関係を定立することは認めるべきである。
3.外国で行われた代理懐胎についても、1、2、と同様に考えるべきである。
4.代理懐胎の試行が考慮される場合であっても、1、2、を原則とすべきである。
 
 検討委員会は、今年3月末までが任期のようだから、結論はまもなく出るはずだ。今後のポイントは上記の4にある“試行”が、どのような条件下で認められるかに絞られてくるのだろう。

 私は代理出産の問題に関しては、すでに「反対」との見解を本欄などで表明している。その理由は、2006年10月3日同16日の本欄で述べているので、詳しくはそちらを参照してほしい。が、ごく簡単に言うと、この方法は自分の幸福追求のために他人を手段として利用するから、倫理的に好ましくないということだ。この「他人」とは、「生れてくる子」と「代理母」の最低2人はいて、双子が生まれれば3人となり、夫以外に精子提供者が参加すれば、4人に増える。そういう人々が、100%の善意によって代理出産に協力するとは考えにくい。だから、上記の鴨下氏の「結論」の1~3については、基本的に異議はない。4にある“試行”とは何であるかを、ぜひ知りたいと思う。
 
 谷口 雅宣

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2008年2月 5日

ギョーザ被害はノーシーボ? (2)

 昨日の本欄では、厚生労働省が発表した「中国産冷凍ギョウザ等が原因と疑われる健康被害事例の発生報告数」(2月3日時点)という統計表の数字にもとづき、都道府県別の“健康被害”の数字のバラツキに、何か意味のあるパターンが潜んでいないかを考えた。結果は不成功だったが、その原因がわかった。この統計表の数値の採り方は、かなりいいかげんであることが判明したからだ。もとの数値が精確に把握できていなければ、その数値から統計的に意味のある結論を引き出すことはできない。読者には、私の“ひとり相撲”を観戦させることになり、誠に申し訳なく思う。
 
 わが国のお役所は、実に様々な統計を数多くとっていて、それが容易に入手できるという点では、世界でも珍しい方の部類に属する--という話を、私はアメリカに留学中に聞いていたので、役所の数字を過信していたきらいがある。今回の統計でマズイ部分は、厚労省の側がとても抽象的な表現のカテゴリーを作り、そのカテゴリーに当てはまる数値を、傘下にある全国の各保健所に報告させるという方式をとったことだ。もっと具体的に言うと、抽象的なカテゴリーとは、「当該製品等による健康被害が疑われる事例」と「当該製品等による健康被害が明らかでない事例」の2つである。この2つの言葉には、意味の違いはほとんどない。また、「当該製品等」という表現の解釈の幅は、とても広い。この中に、新聞に名前が出ている中国の会社の製品をすべて含むのか、それともギョーザだけを意味するのか、また「等」という言葉には、ロールキャベツは含むのか、あるいは日本製のギョーザも含むのか、含まないのか、……などの解釈は、もっぱら個々の保健所の判断に委ねた、というのが厚労省の担当者の答えだった。
 
 例えば、上述の表にある「当該製品等による健康被害が明らかでない事例」の中では、静岡県の事例が「132」と他より抜きん出て多い。その理由を同県厚生部食品衛生室に訊くと、この中には実際には健康被害がなくても、ギョーザを食べたので不安だという程度の「健康相談」も含めてしまったという。また、茨城県は同じカテゴリーの数字が「0」になっているが、これは兵庫県と千葉県で問題となった特定の製品だけを対象にして、健康被害が疑われる数字を集計した、というのが同県保健福祉部生活衛生課の答えだった。
 
 そんなこんなで、全国の自治体の保健担当部門はまだ混乱している。厚労省もそういう問題を自覚して、2月4日15時現在の集計では、同じ表の項目名をより厳密な表現に変更した。新しい集計では、上に書いた「当該製品等……」という表現は消え、代わりに「有機リン中毒が疑われ、現在調査を行っている事例数」と「有機リン中毒が否定された事例数」の2つになっている。そして、静岡県の欄では後者の事例数が「132」から「15」に減り、茨城県では「0」が「45」に増えている。また、ギョーザの消費量が多い栃木県は、「29」から「41」に増加している。
 
 私も、現時点での混乱した数字をもとに何か意味のあることを言おうとはしまい。
 
 谷口 雅宣

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2008年2月 4日

ギョーザ被害はノーシーボ?

