« “石油難”の前に食糧難? | トップページ | バイオ燃料の“光明面” »

2007年12月21日

“正しい運動”と“善い運動”

 本欄では今年9月に「迷いはどこから来る?」と題したシリーズを掲載し、多くの読者からホットな反応をいただいた。その際、『生命の實相』第14巻倫理篇<下>や『新版 真理』第10巻実相篇から引用して、「善が成立するためには自由が必要である」ことを強調した。後者の中で、谷口雅春先生は、これを「機械的に正しく軌道を走っても、それは“正しい”とは言えても、“道徳的に善ある”と言うことはできない」と述べておられる。そこで、これを前提として生長の家の運動を考えると、私たちの前には機械的に「正しい運動」と道徳的に「善い運動」の2つを考えることができるだろう。その場合、私たちはいったいどちらの運動を目指して進んでいくべきだろうか? これが、今回の私の設問である。もう少し具体的に言うと、熱心な信徒の中には、「これが正しい」と一定の“形”を決めて運動を推進するタイプの人がいて、その“形”から外れたバリエーションを見つけると、「それは間違い!」と言わんばかりの態度で「正しさ」を貫徹しようとする場合があると聞く。そういう問題をどう解決するのが、生長の家として望ましいだろうか?
 
 私がこんな問いかけをする理由は、最近、ある人が手紙をくださって、その中で『日時計日記』の頒布・拡大が大変だと訴えておられたからである。『日時計日記』とは、昨年から生長の家で発行している日記帳のことだ。日記帳というのは、基本的に個人が自分のためにつけるプライベートな記録帳だから、「買いたい人が買ってつける」というのが基本である。だから私は、この人の言っている「頒布・拡大」の意味が最初よくわからなかった。しかし、この手紙の主がおっしゃるには「会員数強制的に」「プレゼント用に買いなさい」という話が“上”から来るというのである。これは何かの間違いだろう、と私は思うのである。

「間違い」という意味は、そういう事実が存在しないというのではなく、何かの間違いで「そうでなければ正しい運動でない」と信じた人がその地方にいて、その間違った考えが、何らかの理由で受け入れられている、という意味である。つまり、「その人」が生長の家の運動を間違って把握しているという意味だ。また、「その人」の周辺の人々も、生長の家の運動を誤解されているに違いない。生長の家は、教義そのものにおいて「自由」を至上価値としていることは、上で触れたようにすでに何度も本欄に書いた。また、「生長の家」に限定しなくとも、宗教上の信仰は一般的に「自由意思」を尊重しないかぎり成立しないものである。このことは、かつて共産主義、社会主義諸国で信仰者が弾圧された歴史が有力に示しているはずだ。自由のない国では、信仰者は大変な苦しみを味わうのである。このことは、日本の歴史ではキリシタン弾圧が示しており、現代においてはイスラーム原理主義が支配している国々において現に示されている。信仰をすることで自由が奪われるならば、信仰によって善の実現は不可能ということになるから、宗教の意義は失われてしまう。

 まぁ、手紙1通の内容をここまで深刻に考えなくていいかもしれないが、とにかく日記帳の半強制的な「頒布・拡大」がもしどこかで行われているとしたら、それは生長の家の信仰を間違ってとらえている一部の人々の行き過ぎであるから、ぜひやめていただきたいのである。また、「プレゼント用に買いなさい」という勧め方も、好ましいとは思えない。なぜなら、「プレゼント」とは本来自発的なものであり、「○○しなさい」と他人に強制したとたんに、「プレゼント」ではなくなってしまうからである。2月14日の“義理チョコ”のような運動から、我々はもう卒業しなければならない。「正しさ」を強制すれば「善さ」はなくなるのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○2007年9月17日「迷いはどこから来る? (7)」
○同年9月10日「迷いはどこから来る? (3)」

|

« “石油難”の前に食糧難? | トップページ | バイオ燃料の“光明面” »

コメント

合掌 ありがとうございます
 とても興味深い内容ですのでコメントを書き込んでみようかなと思いました。日時計日記はすばらしいと思います。特に来年用は改良されていてとても書きやすいです。今年のはどうも書きづらくいつの頃からか空白状態でした。
 10月に来年用が発売されすぐに購入しました。心機一転。来年用に書き始めました。すると、とても書きやすく毎日書き続けることができています。
 知人に、「来年の日時計日記は書きやすくて、私はもう使っているよ」と話すと、その方も使い始めました。喜んで毎日書かれているそうです。そうするといろいろとうれしいことがあるそうです。
 生長の家は、光明化運動です。その手紙を書いた方を決して批判しているのではありませんが、もっともっと喜んで、明るく、楽しんで活動すると、無理やり買わされるという思いがなくなるのではないかと思いますが、どうでしょうか?再拝

 

投稿: YOSHIKI | 2007年12月22日 09:57

これは基本的な問題、ここで方向性をキチンとして置くべき問題、手紙を出された方の正直な訴え「何かおかしい」との思い、十分考えられる事だと思います、民間企業での販売競争では正しいとか正しくないとかを越えて日常茶飯事、どう克服するか?で日々プレッシャーと戦いながら生きている訳です、宗教は競争社会から離れた世界、真理の伝達に依って苦しみや悩みを離れて明るく豊かで生き生きと前向きに生き抜いて行ける本来の心を顕現させるものだと思いますので「正しさ」に拘らない柔軟で大らかな対応が必要ではないか?しかし私をも含め教えられないと分からないが教えるれると分かると言う多くの人達が居られると思いますので強制とか半強制とかを離れて求めやすい、買いやすい状況、舞台装置は必要だと考えますのでこの点はしっかり考えて頂きたいと思います、いずれに致しましても鬼の首を取った様な正しさに執着しない、機械的でない肯定的自由意思による「善い運動、人類光明化運動」を今後とも展開して頂きたいと切に希望致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年12月22日 12:32

YOSHIKIさん、

 コメントありがとうございます。

>>10月に来年用が発売されすぐに購入しました。心機一転。来年用に書き始めました。すると、とても書きやすく毎日書き続けることができています<<

 教えてほしいのですが、来年用に今年記入するというのは、来年のその時になったら、どうされるのですか?

投稿: 谷口 | 2007年12月24日 10:03

合掌 ありがとうございます
 来年用が今年10月に販売されたので、来年もまた10月にその次の年の日時計日記が販売されるにではないかという私の思いがありました。10月に販売されない場合は、そうですね、もう1冊同じものを買って書かせていただきます。再拝

投稿: YOSHIKI | 2007年12月24日 10:48

正しい運動はとても大切なことだと思います。しかし、間違った運動をした人も決して悪意があったわけではないことが、最近わかってきました。正しい知識がなかった為にそのようなことが起きたのだろうと考えています。
 たとえば、戦争も環境問題も同じではないかと考えています。正しい教育がされる環境にあるならば、武器を持たずとも言葉の壁も宗教の違いも超えてわかりあえるのでないかと考えています。
 最近、一万円のパソコンが開発され、発展途上国に普及しているそうです。教科書ももたない子ども達にインターネットを通じて広い世界をしってもらいたいとのことから、研究が進められて来たそうです。
 教科書により、間違った知識を植え付けられ戦争になった国や、時代もありました。インターネットは正しい情報も間違った情報も見ることができます。自分で何が正しいのか判断出来るよう教育していく必要性があると感じました。
 

投稿: くま | 2008年1月17日 11:05

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« “石油難”の前に食糧難? | トップページ | バイオ燃料の“光明面” »