« ウソをつかない生き方 | トップページ | 小型風車がやってきた »

2008年2月13日

自然と人間 (2)

 2月9日に続き、“森の中のオフィス”と関連する土地を見に行った。前回は東京から北上したが、今回は南下である。前回は山中へ入り込んだが、今回は海の見える高台だ。そして、前回は雪のパラつく曇天だったが、今日は澄み切った晴天だった。これだけ条件が違うと、「日本にはいろいろな土地があるなぁ」という感慨をもつ。東京駅を朝の9時ごろ出て、約50分で下車、そこから車に約20分揺られて現地着となった。同じ“森の中”であっても、四方を木に囲まれた場所と、南方に海が広がる環境とは、ずいぶん違うと思った。
 
 本題で前回書いたとき、「自然環境をある程度維持しようとすれば、“不便さ”と“不快さ”をある程度容認しなければならない」と述べた。今回の“不便さ”と“不快さ”の1つは、駅から現地まで続く傾斜だった。山が海岸まで迫っているから、道路は蛇行しながら山の上へ向う。自転車では、相当の健脚でも恐らく途中で息が切れる。我々はレンタカーだったが、ギヤーはセカンドに入れなければ不安だ。しかし、この“不便さ”のおかげで得られるものが、「絶景」である。海岸近くの急斜面だから、目の前に遮るものがなく、ほとんどどこからでも広大な太平洋が見える。そんな景観をできるだけ味わおうと、多くの建物が崖っぷちに建っている。この光景を見ながら妻と話したのは、カリフォルニア州の海岸にあるリゾート地のことだった。

 数年前にABCニュースか何かでやっていたのだが、その土地は地盤があまり固くなく、海岸線がゆっくりと削られていく状態にあって、現地の行政官からも「危険地帯」に指定されている。ところが、人々はそこへやってきて住居や別荘を建てるのをやめないという。理由は、「絶景」である。その土地から見える、水平線に沈む壮大な落日が、多くの人々を惹きつけてやまないのだ。これと似たことが、インドネシアやタイの海岸のリゾート地についても言える。数年前に大地震と大津波があったにもかかわらず、人々は風光明媚の海岸線に再び観光施設を造っているという。そしてご存じの通り、東海地方に大地震が来る確率は高い。地震ハザードステーション(J-SHIS)によると、この付近に30年以内に震度5弱以上の地震が発生する確率は「98%」である。

 いつか生長の家講習会で「天災も人間の心の反映か?」という質問が出たことがあるが、その時、私はこういう例を出して、人間は自分の尺度で、自分に都合のいい解釈をして自然現象を「天災」などと呼ぶが、日本列島で地震が起こるのは地質学上は「当たり前」で「自然」なことである。それなのに、「起こらない」と考えている人間がそれを「災い」と呼ぶ、というような話をした。「地震は来ない」と考えて耐震設計をしないことは、ほとんど「人災」に近いし、ある場所へ「危険」を承知で行くのも、自分で「人災」を求めているとも言える。では、30年以内に震度5弱以上の地震がほぼ確実に発生する場所に、事務所を移転するに際しては、一体どう考えるべきだろうか?

 ところで、視察した場所のごく近くに、ずっと前から60歳代とおぼしき男性が一人で家を建てて住んでいる、という話を聞いた。仕事をしている様子でもない。電気も下水もない海岸近くの絶壁の上という。都会にはホームレスの人が多くいるので、そんな人に会っても驚かない。が、田舎の海を臨む断崖の上でどうやって生きていくのか……そんな疑問をもちながら、その場所へ行ってみたのである。ホームレスどころか、屋根も壁もしっかりした小さい家が2棟ほどあり、洗濯物が干してあった。で、そこまで行って、その人がいる理由が分かったような気がした。そこから眺める輝く海、遠くに霞む島、近くの半島……眼前に広がる大自然の風光に、私は息を呑んだ。しかし……と私は考える。たといどんな“天国浄土”がそこにあっても、我々は社会から隔絶した場所で運動を進めることはできない。
 
 人間は自然に近づきすぎると、社会から離れることになるのか。自然と人間は相容れないのか--そんな公案をもらった気持で、私は東京行きの列車に乗った。
 
谷口 雅宣

|

« ウソをつかない生き方 | トップページ | 小型風車がやってきた »

コメント

私は本部事務所の環境が良く分かりませんが人間誰しも自然環境の中で本来の仕事や生活が出来るに越した事はありません、状況が許すなら良い事ですが選定基準は止むを得ない、そして自然と人間は相容れられるものだと考えます、小乗の場合は自然の真っ只中で社会と離れる事になっても止むを得ないと思いますが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年2月14日 16:46

