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2007年12月31日

2007年を振り返って (3)

 さて、最後に私的立場から今年を振り返らせていただこう。
 
 まさに「光陰矢のごとし」の印象とともに今年は終ろうとしているが、その理由の1つは、恐らく著書を多く出させていただいたからだ。発行日でいうと3月1日が『日々の祈り』、9月1日に『小閑雑感 Part 8』、11月22日は『日時計主義とは何か?』で、クリスマスには『小閑雑感 Part 9』(発行日は1月1日)がもう出ていた。講習会の往復の旅程で校正作業をすることもあった。その間、全国大会あり、国際教修会あり、宇治や長崎での大祭もあった。しかし、現在の私のスケジュールは、講習会が全国59教区で毎年行われていたときと比べれば、相当ゆったりしているはずなのである。だから、私が勝手にやることを増やしているのである。

 このブログを書くことが、その1つだろう。誰にも「書いてほしい」と言われたことがないのだから、いつやめても怒られないだろう。が、毎日のアクセス数が600~1000回になっているのを知ると、怠けるのは読者に申し訳ない、と奮起するのである。また、今年は自分用のデジカメを新規に買ったことで、動画を撮映してサイトで公開することを始めた。この動画編集にも時間がかかるが、「百聞は一見にしかず」という映像の訴求力は大きい。このおかげで、絵を描くことが疎かになった。本サイトのギャラリー「わが町--原宿・青山」に掲載したモノクロのスケッチ画は、すべてデジカメ購入以前に描いたものだ。では、それ以後は絵を描かないのかと言えばそうではなく、夏からは「絵封筒」なるものを始めてしまった。絵か動画のどちらかを捨ててしまえば楽になるのだろうが、どちらにも捨てがたい魅力がある。まだまだ「執着が多い」人生と言わねばなるまい。

 秋になって、それまで使っていたノートパソコン(IBM ThinkPad X40)の後継機、レノボの「ThinkPad X61」に乗り換えた。とは言うものの、OSをウインドーズのXPからVistaに変えたので、ソフトの移行が完全にはできず、まだ2台を使い分けている始末だ。ただ、新機種は「タブレットPC」といって、画面に直接ペンで書きこんだり、指示したりできる。この機能のおかげで、紙や絵具を使わずにパソコンだけで絵を描く手段を獲得して喜んでいる。
 
 ところで、昨年12月27日の本欄に書いたアイポッドだが、これによって私も“ながら族”の仲間入りかと恐れたが、結局そうならなかった。全く使っていないわけではなく、CDの音楽や自作の動画を入れて時々楽しんでいるが、私にはもともと「歩きながら何かをする」という習慣がないのと、そうすることで失うことが多いのに気づいたからだ。歩くことは、世界と直接に触れ合う安価で最良の方法ではないか。そのとき、失われつつある都会の自然を感じ、町並みの変化を味わい、人々を観察し、同伴者と会話することで人生が貧しくなるとは、私は思わない。電車の中でも、本を読んだり、ノートをつけることはあるが、「自分好みの音楽に浸る」というのは、どうも私の趣味ではない--そう気づいたからである。

 今年、珍しくクラッシク音楽のコンサートへ行くことができた。東京オペラシティーで行われた千住真理子さんのヴァイオリン・リサイタルで、名手が弾く名器・ストラディバリウスの響きを堪能できたことは誠にありがたかった。私は小学生の頃、ヴァイオリンを習っていたことがあるが、その時の弾き方とは大いに違う、全身を使う力あふれる演奏や、会場の隅々まで届くピアノシモの音など、CDや映画では聴けない素晴らしい生演奏は、今も記憶に残っている。そんな演奏を2時間以上んも続けたあとで、千住さんはファンの要望に応えてサイン会まで行った。一流の芸術家は、サービス精神も一流だと感銘を覚えたものである。

Sundiary2007  さて最後になるが、私も今年初めて『日時計日記』をつけた。私はいつも寝る前に、ベッドの中でこれをつけるが、その際、日記の欄の枠にあまりこだわらずに、航空券の切れ端や、映画や美術展の入場券などをベタベタ貼りつけることがある。記念になると思うからだ。だから、1年たった日記帳は、元のものより分厚くなる。来年版の『日時計日記』の場合、こんな使い方をしていると、1年後には上下巻を収納する紙製ケースに入らなくなるだろう。その場合、どうするか……などと今から考えている。写真は、開いているのが私ので、閉じているのは妻のものだ。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月30日

2007年を振り返って (2)

 世界規模の話はほどほどにして、生長の家の運動の方面から今年を振り返ってみる。今年は、昭和5年(1930年)の生長の家発祥時に唱えられた「日時計主義」が再び脚光を浴び、運動の中に具体的に取り入れられた最初の年である。『日時計日記』(2007年版)はすでに昨年秋に発行されたが、実際の記入は今年からである。また、「日時計ニュース.com」や「Web版 日時計日記」も始まっていたが、一般の信徒・会員による利用は今年からである。これらは、実際の運動の中にインターネットを組み入れる新しい試みであり、今後の発展と展開が期待される。そう言えば、2月半ばに上梓させていただいた『日々の祈り』(生長の家刊)も、もともとは私が本サイトに発表した祈りの言葉である。生長の家の運動が、新媒体であるインターネットを利用して多様な広がりを見せている、と感じられる。
 
 この書籍版『日々の祈り』には、「神・自然・人間の大調和を祈る」という副題がついている。その意義について私は2月16日の本欄に書いているが、それを簡単に言えば「実相を祈る」という意味なのである。現象の地上世界では「神は死んだ」とされて久しく、科学を手にした人間は高度先端技術を使って“神を演じる”危険を冒しつつある。また、人間の欲望のままに開発された地球は、温暖化にともなう様々な脅威を人間に与えている。『日々の祈り』では、しかしこのような神-自然-人間の“不調和”は、実相において「ナイ」と宣言し、本来この三者は大調和で「アル」と祈る。これは神想観の実修と同じように、実相を現象にもち来す強力な思念である。だから、『日々の祈り』を唱えることは、日時計主義の実践であるとともに、21世紀の人類が抱える諸問題への宗教的、哲学的対応の1つと言えるのである。
 
 5月に行われた生長の家の4組織による全国大会は、一般の誰もが参加できる大会としては最後のものとなった。それは、地球温暖化の原因である温室効果ガス削減のためである。これによって、生長の家の運動が縮小すると感じている人もいるようだが、来年の白鳩大会は“幹部”を対象にして東西の2会場に5千人を集める予定だから、必ずしも「縮小」ではない。これは、視聴者の多いゴールデンタイムに莫大な費用を払ってコマーシャルを打つのをやめ、求められる情報を、求めている人に絞り込んで伝えることにも比べられる。真理の情報伝達を、より効果的に行うことをねらったもので、地球温暖化時代には、そういう配慮が宗教運動にも求められていると思う。生長の家の3組織の機関誌が64から48に減ページし、『聖使命』新聞が大判のブランケットからタブロイド判に小型化した理由にも、同様の配慮が含まれている。

 地球温暖化抑制の努力については、この7月に、生長の家の全事業所64カ所と関係団体2カ所で「ISO14001」の認証取得が完了したことを抜きに語ってはならない。この努力は平成12年度から8年がかりで続けられ、その間、全国の生長の家幹部・信徒の皆さんの温かく、熱心な協力のもとに行われた。この場を借りて、皆さんに感謝申し上げます。「ISO14001」とは、日常的に環境に配慮した業務を組織的に行っていることを認証する国際基準の1つだ。したがって、これによって「生長の家は環境に配慮した宗教運動である」ということを世界に向かって堂々と宣言することができるのである。
 
 8月には、ニューヨーク市郊外で「世界平和のための生長の家国際教修会」が開催されたが、ここでイスラームの信仰について学んだことは特筆に値する。生長の家の内部にはイスラームの専門家がいないため、エジプト人法学者でカリフォルニア大学ロサンゼルス校の教授、カリード・アブ・エルファドル博士をお招きして、現代イスラームの抱える問題について重要なことを教えていただいた。この教修会に前後して、私も本欄でイスラームについていろいろ学んだことを書いているが、このような本による学習よりも、実際にイスラーム原理主義と戦っている第一線の宗教家、思想家の姿を見、生の声を聞くことの衝撃は大きかった。アブ・エルファドル博士の著作や講演録が、早く邦訳されることを望んでいる。

 秋には、『日時計日記』の2008年版、拙著『日時計主義とは何か?』、そして『日々の祈り』の朗読CDが発行された。読者の皆さんからの要望を容れて、来年版の『日時計日記』は2分冊とし、使いやすくなったと思う。大いに活用され、来年も日時計主義を生き抜くことで、明るく生甲斐に満ちた人生を継続していただきたい。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月29日

2007年を振り返って

 まもなく幕を閉じようとしている今年を、ここで振り返ってみよう。まず言えることは、今年は地球温暖化問題において“世界的合意”が達成された年ということだ。すなわち、人間の活動によって地球温暖化が進行しつつあり、人類が今後温室効果ガスの排出を削減しない限り、温暖化による被害が経済発展を“帳消し”するどころか、経済にマイナスの効果を及ぼすことがほぼ確実である、との認識で一致した。今年2月から次々に出されたIPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)による4次の報告書が“科学者の総意”を明確に示しただけでなく、その内容に沿った危機意識をアル・ゴア氏が映画『不都合な真実』(An Inconvinient Truth)や同名の著書で一般人の間にも広め、アカデミー賞だけでなく、IPCCと共にノーベル平和賞まで受賞してしまった。それ以降、温暖化懐疑論は鳴りをひそめ、アメリカのブッシュ大統領まで温暖化抑制を口にするようになった。これは、世界の“良心”が“迷妄”に勝利した証左と言えるだろう。
 
 これによって、地球温暖化問題は抑制のための「政策」論議に焦点が移っている。が、まだその方向性は定まっていない。昨年の同じ時期、本欄で1年を振り返ったとき、国際政治の現状では、今後の世界は「原子力エネルギーの重視と、二酸化炭素の地下固定の技術を大幅に取り入れることによって、当面の温暖化の流れを最小限に食い止めながら、BRICs諸国を初めとした途上国は、“先進国型”の工業・技術社会を目指して進む」と予測した。この予測は、今の時点でもそれほど外れていないと思う。ただし、「地下固定」には「海底固定」が含まれる可能性が増してきており、“京都後”の枠組みを決める今後の国際交渉で画期的な制度が実現すれば、温暖化対策の中心は原子力から他の方向へ移っていく可能性はある。私は、化石燃料や原子力の利用よりも、再生可能の自然エネルギーの利用を促進することが、長期的に考えて、人類にとって最勝の方策であると考えている。
 