 中国で作られたギョーザをめぐる中毒事件が複雑な展開を見せているが、4日付の『産経新聞』に興味ある表が載った。3日午後3時までに厚労省がまとめた「健康被害の発生報告数」という都道府県別の数表である。この表は、厚生労働省のウェブサイトにも掲載されている。それを解説した『産経』記事には、「集計した健康被害の相談件数は46都道府県2117人(被害が確定した10人を含む)に上った」が、この10人以外には問題の殺虫剤「メタミドホス」の中毒が疑われるケースは出ていない、とある。これを読むと、実際の中毒は10人でも、「自分も中毒ではないか」と心配して保健所などに相談した人は、その「200倍」以上の数に及んだ、と解釈できる。多くの日本人がこの件で神経質になっていることがうかがえ、記事も「食べ物による体調不良について、多くの人が敏感になっているようだ」との厚労省の見方を紹介している。
 
 この「200倍」の反応をした人の中には、実際に医療機関を訪れ、医師の診断を受けて入院した人が9人、入院しなかった人が379人いたほか、保健所に相談したが医療機関で受診しなかった人が844人、そして、「その他」の分類の中に875人が含まれる。この「その他」の欄は、厚労省の数表では「当該製品等による健康被害が明らかでない事例」という項目になっている。新聞記事では、そこには「日本産ギョーザを食べて体調を崩した」とか「何を食べたか分からないが、1カ月ほど前に体調不良になった」などという、今回の事件とは「関連性がないと判断された事例」もあるという。これは一種の“パニック反応”のようにも思えるし、また、この期間にギョーザを食べた人が、殺虫剤の成分が含まれていなかったにもかかわらず、実際に病気になったケースがある可能性も否定できない。つまり、一部には「ノーシーボ効果」(nocebo effect)と呼ばれるものに該当する反応が起こったのではないか、と私は推測する。
 
 「ノーシーボ効果」については拙著『心でつくる世界』(1997年)にも書いたが、「医学的な要因によらず、信念や恐怖などの心理的原因で病人の症状が悪化したり、時には死に至るような現象」(p.250)のことである。この逆の反応である「プラシーボ効果(placebo effect)」--医学的要因によらず、信念などで病気が快方に向かったり、治ってしまうこと--は有名だから、多くの読者はご存じだろう。では、実際にどれだけの人がノーシーボ効果で病気になったのだろうか? これを推定することは難しいし多分、正確な推定は不可能だ。しかし、あえて推定してみることはできないか?
 
 そこで私が思いついたのは、各都道府県の人口と、今回の“健康被害”の報告数との関係である。上述の数表を見ると、健康被害は福井県を除くほぼすべての都道府県で報告されている。また、今回の事件はマスメディアが集中的に報道しているから、ほぼすべての日本人が知り、関心をもっていると考えられる。このような状況下でノーシーボ効果が起こる場合、それは人口の多いところは多く、少ないところは少ないと考えていいだろう。もちろん、この関係が成立するためには、「ギョーザを食べる」人が日本全国に平均して散らばっていることと、問題があるとされる銘柄のギョーザが、日本全国に平均して売られていたという前提が必要だ。が、これを調べることは今できない。そこで、これらの前提条件が満たされていると仮定したうえで、健康被害の報告数を人口の多寡との関係で眺めてみた。すると、「人口が少ないのに報告数が多い」ところや「人口が多いのに報告数が少ない」ところなどが分かった。一例を示してみると……