人間の社会が自然からの恩恵にたいして「感謝」する「時間」を持つことができれば人間と自然は共生できる気がします。
 そういう時間がもてる職場がこれからの「新しい職場」の形なのではないでしょうか。
 先生もそういう場所をお探しなのではないかなとふと思いました。

 「白鳩」の2月号で純子先生が仰ってたような「たそがれる」ことの出来る場所・事務所・・・・是非、探してください。

 「静かに自然にたいし感謝をささげる時間」こそ環境運動に必要であると考えました・・・。
 運動には「動」ばかりではなく「静」の部分が必要ですものね。

 間違いだらけかもしれませんが、ふとそう思いました。

投稿: POP | 2008年2月14日 23:45

POPさん、

>>人間の社会が自然からの恩恵にたいして「感謝」する「時間」を持つことができれば人間と自然は共生できる気がします。
 そういう時間がもてる職場がこれからの「新しい職場」の形なのではないでしょうか。<<

 なかなか興味あるご意見ですね。「自然に感謝する時間をもてる」という職場ですか……。それは大切だと思いますね。でも、感謝の気持が心中にあるだけでは、不十分だと思います。自然への感謝は、身・口・意の三業を駆使して表現されるべきでしょう。そういう場が、都会ではほとんどなくなってしまいました。

投稿: 谷口 | 2008年2月15日 13:32

>身・口・意の三業を駆使して表現されるべきでしょう

私も先生と同意見ですが、「身」=「行動」において、私は「動」と「静」の切替が必要なのではないかと考えています。
 (「静」は「止」とはちがうもので「行動」の一面と考えます。)
現代の運動・活動といわれるものは、とかく「動」にかたよりすぎてはいないかと・・・

 人間活動・行動の「動」「静」のアンバランスが自然に負担をかける原因になっているのではないかと・・・

 考えはまだ明確では有りません・・・

 

 

投稿: POP | 2008年2月15日 14:23


下記の文章はインターネットで見つけたものです。先程私は「静と止は違うもの」といいましたが、この方は「静止」と「停止」は違うと表現されています。私の文章の補足になればと思いまして送信させていただきました。

>『閑さや
  岩にしみいる
    蝉の声

いうまでもなく、芭蕉の句である。このだれもが知っている句のどこが優れているのか、外国人にわかりやすく説明するにはどういえばいいのだろうか。
 芭蕉は、どんな氣持ちでせみの声が岩にしみいると感じたのか。藤平光一は、まず静止と停止の違いを挙げて説明する。

 「英語でいえば、静止をLIVING CALMNESS 生きている静をいい、停止をDEAD CALMNESS 死んだ静という」
 「寂然不動の境地は、1/2、1/2・…と無限小にしずめて止めない状態をいう。静寂の寂は、単にさびしいという意味じゃない。せみの声が鳴きやんでも、零になるのではなく、無限小になっていくから、岩にしみいるというのである」

 せみの声は、停止したのではなく、静止して岩にしみいったのである。つまり死んだ静ではなく、生きた静が無限小になっていく状態を句にしたことが、芭蕉の感性の優れたところだと藤平光一なら説明することができる。

 古池や
  蛙飛び込む
    水の音

 この句も同様に、解釈することができる。
 古池そのものは静かさをたたえているが、それはDEAD CALMNESSにすぎない。そこに蛙が飛び込む。その音はかすかなものですぐに消え入ってしまう。だが、水音は零になってなくなってしまったのではなく、波立った波紋がしずまり、水面が平らになるにつれて無限小になっていく、つまり動中の静、LIVING CALMNESSなのである。
 静止状態はどこまでしずまっても、氣が出ている。つまり、静とは動の極致のことである。だから、「生きているうちはLIVING CALMNESSを稽古しなさい」

投稿: POP | 2008年2月15日 14:41

私はPoPさんが何を言われたいのか?単純なので良く分かりませんが芭蕉の句の解説には新たな発見をさせて頂きました、そして色即是空の空は静の範疇に入るのではないか?と思いましたがいかがなものなのでしょう?御教示下さい。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年2月16日 15:24

POP様:

 POP様のコメントを読み、内省することが出来ましたので、感想を述べさせていただきます。
初めて「森の中のオフィス構想」という言葉を伺ったとき、自分は、屋上緑化・壁面緑化・室内への観葉植物設置・敷地内への樹木増加などを進行なさるのだろうか、と個人的に想像力を働かせておりました。今回の移転計画は、「炭素ゼロ運動」の方針に於いて、改築・増築・移転のうち、どの方法が最も温室効果ガス排出量を削減出来るか等、総合的にご検討された上でのご判断と、独断ですが解釈いたしております。
 今まで自分は、実践面の重視傾向にありましたが、POP様のコメントにより、「感謝」の大切さを思い出す事が出来ました。
 また、地球温暖化の根本的原因の1つには、自然に対する感謝不足があり、その抜本的解決策も、感謝する心の深化にあるとも考えられます。今後、感謝の心を常時忘れずに、循環型・共生型システムの転換へ、微力ながら取り組んで参りたいと思います。ありがとうございました。
---