 ところで、温暖化問題が21世紀の人類最大の長期的課題だとしても、短期的、中期的には、イスラーム原理主義が関わるテロリズムや政治的問題の深刻さは、看過できない段階にある。地球温暖化問題に対する“合意”に加えて、今年もう1つ世界で合意されたことは、イラクを含むアメリカの中東政策が失敗だったということだろう。アメリカの自動車社会・消費社会を支えるために、文化・思想・信仰において大いに異なる産油国と同盟関係を結ぶと同時に、それらの国と敵対関係にあるイスラエルと密接な関係を保つという“二重基準”は、宗教的原理主義の台頭の前では認められなくなりつつある。これに加えて、原子力の利用技術が拡大し、兵器への転用の危険が増すにつれて、中東問題は地域的制約を超えてグローバルな核戦略にも影響を及ぼしつつある。つまり、アメリカが“イランの核”に備えて東欧にミサイルを配備することが、ロシアの核戦略に変更をもたらしつつあるのである。これに加えて、パキスタンでのブット元首相の暗殺が起こり、この地域の情勢はきわめて流動的であり、予測は困難だ。
 
 中東問題はエネルギー問題と密接に関係しているが、今年に入って世界のエネルギー利用において大きく変化したのは、バイオエタノールなどのバイオ燃料の利用が急速に進んでいることだ。石油や天然ガスの利用が地球温暖化を促進するだけでなく、不安定な海外の政治状況に左右されるという点を反省したアメリカが、自国産のトウモロコシを大量にエタノールに転換して利用する政策を実行している。これによって穀物が高騰しているだけでなく、食品全般の値上がりを招いていることは、本欄でも何回も書いてきた通りである。バイオ燃料の利用が進むもう1つの原因は、世界全体で石油の生産量が上がらず、値段が高値に張りついたままだからだ。これが産油国の政策的配慮なのか、それとも“石油ピーク”の到来なのかは、はっきりしていない。もし後者である場合は、バイオ燃料の需要は今後ますます伸びていくから、食料と競合しないバイオ燃料が開発されない限り、世界の貧困層の犠牲が増大するだろう。それは、気候変動とも相まって、政情不安を引き起こす要因になるのである。
 
 このように考えてくると、人類が今後、化石燃料にたよらず、核拡散ともつながらず、しかも食料とも競合しない方法でエネルギーを得ることは、世界の平和と密接に結びついていることが分かる。別の言い方をすれば、そのようなエネルギーの利用技術を開発することが、世界平和に貢献するのである。私は、日本こそまさにそういう技術と資本力と人的資源をもった国と考えるから、自然エネルギー利用技術を国策として大いに振興すべしと訴えてきたのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月28日

福田首相が心変わり?

 これは恐らく“よいニュース”には違いないのだろうが、どうもよく分からないことが多い。一部の新聞報道によると、福田康夫首相は、京都議定書後の地球温暖化抑制のための国際的枠組みについて、日本を含む先進国が数値目標を定めることを近く提案する考えらしい。

 27日付の『日本経済新聞』は、首相が「先進国がどういう目標を持つか。やはり何か必要かもしれない」と述べたと伝え、さらに「この日の首相発言は温暖化が主要議題となる来年7月の主要国首脳会議(洞爺湖サミット)に向け、軌道修正する布石とみられる」という分析を加えた。『朝日新聞』は、この発言からさらに取材を進めたのだろう、その翌日(28日)付の紙面で、「福田首相は来年1月下旬にスイス・ダボスで開かれる世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席し、温室効果ガスについて、日本自身の中長期的な削減目標を設定する方針を表明する意向を固めた」と報じた。そして、その具体的な数値については、「来年7月の北海道洞爺湖サミットまでに明示したい考えだ」と結論した。

 このニュースがなぜ分からないかというと、12月17日の本欄で述べたように、2週間にわたってバリ島で行われたCOP13(国連気候変動枠組み条約締約国会議)では、日本は徹頭徹尾、アメリカの意向通りに、国ごとの温暖化ガス削減目標の設定に反対していたからだ。あれから2週間もたっていないのに、福田首相は“掌を返した”のだろうか? もしそうだとすると、いったい何が首相の考えを変えさせたのだろう。この間の新聞報道を振り返ると、福田内閣の支持率が最低レベルに落ちたというのがあったが、それが理由で外交政策や環境政策を変えたのか? もしそうならば、今回の心変わりも、財界やアメリカが再び圧力をかけてくれば、さらに変わる可能性があるかもしれない。それともこういう筋書きは、“戦術”として最初から考えられていたことなのか? この辺が、どうもよくわからないのである。
 
 そう言えば、12月21~22日の各紙は、地球温暖化に関する環境省と経産省の合同審議会が最終報告案で、京都議定書の「6%削減目標は達成しうる」と結論したと報じた。が、目標達成のための追加対策としては、産業界の“自主行動”の強化や“国民運動”という、責任や拘束力のないボランティア行動である点が指摘され、実効性に疑問符が投げかけられていたのを思い出す。この審議会の最終報告案では、「今後すみやかに検討すべき課題」として、①国内排出量取引、②環境税、③新エネルギー対策の抜本的強化、④深夜化するライフスタイル、ビジネススタイルの見直し、⑤サマータイムの導入、の5項目が掲げられていて、私としては、こちらの方がボランティア行動よりも実効的だと考える。“心変わり”の経緯はともかく、首相はダボス会議で新たな数値目標を提案するのならば、この5項目の中から有効なものを早急に導入して、最低限、京都議定書の目標を達成してほしい。
 
 ところで、27日の『日経』は、日本経団連の奥田名誉会長が、温暖化対策を担当する内閣特別顧問に就任したことを伝えている。経団連は長年、温暖化ガス削減の数値目標設定に反対してきたが、そのトップであった奥田氏にどれだけのことができるか未知数だ。記事では、この人事に“政府関係者”は「うるさ型の鉄鋼や電力を説得できる」と期待していると書いている。これは、福田首相の“本気”を示しているのか、それとも“ポーズ”を示しているのかは、7月の洞爺湖サミットまでに判明するだろう。
 
 ノーベル平和賞を受賞したIPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)のラジェンドラ・パチャウリ議長は、28日の『朝日』のインタビュー記事で、7月のサミットへの期待を次のように語っている--「日本では洞爺湖でG8サミットが開かれる。(中略)各国の指導者は大幅な削減の約束をしてほしい。G8の宣言はその後の国際交渉を助けるものになる。議長国の日本にとっては、自国や国際社会がとる新たな対策を表明するいい機会になるだろう」
 
 つまり、現在の温暖化に最も責任がある先進国が温暖化ガスの大幅な削減を約束すれば、中国やインドも“京都後”の数値目標に乗ってくる、という予測だ。だから福田首相は、再び心変わりすることなく、この路線を真っ直ぐ進んでほしい。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月27日

本欄が書籍に (5)

Part9_bg  本欄の文章を集めた単行本の9巻目、『小閑雑感 Part 9』(=写真)がこのほど世界聖典普及協会から出版された。正式な発行日は来年の1月1日だが、同協会にはすでに入庫ずみだ。今回の本がカバーする時期は昨年11月から今年2月までで、合計90篇の文章が収録されている。それに加えて、本欄のサイドバーから閲覧できる私のスケッチ画集「わが町--原宿・青山」からモノクロの絵が8点掲載されているのが特徴だろうか。あとは、既刊の同シリーズと体裁において大きな違いはない。
 
 内容的な違いについては、この本の「はじめに」に書いたように、11月に出版した『日時計主義とは何か?』(生長の家刊)と密接な関係がある文章が多く含まれる点だろう。私はこうしてブログを書くようになってから、ブログの文章をとっかかりにして、より広く、あるいはより深く考える必要性を感じることがあり、そこから単行本へ発展する可能性がひらけるようになった。『日時計主義……』の本は、そのような可能性から生まれた最初の本と言えるだろう。もちろん『日々の祈り』もブログを母体としている。が、この本は、ブログの文章そのものが単行本になっているから、発展性という面では上記とやや異なる。
 
 単行本化の話が出たついでに、この本には長篇小説『秘境』と『日々の祈り』の解説が含まれていることを付言しておこう。両書には「はしがき」に該当する文章がないので、それぞれの本への私の意図や“思い入れ”を書く場所がなかった。それを本欄に書いたのが、単行本の一部としてこの本に収録された。少し変則的だが、発表の場があるだけでも有り難いことだ。
 
 本シリーズの既刊本ともども、ご愛顧いただければ幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月25日

「日々の祈り」サイトについて

 昨日は私の56回目の誕生日で、多くの読者から誕生祝いのメールやメッセージをいただいた。この場を借りて御礼申し上げます。皆さん、ありがとうございました。昨朝、谷口清超先生にご挨拶申し上げたとき、「私ももう56歳になって、赤いチャンチャンコが近づいてきました」と言ったら、先生は「ゴロクサンジュー」とおっしゃったのである。だから、私は今後、30代の青年になったつもりで頑張ろうと思う。読者の皆さんもあまり期待せずに、よろしくご指導、ご鞭撻お願い申し上げます。

 昨日は幸い休日だったので家で“ゆっくり”できたはずだが、のんびりしていられない性質で、読者の誕生祝いに応えるつもりで、本欄の姉妹欄である「日々の祈り」のサイトの“バージョンアップ”作業を始めた。祈りの言葉を妻が朗読したCDがすでに出ているが、その音声ファイルをブログ用に変換して、ネット上で聞けるようにした。ついでに、書籍版の『日々の祈り』の編集順にネットからも使えるようにした。つまり、「神を深く観ずるために」「自然を深く観ずるために」「人間を深く観ずるために」「明るい人生観をもつために」「人生のすばらしさを観ずるために」「“病気本来なし”を自覚するために」という章立てを、このサイトにも導入したわけである。
 
 ところで、妻の朗読の音声だが、CDにあるものより一段低音に聞こえることをお断りしておく。理由はよくわからないが、恐らくCDのファイルからの変換の過程で、音が若干変化したのだろう。彼女はしきりに「恥ずかしい」「みっともない」と言っているが、無理に頼んで公開を了承してもらった次第である。ついでに、サイトのデザインも一新したので、“バージョンアップ”作業に2日かかった。本欄に加えて、そちらも御愛顧いただけたら幸甚である。

 谷口 雅宣

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2007年12月23日

バイオ燃料の“光明面” (2)

 前回の本欄では、バイオ燃料の種類とそれぞれの違いを概観したが、今回はそれを利用するメリットを考えよう。列挙してみると--

①燃やしてもCO2の増加とならない。
②石油燃料と混合することで有毒物質の排出が削減できる。
③農家の所得増進と農村の経済振興に貢献。
④生産地の多角化・多様化により、エネルギー供給が安定化する。