[人口に比べて被害が多い県]
 青森県3.68%(1.14)、群馬県3.02%(1.59)、千葉県6.19%(4.77)、静岡県7.89%(2.97)、滋賀県2.93%(1.1)、奈良県4.11%(1.12)、大分県3.12%(0.96)、沖縄県4.06%(1.09)
 
[人口に比べて被害が少ない県]
 埼玉県0.90%(5.54)、東京都5.34%(9.73)、神奈川県4.30%(6.88)、長野県0.52%(1.72)、長崎県0.28%(1.17)、
 
 上の数字の説明をすると、例えば、青森県には日本の人口の「1.14%」が居住しているが、今回の被害の報告は、全体の報告数の「3.68%」と比較的多く報告されている、ということだ。また、埼玉県には日本全体の5.54%の人が住んでいるが、今回の被害報告のうち同県からの報告は、全体のわずか0.90%だった、ということである。今回の事件で、殺虫剤「メタミドホス」が原因だと確定されたのは、千葉市稲毛区の家族2人、千葉県市川市の家族5人、兵庫県高砂市の家族3人だ。だから、千葉県が「人口に比べて被害が多い県」の中に入っているのは不思議でない。しかし、被害の割合(6.19%)と人口の割合(4.77%)のズレは、青森その他の7県よりも「少ない」ことに気がついてほしい。ということは、今回の健康被害の報告数を「ノーシーボ効果」だけで説明することはできないことになる。
 
 では、ほかにどんな要素が加わってこのようなバラツキが生まれたのだろうか? まず思いつくことは、ギョーザの消費量に地域的な偏りがある可能性だ。これは、ある程度統計的に分かっている。総務省統計局の「家計調査から見た品目別支出金額及び購入数量の県別ランキング」を見ると、ギョーザについて、一世帯当たりの年間の支出金額(平成16~18年平均)が主な県庁所在地別に載っている。これによると、ベスト10は、①宇都宮市(4886円)、②京都市(2855円)、③宮崎市(2737円)、④静岡市(2693円)、⑤さいたま市(2557円)、⑥東京区部(2544円)、⑦新潟市(2520円)、⑧大津市(2503円)、⑨金沢市(2471円)、⑨大阪市(2471円)である。宇都宮市がダントツだが、全国平均は2295円だから、それ以下はドングリの背比べだ。上掲の[人口に比べて被害が多い県]の中には、④と⑧を含む県があるものの、[被害が少ない県]の中にも、⑤⑥を含む県がある。また、栃木県が[多い県]の中に含まれず、青森県や沖縄県で被害が比較的多く出ていることの説明が、これではできない。
 
 ということで結局、今回の中国製ギョーザの日本における被害報告件数のバラツキの原因は、よく分からない。歯切れの悪い報告になってしまったが、賢明な読者の頭に何かヒラメキがあれば、ぜひご教示願いたい。
 
 谷口 雅宣

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2008年2月 2日

偽りの古紙配合率 (3)

 この表題を使って本欄を書くことは、日時計主義の立場からもうしたくなかったのだが、誤った情報を訂正せずに残しておくことはよくないと思い、あえて書くことにした。前回この主題を扱ったとき、日本教文社発行の書籍の本文用紙について「同社発行の書籍で再生紙を使用しているものは全部で15点、このうち古紙の配合率を数字で示した書籍は11点あるという。この11点については、すべて表示通りの配合率であったという」と書いた。ところが、昨夜受け取った同社からの電子メールによると、5点で表示偽装があったというのである。しかも、きわめて残念なことに、生長の家が環境保全意識を高めるために今も運動で使っている次の2点の本は、「本文は古紙100%の再生紙」と表示しながら、実際には古紙配合率は「20%」にすぎなかった:
 
①生長の家本部ISO事務局監修/南野ゆうり著『あなたもできるエコライフ』(2002年)
②生長の家本部ISO事務局監修/南野ゆうり著『あなたもできるエコライフ2』(2004年)

 また、本の奥付に「本書の本文用紙は再生紙を使用しています」と表示した本のうち、次の3点は古紙配合率が「0%」だった:

