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2007年12月16日

沖縄陶器を買う

 宜野湾市で行われた生長の家の沖縄教区の講習会が終わってから、沖縄の伝統的焼物を見ようと「壷屋やちむん通り」という所へ寄った。「やちむん」とは焼物のことである。このレンガ敷きの通りは、那覇市の中心を東西に走る国際通りから南へ入る、平和通りを行った先にある。車が1台だけ通れる狭い露地の両脇に、焼物を売る店が点々と続き、中へ入れば食器、花器、酒器、置物など様々な焼物を手に取って眺められる。各店の前には、家の守り神であるシーサーが番犬のように通りを睨んでいるのも、面白い。

 緩く曲がった上り坂の中途にあった1軒の店の脇には、高さ1mもある赤茶色のシーサーが立っていて、その鼻先が店の窓辺に向いていた。よく見ると、その窓の、少し張り出した窓枠の上に、白黒模様のネコがシーサーの方に頭を向けてうたた寝をしている。シーサーの大きな頭と、ネコの小さな頭とがくっつきそうな距離にあるのが、とてもユーモラスに見えた。お互いに「気の許せる仲間」という感じなのである。
 
 私は、妻を誘ってその店に入った。店の奥に50代と思われる女主人がいて、目が合ったので「今日は」と挨拶を交わした。と、後から入ってきた妻が、私の後ろで「まぁ、なつかしい~」と声を上げた。何事かと思って振り返ると、店の棚に並んでいる食器の模様に見覚えがあるのである。というよりは、私たちが毎日家でお茶を飲むのに使っている茶碗と同一のデザインの食器が、その棚に所狭しと並べられていたのだ。ご飯茶碗や、ぐい飲み、徳利、マグカップなどもあっただろうか……。家にある湯呑茶碗は、2年前に同じ講習会で沖縄を訪問した際に買ったものだ。その時は、国際通り沿いの那覇市伝統工芸館で買った。それ以降、湯呑茶碗はほとんど毎日使ってきたから、同じデザインの食器群を見ると、なぜか愛着を感じる。毎日使う食器には“情が移る”のだ、と実感した。
 
Tsuboyaki  この「懐かしさ」は何かの縁だと思った私は、この馴染みのデザインのご飯茶碗を2つ買った。2年前に買った湯呑茶碗は、実は帰宅後にすぐスケッチしてあったので、その絵をここに掲げよう。このデザインと食器は「國場一」という54歳の伝統工芸士の制作になるものという。
 
 壺屋やちむん通りでは、こことは別の店でも箸置きを2つ買った。1個300円と手ごろであったのと、魚の形をしたその箸置きの色形が気に入ったからだ。沖縄の陶器のデザインには魚が多く使われるが、この地方の人々がそれだけ魚と身近な生活を営んできた証拠だろう。そして、それらの魚のデザインは、本州に住む私たちの知っている魚のデザインとは、色合いや形が少し違うのである。自然環境が違えば、生息する動物の色や形が違うのは“当たり前”--そう言われればそれまでだが、13日の本欄にも書いたように、そういう微妙な違いに気がついて「目覚むる心地」を体験することは、旅の醍醐味の1つでもある。
 
 ところで、この通りは那覇市の「壷屋」という場所にあり、この地で制作される焼物を「壷屋焼」と呼ぶ。ここは今から315年前の天和2年に、当時の琉球王府が那覇周辺にあったいくつかの窯場をここへ移して統合し、以来、沖縄陶器の中心となってきた。明治の廃藩置県によって沖縄が日本に統合されると、技法や用途などの面で本土の陶磁器との交流が盛んになり、多様性のある沖縄陶器が生み出されるようになったという。壷屋焼は、大別すると釉薬をほとんどかけないで焼く荒焼(あらやち)と、本土から伝わった釉薬を導入した上焼(じょうやち)に分かれる。前者は、赤土色の素朴な色合いと温かな手触りが特徴で、後者は色と模様を工夫して華やかさが出せる。私が購入したものは、だから上焼の茶碗ということになる。詳しくは、このサイトを参照されたい。
 
 谷口 雅宣

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