 などが考えられる。
 
 ①のメリットは、すでにいろいろな所で語られているから、ここでは最小限の表現にとどめる。前回書いたように、この点で重要なのは、バイオ燃料の製造に使われるすべてのエネルギーをきちんと“製造コスト”の中に入れ、さらに燃料の輸送・販売に必要なエネルギー量も“販売コスト”として足し上げたうえで、「CO2の増加とならない」かどうかを判断しなければならないということだ。例えば、トウモロコシを生育させるのに肥料や水を使ったり、大型の工作機械を使ったり、遺伝子組み換え品種を使う場合は、それらの過程中に石油起源のものが含まれる場合があるから、注意して計算する必要がある。沖縄のサトウキビを原料とするエタノールを使う場合は、サトウキビの生産地周辺での利用は効果が大きいが、これを本州や北海道で利用することになると、輸送のために化石燃料を使うことになるから、メリットは小さくならざるを得ない。この点で、ブラジルからの輸入には慎重な検討が必要だろう。

 ②のメリットは、エタノールが燃料の添加物として使われてきたことと関係がある。バイオ燃料を石油燃料と混合させることで硫黄酸化物、粒子状物質、一酸化炭素の排出を抑えることができる。だから、発展途上国などでは、この利用により都市部の大気汚染の緩和や、有毒な鉛を含む燃料添加物の廃止などに役立つことが考えられる。

 ③のメリットは、アメリカやブラジルではすでに明確な形で出てきている。ワールドウォッチ研究所によると、「エタノール業界は、アメリカでは20万人近く、ブラジルでは50万人の雇用を直接的に創出しているとみられる」というから、間接部門を含めた経済効果は相当のものだろう。特にアメリカでは、国の補助金と石油の値段の高止まりによって、エタノール生産が収益源となっているので、工場(醸造所)の増設が急ピッチに進んでいる。そして、原料であるトウモロコシが値上がりし、農家の収入も上がっている。アメリカの場合、比較的少数の農家による大規模経営が行われているから、収入の増加も急速である。

 ここで問題なのは、単一種の大規模栽培が生態系に好ましい影響を与えないことだ。特にアメリカでは、遺伝子組み換え種のトウモロコシが普通に栽培されているから、その影響は未知数だ。日本では土地や農家の規模、遺伝子組み換え種への抵抗感などから考えて、これと同様の政策を行うことには無理があるだろう。しかし、イネ藁、イネ籾、竹、廃材等を原料としたバイオエタノールの生産は、農業や林業の振興、山林の整備、エネルギー自給率の向上などの面から、非常に有望な手段だと私は考える。
 
 ④のメリットは、③とも関連する。化石燃料とバイオ燃料の大きな違いの1つは、前者の生産地が世界のごく少数の地域に遍在しているのに対し、後者は(太陽エネルギーの産物であるから)、事実上、世界中で生産可能である点だ。エタノールの別名はエチルアルコールだから、理論的には酒の醸造技術があれば、エタノールの生産は可能である。だから、もし大量生産の技術が確立すれば、政情不安定な一部の国々の恣意的な操作で市場が混乱することなく、自国での安定供給が可能であり、不足した場合は国際市場からの入手も比較的容易になるだろう。もちろん、無秩序な森林伐採や開発行為は防がねばならないが、草木などどこにでもある“雑草”の類を液体燃料に変えることが技術的に可能となれば、太陽光発電がそうであるように、エネルギーの分散生産、分散利用が可能となり、都市と地方の格差是正、エネルギー自給の道にもつながるかもしれない。
 
 以上、「よいこと」ばかりを並べてきたが、前にも書いたように、バイオ燃料の開発にはデメリットがある点も十分に留意すべきである。しかし、総合的に考えると、私はこの方向への社会の進歩は、長年の日本経済の停滞をも打破するような潜在力と、明るい可能性を秘めているような気がしてならない。
 
 谷口 雅宣 拝
 
【参考文献】
○クリストファー・フレイヴィン編著『地球白書 2006-07』(2006年、ワールドウォッチジャパン刊)
○クリストファー・フレイヴィン編著/福岡克也監訳『地球環境データブック 2006-07』(2007年、ワールドウォッチジャパン刊)

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2007年12月22日

バイオ燃料の“光明面”

 本欄では、これまでしばしばバイオエタノールやヤシ油の急速な利用に伴うデメリットを語ってきたので、読者の中には「バイオ燃料は悪い」との誤解が生じているかもしれない。そこで今回は、この燃料の“善い面”に焦点を当てて考えてみたい。

「バイオ燃料」(biofuels)などとカタカナ混じりの言葉で呼ぶと、まるで何か最先端の科学研究の成果のような印象を与えるかもしれないが、この燃料は、人類が太古から使ってきたごく普通の燃料--薪、藁、柴、炭--などと密接な関係をもった概念である。つまり、生物由来の燃料で、化石化していないものをバイオマス(biomass)と呼ぶが、そこから抽出される液体燃料と混合ガスのことを指す。昔、日本では、石油禁輸中にサツマイモを原料としたバイオエタノールを使ったことを忘れてはならない。

「バイオ燃料.com」によれば、「バイオ燃料は、生物体(バイオマス)の持つエネルギーを利用したアルコール燃料やその他合成ガスのこと」である。また、米エネルギー省傘下の研究機関であるアメリカ再生可能エネルギー研究所(National Renewable Energy Laboratory, NREL)の説明には、「バイオマスは他の再生可能エネルギーとは異なり、“バイオ燃料”という液体燃料に直接変換することができる」とある。また、ワールドウォッチ研究所の『地球環境データブック』の定義は「植物などのバイオマス由来の液体燃料」である。とすると、「混合ガス」を含むか含まないかで、日米間の考え方にまだ若干の差があるようだ。

 代表的なバイオ燃料は、エタノールとバイオディーゼルである。エタノールは現在、サトウキビ、トウモロコシ、小麦、大麦などの穀物を主原料としているが、これをトウモロコシの茎、稲や麦の藁、竹、スイッチグラスと呼ばれる雑草などから抽出する研究が進んでいる。一方、バイオディーゼルは、植物性油と動物性油脂を原料として作られており、上記のNRELによると、アルコール(普通はメタノール)と植物油、動物の脂、廃油などを加えて精製する。いずれのバイオ燃料も、原料の元をたどれば植物による光合成に行き着くから、太陽エネルギーを液化したものと見なされる。

 地球温暖化抑制の観点から見て重要なのは、これらのバイオ燃料のエネルギー量と、それを製造するために使われる化石燃料のエネルギー量との比較である。前者が後者に比べて大きければ大きいほど、温暖化抑制に役立つことになる。この差が大きい--つまり、温暖化抑制効果が大きい--ものから並べると、①雑草などの植物繊維由来のエタノール、②ヤシ油由来のバイオディーゼル、③サトウキビ由来のエタノール、④植物性の廃油からのバイオディーゼル、⑤ダイズ由来のバイオディーゼル、⑥ナタネ由来のバイオディーゼル、⑦小麦、テンサイ由来のエタノール、⑧トウモロコシ由来のエタノール、の順となる。ただし、この順位は、現在の製造工程にもとづいているから、新しい省エネの製造法が開発されれば当然、変化する。
 
 この順位を見ればわかるように、同じバイオエタノールでも、米国産(トウモロコシ由来)のものとブラジル産(サトウキビ由来)のものとでは温暖化抑制効果は違うのである。日本で現在使われているバイオエタノールは、フランス産の小麦を原料としたものだから、ちょうどその中間的位置にある。日本政府は現在、沖縄産のサトウキビを原料としたエタノールの生産に力を入れているが、その判断は合理的と言える。しかし、サトウキビは食品の原料でもある。だから、本命は何と言っても、食料と競合しない雑草などの植物繊維由来のものだ。したがって私は、この分野の技術開発に是非、官民挙げて全力で取り組んでほしいと思うのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○クリストファー・フレイヴィン編著/福岡克也監訳『地球環境データブック 2006-07』(2007年、ワールドウォッチジャパン刊)
○「バイオ燃料.com」、(http://バイオ燃料.com/)

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2007年12月21日

“正しい運動”と“善い運動”

 本欄では今年9月に「迷いはどこから来る?」と題したシリーズを掲載し、多くの読者からホットな反応をいただいた。その際、『生命の實相』第14巻倫理篇<下>や『新版 真理』第10巻実相篇から引用して、「善が成立するためには自由が必要である」ことを強調した。後者の中で、谷口雅春先生は、これを「機械的に正しく軌道を走っても、それは“正しい”とは言えても、“道徳的に善ある”と言うことはできない」と述べておられる。そこで、これを前提として生長の家の運動を考えると、私たちの前には機械的に「正しい運動」と道徳的に「善い運動」の2つを考えることができるだろう。その場合、私たちはいったいどちらの運動を目指して進んでいくべきだろうか? これが、今回の私の設問である。もう少し具体的に言うと、熱心な信徒の中には、「これが正しい」と一定の“形”を決めて運動を推進するタイプの人がいて、その“形”から外れたバリエーションを見つけると、「それは間違い!」と言わんばかりの態度で「正しさ」を貫徹しようとする場合があると聞く。そういう問題をどう解決するのが、生長の家として望ましいだろうか?
 
 私がこんな問いかけをする理由は、最近、ある人が手紙をくださって、その中で『日時計日記』の頒布・拡大が大変だと訴えておられたからである。『日時計日記』とは、昨年から生長の家で発行している日記帳のことだ。日記帳というのは、基本的に個人が自分のためにつけるプライベートな記録帳だから、「買いたい人が買ってつける」というのが基本である。だから私は、この人の言っている「頒布・拡大」の意味が最初よくわからなかった。しかし、この手紙の主がおっしゃるには「会員数強制的に」「プレゼント用に買いなさい」という話が“上”から来るというのである。これは何かの間違いだろう、と私は思うのである。

「間違い」という意味は、そういう事実が存在しないというのではなく、何かの間違いで「そうでなければ正しい運動でない」と信じた人がその地方にいて、その間違った考えが、何らかの理由で受け入れられている、という意味である。つまり、「その人」が生長の家の運動を間違って把握しているという意味だ。また、「その人」の周辺の人々も、生長の家の運動を誤解されているに違いない。生長の家は、教義そのものにおいて「自由」を至上価値としていることは、上で触れたようにすでに何度も本欄に書いた。また、「生長の家」に限定しなくとも、宗教上の信仰は一般的に「自由意思」を尊重しないかぎり成立しないものである。このことは、かつて共産主義、社会主義諸国で信仰者が弾圧された歴史が有力に示しているはずだ。自由のない国では、信仰者は大変な苦しみを味わうのである。このことは、日本の歴史ではキリシタン弾圧が示しており、現代においてはイスラーム原理主義が支配している国々において現に示されている。信仰をすることで自由が奪われるならば、信仰によって善の実現は不可能ということになるから、宗教の意義は失われてしまう。

 まぁ、手紙1通の内容をここまで深刻に考えなくていいかもしれないが、とにかく日記帳の半強制的な「頒布・拡大」がもしどこかで行われているとしたら、それは生長の家の信仰を間違ってとらえている一部の人々の行き過ぎであるから、ぜひやめていただきたいのである。また、「プレゼント用に買いなさい」という勧め方も、好ましいとは思えない。なぜなら、「プレゼント」とは本来自発的なものであり、「○○しなさい」と他人に強制したとたんに、「プレゼント」ではなくなってしまうからである。2月14日の“義理チョコ”のような運動から、我々はもう卒業しなければならない。「正しさ」を強制すれば「善さ」はなくなるのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○2007年9月17日「迷いはどこから来る? (7)」
○同年9月10日「迷いはどこから来る? (3)」

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2007年12月20日

“石油難”の前に食糧難?