③田崎久夫著『わが家のエコロジー大作戦』(2003年)
④デイヴィッド・スズキ著/柴田譲治訳『生命の聖なるバランス--地球と人間の新しい絆のために』(2003年)
⑤喰代栄一著『魂の記憶--宇宙はあなたのすべてを覚えている』(2003年)

 このようにして5点の書籍を並べて分かることは、⑤を除く4点までがみな、地球環境問題を正面から扱った書籍である。そういう書籍だからこそ、森林保護を推進する立場から「古紙」や「再生紙」の表示をしているのである。ところが、そんな“顧客”の意図を知りながら、製紙会社は契約通りに古紙を使わないでいて「使っている」顔をしてきたのである。

 上記の本の①には、再生紙のことを「再生紙とは原料に古紙を配合した紙のこと」(p.31)ときちんと説明している。そして、再生紙が「製造工程の中で古紙に含まれるインクを抜く脱墨(だつぼく)という作業があるために、実はバージンパルプだけでつくった紙よりもコストが高く、まだまだ生産量は低いのが現状だ」とも書いてある。つまり、著者と監修者は、再生紙を使うことが却ってコスト高になることを知りながらも「そうしたい」との明確な意思のもとに、「本文は古紙100%の再生紙」という表示を行ったのである。製紙会社は、そういう顧客の意思を踏みにじった。私がもし出版社の社長ならば、こんな製紙会社との関係はさっさと御破算にするだろう。
 
 さて、本題をもっと大きく眺めてみよう。1月31日付の『日本経済新聞』によると、昨年1年間の日本の古紙の輸出量が8年ぶりに減少したという。何となく「えっ?」という気がしないだろうか。1月18日の本欄に書いたように、日本国内の古紙の大部分は中国へ渡るのである。その量が1999年から7年間増え続けていたのが、やっと減少に転じたのだ。つまり、国内でリサイクルされる量が増えたということだろう。同紙はその理由を「製紙原料を確保したい日本の製紙各社が古紙の買い取り価格を引き上げ、中国への流出拡大を食い止めた」からだと書いている。あぁ、もっと早くしてほしかった、と私は思う。製紙会社の環境意識が、社会より1歩遅れていたのである。また、記事には「製紙大手が…(中略)…新聞古紙などをパルプにする設備を増強し始めたことが背景だ」とも書いてある。だから、一時的な“気まぐれ”ではないようだ。
 
 製紙各社は今回の失態を大いに恥じ、今後は社会と地球環境に真面目に配慮した活動を展開することで、名誉挽回をはかってほしい。

 谷口 雅宣

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2008年2月 1日

「万教帰一」の考え方

 生長の家本部会館では、1月29~30日に日本全国の教化部長と海外の教化総長などが集まって重要な会議が開かれたが、そこで決定した来年度の運動方針には、第一線組織の活動を活性化させるための諸方策が盛り込まれている。これは、教団全体が「“炭素ゼロ”を目指しながら運動を伸ばす」という新しい方向に転換するために重要なことだ。このためには、第一線組織への迅速で正確な情報伝達が欠かせない。「正確な情報」の中には、教義の正しい理解も含まれる。教義の理解のためには、講師や書籍などによる従来通りの教えの伝達はもちろん不可欠だが、IT技術を使った動画や音声による伝達もどんどん取り入れていかねばならない。そういう意味で、私はこのほど、生長の家の基本的教義の一つである「万教帰一」について説明した動画をインターネット上に登録した。
 
 私は生長の家の講習会で、教義の基本として「唯神実相」「唯心所現」「万教帰一」の3つの考え方を説明しているが、このうち「万教帰一」の説明の部分を録画した映像である。本欄では、教義に関する講話の録画をこれまでに何本か紹介しており、それらは本サイトのトップページから「動画メッセージ集」を選択することで一覧できる。それらと共に利用していただければ幸いである。
 
 谷口 雅宣

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