地球温暖化をめぐる“理想”と“現実”
最近、新聞各紙で報道されているCOP13(国連気候変動枠組み条約締約国会議)の記事を読みながら、私は地球温暖化をめぐる“理想主義”と“現実主義”の意味について考えさせられている。普通、理想主義とは、倫理的あるいは理論的に正しいとされることを第一に尊重し、そこへ到達するため現実の制度を変革したり、障害を突き崩したりしようとする考え方だ。『新潮国語辞典』は、それを「現実に立脚せずに理想を強調する、空想的・非実際的立場」と否定的に定義している。これに対し現実主義は、目の前の現実を「在るべくしてある」と考え、現実そのままを重視し、倫理的、理論的な目標を軽視する。このため、現実は「変革」するよりも「理解」されるべきとし、障害は「越える」べきではなく「容認する」べきと考える。『新潮国語辞典』によれば、現実主義は「主義・理想にこだわらず、現実の事態に即して事を処する主義」とも定義されている。
新聞記事によると、同会議は8日、日本を含む先進国は温室効果ガスの排出量を2020年までに1990年比で25~40%削減するという数値目標を検討すべきとの議長案をまとめたという。要するに、現在の京都議定書で先進国の目標値とされている「10%未満」ではとても足りないから、各国別にもっと大幅な削減目標を設置すべきという考えだ。欧州連合(EU)などはこの案を歓迎しているのだが、日本とアメリカは反対している。日本が反対しているのは、「数値目標策定よりも米中が参加する枠組みづくりを優先課題としている」(9日『日経』)からで、「削減数値が入ると協議がまとまらない。EUは入れたいのかもしれないが、多くの国が受け入れられない」(同日『朝日』)として反発しているらしい。また、今日(10日)の『日経』夕刊によると、「日本は今回のバリ会議はポスト京都の交渉を始めるのが目的であり、数値目標を示すのは時期尚早として修正を求めていく考え」らしい。
この報道が正しいならば、日本が今回目指しているのは「米中を枠組みの中に入れる」ことであり、意見対立が起こりやすい数値目標の設定は避けたい、ということだろう。この態度ははたして現実主義的か、それとも理想主義的か? 米中を含めた世界各国がバラバラの思惑をもち、それぞれの温室効果ガス排出量もバラバラな状態であるという“現実”を見れば、「何らかの形で世界全体が合意できればそれでいい」という日本の判断は、「主義・理想にこだわらず、現実の事態に即して事を処する」という意味では、確かに現実的かもしれない。しかし、この場合の“現実”とは、「国際政治の現実」だけを指すのであって、「すべての現実」ではない。端的に言えば、この場合の“現実”の中には「地球環境の現実」が含まれているとは思えないのである。「地球環境の現実」については、先ごろIPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)が発表した統合報告書の分析を受け入れるのが、現時点では最善・最勝の判断だろう。
で、その報告書に何が書いてあるかは11月18日の本欄で触れたが、その一部を掲げると……
[アフリカ]2020年までに最大2億5千万人が水不足に直面、飢餓が進行する。
[ア ジ ア]洪水と旱魃の影響で、風土病の罹患率と下痢性疾患による致死率が上昇。
[欧 州]2080年までに最大60%の生物種が消失。熱波到来。
[南 米]今世紀半ばまでにアマゾン東部の熱帯雨林がサバンナに変わる。
[北 米]収穫が増える地域もあるが、地域にばらつき。21世紀中に熱波の回数増加。
[極 地]積雪、海氷量の変化でシロクマなどの哺乳類、渡り鳥などに影響。
[島 嶼 国]海水面の上昇により浸水、高潮でインフラを脅かす。
ということだった。
この「地球環境の現実」をしっかりと見つめた場合、「何らかの形で世界全体が合意できればそれでいい」という日本の判断は、はたして現実的--つまり、「主義・理想にこだわらず、現実の事態に即して事を処する」と言えるだろうか? 私にはそうは思えないのである。この日本の態度は、むしろ「全員参加主義」にこだわり、「全員賛成」の理想にこだわって、「何億人もの人類が飢餓や海面上昇によって生命を脅かされる」という現実に立脚しない、「空想的・非実際的立場」と言うこともできると思う。つまり、日本の現在の立場は、悪い意味での“理想主義”とも呼べるのではないだろうか。
私は、EUがこの問題を深刻に受け止めているのには、それなりの現実的理由があると思う。その1つは、アフリカとの地理的・文化的・政治的関係である。EUにはアフリカの旧宗主国が多く含まれるから、現在すでに不法移民の入国が深刻化している。それに加えて、温暖化の被害による大量の環境難民が生じれば、EU諸国は政治的にも、道義的にもそれらの人々を域内に受け入れる義務が生じるだろう。そんな時、「あなた方が温暖化ガスの削減努力を怠ったから、私たちは祖国を破壊された」というアフリカ人の不満を、どう抑えればいいのか? そんな事態が来るのを座視するよりは、今、多少の経済的犠牲を払ってでも、できるところから、他国が反対しようがしまいが、自国の将来の利益を考えて、打つべき手は打つのがいい--こんな思惑が感じられるのである。
日本にはそんな事態は決して来ない、と読者は考えるだろうか?
谷口 雅宣
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
EUや各国の思惑がどうであれ、地球温暖化の問題は科学者のみならず国を越え民族を越え、老若男女、人類共通の差し迫った問題として殆どの人が捉えているものと思います、各国共に自国の利益を考えていたのでは正に否定的な理想主義になってしまいます、掛け替えのない地球、全人類の為の肯定的理想主義で前進して行かない限り、人類の明るい未来は開けません、中国やアメリカが参加してもしなくても国力に応じて、断固やるべきが現実主義と言うものだろうと考えますが非現実主義だと冷笑されるでしょうか?
投稿: 尾窪勝磨 | 2007年12月12日 00:07