 アメリカで32年ぶりに、自動車の燃費基準を大幅に厳しくする法律が成立した。地球温暖化抑制の観点からは、このことは大いに歓迎しよう。ところが、この法律には“行き過ぎ”とも言うべき別の規定が含まれていて、これが来年以降の世界を食糧難をもたらす可能性が指摘されている。「エネルギー独立・安全保障法」(Energy Independence and Security Act)というその名前から分かるように、この法律は9・11を初めとするテロによる脅威と、中東などの外国にエネルギーを依存するアメリカの現状とをリンクさせて考えている。つまり、イスラーム原理主義によるテロの脅威は、アメリカが無理をして中東からエネルギーを輸入しなければならないという海外依存体質が大きな原因になっている、との認識がある。だから、①国内のエネルギー効率を飛躍的に向上させ、かつ、②可能な限りエネルギーを自給することで国家の安全保障に寄与しよう、というのだろう。この①の目的で定められたのが、自動車の燃費基準の大幅な厳格化だ。
 
 19日の『日本経済新聞』夕刊によると、新法が定めているのは、乗用車の燃費基準は、現行の1ガロン当たり「27.5マイル」から最終的に「35マイル」に、SUVを含む小型トラックは、現行の「22.2マイル」から同じく「35マイル」まで引き上げることだ。これを日本式表現になおすと、前者は1リットル当たり「11.7キロ」の現行基準を「15キロ」まで、後者は「9.4キロ」のものを同じく「15キロ」まで引き上げることになる。この程度の燃費基準ならば、現在でも多くの日本車は基準を満たしているから、新法が2011年以降に段階的に基準を厳しくして2020年までに「15キロ」へもっていくというのは、技術的に大きな問題はないだろう。

 問題があるのは、②の目的のために、バイオ燃料を2022年までに年間360億ガロン(1330億リットル)利用することを義務づけている点だ。19日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、現行の目標値は2012年までに75億ガロン(278億リットル)だから、その10年後にはバイオ燃料の利用量は約5倍にまで膨れ上がることになる。このバイオ燃料には、食料として使わないトウモロコシの茎や、麦わらなどを原料とするものも含まれるが、同法にはトウモロコシなどの穀物そのものから作るバイオエタノールの量を「150億ガロン」に増やすことも定められているという。このことが、同じ土地を食糧とエタノールが奪い合うという問題を深刻化することが懸念されているのだ。

 多くの読者は、現在のエタノール・ブームによっても、食品全般の値上がりが起こっていることをすでにご存じだろう(今年9月7日3月23日の本欄参照 )。11日の本欄では“物価の優等生”と言われてきた日本の牛乳の値段が、来春から30年ぶりに上がることを書いた。これは“氷山の一角”にすぎず、砂糖やダイズや小麦も、このところ急ピッチな値上りが続いている。例えば、19日の『日経』は、穀物の国際価格が歴史的な高値圏にあることを受けて、全国農業協同組合連合会(全農)が家畜向けの配合飼料を1月から値上げすると発表した、と伝えている。配合飼料の原料には、トウモロコシのほかダイズも含まれている。また、シカゴ商品取引所での小麦の国際価格も、過去最高値を更新したと伝えている。
 
 こういう穀物や食品の値上がりの1つの原因が、バイオ燃料の需要増大である。つまり、地球上の耕作地の面積はほぼ一定だから、そこで栽培される作物が自動車用のバイオ燃料の生産に回されれば、人間や家畜が食べる分はそれだけ減ってしまう。すると、需要と供給の関係で当然、穀物や食品の値段が上がるから、貧しい国では食料不足が起こるのである。この食料不足をなくそうとするならば、単位面積当たりの収量を増やすか、あるいは耕作地の面積を増やさねばならない。現在、採られている方策は後者が主体であり、その方向には「森林破壊」がある。インドネシアやブラジルの森林で焼畑や、違法伐採が続いているのも、そういう理由が大きい。
 
 しかし、バイオ燃料活用の効果には“善い面”もあり、そのことは別の機会に書くことにする。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月19日

サンタクロースは中国人?

 環境運動家として知られるレスター・ブラウン氏(Lester R. Brown)が主宰するアースポリシー研究所から18日付で送られてきたニュースレターの題は、「サンタクロースは中国人」だった。副題は「中国が浮上し、アメリカが沈下している理由」である。意表をつくタイトルなので思わず読んでみると、ブラウン氏がなかなか愛国者であることが分かった。彼は、アメリカの経済の現状を憂えて、「石油に頼った生活から早く足を洗い、元来アメリカの技術だった太陽光発電や風力発電の分野で世界をリードすべきだ」と訴えているのである。ニュースレターによると、実はこの文章は、1年前のニュースレターに載ったものという。だが、反響が大きかったのと、状況は1年前と基本的に変わっていないので、クリスマス前のこの時期に再びニュースレターに載せたという。

 ブラウン氏の論点をまとめれば、こうなる--今、アメリカ人が購入するクリスマス・プレゼントのほとんど70%は、中国製である。具体的には、バービー人形やビデオゲームなど玩具の80%、アイポッドやXボックスなどの電子機器も、カシミアのセーターや国内メーカーのトレーナーもほとんど中国製である。クリスマスツリーは、本物の木は国内産でも、プラスチック製の人造ツリーの8割は中国製である。このように、中国人はアメリカのクリスマスの“製造元”であるから、サンタクロースの役割を演じている。中国人は豊かになりつつあり、アメリカ人は貧しくなっている。その理由は、中国人が収入の40%を貯蓄しているのに対し、アメリカ人はクレジットカードで収入以上の買い物をどんどん行っているため、貿易赤字が急速に増大しているからだ。

 ブラウン氏は続けて言う--アメリカ人は、将来のために貯蓄をするという考え方を忘れ去り、流砂のような消費生活の中に埋没している。我々は子供たちに将来の明るい未来を残そうとするかわりに、歴史上かつてないほど巨大な借金を遺していこうとしているのだ。

 問題なのは、我々のクリスマスが中国で作られるということではなく、そういう状況に至らしめた我々の考え方だ。それは、「どうしても今ほしい」と願うことだ。「今消費して、代金はあとで子供に支払わせよう」とすることだ。「将来のために今は我慢する」という考え方がこの国から消え去ってしまった。だから国の政策でも、戦争で高い犠牲を払いながら減税をしている。増大する貿易赤字を抱えながら、高い石油を輸入しつづけている。今、この莫大な国の借金を肩代わりしているのは中国と日本だ。その中で、太陽光や風力など、もともとアメリカが考え出した再生可能エネルギーの開発努力をせず、社会保障制度が破綻し、高齢化が進んでいる。こんなことで世界を導き、世界への影響力を維持することなどできるはずがない。我々が直面しているのは、アメリカのクリスマスが中国で作られているという単純な問題では最早なく、かつて我々を偉大な国に育て上げたもの--世界が誉め、尊敬し、かつ見習おうとした規律と価値とを、我々が恢復できるかどうかということだ。

 クリスマスが近づくにつれて、日本の街は華やかさを増している。ブラウン氏のこの警告を読んで私の脳裏に浮かんできたのは、欧米のブランド・ショップが軒を連ねる銀座や原宿や渋谷の繁華街であり、そこを行く、ブランド物で“重武装”したような人々の姿である。アメリカ人に比べて、日本人の貯蓄率はまだまだ高いだろう。しかし、日本全体が、ブラウン氏が憂えるように、「今ほしいものを得て、ツケは子供に支払わせる」という、無責任な方向に走っているような気がするのである。無理、無駄、無目的、無思慮な買い物をしていないだろうか? 子の世代、孫の世代にツケが回るような生き方をしていないだろうか? 悩むアメリカの姿は、我々にも多くのことを教えているのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月18日

ブルーベリーを楽しもう

 “収穫の秋”も終わって、収穫物を食べる冬になった。私は生長の家の講習会などで、11月に群馬、小樽、長崎、千葉へ行き、12月は高知、鹿児島、沖縄へ行った。こうして日本各地へ行くと、「今年は果物が豊作だ」という話をいろいろのところで聞いた。実はわが家の庭でも今、温州ミカン、柚子、ポンカンといった柑橘類が豊富に実っている。ただし、キーウィーはカナブンにやられた。地球温暖化にも“善い面”があるということだ。家にあるブルーベリーの木にも、今年は豊富に実が成った。昨年もカナブンが大発生して、実をさんざん食い荒らしたのだが、今年はそのカナブンの勢いにも負けずにどんどん実をつけてくれたので、私たちは生食で楽しんだ後にも、ジャムを作って冬場にも楽しみを引き延ばしている。
 
 この間、採りためて冷凍してあったブルーベリーの実を、妻がジャムに加工してくれた。その様子を動画にまとめたので、ここに掲載する。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月17日

“京都後”への出発点

 インドネシアのバリ島で行われていたCOP13(国連気候変動枠組み条約締約国会議)が終わり、その“成果”について様々な論評が行われている。マスメディアの論調の大勢は、「全員参加でひとまず合意」というところか。参加国をできるだけ多くすることで“世界的潮流”を作っていこうとする考えは理解でき、その目的はある程度達成された。が、「全員が合意できることはそう多くない」ことも事実である。確かにアメリカ、中国、インドという立場が大きく異なる大国を温室効果ガス削減のスタートラインにつけた点は、評価できる。また、温暖化の被害を軽減するための適応基金や森林減少の防止のための制度的枠組みについても合意できたことは「よいスタート」と言えるだろう。が、残念なのは、数値目標についての記述が一切排除されたことだ。これによって、“ポスト京都”の目標値設定やCO2の排出権取引制度の“世界版”の発足は遅れることになるだろう。
 