投稿: 川部 美文 | 2008年2月17日 21:39

尾窪様、川部様

 漠然とした私の意見に御感想頂きありがとうございます。
今だ漠然としていますので、「教示」はできませんのでポツポツと思うところを述べさせていただきたいと思います。
 「自然と人間の社会は共生できるか否か」人類の抱える大きな問題でありますしこれだけが人類の人生におけるテーマといっても過言では無い気がします。
 さて、私はこのテーマに対し人間の行動における「動」と「静」をもちだし、「現代の人間社会の活動は動にかたよりすぎ、そのアンバランスが自然への負担になっているのではないか」とのべました。
 人間の行動は、その人の「心」が反映します。それでは私の述べた『人類の「動」に傾いているという行動』はどのような心の影響かと考えますと、結論から述べますとやはり「死の存在の肯定」と「死に対する恐怖心」ではないかと…。さらにいいますと「人間は肉体の死滅を持って人生は終わってしまう」という「唯物思想」ではないか。
 
 前回の「静止」「停止」を使うのなら、人間の「死」を「静止」と捉えるか、「停止」と捉えるかで、その思想が反映する今生での人間活動も変わってくると考えます。
 現在、自然に負担を与えている社会行動というものはすべて「死を生命の停止と捉えるがための、それへの人間の恐怖心」の反映ではないでしょうか。
 「人間の死」を「停止」ではなく「静止」と捉えれば、恐怖心はなくなり、その「心」の反映として「動に傾いている人間の活動」はそのバランスを取り戻すのではないでしょうか。

 つまり、生長の家の説かれる「死滅無し」という思想がいかに「環境問題」を扱う上で重要か、いやそれこそ「環境問題」の根幹であると考えるのです。

 長くなりましたが、本当に漠然としたもので申し訳ありません…。

投稿: POP | 2008年2月18日 10:39

POP様
お考え有難う御座います、「死の存在の肯定」「死に対する恐怖心」が人間行動に於ける「動」に傾き、そのアンバランスが自然への負担となり環境破壊をもたらした、、、と言う結論の様に思いますが唯物思想でない人でも「死の存在の肯定」「死に対する恐怖心」と言うものはあるでしょう?
イスラムの教えも「来世を信ぜよ!」と明記していますし、およそ宗教に於いて死を以って「停止」と捉えるものが有るでしょうか?(無宗教の世界人口に於ける割合は不明ですが、、)
又、人間の死を「停止」ではなく「静止」と捉えれば恐怖心は無くなりとありますがそれだけで簡単に恐怖心と言うものが無くなるものでしょうか?例え「静止」と捉えていてもライフルを向けられ「殺してやる!」と言われれば誰でも怖いのではないでしょうか?ですから私は人間の行動が環境破壊をもたらしているとは思いますがPoPさんの原因の捉え方には疑問を感じます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2008年2月18日 16:56

>ライフルを向けられ「殺してやる!」と言われれば誰でも怖いのではないでしょうか

 被害者が恐怖するかどうか以前に、人にライフルを向けるという行為はどういう思想の反映でしょうか?
 それは「肉体を死滅させれば物事が解決するのだ」というこれも唯物思想の反映ではないでしょうか。
 私は宗教の目的は人々から恐怖心を取り除くことにあると思っています。その状態が平和というものではないでしょうか?
 尾窪さんがイスラムの例をだされたのは「そういう死生観を持っていても宗教戦争があるではないですか」ということでしょうか?
 私は正しい死生観を人類がつかめば、戦争はその無意味さゆえ起こらなくなると思います。
 
 「簡単なことではない」と仰るかもしれませんが、人類は「簡単」なことをわざわざ「難しく」捉える思想をのさばらせているのかもしれません。

投稿: POP | 2008年2月19日 18:09

POPさんへ
御返答有難う御座います、
「被害者が恐怖するか以前に」との事ですが私は恐怖するかどうか?をお聞きしたのです、「人にライフルを向けると言う行為はどういう思想の反映でしょうか?」私は当人ではないので本当の思想はよく分かりません(泣)、「イスラムの例を出されたのはそう言う死生観を持っていても宗教戦争があるではないですか?と言う事でしょうか?」そんなことは全くお聞きしていません、「人間の死を停止ではなく静止と捉えれば恐怖心は無くなり、、」と断定されていますのでイスラムは例えで出しただけで他意はなく宗教教団ならどこでも構わなかったのです。


投稿: 尾窪勝磨 | 2008年2月20日 11:20

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ウソをつかない生き方 | トップページ | 小型風車がやってきた »