 それにしても、この会議でのわが国の対応には不満が残る。現在の温暖化を生み出した主要な責任は先進国にあるのは明らかなのに、その責任国中ではアメリカと日本だけが、数値目標の設定に徹底的に反対した。当初の合意文書案に盛り込まれていた「先進国は2020年までに1990年比25~40%削減」という文言だけでなく、次に出た「2050年までに温暖化ガスを2000年より半減」や「今後10~15年以内に世界全体の排出量を減少に転じる」という表現にも、アメリカとともに反対した。いったい日本は米国の“衛星国”なのか、はたまた京都議定書の議長国でありながら、温暖化抑止に反対しているのか、と疑いたくなるほどである。安倍政権時代に打ち出した数値目標など、初めからなかったと言わんばかりの変節ぶりだった。こういう首尾一貫しない外交政策は、世界の国々から信頼されない。来年の洞爺湖サミット(主要国首脳会議)での指導力は、自ずと限定されたものになるだろう。
 
 京都議定書にはない新たな対策も「検討する」ことが合意された。その1つは、上にも触れた世界の森林保護のための仕組みであり、森林保護基金の設置や、伐採しないことで排出権を得る制度の設置である。2つ目は、産業分野別に削減目標を設ける「セクター別アプローチ」という考え方だ。これは日本の財界も推している新しい手法だが、実際に温室効果ガスの削減効果があるかどうかは未知数の部分がある。
 
 ところで、今日(17日)の『日本経済新聞』の夕刊に、「主要国の温暖化ガス排出状況」というグラフが載っている。それを見ると、日本、ヨーロッパ、アメリカの主要7カ国が2005年の時点で、京都議定書の基準年である1990年のレベルからどれほど温暖化ガスを増やし、あるいは削減しているかが一目瞭然にわかる。数字で示すと、ドイツは「-19.5%」、イギリスが「-15.4%」、フランス「-7.1%」、ロシア「-27.7%」、日本「+7.1%」、アメリカ「+16.3%」、カナダ「+54.2%」である。京都議定書の目標について、カナダは早々と「達成できない」と宣言した。アメリカは議定書から離脱したから、目標達成の義務は負わない。議長国である日本は、90年比で「6%削減」の義務を負っているが、すでに7%以上増えている。
 
 こういう状況で来年以降、温暖化抑制問題で世界に指導力を発揮することがいかに困難であるかは、明らかである。業界寄りの自民党政権が続いているかぎり、京都議定書の義務達成は愚か、“ポスト京都”の温暖化抑制努力においても“低迷”し続けるパターンが見えているような気がしてならない。

谷口 雅宣

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2007年12月16日

沖縄陶器を買う

 宜野湾市で行われた生長の家の沖縄教区の講習会が終わってから、沖縄の伝統的焼物を見ようと「壷屋やちむん通り」という所へ寄った。「やちむん」とは焼物のことである。このレンガ敷きの通りは、那覇市の中心を東西に走る国際通りから南へ入る、平和通りを行った先にある。車が1台だけ通れる狭い露地の両脇に、焼物を売る店が点々と続き、中へ入れば食器、花器、酒器、置物など様々な焼物を手に取って眺められる。各店の前には、家の守り神であるシーサーが番犬のように通りを睨んでいるのも、面白い。

 緩く曲がった上り坂の中途にあった1軒の店の脇には、高さ1mもある赤茶色のシーサーが立っていて、その鼻先が店の窓辺に向いていた。よく見ると、その窓の、少し張り出した窓枠の上に、白黒模様のネコがシーサーの方に頭を向けてうたた寝をしている。シーサーの大きな頭と、ネコの小さな頭とがくっつきそうな距離にあるのが、とてもユーモラスに見えた。お互いに「気の許せる仲間」という感じなのである。
 
 私は、妻を誘ってその店に入った。店の奥に50代と思われる女主人がいて、目が合ったので「今日は」と挨拶を交わした。と、後から入ってきた妻が、私の後ろで「まぁ、なつかしい~」と声を上げた。何事かと思って振り返ると、店の棚に並んでいる食器の模様に見覚えがあるのである。というよりは、私たちが毎日家でお茶を飲むのに使っている茶碗と同一のデザインの食器が、その棚に所狭しと並べられていたのだ。ご飯茶碗や、ぐい飲み、徳利、マグカップなどもあっただろうか……。家にある湯呑茶碗は、2年前に同じ講習会で沖縄を訪問した際に買ったものだ。その時は、国際通り沿いの那覇市伝統工芸館で買った。それ以降、湯呑茶碗はほとんど毎日使ってきたから、同じデザインの食器群を見ると、なぜか愛着を感じる。毎日使う食器には“情が移る”のだ、と実感した。
 
Tsuboyaki  この「懐かしさ」は何かの縁だと思った私は、この馴染みのデザインのご飯茶碗を2つ買った。2年前に買った湯呑茶碗は、実は帰宅後にすぐスケッチしてあったので、その絵をここに掲げよう。このデザインと食器は「國場一」という54歳の伝統工芸士の制作になるものという。
 
 壺屋やちむん通りでは、こことは別の店でも箸置きを2つ買った。1個300円と手ごろであったのと、魚の形をしたその箸置きの色形が気に入ったからだ。沖縄の陶器のデザインには魚が多く使われるが、この地方の人々がそれだけ魚と身近な生活を営んできた証拠だろう。そして、それらの魚のデザインは、本州に住む私たちの知っている魚のデザインとは、色合いや形が少し違うのである。自然環境が違えば、生息する動物の色や形が違うのは“当たり前”--そう言われればそれまでだが、13日の本欄にも書いたように、そういう微妙な違いに気がついて「目覚むる心地」を体験することは、旅の醍醐味の1つでもある。
 
 ところで、この通りは那覇市の「壷屋」という場所にあり、この地で制作される焼物を「壷屋焼」と呼ぶ。ここは今から315年前の天和2年に、当時の琉球王府が那覇周辺にあったいくつかの窯場をここへ移して統合し、以来、沖縄陶器の中心となってきた。明治の廃藩置県によって沖縄が日本に統合されると、技法や用途などの面で本土の陶磁器との交流が盛んになり、多様性のある沖縄陶器が生み出されるようになったという。壷屋焼は、大別すると釉薬をほとんどかけないで焼く荒焼(あらやち)と、本土から伝わった釉薬を導入した上焼(じょうやち)に分かれる。前者は、赤土色の素朴な色合いと温かな手触りが特徴で、後者は色と模様を工夫して華やかさが出せる。私が購入したものは、だから上焼の茶碗ということになる。詳しくは、このサイトを参照されたい。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月14日

日本の犯罪は減っている (3)

 本欄でこの題を使うのは、これで3回目だ。初回は2005年11月10日、2回目は2006年12月15日だった。読者は、この日付の規則性に気づいてほしい。このところ毎年この時期になると、警察庁はその年の1~11月の全国の犯罪統計を記者発表するようになった。私は、その数字を新聞紙上で知って、そのつど本欄で読者の注意を喚起するようにしてきた。なぜなら、多くの日本人は、戦後の日本社会はどんどん悪くなっているとの印象をもっていて、その前提のもとに考えたり、行動していると思われるからだ。この印象は、本欄で何回も書いてきたように、第1にマスメディアが醸成してきたものだ。そして第2には、私たちの「悪を認める」心のクセがつくり上げてきたと考えられる。事実は必ずしも「小説より奇」ではなく、私たちが「犯罪小説を好む」だけかもしれない。

 今日(14日)付の『産経新聞』に載った記事が、全体をよくまとめている--「今年1~11月の刑法犯の認知件数は、前年同期比7.0%減の176万1993件となったことが13日、警察庁のまとめで分かった。年間では5年連続の191万件台と見込まれ、平成9年以来、10年ぶりに200万件を下回る見通し」。認知件数の大幅な減少の理由について、吉村博人・警察庁長官は「全国警察による街頭犯罪抑止対策や、自治体や防犯ボランティアによる取り組みが大きく寄与した」(『日経』)と分析しているようだが、何となく納得しきれない。もちろん、そういう地道な努力も奏功しているに違いないが、すると昨年はそういう努力が十分でなかったということか? 
 
 罪種別の認知件数を見ると、「重要犯罪」と呼ばれるものが「8.7%減」の1万5760件で4年連続で減少した点が注目される。この内訳は、殺人が6.8%減の1119件、強盗が10.4%減の4207件など、略取・誘拐(10.5%増)を除きすべて減少した。また、窃盗も7.0%減の131万7309件、詐欺は8.6%減の6万2284件、その他、車上狙いが19.5%減、ひったくりが11.4%減となったが、暴行は3.8%増の2万9502件だったという。また、社会の高齢化にともない、高齢者の刑法犯の検挙人員が増加しているのが、気になる。この数字は、昨年同期比で4.5%増の4万4928人だが、罪名は万引きが過半数を占めるというから、経済的な事情が反映しているのかもしれない。
 
 私は、7月14日の本欄で今年1~6月の犯罪統計を取り上げ、全体の認知件数が昨年同期比7.1減で、「凶悪犯(殺人や強盗など)が6.8%、詐欺犯が13.4%、窃盗犯が7.5%、粗暴犯が3.4%、それぞれ前年同期で減っている」と述べ、通年でも「5年連続減少」の可能性が大きいと書いた。予想通りの結果になったことは、嬉しいかぎりである。刑法犯の認知件数が戦後のピークを打ったのは2002年だ。海外からの人口流入はこの後も続いているはずだから、その中でも犯罪が減少し続けていることは大いに注目すべきことではないだろうか。比較文化論や社会学的考察をきちんと行えば、日本社会の安全性を海外へも普遍化できるかもしれないと考えるのは、“手前味噌”すぎるだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年12月13日

目覚むる心地

 最近、仕事から帰宅した私に、妻が古典文学の教室で聞いたという話を興奮気味に語った。彼女は、文筆家の清川妙さんが講師をしている教室に通っているのだが、清川さんはよく講義の最初に、ご自分の体験を語りながら、その日の講義に出てくる古典の1コマや、そこで語られることと、現代の我々の生活とを見事に関係づけられるそうだ。その日の講義は、兼好法師の『徒然草』だったのだが、そこに“旅人の目”について書いた件があって、清川さんの説明が素晴らしかったというのである。私は『徒然草』については高校の知識程度しかもっていなかったが、“旅人の目”については、生長の家の講習会などで実地に体験しているので、半分興味をもって聞いていた。が、そのうち、妻の言わんとしていることが自分にも大いに関係していると知って、彼女の話を傾聴している自分を発見した。
 
『徒然草』の第十五段に、次のようにある--

「いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ目覚むる心地すれ。
 その辺(わた)り、ここかしこ見歩き、田舎びたる所、山里などは、いと見慣れぬことのみぞ多かる。都へ便り求めて文遣る、“その事かの事、便宜に忘るな”など言ひ遣るこそをかしけれ。」
 
 妻は、この文章の冒頭にある「目覚むる心地」というのが日時計主義の心境と同じだというのである。旅に出ると、日常の心の持ち方から離れられるので、普段は注目しない“瑣末”と思えることを含め、旅先のいろいろの事物に新鮮な驚きをもって接することができる。そんなことから、家に残してきた家族への思いが募り、「あれはこうしろ、あのことは忘れるな」などと細かい気配りをした手紙を書くことになるのは面白い--こういう意味の文章だろう。
 
「なるほど……」と私は思い、昔も今も、人間にとって旅の効用はあまり変わらない、と感じた。と同時に、妻が旅先から親や子供に便りを出す心境と、400年前の兼好の心境とが、清川さんの“仲介”によって共鳴したように感じた。ご存じの読者も多いと思うが、妻は毎日、伊勢にいる自分の両親宛に絵手紙を描いている。また、生長の家の講習会で各地に行くと、宿舎から3人の子供に絵葉書を出す。妻だけではない。私もかつて、妻や子供を家に残して旅していた頃には、私自身がFAXや電子メールを使って兼好と似たようなことをやっていた。そして今は、旅先でスケッチをしたりする。その理由を、兼好は上の短い文章の中に巧みに描いている。それは「いと見慣れぬことのみぞ多かる」ことに気づく心境だ。それが「目覚むる心地」を引き起こす重要な要素であるに違いない。

 しかし、そうは言っても、交通機関が発達していない400年前に、兼好法師が都から山里へ旅することと、航空機や新幹線による現代の旅行とは、だいぶ違う。外国旅行なら「目覚むる心地」を味わえたとしても、国内の旅行は、どこへ行っても大企業の看板、駅前開発、ファーストフード店、ファミレス、居酒屋チェーン、流行のスタイル……そういう画一性が横溢していることを、私は本欄でも嘆いて書いたことがある。しかし、着眼点を変えれば、都会の真ん中でも「目覚むる心地」を味わうことができる、ということも本欄には書いた。そのことを妻は、思い出させてくれたのである。これらのことは、すでに『日時計主義とは何か?』の本に収録されているが、本欄でそれを読みたい読者は、「わが町--原宿・青山(2)」と「意味と感覚」の文章を参照されたい。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月11日

牛乳とバイオエタノール

 鶏卵とともに“物価の優等生”と言われてきた牛乳の値段が、30年ぶりに上がるらしい。理由は、バイオエタノールである。この「風が吹けば桶屋が儲かる」式の謎解きも、本欄の読者なら簡単にできるのではないだろうか。
 
 11日付の『日本経済新聞』によると、牛乳の大手メーカー2社(明治と森永)は、来年春に牛乳を平均で3%強値上げする方針を固めたという。飲用牛乳で最大の指定団体である関東生乳販売農業協同組合連合会と明治、森永の2社が来年4月から飲用牛乳の価格を約3%引き上げることで合意したからだ。牛乳の小売価格はここ10年間下がり続けていて、現在の実売価格は1リットル170~180円程度だが、これを契機に来春からの価格上昇の可能性が出てきた。バイオエタノールとの関係は、乳牛のエサ代の上昇だ。同紙によると、この1年でトウモロコシの値段は50%、乾し草の値段は10%上昇しているという。トウモロコシは、大産地アメリカでのバイオエタノールへの転用が急速に進んでいるからで、牧草地の農地への転用も進んでいる。牛乳の3%の値上げは、日本人にはあまり痛くないかもしれない。しかし、バター、チーズ、ヨーグルト、アイスクリームなど、他の乳製品の値上げに波及する可能性もある。
 
 私は、今年3月23日5月29日の本欄などで、食品の値上りなど、昨今のバイオ燃料ブームが途上国で好ましくない結果を招いているため、環境運動家のレスター・ブラウン氏(Lester R. Brown)がバイオ燃料の増産の一時停止を提言していることなどを書いた。この食品の値上がりは、依然として続いている。同じく今日の『日経』は、ダイズも小麦も国際価格の上昇が続いて「軒並み記録的な高値を付けている」と伝えている。最近のドル安が、これを煽る形だ。つまり、EU諸国や中国がドル安の今のうちに積極的に米国産の穀物を買い入れているためだ。ダイズは今(穀物)年度の輸出成約量が11月までに前年同期比で8%増え、小麦は同84%増、トウモロコシは36%増というから、相当なものだ。
 
 こんな中で、COP13に合わせてインドネシアのバリ島で開かれた34カ国の貿易担当相の会合で、環境関連製品の貿易を拡大するために、バイオ燃料などの関税を撤廃する案が出され「一致した」という。10日の『日経』夕刊が伝えている。小さな記事で、詳しいことはわからないが、食物と競合するバイオ燃料を世界的に大いに流通させようという考えで「一致した」のならば、あまりいい報せではないだろう。今後も食品の値上がりと森林破壊が続く可能性が高いからだ。(詳しくは、12月7日の本欄参照)

 いいニュースもある。同じバリ島発のものだが、COP13では世界銀行が中心となって、森林破壊防止のために6千万ドル(約67億円)規模の基金を創設することが決まり、日本が1千万ドルを拠出するほか、オーストラリアなど他の先進国も資金援助するらしい。ただし、この額は十分とは言えず、インドネシア政府高官の話では、「地球規模の森林保全には5億~10億ドルの基金が必要」という。が、「よいスタート」ではあるだろう。

 谷口 雅宣

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2007年12月10日

地球温暖化をめぐる“理想”と“現実”

 最近、新聞各紙で報道されているCOP13(国連気候変動枠組み条約締約国会議)の記事を読みながら、私は地球温暖化をめぐる“理想主義”と“現実主義”の意味について考えさせられている。普通、理想主義とは、倫理的あるいは理論的に正しいとされることを第一に尊重し、そこへ到達するため現実の制度を変革したり、障害を突き崩したりしようとする考え方だ。『新潮国語辞典』は、それを「現実に立脚せずに理想を強調する、空想的・非実際的立場」と否定的に定義している。これに対し現実主義は、目の前の現実を「在るべくしてある」と考え、現実そのままを重視し、倫理的、理論的な目標を軽視する。このため、現実は「変革」するよりも「理解」されるべきとし、障害は「越える」べきではなく「容認する」べきと考える。『新潮国語辞典』によれば、現実主義は「主義・理想にこだわらず、現実の事態に即して事を処する主義」とも定義されている。

 新聞記事によると、同会議は8日、日本を含む先進国は温室効果ガスの排出量を2020年までに1990年比で25~40%削減するという数値目標を検討すべきとの議長案をまとめたという。要するに、現在の京都議定書で先進国の目標値とされている「10%未満」ではとても足りないから、各国別にもっと大幅な削減目標を設置すべきという考えだ。欧州連合(EU)などはこの案を歓迎しているのだが、日本とアメリカは反対している。日本が反対しているのは、「数値目標策定よりも米中が参加する枠組みづくりを優先課題としている」(9日『日経』)からで、「削減数値が入ると協議がまとまらない。EUは入れたいのかもしれないが、多くの国が受け入れられない」(同日『朝日』)として反発しているらしい。また、今日(10日)の『日経』夕刊によると、「日本は今回のバリ会議はポスト京都の交渉を始めるのが目的であり、数値目標を示すのは時期尚早として修正を求めていく考え」らしい。

 この報道が正しいならば、日本が今回目指しているのは「米中を枠組みの中に入れる」ことであり、意見対立が起こりやすい数値目標の設定は避けたい、ということだろう。この態度ははたして現実主義的か、それとも理想主義的か? 米中を含めた世界各国がバラバラの思惑をもち、それぞれの温室効果ガス排出量もバラバラな状態であるという“現実”を見れば、「何らかの形で世界全体が合意できればそれでいい」という日本の判断は、「主義・理想にこだわらず、現実の事態に即して事を処する」という意味では、確かに現実的かもしれない。しかし、この場合の“現実”とは、「国際政治の現実」だけを指すのであって、「すべての現実」ではない。端的に言えば、この場合の“現実”の中には「地球環境の現実」が含まれているとは思えないのである。「地球環境の現実」については、先ごろIPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)が発表した統合報告書の分析を受け入れるのが、現時点では最善・最勝の判断だろう。

 で、その報告書に何が書いてあるかは11月18日の本欄で触れたが、その一部を掲げると……
 
[アフリカ]2020年までに最大2億5千万人が水不足に直面、飢餓が進行する。
[ア ジ ア]洪水と旱魃の影響で、風土病の罹患率と下痢性疾患による致死率が上昇。
[欧  州]2080年までに最大60%の生物種が消失。熱波到来。
[南  米]今世紀半ばまでにアマゾン東部の熱帯雨林がサバンナに変わる。
[北  米]収穫が増える地域もあるが、地域にばらつき。21世紀中に熱波の回数増加。
[極  地]積雪、海氷量の変化でシロクマなどの哺乳類、渡り鳥などに影響。
[島 嶼 国]海水面の上昇により浸水、高潮でインフラを脅かす。

 ということだった。
 
 この「地球環境の現実」をしっかりと見つめた場合、「何らかの形で世界全体が合意できればそれでいい」という日本の判断は、はたして現実的--つまり、「主義・理想にこだわらず、現実の事態に即して事を処する」と言えるだろうか? 私にはそうは思えないのである。この日本の態度は、むしろ「全員参加主義」にこだわり、「全員賛成」の理想にこだわって、「何億人もの人類が飢餓や海面上昇によって生命を脅かされる」という現実に立脚しない、「空想的・非実際的立場」と言うこともできると思う。つまり、日本の現在の立場は、悪い意味での“理想主義”とも呼べるのではないだろうか。

 私は、EUがこの問題を深刻に受け止めているのには、それなりの現実的理由があると思う。その1つは、アフリカとの地理的・文化的・政治的関係である。EUにはアフリカの旧宗主国が多く含まれるから、現在すでに不法移民の入国が深刻化している。それに加えて、温暖化の被害による大量の環境難民が生じれば、EU諸国は政治的にも、道義的にもそれらの人々を域内に受け入れる義務が生じるだろう。そんな時、「あなた方が温暖化ガスの削減努力を怠ったから、私たちは祖国を破壊された」というアフリカ人の不満を、どう抑えればいいのか? そんな事態が来るのを座視するよりは、今、多少の経済的犠牲を払ってでも、できるところから、他国が反対しようがしまいが、自国の将来の利益を考えて、打つべき手は打つのがいい--こんな思惑が感じられるのである。
 
 日本にはそんな事態は決して来ない、と読者は考えるだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年12月 9日

鹿児島の息吹

 生長の家の講習会のために鹿児島県霧島市のホテルに泊まった。ここは半導体などの大手メーカー「京セラ」が工場をもち「ホテル京セラ」という施設も経営している町で、何となく“京セラの町”といった雰囲気である。昨年の1月にもここで講習会をやったが、その終了後、近くの「隼人塚」という旧跡を訪れたことを1月29日の本欄に書いた。今回は、帰りの航空機の出発時間の関係でどこへも寄らずに帰途についた。

 前日の夕刻にホテルの中を散策したが、案外寒いことに気がついた。「国内最大級の大吹抜空間、7つのレストラン・バー等多彩な飲食施設、屋内外の各種温泉スパ等をもつリゾートホテル」というのが、このホテルの宣伝文句だが、「大アトリウム」と呼ばれるこの吹き抜け空間が問題のようだった。22~23階もある建物の最上階まで吹き抜けだから、暖房がむずかしいのである。恐らくバブルの頃の考え方で建物を設計したのだろうが、石油高騰の今の時代にはコスト高で困っているに違いない。従業員の物腰や態度はとても好感がもてるものだったが、ホテル内で寒さをこらえるというのは初めての経験だった。太陽光発電の先駆的メーカーなのだから、自慢の装置でいくぶんでも暖房費をまかなえないかと思う。
 
 このホテルには、レストランなどが入った別棟があるのだが、そこへ行くには渡り廊下を通る。この廊下の寒さがひとしおなのだが、壁面に日本各地の縄文時代の遺跡の案内がある。そこには土器や矢じり、生活風景を描いた絵などが掲げられていて、土製の人形である「土偶」の模型もいくつもあった。土偶については、『信仰による平和の道』(2003年刊)Mtimg071209_m に少し書いたが、この時代の遺跡からしか出土しない不思議な人形で、宗教行事に使ったと考えられているが、詳細は不明である。実物の人間に似せて作られているのではなく、肉体的特徴--目や乳房、腰など--に極端な誇張が見られるところから、呪術的用途が考えられている。『ドラえもん』の漫画にも出てくるから、読者もお馴染みかもしれない。で、その中の1つに十字形をした土偶があり、不思議な雰囲気をもっていたので、写真に撮ってからそれを絵に描いてみた。胴長の体も面白いが、パンツのようなものをはいているのが不思議だった。
 
 ところで、講習会の食事の時間に、「鹿児島県では人口が年間1万人減る」という話を聞いた。小樽市では「毎年千人減る」という話を聞いたことがあるが、その10倍もの人口減少には驚いた。そこでさっそく「鹿児島県毎月推計人口」をネットで調べてみたら、今年11月1日現在の鹿児島県の人口は「前年の同月と比べて11,366人減少して」いると書いてある。男性が6,039人減り、女性は5,327人減っているのだが、世帯数は逆に2,918も増えている。ということは、核家族化が進んでいるのだろうか。さらに調べると、前月との比較では、人口の自然増(出生と死亡の差)が「-210」であるのに対し、社会増(転入と転出の差)は「24」である。この傾向が年間通して続くと仮定すれば、高齢者が死亡して世帯が減少する一方で、それより相当多くの独身者や単身者が転入することで世帯数が全体として増加している、と考えられる。では、地域的にどこの人口が増えているかと思い、市町村別の人口動態を眺めてみると、「鹿児島市」と「霧島市」が1年前に比べてそれぞれ「370人」「100人」増加しているが、他の市町村はすべて減少していた。
 
 ここから分かることは、この2つの市が鹿児島県の経済の中心であり、その活動には企業や工場の誘致が大きく貢献しているらしい、ということだ。京セラは、創業者の稲盛和夫氏が鹿児島市出身のため霧島市に拠点を置いたとの話を聞いた。そう言えば、同市の会場から鹿児島空港へ向う車中、私と妻は民家の屋根の上に数多くの太陽光発電装置を見つけて、歓声を上げたのだった。新しい時代の息吹が、そこにあった。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月 7日

バイオ燃料に制限を

 CO2の排出量をゼロと見なせることで、バイオエタノールなどのバイオ燃料が脚光を浴びているが、インドネシアのバリ島で開かれている国連の気候変動枠組み条約の締約国会議で森林破壊の現状が明らかにされるに伴って、無制限のバイオ燃料の利用は温暖化防止にかえって逆効果であることが指摘されはじめた。日本政府は、バイオ燃料にかかる関税をゼロにして普及を促進させる考えのようだが、このことと森林保護とが矛盾する現状では、慎重な対応を願う。
 
 5日付の『日本経済新聞』によると、政府は現在、首都圏などでガソリンと混ぜて売っている「ETBE」と呼ばれるバイオ燃料の関税を、現行の3.1%からゼロにする方針で、それを財務省の審議会が月内にまとめる答申に盛り込み、来年の通常国会で法律改正を行い1年間、暫定的に実施するという。これは、京都議定書の目標達成のための臨時措置なのだろうが、バイオ燃料は種類によっては森林破壊を拡大する危険性があることを忘れずに、慎重な対応を望む。同じ新聞には、世界銀行が設置する森林保護基金に、日本が1千万ドル(約11億円)を拠出することを正式表明したと報じられている。この2つの政策の間に矛盾がないようにしてほしい。
 
 というのも、今日(7日)の『産経新聞』が第1面に掲載している2枚のカラー写真を見れば、現在のバイオ燃料の世界的ブームが現実に何を惹き起こしているかが明白であるからだ。その写真の1つはAPがインドネシアから配信したもので、スマトラ島のリアウ州(Riau)のジャングルが伐採された跡地に、大量の木材が野積みされているのを空から撮影している。この伐採は、木材を日本や中国に輸出するためだろう。もう1枚の写真は、取材記者が陸上から撮ったもので、伐採の跡地を焼き払って、ヤシ油の原料となるアブラヤシの農園にするためという。記事には、こう書いてある--
 
「焼失面積は10キロ四方に相当する約1万ヘクタール。およそ3年にわたり、地元業者による人為的な森林火災が繰り返された結果である。パーム油がとれるアブラヤシの大農園を整備するのが目的だ。真っ黒の地面のあちらこちらから、青々としたヤシの苗木がまっすぐに伸びていた」
 
 上掲のAPの写真は、6日の『ヘラルド・トリビューン』紙の第1面にも載っている。記事を読むと、このリアウ州はスイス1国とほぼ同じ広さで、ここ数年、この地にアブラヤシの農園を造るために、インドネシア政府の支援を受けた10社を超えるパルプ会社や製紙会社が入ってきている。そして、この10年間で同州の熱帯雨林の6割が伐採され、焼かれ、またはパルプの原料として消えていったという。今やインドネシアは、アメリカ、中国に次いで世界第3位の温暖化ガス排出国となっている。
 
 10月8日の本欄にも書いたが、この国から出る温暖化ガスは、森林伐採によるものだけでなく、伐採後の泥炭地の乾燥や、焼畑による泥炭地への延焼の被害が深刻である。日本のCO2排出量が約13億トンなのに比べ、インドネシアは20億トン。このうち森林火災によるものは14億トンで、残り6億トンは泥炭地の乾燥から生じるという。
 
 この問題の解決に役立つとして考えられているのが、「REDD」(森林の消滅と破壊から出る温暖化ガスの削減、Reducing Emissions from Deforestation and Forest Degradation)という方法である。これは基本的に、途上国が森林を維持するコストを先進国が支払う制度だ。しかし、合法的に取得された土地の使用を制限することになる一方、違法伐採の取り締まりが難しい点が問題になっている。また、森林の維持によって排出されなかった温暖化ガスを正確に測定するのが難しい。が、何らかの森林維持のための経済メカニズムをつくらないかぎり、インドネシアやブラジルなど広大な森林を抱える国では、森林破壊を防げないだろう。
 
 このREDDの考え方をよく見ると、「自然そのものの価値」を認め、それに値段をつけていることが分かる。だから人類は、温暖化抑制のために結局、“自然資本”の考えを取り入れるほかないのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月 6日

アメリカのイラン政策の誤り

 アメリカのブッシュ大統領が推めてきたイランの核開発に対する制裁論議の根拠が、怪しくなってきた。このほど出された国家情報評価(National Intelligence Estimate, NIE)が、「イランは2003年秋に核兵器開発計画を停止し、今年中ごろまでその計画を再開していない」し、「現在も核兵器開発を意図しているかどうか分らない」という内容の評価をしていることが明らかになったからだ。ブッシュ氏は今年10月に、「第三次世界大戦を防ぎたいならイランに核兵器製造の知識を与えてはならない」などと物騒な警告を発し、12月1日には、パリで開かれた国連安保理常任理事国とドイツの6カ国の局長級会合で、イランへの制裁強化決議案の早期策定が合意されたばかりだ。アメリカの情報機関の判断と大統領の判断に食い違いがあるという事実は、イラク戦争開戦に際しての大統領の判断の誤りを想起させるもので、今後のアメリカの中東政策に影響を与えそうだ。
 
 6日付の『朝日新聞』によると、ブッシュ氏は4日の記者会見で、今回のNIEについて「報告書の内容を知ったのは先週のことだ。マコネル国家情報長官から今年8月に“新しい情報がある”とは知らされていたが、内容は聞かなかった。分析に時間がかかるとのことだった」と弁明したというが、野党・民主党の議員たちは「それは信じられない」と一斉に反発し、イラク攻撃開始前の大量破壊兵器開発疑惑に似た情報操作だとの批判も上がっているという。
 
 問題は、このNIEという文書の性格だ。5日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、NIEとはアメリカにある16の情報機関すべての合意した見解(consensus view)を表しており、今回の合意はここわずか5~6週間前(several weeks)に達成されたという。そして、この見解に至る原因となった情報は、今年の夏に諜報活動から得られたもので、この新情報により、米議会に提出されるNIEの時期が今春から今月に遅れたらしい。この遅れは、2002年に出されたNIEが、イラクの大量破壊兵器開発計画について誤った見解を出し、それがイラク戦争の原因の1つになったことを反省し、慎重な判断を選んだためという。今回のNIEも米議会の要望を受けたもので、その内容は、ブッシュ大統領の判断よりも国際原子力機関(IAEA)の判断に近い内容になっている。IAEAのエルバラダイ議長は、イランの核開発計画が「発電だけが目的なのか、兵器への使用も意図しているのか確認できなかった」と結論している。

 6日付の『産経新聞』は、今回のNIEに対するイギリスのシンクタンク、国際戦略研究所(IISS)のフィッツパトリック上級研究員の評価を掲載しているが、それによると「通常NIEは機密扱いだが、今回、イランの核兵器計画の評価が大きく変わり政策決定への影響が避けられないため、広く知らせることが大切だとの情報機関の明確な意思決定に基づき公表された。リークではない。政治的意図もない」という。もしそうだとすると、2005年に同じNIEが出した「国際的な責務や国際社会の圧力にもかかわらず、イランは核兵器の開発を決断した」(同紙)という評価が明らかな誤りであったことを示しており、アメリカの情報機関の信頼性に(イラクに続いて)再び疑問を投げかけるものとなる。国家安全保障担当の大統領補佐官、スティーブン・ハドレイ氏(Stephen Hadley)は、記者会見でこの点を指摘され、「イランは、諜報活動をするには世界有数の困難な国だ。機密保持の点では、彼らは極めて優れている」と言ったという。(5日付『ヘラルド・トリビューン』)
 
 私は学生時代に国際政治を勉強したとはいえ、現在は素人並みの知識しかない。だから、今回の問題についてアメリカの情報機関の責任を問うつもりは毛頭ない。それよりも読者に気づいてほしいことは、アメリカのように国力、技術力において優れている国でも、他国--特に、文化や政治体制が大きく異なる国については、その実情を知ることは困難であるということだ。また、そういう相手国に対して、国家元首たる大統領が“悪の枢軸”などと断定的に決めつけることが、どれほど危険なことかを知らなければならない。相手を一度“悪”呼ばわりすれば、キリスト教文化の文脈の中では、よほどのことがない限り、その相手と戦わなければならないからだ。そういう心理的“足かせ”を作り上げた中での諜報活動が、客観的判断を妨げることは十分考えられるだろう。その点で、ブッシュ氏の外交政策は、イラクに続き、イランに対しても誤りだったと言わなければならない。

 しかし、今回のNIEの発表にも“善い面”がある。それは、これによって、イランへのアメリカの武力攻撃の可能性が遠のいたことである。また、頑固なブッシュ氏の“心変わり”を示すとしたら、喜ばしい。少なくとも、国連を舞台とした武力制裁は当面なくなった。そして、国連の枠組みを外れた武力制裁は、イラク戦争を経験したアメリカ国民が許さないだろう。我々も、「平和維持のためには外交努力の積み重ねが重要である」ことを学ぶのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月 4日

オーストラリアが議定書に参加

 アメリカとともに京都議定書から離脱していたオーストラリアが、同議定書を批准した。4日付の新聞各紙が伝えている。総選挙で11年ぶりに政権交代をはたした労働党の50歳の党首、ケビン・ラッド氏(Kevin Rudd)が3日、組閣後の首相の初仕事として行ったのが同議定書の批准だった。これにより、同国から批准書が国連に届いて90日後の来年3月には、同国は議定書の正式参加国となり、2012年までに温室効果ガスを90年比で8%増以内に抑える義務を負う。主要な先進国で同議定書に参加していないのは、アメリカだけとなる。ラッド氏率いる労働党は、総選挙の公約として同議定書への参加を表明していたから、これは同国の国民の選択とも言える。うれしい限りだ。
 
 4日付の『ヘラルド・トリビューン』によると、ラッド氏は批准に際して、「これはオーストラリア新政府の最初の公的行為であり、気候変動に取り組むこの内閣の真剣さを示している」との声明を発表した。さらに同氏は、「オーストラリアが京都議定書のメンバーになるという今日の公式宣言は、わが国が国際社会とともに国内で気候変動と戦うための重要な一歩になるだろう」と述べたという。同国は、2050年までに温暖化ガスを2000年比で60%削減することを目指しており、2010年までに排出権取引市場を整備するほか、再生可能エネルギーの利用を拡大する方針だ。
 
 これとちょうど時期を合わせて、同国の北に隣接するインドネシアのバリ島では、2012年で期限切れとなる京都議定書以後の温暖化抑止を目指す国際会議(COP13)が始まった。190カ国近くの国々から、正式参加者に加えて環境活動家やジャーナリストを含む1万人もの人々が集まり、2週間にわたって京都後の条約の枠組みをめぐって意見を戦わすことになる。4日の『日経』によると、この会議では先進国と途上国との間の意見の食い違いが早くも現れている。例えば、パキスタンは温暖化の影響で深刻な被害が出ていることを訴え、「資金援助の枠組みを早く決めてほしい」と要望、多くの島からなるミクロネシアやパプアニューギニアは、「すでに海面上昇で経済活動が困難になっている」と窮状を訴えたという。また、中国やメキシコは「先進国から温暖化ガス排出削減の技術を移転することが効果的」と強調したという。つまり、途上国側は先進国による資金援助と技術移転を求めている。
 
 しかし、先進国は、財政的負担をできるだけ避けたいし、技術移転を進めれば、経済成長著しい中国やインドなどの国々が競争力をもつことは明らかだ。“地球益”とも言うべき国際社会全体の利益と、各国の“国益”との調整をどう行うかという難しい問題がここにある。従来の国益優先だけの国際政治のやり方では、温暖化問題は解決できないという認識が、参加各国にどれだけ共有されるかで会議の成否は決まっていくだろう。今後の交渉の行方を注目していこう。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月 3日

“ユダの福音書”の衝撃 (2)

 昨年4月9日の本欄では、“ユダの福音書”と称するキリスト教の聖書の“外典”が現代語へ翻訳されたという話を、同じ表題で書いた。そして、その内容がキリスト教で語られている“ユダの裏切り”の話と大いに違うとして、話題になっていることにも触れた。その内容の大筋は、「イエスの直弟子のうち、師を敵に売った“裏切り者”として侮蔑の対象とされてきたイスカリオテのユダが、実はイエスの教えの唯一の理解者であり、師の命を受けて敵の手引をする役を不本意にも実行した」というものだった。ところが最近、この同じ“ユダの福音書”を研究した人が、「その現代語への翻訳には誤りがあり、正しく翻訳すればユダはやはり“悪者”--神とイエスに敵対する者--として描かれている」という内容の本を出版した。

 この研究者は、ライス大学の聖書学の教授、エイプリル・ドゥコーニック氏(April D. DeConick)で、本の題名は『13番目の弟子--ユダの福音書に本当に書いてあること』 (The Thirteenth Apostle: What the Gospel of Judas Really Says)というものだ。このドゥコーニック教授が12月3日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に論説を書いているが、それによると、この“誤訳”が起こった原因は、ユダの福音書の翻訳に携わったナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)の側が、原文書をできるだけ外へ出さないようにし、少数の専門家に翻訳を任せてしまったからという。このため、原文書が世界中の大勢の聖書研究者の目に触れなかったために、間違いをチェックしきれなかったのだろう、と推測している。

 ドゥコーニック教授は、ユダの福音書をグノーシス派の文書としてとらえている。その中のメッセージは、ユダは“13番目”と呼ばれる特定の悪魔だということだ。グノーシス派の伝統を引く考えでは、“13番目”は、地上より13層上の世界に棲むイアルダバオス(Ialdabaoth)として知られる悪魔の王である。この派の思想では、イアルダバオスは旧約聖書のヤーウェ(Yahweh)でもあり、嫉妬深く、怒りに満ちた存在で、イエスが示そうとした至高神の敵なのである。だから、ユダはこの“悪魔の王”のために神を妨害するのが目的であって、神の救いのためにイエスを不本意に敵に売るはずがない、というのである。
 
 グノーシス派について、私は拙訳の小説『叡知の学校』(トム・ハートマン著、日本教文社刊)の中で少し触れたが、これは時々“キリスト教最大の異端”などと大袈裟に呼ばれる。グノーシスとは「知識」とか「知恵」という意味のギリシャ語で、グノーシス派の考えでは、人間は究極的存在である至高者(神)と本質的に同一であり、そのことを知る知恵(グノーシス)によって救われる。つまり、“救い主”というような神と人との間の特定の“仲介者”は、必ずしも必要でないのである。生長の家の思想と似ているが、決して同一ではない。上掲の“13番目”の解釈を読んでみても分かるように、グノーシス的思想では、神と悪とは相対立する互角の存在である。これは、生長の家の「善一元」の神への信仰とは相当異なる。この思想については、昨年11月17日の本欄で少し詳しく書いたので、興味のある人はそれを読んでほしい。
 
 そこで問題になるのは、ドゥコーニック教授の考えが正しいとすれば、なぜ当初の“ユダの福音書”の読み方がそれほどひどく間違ったのか、ということである。教授もその点を考察しており、間違いの原因は「ユダヤ教徒とキリスト教徒の関係を改善したい」という希望が理性を晦ませたとして、次のように書いている--「ユダとは、恐怖すべき性格の人間だ。キリスト教徒にとって、ユダはすべてを得ていながら、わずかな金のために神を裏切り、死を招いた。一方、ユダヤ教徒にとっては、彼は何世紀にもわたって、キリスト教徒が自分たちを迫害する理由として使われた」--だから、ユダをイエスの本当の愛弟子として位置づけることで、両者間の永い歴史的争いの原因が消える。その可能性が、多くの学者から客観性を失わせた、と見るのである。

 学問の客観性について、改めて考えさせる見解だと思う。
 
 谷口 雅宣

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2007年12月 2日

抽象画に挑戦

 生長の家の講習会で高知市に来たが、泊まったホテルの部屋に和紙を使った抽象画が何点も掲げられているのを見て、不思議に思った。ツインの部屋だったからベッドは2つだが、それぞれの枕側の壁に1点ずつ、その他の壁面には3点の計5点である。大小の違いはあるが、そのすべてが正方形に近い額縁に入れられていて、その中にやはり正方形に近い抽象画が収まっている。一見して、同一人物の作品と思われるが、署名のあるのとないのとがあった。署名は「M/A Godwin」と読めた。

 日本人の作でないことが意外だったが、昨今は芸術の国際化はむしろ当たり前だから、外国の作家が和紙の魅力に惹かれて、カンバスの代りに和紙を土台にして抽象画を描いたのだろう、と私は考えた。それらの絵は、和紙の毛羽立った感じや、ボコボコした感触を生かして、その上に、ペンや刷毛の勢いが明確に見えるように絵の具を載せ、一部には金箔さえ貼ってある。こうした素材と色の組み合わせと筆の勢いの感覚が、どこか日本画のようであり、また着物の帯や裾のデザインのような“懐かしさ”も与えている。
 
Abst01m  そんな作品に刺激されて、私も絵を描いてみたくなった。これまで抽象画など描いたことがないのに、である。題は「浮遊」とした。

 この「ゴッドウィン」という作家のことだが、読者からの情報でわかったのは、フルネームがマーク・アンドリュー・ゴッドウィン(Mark Andrew Godwin)という人で、1957年生まれのイギリス人ということ。28歳までロンドンとパリの芸術学校で学んだあと、銅板画の制作に携わっていたという。 日本に来たことがあるとしたら、その後のことかもしれない。彼の絵は、このサイトで見れる。

 谷口 雅宣

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